みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#17 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 3 

2023年08月29日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

8分10秒から11分15秒まで。

◇◇

遂に山上の垂訓が姿を現わした。

長い間避け続けてきた・・。

◇◇

イエスは山上の垂訓を至福の教え(the Beatudes)から始めました。

霊において貧しい者は幸いなるかな。

当時の人々が良く聞いていたことは、この世が提供できるものをすべて所有している人は幸い、この世のものに富んでいる人は幸いであるということでした。

イエスが言ったことは、これとは真逆でした。

内面において霊的破産を宣言した者、霊的に貧乏な者は幸いなるかな。

悲しむ者は幸いなるかなとイエスが言う一方で、社交的な者やよくしゃべったり、おかしな者は幸いであると世は言います。

真に幸いなる者は、自分の罪ゆえに悲しみ嘆いている者だとイエスは言います。

素直で穏やかな者は幸いなるかなとイエスは言います。

しかし世は全く逆のこと、我慢せずに手に入るものはすべて手に入れよと言います。

そして、あらゆる人々を地獄に送るのです。

世の言うこととは異なり、イエスの言うことは「素直で穏やかな者は幸いなるかな。」

義に飢え渇いている者は幸いであるとイエスは言います。

迫害されている者は幸いであるとさえ言います。

何とショッキングではないでしょうか。

さらに、あなたの義が律法学者やパリサイ人より優れていなければ、天の御国に入ることはできないと主イエスは言います。

パリサイ人の外見的な道徳や義に勝る者は、当時誰一人としていなかった。

彼らの生活様式や教会運営方法は完璧だった。

パリサイ人に勝る人はいなかった。

主イエスが置いた敷居はあまりにも高かったために、自らそれを超えて中に入り救いに至る人はいなかった。

しかし、「天におられる御父が完璧であるように、あなたも完璧であれ」ということを示すために、イエスは聴衆の足元から敷物を引き剥がし、それを彼らの耳元へと向けた。

これがまさに神が量る基準なのです。

まるでそのような物差しや天秤があるかのように、実は私たちの人生も決められているのです。

この天秤の一方の端にあなたの人生が置かれ、他方の端には溝に嵌まった酔っぱらいが置かれているのではありません。

あるいは、気まぐれな放浪者が置かれているのでもない。

このように、誰かと比較して自分を評価して、彼らよりは自分はうまくやっていると判断することは簡単です。

神は相対評価をして下さるであろうし、私は天国に受け入れられるに足るはずだ、と。

実際はどうか。

神はあなたの命を天秤の一方に置いて、そして他方に、ご自身の義なるご性質である絶対的かつ完璧な聖を置きます。

私たちは皆量りにかけられ、欠落があると判定されます。

あの日イエスは聴衆に絶望を与えました。

律法学者やパリサイ人以上に義でなければならない。

神が聖であるように、あなたがたも聖でなければならない、と。

 

 


#677 神の法第六戒

2023年08月26日 | 神の法

第6戒
賠償かそれとも修復か

p276~
Restitution or Restoration
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

破滅へと向かわされている世を見るにつけ、如何に神の法が重要であるかよく分かる。

彼らグ○ーバ○ストたちは、現代版共産主義とヒューマニズム、そして全体主義の風潮を巧みに誘導・利用して、一刻も早く○界○一〇府を樹立しようと目論んでいる。

Rushdoonyが預言した通り、激しく御国が責め立てられている状況だ。 

◇◇

第3に、聖書的賠償の一形態は、自己防衛の権利、すなわち侵略者や泥棒を殺害しなければならないある種の状況下における権利であったので、自分を守るための被害者の権利をわらに限界を加えるということは、自分を守るための権利や自由がない野蛮主義へと戻ってしまうということを意味する。

第4に、投獄というシステム、すなわち犯罪者の社会復帰(リハビリ)は、Prinsが言及するように、犯罪者に対してはある種の助成金、そして無実の人たちや被害者には税金徴収という意味合いを含んでいる。

