初めに
4.両者の譲歩
p16~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til
◇◇
ここで、Orlebekeは、私の別の一節を引用する。
それは次の通り。
このことに類似しているのが、科学に対するわれわれの態度ではないか。多くの科学者たちの数々の功績を非常に価値あるものと、われわれは大いに評価している。科学が多くの詳細に光をもたらしてきたという事実をわれわれは大いに喜んでいる。しかし、現代の科学者や彼らの方法を、キリスト教的解釈を構築するための建築素材として利用することはできない。われわれは、すべての事実が意味を持つ関連において、具体的普遍性を聖書の神とキリストに献げる。
彼はこのセッションにおいて、次のように結論する。
このことは私のテーゼを確信させてくれるように思う。もしその詳細の価値を否定しないのであれば、ノンクリスチャンによって供給される詳細を、キリスト教的解釈体系の中で変えていくことは困難。類似の事例について、フェニキア人によって加工された材木を、神殿用に合わせるために、イスラエル人が再度切断する必要はなかった。
ここに、一定量の一致すべき尺がある。
未だに存在する相違については後に議論する。
Orlebekeは、われわれに、皆が関心のある問題についてより身近に観察できる方法を提供してきた。
彼の論文の結論において、Orlebekeはキリスト教弁証学について述べている。
コメント:
この箇所も難しいが、次のように理解(推察)しておく。
ここで問題となっていることは、クリスチャンとノンクリスチャンは、common ground(共通基盤)なるものを共有しているのかどうかという点。
科学はクリスチャンにもノンクリスチャンにも、世界の進歩という点では共通して価値があるが、キリスト教的解釈、つまり、神あるいは聖書を正しく理解するためには役に立たない。前提となるのは科学ではなく聖書であるからだ。よって、クリスチャンとノンクリスチャンとの間にcommon ground(共通基盤)はないとする考え方。
一方、フェニキア人が加工した材木を、神殿建設のために、かつてのイスラエル人がそのまま使用したという事実があり、同様のことが科学など他の領域にも存在しているのではないか。つまり、クリスチャンとノンクリスチャンが共有しているcommon ground(共通基盤)が存在するという考え方。
この2つの考え方には接点(妥協すべき点)があるのではないかというのがここまでの論旨のようだ。
参考:
トマス・アクィナスに関して、以前に若干調べたことがあるが、詳細に検討している記事があったのでアップしておく。
・トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?
・トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?2
・トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?3
4.両者の譲歩
p16~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til
◇◇
ここで、Orlebekeは、私の別の一節を引用する。
それは次の通り。
このことに類似しているのが、科学に対するわれわれの態度ではないか。多くの科学者たちの数々の功績を非常に価値あるものと、われわれは大いに評価している。科学が多くの詳細に光をもたらしてきたという事実をわれわれは大いに喜んでいる。しかし、現代の科学者や彼らの方法を、キリスト教的解釈を構築するための建築素材として利用することはできない。われわれは、すべての事実が意味を持つ関連において、具体的普遍性を聖書の神とキリストに献げる。
彼はこのセッションにおいて、次のように結論する。
このことは私のテーゼを確信させてくれるように思う。もしその詳細の価値を否定しないのであれば、ノンクリスチャンによって供給される詳細を、キリスト教的解釈体系の中で変えていくことは困難。類似の事例について、フェニキア人によって加工された材木を、神殿用に合わせるために、イスラエル人が再度切断する必要はなかった。
ここに、一定量の一致すべき尺がある。
未だに存在する相違については後に議論する。
Orlebekeは、われわれに、皆が関心のある問題についてより身近に観察できる方法を提供してきた。
彼の論文の結論において、Orlebekeはキリスト教弁証学について述べている。
コメント:
この箇所も難しいが、次のように理解(推察)しておく。
ここで問題となっていることは、クリスチャンとノンクリスチャンは、common ground(共通基盤)なるものを共有しているのかどうかという点。
科学はクリスチャンにもノンクリスチャンにも、世界の進歩という点では共通して価値があるが、キリスト教的解釈、つまり、神あるいは聖書を正しく理解するためには役に立たない。前提となるのは科学ではなく聖書であるからだ。よって、クリスチャンとノンクリスチャンとの間にcommon ground(共通基盤)はないとする考え方。
一方、フェニキア人が加工した材木を、神殿建設のために、かつてのイスラエル人がそのまま使用したという事実があり、同様のことが科学など他の領域にも存在しているのではないか。つまり、クリスチャンとノンクリスチャンが共有しているcommon ground(共通基盤)が存在するという考え方。
この2つの考え方には接点(妥協すべき点)があるのではないかというのがここまでの論旨のようだ。
参考:
トマス・アクィナスに関して、以前に若干調べたことがあるが、詳細に検討している記事があったのでアップしておく。
・トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?
・トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?2
・トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?3