みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #137

2017年12月31日 | コーヒーブレイク
マタイ14章33節
そこで
舟の中にいた者たちは
イエスを拝んで
「確かにあなたは神の子です」
と言った

如何にもこの国らしい訳出だと思う。

何処か。

あまりにこの国の慣習に慣れ親しんでいると見えてこない。

>イエスを拝んで

と訳している箇所。

英語訳を見ると


Then they that were in the ship came
and worshipped him
saying
Of a truth thou art the Son of God
(KJV)

worshipと訳出している。原典にはπροσκυνέωという単語が使われていて、意味は、

προσκυνέω:
From G4314 and probably a derivative of G2965 (meaning to kiss, like a dog licking his master’s hand); to fawn or crouch to, that is, (literally or figuratively) prostrate oneself in homage (do reverence to, adore): - worship.

>to kiss, like a dog licking his master’s handとある。

つまり、「喜びはしゃぎまわって」という訳出がぴったり当てはまる。訳の最後にworshipとあるが、worshipとは「礼拝」ではなく「讃美」という意味だ。これも重大な誤訳のひとつ。

eg: to worship His Nameとは、「主の御名を賛美する」であって、「主の御名を礼拝する」ではない。

低次元から高次元の領域へマインドのトランスフォームが必要だ。




Coffee Break, #136

2017年12月29日 | コーヒーブレイク
黙示録1章6節
また
私たちを王国とし
ご自分の父である神のために
祭司としてくださった方である
キリストに栄光と力とが
とこしえにあるように
アーメン

誤訳とは言えないが、確認を要する箇所がある。

>私たちを王国とし

この文章の主語は何か。

文脈を探っていくと、イエスキリストであると分かる。

>イエスキリストは私たちを王国とした

ここで、「王国」と訳された単語について。

Bible Hubを見ると、異本が存在する。

βασιλείανとする写本
βασιλείαとする写本
βασιλεῖςとする写本

の3者が存在する。上から順に

王国
王国


最も信頼できる写本であるRP Byzantine Majority Text 2005ではβασιλείανとある。つまり、王国。

キリスト者を一つの単位として見るのか、個々人として見るかの違いであって、いずれの訳でも文意を損することにはならないと思う。

次に問題となるのが、「力」と訳された箇所。

原典ではκράτοςという単語が使われていて、意味は

κράτος:
Perhaps a primary word; vigor [“great”], (literally or figuratively): - dominion, might [-ily], power, strength.

確かに、「力」という意味もある。しかし、黙示録5:10にあるように

黙示録
私たちの神のために
この人々を王国とし
祭司とされました
彼らは地上を治めるのです

「我々は地上を治める存在である」と書かれていることを参考にすれば

1章6節においても、「力」ではなく「統治」dominionと訳出すべきではないかと思う。

ちなみに、主の祈りにおいて

マタイ6:13
・・・
国と力と栄えは
とこしえにあなたのものだから

ここに出てくる「力」という単語は、原典ではδύναμις(デュナミス)であり、κράτοςではない。




Coffee Break, #135

2017年12月27日 | コーヒーブレイク
ピリピ4章2節
ユウオデヤに勧め
スントケに勧めます
あなたがたは
主にあって一致してください

この聖句にも、原典とは全く違うことが書かれている。

どこが違うのか。


Euodia I exhort
and Syntyche I exhort
to be of the same mind in the Lord
(YLT)

見た瞬間に分かる。

最後の文章。

KJV訳もほぼ同じ訳出だ。

直訳する。

主にある同じマインドであるように。

be of the same mindと訳出された単語はφρονέωで、以前にも考察した。

φρονέω:
From G5424; to exercise the mind, that is, entertain or have a sentiment or opinion; by implication to be (mentally) disposed (more or less earnestly in a certain direction); intensively to interest oneself in (with concern or obedience): - set the affection on, (be) care (-ful), (be like-, + be of one, + be of the same, + let this) mind (-ed, regard, savour, think.

