みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Chastisement of God, #9

2017年02月27日 | 聖書研究・信仰
一たび聖徒が罪を告白して、それを捨て去り、神の赦しを信じるなら、神の約束に依り頼むことができ、恐れることなく主の癒しを知ることができる。

言い訳することなく、良心をもって、祝福のゆえに、その者は神に近づく勇気を持つ。

信じることができない、或いはあえて信じようとしないのは、神から遠く離れている時だ。

罪が捨て去られ、聖霊の光と従順を経て赦しを受けた後、我々は神に自由に接することができる。

病いの原因が取り除かれたが故に、病いそのものも取り除かれる。

今や、病いにある信徒は、「我々の平安の(ための)お叱りがキリストの上におかれた」ということを容易に信じることができる。

「彼の打ち傷によって、我々はすでに癒されている」

その瞬間、主の臨在があり余るほどに現出し、主の命がその聖徒の体に吹き込まれるであろう。




Coffee Break, #69

2017年02月27日 | コーヒーブレイク
See God with your ears, hear His Word with your eyes.




The Chastisement of God, #8

2017年02月25日 | 聖書研究・信仰
神は「人の子らを苦しめたり、悲しませることを良しとはしない(雅歌3:33)」

自己裁定の目的が達成されれば、神はしつけを止めるであろう。

必要がなくなれば、しつけを止めて満足するのは当然だ。

自分で自分を裁定すれば、裁かれることはないと聖書に書いてある。

我々が罪と自我から解かれることを神は望んでおられる。

一たびその目的に達すれば、病いは消失するであろう。

その指令が完了したからだ。

今日のキリスト者が理解すべきは、特別な目的のために神はしつけをするということ。

聖霊は罪が何たるかを明らかにし、神の目的が達成される。

しつけは、もはや必要なくなる。

よって、神は癒して下さる。




The Chastisement of God, #7

2017年02月24日 | 聖書研究・信仰
病気の時に取るべき行動は、癒しや癒しの方法を求めて、あちこちうろつくことではない。

不安になったり恐れてはならない。

すべきことは、神の光の中に自分を置き、吟味すること。

何らかの欠落ゆえにしつけをされているなら、それを知りたいという願いを正直に申し出ること。

自分を裁定してみること。

何がおかしいのかを指摘してくれるのが聖霊だ。

示された点は何であれ、直ちに告白して捨て去るべきだ。

その罪が他の者たちに害をもたらすクローンを有しているなら、全力で改善する。

そして、神が自分を容認して下さったと信じ切る。

新たに神に自分を献げて、神のみ旨に従うことを願う。




The Chastisement of God, #6

2017年02月23日 | 聖書研究・信仰
信徒が神によってしつけられていて、病気を患っている時、その者は大いなる祝福を受けやすい状態になっている。

何故なら、子らの霊の父は、我々のためを思ってしつけているのであり、結果として神の聖をシェアすることができるようになるからだ。
(へブル12:10)

病いは、過去を思い起こさせ、隠れた罪、強情、我意がないかどうか調べ上げるように我々に働きかける。

我々と神との間にバリアがないかどうかを徹底的に検討する機会が与えられる。

心の深きを探り出し、如何に自己中心に満ちていたか、そして自分の過去が如何に神の聖とかけ離れていたかを知るに至る。

このような修練を経て、霊的進歩を遂げ、神の癒しを得ることができる。




Coffee Break, #68

2017年02月22日 | コーヒーブレイク

https://www.youtube.com/watch?v=wNRFumI2ch0



The Chastisement of God, #5

2017年02月22日 | 聖書研究・信仰
病いは神によるしつけである場合が多い。

見過ごしている罪をやめることができるように、我々に注意を向けさせるためだ。

神はこれらの病々が我々の上に降りかかることをお許しになる。

我々を訓練し、罪から我々を洗い清めるために。

神の手が我々の上に置かれる。

不義、負債、プライド、この世への執着、独立独行、仕事における過度の欲望、神に対する反逆。

これらの罪過へと目を向けさせて、我々を厳しくしつけるためだ。

つまり、病いとは、罪に対して神が公に裁定を下すことなのだ。

しかし、このことから、病いにある人たちが他の者たちよりも罪深いと思ってはならない。

その典型的な例がヨブだ。




The Chastisement of God, #4

2017年02月21日 | 聖書研究・信仰
この特別な男は、生まれつき目が見えなかった。

よって、この者の病いの性質は、信徒の病いとは全く違う。

生まれながらに負っている病いは、病人の罪によるとは言えない。

聖書によると、我々が主を信じて後に起きる病いは罪によるとされる。

ヤコブ5:16a
告白せよ
お互いに
過失の数々を
祈れ
お互いのために
あなたがたが癒されるために

まず罪が告白されて後、癒しが起きる。

罪は病いのルーツだ。




Coffee Break, #67

2017年02月20日 | コーヒーブレイク
The spirit of God is resting upon me.
The spirit of wisdom
The spirit of understanding
The spirit of counsel
The spirit of mighty power
The spirit of knowledge
The spirit of fearing God
The spirit of love





The Chastisement of God, #3

2017年02月20日 | 聖書研究・信仰
自己裁定によって病いは避けうるのか。

我々は病いを単なる肉体の問題と片づける傾向にある。

そして、神の義、聖、裁きとは関係がないと決めつける。

しかし、パウロはこの箇所において分かりやすく説いている。

病いは罪の結果であり、神の躾けであると。

我々はヨハネ9章の盲人の話しを引用しがちだ。

そして、彼らの病いは罪に対する神の躾けではないという理屈を支持する。

その時、主イエスは罪と病いは無関係だとは言わなかった。

弟子たちに、病人を絶対に非難しないよう警告している。

もしアダムが罪を犯していなかったら、ヨハネ9章の男は目が見えずに生まれてくることはなかっただろう。