第3戒
律法の否定的性格
p104~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
古代エジプトやバビロンやその他の国々において、医者にはすべての責任が負わされていた。
患者が死亡した場合、医者も死を免れなかった。
たとえ、それが医者の責任によるものではなくても、医者が完全責任を負わなければならなかった。
なぜ医者は完全責任を負わなければならないのだろうか。
患者は自分の意志で医者のところにやってきた。
医者は神ではない。
それとも、医者は神になるべきなのだろうか。
他の異教社会と同様に、ヨーロッパが異教国であった時代に、医学は神々と密接に関係していた。
医者には禁欲的苦行が要求されていた。
その結果、医者は次第に僧侶へと転向していった。
キリスト教の初期の数百年間、ネオプラトニズムの影響と共に、異教の影響によって、医者は苦行者として扱われるようになった。
ピックマンは、ゴール人について次のように述べている。
当時禁欲主義がなぜ大衆に人気があったかと言えば、苦行が苦行者自身に心理的な効果があったからではない。
苦行者のところに救いを求めてやってきた人々に対して苦行が身体的な効果を表したから。
それは、人道主義者たちの強力な武器であった。
それゆえ、僧侶とならない医者は、すぐにも医療行為を禁じられることとなった。
西洋がキリスト教化されるにつれて、このような医療に対する異教的な考え方も徐々にではあるが衰微していった。
そして、これとともに、医者を神に見立てたり、苦行者になることを要求することもなくなっていった。
医療関係者に対して国家が統制を加えるようになると、このような過去の要求が復活した。
医者はたえず訴訟に苦しめられることになった。
このような過剰な責任のゆえに、医者が事故現場における緊急治療に携わることが難しくなった。
それには、高いリスクが伴うからである。
もしこのような傾向が続けば、患者が死亡した時に医者が殺人者呼ばわりされるようになる日もそう遠くはないだろう。
スターリンの晩年のソ連において、これと似たような状況があった。
訳者注:
持論を展開するのは完読するまでは控えようと思っていたが、関連する職務領域であるだけに、筆者のあまりに明快で、かつ的を得た指摘に感服してしまい、一筆取りたくなった。
・・
我が国においても、一方的に神や僧侶に祀り上げられて、先生センセイと崇められていた時代があった。
合言葉は「すべて先生にお任せします」
しかし、時代が変わり、緊縮財政の名の下に、小泉・竹中の頃から医療費が削減され始めた。国家による統制の始まりだ。
研修医制度も、大学病院医局からの人事権剥奪という国家統制のひとつ。全て悪いとは言わないが。
予算が減れば質が低下するのは、どの業界でも当たり前のこと。
奈良県では、診療点数1点あたり9円を主張している。
現行点数は1点あたり10円。
国公立病院の7割が赤字経営という現状にもかかわらず、だ。
断行すれば、かの地の医療は徹底的に破壊されるであろう。
また、自由に開業できないようにする案も浮上している。地域医療の安定化と言いつつ、これまた国家統制のひとつ。
ある医療関係者のサイトに依れば、ほぼ毎日新たな医療訴訟が発生している模様。
真夜中にコンビニ受診して何が悪い、誤診したら訴えるぞ、という昨今の医療現場がある一方、医師の裁量権が奪われている。ある意味、医師と医療の奴隷化。
「スターリンの支配下にあった晩年のソ連において、これと似たような状況があった」とあるが、この国の医療現場もまさにその通りになりつつある。
制度は異なるが、本質において、この国の医療はアメリカの後追いをしている。
共産主義化(の、しかも末期状態)であるから、良いはずがない。
歴史を十分踏まえて、明快な解析をしてくれている筆者に敬意を表したい。
要するに、人間教を国家法のバックボーンとして採用している国家本体(の仕組み)を砕かないと、それに帰属する各部署は例外なくこのようになるという警告にも取れる結論、預言と言ってもよいだろう。
実に面白い。
