みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

What The Law Teaches, #4

2015年08月31日 | 聖書研究・信仰
このことを理解しようとするなら、人の欠陥性と律法とは相容れないという根本から解決される必要がある。

パウロは言う。

「律法は聖であり、その命令もまた聖であり、義であり、善だ」(ローマ7:12)

律法に悪い所はない。

しかし、私の方に決定的に悪い所がある。

律法の要求は義である。

しかし、その要求がされる側の人間が不義なのだ。

問題は、律法の要求が不正なのではない。

私がそれを全うすることができないのだ。

支配者が100シリングの支払いを要求することに問題はない。

私が10シリングしか持っておらず、その要求を満たすことができないのが悪いのだ。



What The Law Teaches, #3

2015年08月30日 | 聖書研究・信仰
恵みとは、神が私のために何かをするという意味だ。

律法とは、私が神のために何かをするという意味だ。

神は、聖であり義である満たすべき要求を私の上に置く。

それが律法だ。

成就すべき何かを神が私に要求する-それが律法なら、律法からの解放とは、神がもはや私に何も要求しないということを意味する。

神ご自身がそれを与える。

神のために私が何かをする-これが神の要求すなわち律法なら、律法からの解放とは、私がそれを全うすることを神が免除することを意味する。

すなわち、恵みにおいて、神は律法を自ら全うされるのだ。

ローマ7:14
我々は知っている
律法は霊的であることを
私は肉の者であり
罪の下で売られた

(肉の者である)私は神のために何もする必要がない。

すなわち、罪からの解放。

ローマ書7章に挙げられている問題は、肉にある者が神のために何かをしようとするところにある。

こんなわけで、神を喜ばせようとするとすぐに、律法の下に置かれ、ローマ書7章の経験が再現されるのだ。



Coffee Break, #19

2015年08月30日 | コーヒーブレイク
https://www.youtube.com/watch?v=vw6dZ7-PcUA&sns=em



What The Law Teaches, #2

2015年08月29日 | 聖書研究・信仰
最初に、はっきりさせておきたいことがある。

ローマ書6章に書かれているキリストとの共なる死は、我々の必要を満たして余りあるものだ。

それが主イエスの死の説明である。

しかし、それに続く記述すべてをもってしても、ローマ書6章では不十分な説明となっている。

ローマ書7章で明らかにされる真理に関して、我々はいまだに無知だ。

ローマ書7章は、同6:14における記述を説明し明確にしてくれる。

ローマ6:14
罪はあなたがたを支配しないであろう
というのは、あなたがたは律法の下にいない
いや、恵みに下に

問題なのは、我々がいまだに律法からの解放を知らないことである。

では、律法の意味とは一体何か。





What The Law Teaches, #1

2015年08月29日 | 聖書研究・信仰
多くのキリスト者は、突然、ローマ書7章の中へ放り込まれる。

理由が分からないままに。

ローマ書6章で必要十分と思っている。

これで十分理解できたと思い、失敗談はもう不要だと思っている。

そして、突然ローマ書7章に遭遇して、驚きを禁じ得ない。

これは一体何だ。



The Flesh And Man’s Breakdown, #3

2015年08月28日 | 聖書研究・信仰
しかし、彼は次のように考え始める。

私はキリストとともに死に、彼とともに復活した。

そして、主に自分を永遠に明け渡した。

主は私のために多くのことをなさったのだから、今こそ恩返しすべき時だ。

主を喜ばせたい。

主の御心を行ないたい。

献身して後、このクリスチャンは神の御心を見い出そうと努力する。

そして、主に従い始める。

ここで、奇妙なことに気が付く。

自分は神の御心を行なうことができると思っていたし、それが大好きだと考えていた。

しかし、最近必ずしもそうではないと思っている。

気が乗らないことがある。

そうしようと思うが、できないと思う。

そんな経験を何かおかしいと思い始める。

自問する。

本当に知っているのか?

もちろん!

本当に吟味したのか?

もちろん!

本当に明け渡したのか?

もちろん!

献身を止めるか?

否!

一体何がどうなってしまったのか?

