みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#3 再臨 How will we know when Jesus is coming back? NO.3

2024年03月23日 | 再臨

How will we know when Jesus is coming back? | N.T. Wright at UT Austin

6分33秒から最後まで。

◇◇

イエスは数多くの例え話をされました。

その中のひとつがマタイ伝、ルカ伝に記されています。

ある人が旅に出かけた。しもべたちにお金を渡し、商売をするように命じた。旅から戻った時、僕たちがどのように過ごしていたかを確かめた。

多くのクリスチャンはこの話を読んで、これはキリスト教史終焉における主の再臨のことだと考えています。

キリスト教史終焉とは、主の再臨までの間に、イエスが望んでいたことを教会が行なったかどうかに関して教会が裁かれることを言います。

ルカ伝19章に書かれているたとえが大変分かりやすい。

この話しは、これから起こることではありません。

ここには、多くの現代のクリスチャンが以前は理解できなかったことが書かれています。

イエスの時代のユダヤ人は、大いなる希望に満ちて生きていました。

希望の中心にあったのは、紀元前450年頃のバビロン捕囚の時代にユダヤ人を見捨て、その後ご自身の栄光を帯びて、ついには神殿に戻り、そこに住まわれる神でした。

第2神殿時代には全く見られなかった光景です。

イエスが語っているのは、神はご自身の民を放任するも、その後に戻ってくるというストーリーです。

イエスがこの話をした理由は、彼ご自身がエルサレムに戻ることにより、イスラエルの神がシオンへと戻ることを具体的に表現するためです。

これは、多くの人が福音書を読む時に思う壮大なテーマであり、パウロでさえ想像もできなかったテーマであります。

これは、当時のユダヤ人の著作物においてあまりにもおぼろげなものでした。

なんとか私たちはそれを分析しなければなりません。

再臨は重要ですが、一世代内で起こるであろうこととは、エルサレムの陥落でした。

2世紀において、3世紀において、再臨は起きませんでした。

そこで、人々は再臨は起きないではないかと言いながら、一方で、いやいやいつかは必ず起きるかもしれないと言ったりもしました。

しかし、この世代には起きませんでした。

このことについて、もう一言言わせてください。

限界点を超えるほどのとてつもなく大きなことです。

20世紀の中頃、ドイツの学界において、このことは興味深い重要課題となりました。

その理由のひとつが、多くのドイツ哲学者やヴァルター・ベンヤミンのような文化評論家が現れたことによります。

ヴァルター・ベンヤミンの業績は、ご存じだと思いますが、20世紀中盤、20世紀前半に、マルクス主義の希望の下で生きたことであります。

当時は歴史の転換期でした。

この変化が偽の希望であることが判明し、ヴャチェスラフ・モロトフが戦争の開始に向けてのヒットラー型の衝撃を露わにした時、人々はパニックに陥り、歴史上起こり得るすべてのことに対して、もはや望みは断たれたと言いました。

現在が完全に新しい事象であり、新しいメシアの時代です。

私たちが必要なのはまさにこれです。

過去にそれは起きませんでした。

20世紀中盤におけるヨーロッパ文化に生きる多くの人たちは、望みのないことに気づいて震え上がりました。

興味あることに、まさにその当時、ヨーロッパの多くの神学者は、初期の教会において希望が絶たれたことについて多くの書物に残しました。

私には、いまだに解決されてはいないが進行中の計画があるように思われてなりません。

 

 


#2 再臨 How will we know when Jesus is coming back? NO.2

2024年03月22日 | 再臨

How will we know when Jesus is coming back? | N.T. Wright at UT Austin

3分21秒から6分33秒まで。

◇◇

その個所は、弟子たちの「あなたが来られるのは何時ですか」というせりふから始まってはいない。

その個所は、イエスのことば「これらすべては崩れ落ちるであろう」で始まる。

そして、弟子たちのことば「それは何時のことですか」が続く。

これは実に難しい。

(ジョーク)

この箇所で出来事を記載するために使われていることばは、いわゆる終末を預言することばです。

つまり、太陽は暗くなり、月は血に変わり、星々は天から落ちる、というように。

何世代にもわたり、クリスチャンは、イエスは時空間宇宙の終わりを預言していると考えてきました。

しかしながら、旧約聖書に書かれていることばをたどってみると、太陽と罪と星々はイザヤ書13章に由来します。

ここは時空間宇宙の崩壊について書かれているのではありません。

当時の最も大きな帝国であったバビロンの陥落について書かれているのです。

水平線を支配していた巨大な帝国が、突然崩壊・陥落した時、一体どのようなことばを用いればよいのか。

それを知らせるための詩的表現はあるだろうか。

エルサレムの場合はどうか。

もしもあなたが、神が最後にやって来て、永遠に住むと約束された町エルサレムであると信じるユダヤ人であるとしたら

そして、その町が崩壊・陥落し、神殿が燃え尽きるとしたら

太陽、月、そして星々について語るのではないだろうか。

オリーブ山の説教において、地滑り、地震についても語られています。

これらはみな比ゆ表現であることは皆さんご存知です。

当時の人々もこれは比ゆ表現であることを知っていました。

私の同僚であるオクスフォード大学のジョン・バートンは、かつて講義で、「古代ユダヤのテキストに、太陽は暗くなり、月は血に変わり、星々は天から落ちる」と書かれていれば、それは文学的ジャンルの問題であるということを知っておくべきである」と述べています。