律法の否定的性格
p104~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
古代エジプトやバビロンやその他の国々において、医者にはすべての責任が負わされていた。
患者が死亡した場合、医者も死を免れなかった。
たとえ、それが医者の責任によるものではなくても、医者が完全責任を負わなければならなかった。
なぜ医者は完全責任を負わなければならないのだろうか。
患者は自分の意志で医者のところにやってきた。
医者は神ではない。
それとも、医者は神になるべきなのだろうか。
他の異教社会と同様に、ヨーロッパが異教国であった時代に、医学は神々と密接に関係していた。
医者には禁欲的苦行が要求されていた。
その結果、医者は次第に僧侶へと転向していった。
キリスト教の初期の数百年間、ネオプラトニズムの影響と共に、異教の影響によって、医者は苦行者として扱われるようになった。
ピックマンは、ゴール人について次のように述べている。
当時禁欲主義がなぜ大衆に人気があったかと言えば、苦行が苦行者自身に心理的な効果があったからではない。
苦行者のところに救いを求めてやってきた人々に対して苦行が身体的な効果を表したから。
それは、人道主義者たちの強力な武器であった。
それゆえ、僧侶とならない医者は、すぐにも医療行為を禁じられることとなった。
西洋がキリスト教化されるにつれて、このような医療に対する異教的な考え方も徐々にではあるが衰微していった。
そして、これとともに、医者を神に見立てたり、苦行者になることを要求することもなくなっていった。
医療関係者に対して国家が統制を加えるようになると、このような過去の要求が復活した。
医者はたえず訴訟に苦しめられることになった。
このような過剰な責任のゆえに、医者が事故現場における緊急治療に携わることが難しくなった。
それには、高いリスクが伴うからである。
もしこのような傾向が続けば、患者が死亡した時に医者が殺人者呼ばわりされるようになる日もそう遠くはないだろう。
スターリンの晩年のソ連において、これと似たような状況があった。
訳者注:
持論を展開するのは完読するまでは控えようと思っていたが、関連する職務領域であるだけに、筆者のあまりに明快で、かつ的を得た指摘に感服してしまい、一筆取りたくなった。
・・
我が国においても、一方的に神や僧侶に祀り上げられて、先生センセイと崇められていた時代があった。
合言葉は「すべて先生にお任せします」
しかし、時代が変わり、緊縮財政の名の下に、小泉・竹中の頃から医療費が削減され始めた。国家による統制の始まりだ。
研修医制度も、大学病院医局からの人事権剥奪という国家統制のひとつ。全て悪いとは言わないが。
予算が減れば質が低下するのは、どの業界でも当たり前のこと。
奈良県では、診療点数1点あたり9円を主張している。
現行点数は1点あたり10円。
国公立病院の7割が赤字経営という現状にもかかわらず、だ。
断行すれば、かの地の医療は徹底的に破壊されるであろう。
また、自由に開業できないようにする案も浮上している。地域医療の安定化と言いつつ、これまた国家統制のひとつ。
ある医療関係者のサイトに依れば、ほぼ毎日新たな医療訴訟が発生している模様。
真夜中にコンビニ受診して何が悪い、誤診したら訴えるぞ、という昨今の医療現場がある一方、医師の裁量権が奪われている。ある意味、医師と医療の奴隷化。
「スターリンの支配下にあった晩年のソ連において、これと似たような状況があった」とあるが、この国の医療現場もまさにその通りになりつつある。
制度は異なるが、本質において、この国の医療はアメリカの後追いをしている。
共産主義化(の、しかも末期状態)であるから、良いはずがない。
歴史を十分踏まえて、明快な解析をしてくれている筆者に敬意を表したい。
要するに、人間教を国家法のバックボーンとして採用している国家本体(の仕組み)を砕かないと、それに帰属する各部署は例外なくこのようになるという警告にも取れる結論、預言と言ってもよいだろう。
実に面白い。