神の御心を行なおうとすればするほど、ますますできない。

最後に、自分は神の御心をやりたくないのではないかという結論に達する。

そこで、御心を行なうための願いとパワーを得るために祈る。

自分の不従順を告白し、2度と逆らわないことを約束する。

がっくりと落ちた膝をしっかり立てようとするが、また再び崩れ落ちる。

勝利の直前で、敗北を意識してしまう。

そこで、自答する。

「たぶん自分が下した最後の決断が十分明確ではなかったのかもしれない」

「よし今度は、絶対に明確にしよう」

そこで、彼はその状況に耐えるだけの意志の力を懸命に絞リ出そうとする。

結局、さらなる敗北があり、もう一度再起すべき機会が待っているだけなのだが。

そして、パウロのことばを繰り返すことになる。

ローマ7:18
私は知っている
私の中には宿っていない
私の肉の中にはない
善は
欲する思いが
私に存在する
良いことを遂行するということ


同7:19
私は善いことをしたい
これをしない
しかし
私は悪いことをしたくないということ
それを私はくり返している





The Flesh And Man’s Breakdown, #2

2015年08月27日 | 聖書研究・信仰
再度これまでの段階を確認して、恐らく多くのキリスト者が経験していると思われることを記述してみたい。

キリスト者の多くは確かに救われてはいるが、いまだ罪に縛られている。

四六時中罪の力の下で生きていると言っているのではない。

しかし、実際、主のことばを聞き続けなければならないほどに、邪魔をしてくる罪がある。

主イエスが死んだのは、我々の罪を清めるためだけではない。

それに加えて、我々罪人をその死の中に包括するために死んだ。

我々の罪が処理されるだけでなく、我々自身も処理されるために。

目が開けられ、キリストとともに十字架に付けられたことを知る。

この啓示に次の2つのことが続く。

第1に、私はキリストとともに死んで復活したということを悟る。

第2に、主の主張を理解して、死者からのよみがえりとして神に身を献げる。

そして、自分にはもはや主権がないことを知る。

これが素敵な信仰生活の初めであり、主に対する賛美の充満の初めである。




The Flesh And Man’s Breakdown, #1

2015年08月26日 | 聖書研究・信仰
ローマ書7章は新しい教訓を教えてくれる。

ローマ7:5
我々は肉の中にいる・・・

ローマ7:18
私の肉体には・・・

その教訓はこの聖句の中に見い出される。

これは罪の問題を超えている。

また、神を喜ばせるという点にも関連している。

7章では、罪というものではなく、肉体という状態の人間を取り扱う。

後者は前者を含んでいて、さらに次の段階を必要とする。

この領域においても、我々は依然として無力であり、「肉にある者は神を喜ばせることはできない」(ローマ8:8)ということが、この発見につながっているのだ。

この発見は如何にしてなされるのか。

それは、律法の助けをもってなされる。





Chapter 9 The Meaning and Value of Romans Seven, #3

2015年08月25日 | 聖書研究・信仰
ローマ書6章は原罪からの解放を取り扱う。

ローマ書7章は律法からの解放を取り扱う。

6章において、パウロは、如何にすれば我々は罪から解放されるのかを語った。

そして、これが必要とされるすべてであると我々は結論した。

7章において、パウロは、罪からの解放だけでは不十分であると教える。

律法からの解放について知る必要があると。

律法からの解放が不十分なら、罪からの解放も十分ではないことになるのだ。

罪からの解放と律法からの解放との違いとは一体何か。

前者の意義はよく承知をしているが、後者の必要性はどこにあるのだろうか。

このことを認識するために、我々は律法とは何か、そして律法の働きとは何かを理解する必要がある。



Chapter 9 The Meaning and Value of Romans Seven, #2

2015年08月25日 | 聖書研究・信仰
7章がここにあるのは場違いではないかと考えている者たちがいる。

彼らは7章を15章と16章の間に挿入して理解しているのだろう。

6章がそれほど完璧で率直に書かれているからだ。

そして、その直後に挫折と叫びが現れる。

「嗚呼、私は何というみじめな人間なんだろうか」

これほどの期待外れがあるだろうか。

ここで、パウロは自分の罪深い経験を語っているという者もいる。

パウロが記している中のいくつかは、正当なキリスト者の経験ではないと認めざるを得ない。

しかし、大なり小なり、我々も経験しているというのは事実であろう。

それでは、この章でパウロが伝えたかったこととは一体何か。