みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Manifestation Of The Law Of Life, #9

2016年01月31日 | 聖書研究・信仰
神は我々にいつでも優しい。

神は御霊の新しい法則を与えて下さった。

我々が「飛ぶ」のは、もはや我々の意志の問題ではなく、御霊の命の問題だ。

短気なキリスト者を忍耐強くするのは大仕事だ。

短気なその男に忍耐を要求すれば、彼はたちどころにうつ病になるだろう。

しかし、神はそんな不自然なことを要求する神ではない。

自分の霊的成長が増すように熟慮・努力せよとは要求しない。

思い煩いは人の高みを減ずるが、何かを増し加えることはない。

「思い煩うな」

主のことば。

「野のゆりをみよ。・・成長している」

我々の中にある命の新しい法則に注意を向けよ。

嗚呼。

我々の命の新しきを大いに楽しむことができるように。





The Manifestation Of The Law Of Life, #8

2016年01月29日 | 聖書研究・信仰
新しい法則の中で生きようとするなら、古い法則はあまり気にならなくなるはずだ。

古い法則は確かに存在する。

しかし、もはやそれは統治権を持たない。

我々はそれに支配されることはない。

だから、主は言う。

マタイ6:26
あの鳥たちを見よ・・
あのゆりを考えよ

あの鳥たちに、重力の法則が怖くないのかと問うてみる。

何と答えるだろうか。

鳥たちは言う。

ニュートンという名前は聞いたことがない。

ニュートンの法則なんて全く知らない。

我々が飛ぶのは、飛ぶための命の法則があるからだ、と。

鳥たちが飛ぶための力を有する命を持っているだけでなく、彼らの命が自然にかつ間違いなく重力の法則に打ち勝つことができる法則を持っているということ。

重力は確かに存在する。

寒さが染み入る、雪深いある日の朝早く起きてみると、畑に死んだ雀が一羽。

それを見た瞬間、あの法則が生きていることを思い出す。

生きている間、鳥たちは重力に打ち勝つ。

彼らの内にある命は彼らの意識を支配する。



The Manifestation Of The Law Of Life, #7

2016年01月27日 | 聖書研究・信仰
我々は聖書を読むべきか。

もちろん読むべきだ。

読まなければ、我々の霊的生活はひどいものになるだろう。

しかし、それは強制ではない。

我々には新しい法則がある。

その法則により、我々は聖書に対して飢え渇きを覚える。

30分でも良い。

強いられて5時間読むよりもずっと有益だ。

献金、宣教、証しについても同じ。

強いられて宣教すると、冷淡な心による上っ面だけ暖かい福音になる。

これをコールド・チャリティー(冷たい慈善)と呼ぶ。







The Manifestation Of The Law Of Life, #6

2016年01月26日 | 聖書研究・信仰
不眠に悩んでいた時期がある。

数日眠れない夜が続くと、くたくたになるくらい祈った。

長々と神に、過ちは私にあるに違いないと告白し、どこか示される所はないか尋ねた。

私は神に問うた。

「どうか説明して下さい」

主が答えた。

「自然の法則を信じなさい」

睡眠の法則は飢えの法則と全く同じだ。

空腹についてくよくよ悩むことなど考えたこともなかったが、睡眠については悩んでいた自分に気が付いた。

私は睡眠という自然の法則に介入してしまっていたのだ。

それが不眠症に悩む多くの者たちの主たる問題だ。

神にのみならず神の自然の法則にも信頼を置くようにしてからは、良く眠れるようになった。




Coffee Break, #44

2016年01月24日 | コーヒーブレイク
https://www.youtube.com/watch?v=EtyVdC7E6Wo

We have power to break every chain in the name of Jesus.



The Manifestation Of The Law Of Life, #5

2016年01月19日 | 聖書研究・信仰
我々は自分の意志から離れて、主に信頼を置くなら、地に倒れることも、失望することもない。

しかし、これまでとは異なる法則、すなわち命の御霊の法則へと入っていく。

神は命のみならず、命の法則を我々に与え給うた。

ちょうど重力の法則が自然の法則であり、人の法の結果ではないように、命の法則も自然の法則だ。

この法則は心臓の鼓動を維持したり、眼瞼の瞬きをコントロールする法則と原則的には類似している。

眼について考え込んだり、清潔を保とうと瞬きしようと決意したりする必要はない。

ましてや、自分の心臓を何とかしようと、意志のパワーを働かせるなんてナンセンスだ。

事実、そうしようとすることは、百害あって一利なしだ。

違うだろう。

それは命があるので、自発的に拍動しているのだ。

我々の意志は、命の法則の妨げにしかならない。

私はその事実を次のようにして見出した。




The Manifestation Of The Law Of Life, #4

2016年01月18日 | 聖書研究・信仰
我々の信心が不十分だからそうなのだが、我々がときどき経験する脆弱な生活が皆、神によって与えられたものとは限らない。

ローマ6:23にこう書いてある。

「神の無償の恵みは、我らの主キリストイエスにある永遠の命である」

ローマ8:2にはこうある。

「キリストイエスにある命の御霊の法則」は、我々の支えとなってきた。

つまり、ローマ8:2は、全く新規の恵みについて言っているのではなく、ローマ6:23においてすでに言及しているその命について言っているのだ。

言い換えると、命の御霊の法則とは、我々がすでに持っていることを新たまって現出させることだ。

このことを殊更に強調しようとは思わない。

それは、神の手から放たれた何か目新しいものではない。

神がすでに与えて下さったもののベールを新たまって剥ぐことだ。

というのも、「私を自由にした」とは、過去形において表現されている。

私がこのことを理解して、主に信仰を置くなら、ローマ7章が私の中で繰り返される必然はなくなる。

経験においても、また行為においても。

意志のパワーを存分に働かせる必要はない。




The Manifestation Of The Law Of Life, #3

2016年01月12日 | 聖書研究・信仰
分からないことがある。

神を喜ばせるために、何故人は意志のパワーを使うのか。

2つの理由がある。

そのような人たちは新生を経ていない可能性がある。

この場合、彼らは頼るべき新しい命を持っていない。

或いは、彼らは新生していて、永遠の命を持っている人たちかもしれない。

しかし、彼らはその命に預かることを知らない。

この理解を欠いているために、繰り返し失敗し、罪を犯し続ける。

結局、さらに素晴らしいことがあるのに、そこまで到達できずに途中で諦めてしまう。




Coffee Break, #43

2016年01月11日 | コーヒーブレイク
Kingdom of God is Jesus Christ Himself.
It is so real for believers as God is.





The Manifestation Of The Law Of Life, #2

2016年01月10日 | 聖書研究・信仰
信仰生活において多大な努力を要すると言うなら、我々は信仰者にふさわしくないと言わざるを得ない。

母国語を話すのに努力は必要ない。

他国語を話す時のように普段はしないような事をする場合、意志のパワーを用いる必要がある。

このような事はある一定期間ならできるかもしれない。

しかし、結局は罪と死の法則が勝る。

つまり、次のように言えるのだろう。

したいことが今私にはあり、この2週間はその良いことをする。

しかし、結局は次のように告白しなければならない。

「どうやってやり遂げたらいいのか分からない」

「いや、そうでなく・・」

「私が今そうであるのは、実はそうなりたくないからだ」

「私がそうしたい理由は、実は私が今そうではないからなのだ」