その次は何も起きないということを知るべきです。

(ジョーク:雨が降り、時より太陽が出るかもしれません)

これは太古の天気予報ではありません。

預言者エレミアは、エルサレムは陥落するだろうと預言しました。

それは、全創造は形もなく何もない混沌とした太古の状態に戻るようなものだと預言しました。

長い間、偽預言者ではないかと疑われながら、エレミアは生きていました。

何故なら、エルサレムは長いこと陥落していなかったからです。

しかし、エルサレムが陥落した時、誰もエレミアを偽預言者と非難しなかった。

地がそのことばが意味していた混沌へと戻ることはなかったからです。

(*宇宙の崩壊はなかったということ)

そこで、私たちはよくよく注意するべきだと思います。

多くの預言は、宇宙の崩壊に関するものではありません。

事実、彼らが宇宙の崩壊と言っているのは、エルサレムの陥落のことであります。

 

 

 


#1 再臨 How will we know when Jesus is coming back? NO.1

2024年03月21日 | 再臨

流れに任せて聖研を進めているが、人類史の終焉、主の再臨、新天新地、新エルサレム、などeschatologyに関する学びへと自然に移りつつある。

救いの達成、すなわち聖化の過程の歩みの延長線上に終末論はあるのであって、それだけを取り出して議論してもあまり有用とは言えない。

流れに逆らわずに、これまでの学びを継続しながら、終末論に関しても理解を深めていきたいと思う。

現在読み進めたいと思っている本は

The days of vengeance
David Chilton 


これまた圧巻だが面白そう。

すでに、シリーズ「携挙」の中で触れたが、パル―シア(凱旋)というギリシャ語原語の意味から、携挙という教理は空想話、偽教理の可能性が高い(と思われる)。

このことを踏まえて、あらたに「再臨」というテーマを設けることにした。

最初のメッセージはこれ。

How will we know when Jesus is coming back? | N.T. Wright at UT Austin

初めから3分21秒まで。

◇◇

福音書の中で、最も不思議な特徴のひとつは、主の再臨ではないかと思います。

ダマスカスの途上で、イエスはパウロに現れましたが、このようなことが次にいつ起こるのかについて考えてみたいと思います。

あるいはまた、初代教会において、ある意味で、これは起きていたのではないかと思います。

さて、2000年の時が過ぎて、私たちはいまだにそうではないと思いますが、これらの聖句をどのように解釈しますか。

まさに最後に、イエスがそのようなことを語っています。

イエスが弟子たちのところに現れた時のことは使徒伝に記されています。

天使は、「主は、あなたがたが去っていくところを目撃したのと同じように、再び戻ってくるであろう」と告げました。

ここに大きな問題があります。

他の地域よりも、アメリカにおいて大きくて不気味な問題です。

新約聖書において、携挙という考え方を有するアメリカのディスペンセーション主義は、イエスの再臨という考え方を、反対の方向へと変えてしまいました。

再臨というのは、イエスが戻って来て、ある人たちをすくい上げて、ご自身とともに彼らを天へと連れ去るということではありません。

違います。

新約聖書のイエスの再臨の記事において、イエスは(地上に)戻って来て、支配し、世界を造り変えて、新たなものにします。

すなわち、これが新約聖書全体の一部であり、新天新地の内容であります。

イエスの来臨についてではなくて、イエスの現われについて書いてある聖句があります。

コロサイ3章、第1ヨハネ3章です。

コロサイ3:4
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。 

第1ヨハネ3:2
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

来臨ではなく、現われるというのはどういう意味でしょうか。

暗黙の宇宙論があるために、問題が起きるのです。

私たちには暗黙の宇宙論があり、空の何処か遥か彼方に天があると思っています。

空の何処か遠くに天があると考えています。

そして、その遥か下方に地球があると考えています。

そこで、主は、長い旅行を経て、何処からか宇宙人のようにやって来ると考えています。

多くの人たちから手紙をもらいましたが、彼らは全く文字通りに理解していて、天とはこの宇宙の中の空間であると考えています。

聖書は天ということばをそのように用いてはいません。

天ということばは複数の意味があり、この場合の天とは神の空間という意味であり、神の空間とは、私たちの空間である地球と最終的に合体する空間のことを言います。

その瞬間、まさに現実の只中において、巨大なカーテンが引き下げられるかのように、であります。

ある時点、ある場所において、神は遠くにはおられず、またイエスも遠くにはおられないのだが、今この時には見ることができない。

しかし、ある日、カーテンが後ろへと引かれ、まるで誰かがカーテンを引っぱっているかのように、それはやって来ます、そして現われます。

突然、すべてのことがカーテンの後ろで進行しているのが分かります。

そのカーテンが私たちの現実と合体するのです。

イエスがやって来るという考えと全く同じ映像として捉えることができます。

ここで解釈上難問があります。

福音書の記述から、長い時間経過の後にイエスが来臨すると予言する習慣がありますが、これは事実ではありません。

例えば、マルコ伝13章に書かれているのは、エルサレム陥落の預言です。