to exercise the mindという意味を持つ単語。

Coffee Break, #72

ピリピ2章5節では、「そのような心構えでいる」と訳出し、この聖句では、「一致する」と訳出しているわけだ。

彼らは全く聖書を知らない。

残念だが、ここに断言する。

ピリピ2:5の要点は

キリストのマインドを持て

であった。

この聖句においても、パウロは全く同じ主張をしているのだ。

キリストと同じマインドを持て




Coffee Break, #134

2017年12月24日 | コーヒーブレイク
ローマ13章14節
主イエス・キリストを着なさい
肉の欲のために心を用いてはいけません

有名な聖句。

検証が必要。

英語訳を見てみる。


But put ye on the Lord Jesus Christ
and make not provision for the flesh
to fulfil the lusts thereof
(KJV)

YLT訳もそうであるが、英語訳には「心」(heart, soul, mindなどの単語)という意味の単語は出てこない。

前半の

主イエスキリストを着よ

この訳は正しい。

問題は後半の訳出だ。

provisionと訳された単語はπρόνοιαで、意味は

πρόνοια:
From G4306; forethought, that is, provident care or supply: - providence, provision.

先見、事前考慮、用意、事前準備、用心

上の英語訳にあるmake provision forとは

~に備えて用意しておく、~の準備をする、~に関する規定を設ける

という意味。

以上から、後半部は

肉が準備して、結果として(εις)欲を産まないように


主イエスキリストを着よ
肉に欲を産む隙を与えるな

*補足:日本語訳について
πρόνοιαの意味のひとつに「用心」がある。原義は確かに、「前もって思う」なので
「心を用いて」と訳出したのかもしれない。しかし、これでは不十分だ。
「前もって」を付け加えないとこの単語を訳したことにはならない。

>肉の欲のために「前もって」心を用いてはいけません






Coffee Break, #133

2017年12月23日 | コーヒーブレイク
第1ペテロ5章7節
あなたがたの思い煩いを
いっさい神にゆだねなさい
神があなたがたのことを
心配してくださるからです

大変有名、かつ機会を得てはたびたび引用される聖句だ。

ひとつだけ注意しておきたいことがある。

「委ねる」と訳された単語について。

「委ねる」と訳出された単語はἐπιῤῥίπτωで、意味は

ἐπιῤῥίπτω:
From G1909 and G4496; to throw upon (literally or figuratively): - cast upon.

つまり、投げる、放り投げるという意味だ。

「委ねる」というと静的ではなるが、「放り投げる」というと動きが出てくる。

しずしずと神にお願いするのではない。

いやなことは皆、主に向かって放り投げろ

手元に何一つ残すな


あなたがたの心配を皆
彼(神)に向かって放り投げよ
彼(神)があなたがたのために
関心を持って下さっている




Coffee Break, #132

2017年12月22日 | コーヒーブレイク
ガラテア3章10節
というのは
律法の行ないによる人々はすべて
のろいのもとにあるからです
こう書いてあります
「律法の書に書いてある
すべてのことを堅く守って実行しなければ
だれでもみな
のろわれる。」

後半部分の検討に移る。

後半部は申命記27章からの引用だ。

イスラエルの民が遵守すべき教えが具体的に書かれている。


Cursed is every one that continueth not
in all things which are written
in the book of the law to do them
(KJV)

律法の書において
遵行するように書かれているすべての戒めの中に
留まらない者は皆呪われる

この後半部において、前半部のἐκ, ἐξと対比される単語がἐμμένωであり、その意味は

ἐμμένω:
From G1722 and G3306; to stay in the same place, that is, (figuratively) to persevere: - continue.

「中に留まる」

要するに、ここでパウロが言わんとしていることは

律法の持つパワーの内にいるのか外にいるのかであって、律法を遵行するかどうかに力点を置いているのではない

ということではないか。

律法のパワーの内にいる者は、必然的に律法を遵守しているのだ。

律法の持つパワーを、神の栄光と言い換えると分かりやすい。

あるいは、主イエスキリスト。





Coffee Break, #131

2017年12月21日 | コーヒーブレイク
ガラテア3章10節
というのは
律法の行ないによる人々はすべて
のろいのもとにあるからです
こう書いてあります
「律法の書に書いてある
すべてのことを堅く守って実行しなければ
だれでもみな
のろわれる。」


さて、上の日本語訳で注意すべきは「律法の行ないによる人々」という表現だ。

>律法の行ないによる人々

とは、どういう人々か。

ふつうに解釈すると、律法の行ないによって何とかしようとする人々ということになるが。

原典には

οσοι γαρ εξ εργων νομου

と書かれている。

εξはout ofという意味だ。

直訳すると

律法のパワーの中から(外部に)出た者たちは皆

という意味だ。

これなら分かる。

同a
律法のパワーから外へ出てしまった者たちは皆、呪いの下にいる

律法のパワーから外へ出てしまった者とは棄教した者たちのことを指しているのか。

*意味の不明瞭な個所を一部改変・補足した



Coffee Break, #130

2017年12月20日 | コーヒーブレイク
ガラテア3章10節
というのは
律法の行ないによる人々はすべて
のろいのもとにあるからです
こう書いてあります
「律法の書に書いてある
すべてのことを堅く守って実行しなければ
だれでもみな
のろわれる。」

どうにも解せない。

>律法の行ないによる人々はすべてのろいのもとにある

と書いてある。これはおかしい。

律法を行なわない人々はすべてのろいのもとにある

ではないだろうか。

では、原典には何と書いてあるのか。

οσοι γαρ εξ εργων νομου εισιν υπο καταραν εισιν

前に考察したことがあるが、上の文章にあるεργωνという単語の意味は

ἔργον:
From ἔργω ergō (a primary but obsolete word; to work); toil (as an effort or occupation); by implication an act: - deed, doing, labour, work.

エネルギーの語源となった単語。エネルギー、パワー、ポテンシャル、力、働き、(業)といった語感だ。行ないという意味もあるが、ここではそのように訳出することはできない。「律法を行なう」ことはできても、「律法が行なう」ことはあり得ない。律法とは書かれた文字だ。

よって、εργων νομουとは、律法の(持つ)ポテンシャル、エネルギー、パワー、働き、業、力と訳出する必要がある。

律法には、それだけでパワーがあるのだ。

続く・・。



Coffee Break, #129

2017年12月18日 | コーヒーブレイク
ヘブル4章2節
福音を説き聞かされていることは
私たちも彼らと同じなのです
ところが
その聞いたみことばも
彼らには益になりませんでした
みことばが
それを聞いた人たちに
信仰によって
結びつけられなかったからです


「みことばがそれを聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかった」と書いてある。

原典には何と書いてあるか知りたくなるような訳出だ。

早速調べてみる。

まずは、英語訳から。


・・・
not being mixed with faith in them that heard it

日本語訳で「結びつけられ」、英語訳で「mixed with」と訳されている単語は
συγκεράννυμιで、意味は

συγκεράννυμι:
From G4862 and G2767; to commingle, that is, (figuratively) to combine or assimilate: - mix with, temper together.

確かに、combine(結ぶ)と言う意味もあるが、混ぜると訳した方が理解しやすい。

確認したかったのは次の点だ。

>それを聞いた人たちに信仰によって

と書いてあるが、原典にはそう書いていいない。

聞いた人々の信仰

この聖句の後半部分は

同b
(宣べ伝えられたことばが)
聞いた人々の信仰と混ぜ合わせられなかったので
(役に立たなかった)

つまり

力ある業を為すのは、みことばと信仰の混合体であるレーマだ。




Coffee Break, #128

2017年12月17日 | コーヒーブレイク
ヤコブ5章15節
信仰による祈りは
病む人を回復させます
主はその人を立たせてくださいます
また
もしその人が罪を犯していたなら
その罪は赦されます

信仰による祈りと書いてあるが、違う。

「信仰の祈り」だ。

信仰が祈るのだ。

我々の中にある信仰という霊が祈るのだ。

信仰は霊である。

そうすると、霊的ポータルが開き、山が動き始める。

原典にも

η ευχη της πιστεως σωσει τον καμνοντα

信仰の祈りは病人を癒す

と書いてある。

次に

主がその者を立ち上がらせる

と書いてある。

病いを癒すのは信仰の祈りだが、立ち上がらせるのは主である。