神や人の手から賠償を要求するのは、敬虔な人たちに対する侵害である。

犯罪者に助成金を支給したり、敬虔な人々にペナルティを科す社会は、さらなる暴力や無法を助長することにより瓦解し、無政府状態へと向かっていくであろう。

第5に、Winesが言及したが、好ましいものとして、誤った源をわれわれに与える一方、社会的権力の2つの可能な源泉として、神由来と人由来がある。

もし権力が神から来るのであれば、神の法が流布されなければならない。

もし権力が人から来るのであれば、人々の意志が流布されるであろう。

人の上、あるいは人を超えるような法の原則は存在しない。

すなわち、原則としての賠償は、民主的社会にはなじまない。

何故なら、神政的原則は、人間が絶対的かつ不変的正義に従うように要求するからである。

神政的原則としての賠償は、3つの事項を含む。

第1、それは傷害を受けた個人に対する賠償。

第2、破られた法秩序は神の法秩序。死亡事件においては、賠償されるべき人は存在しないため、それは神に対して成された(民数記5:6~8)。

神が直接に巻き込まれた犯罪の場合、弁償総額に5分の1が加えられた。この5分の1とは、元の総額の4分の1、、すなわち他方の4分画を表した(レビ記5:14~16)。

すべての事件において、賠償は、償いの捧げ物によって神に対してなされる必要があった(レビ記5;15~17)。

第3、以上のような場合から、神の御前で社会が健全であるためには、賠償はつねに必須であるということは明らかである。

以上のことから、反対勢力が存在しない限り、いつ何時であっても国家は傷害された個人に対する賠償をしなければならないということが示唆される。

敬虔的な社会の目標は修復である。あらゆる点において、悪い罰則をもって、聖なる賠償をもって、その目標は果たされなければならない。

 

 

 


#16 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 2 

2023年08月23日 | 救いの達成

☞ The Narrow Way Dr Steven J Lawson

3分00秒から8分10秒まで。

* 後半部に誤字・脱字あり、修正した。 

◇◇

今夜宣べたいことは大変ショッキングなことであります。

これは主イエスが言われたことです。

手元に聖書があればマタイ7章を開いて下さい。

主イエスは多くのショッキングなことを言われました。

いささか頭がおかしくなるようなみことばでもあり、また大変面白いみことばでもあります。

主のことばを捉えることができるように、イエスキリストは忠告したのです。

では、マタイ7章13節から始めます。

この箇所は、主イエスが宣べた中で最も刺激的な説教の最後に現れます。

われらの主が宣べた最も偉大な説教の最後に登場します。

後に山上の垂訓と呼ばれた説教箇所です。

われらの主は最も偉大な福音主義者でした。

山上の垂訓の最後の箇所に差し掛かり、この説教が始まります(13節)。

失われた罪人のために、最も偉大な招待が主イエスによって差し出されます。

自分の命を捨てて主に従う招待。

今宵このホールにおいても同じことが行なわれようとしています。

主のことばを通して、あなたの心へと送られる主イエスからの招待状であります。

神と聖霊が、キリストによる救済へとあなたを召し出すのです。

マタイ福音書7章13節。

狭き門から入れ。というのは、破滅へと通ずる門は大きく、そして道は広い。その門から入る者は多い。というのは、命へと通ずる門は狭く、そして道は狭い。それを見出す者は少ない。羊の衣を身に付けやってくる偽預言者に用心せよ。内では貪欲な狼だ。しかし、実によって、その者たちを見分けることができるであろう。ぶどうはとげのある木から集めることはできないし、いちじくはあざみからは採れない。すなわち、良い木は良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木は悪い実を生むことはできないし、悪い木は良い実を生むことはできない。良い実を結ばない木はすべて切り落とされ、火に投げ込まれる。それゆえ、実によって、それらを見分けることになる。私に向かって、主よ主よと言う者がみな天の御国へと入るのではない。しかし、天におられる私の父の御心を行なう者が入る。その日、多くの者たちが私に、主よ主よ、私たちはあなたの御名によって預言をしたではないか、悪魔を追い出したではないか、あなたの御名によって多くの奇跡を成し遂げたではないか、と言うであろう。その時私は彼らに向かって宣言する。お前たちを全く知らない。私から離れよ。不法をなすお前たちよ。

初期の宣教活動において、主イエスキリストは多くのショッキングなことを言いました。

これらはキリストによる難解な言語録として知られています。

それらがキリストによる難解な言語録といわれる所以は、理解が難しいということではなく、飲み込むことが困難だからであります。

受け入れることができない。

主が語られた中で最もショッキングなことばは、この箇所ではないかと思われます。

これらの節において、決して不確かな表現ではなく、天国に入るよりも地獄に落ちる人の方が多いとイエスは言うのです。

多くの人々が地獄へと向かう広き道の上にいて、命へと向かう狭き道の上にいる人は少ない。

これらのことばをひねって解釈できるような余地はありません。

さらにショッキングなことは、イエスキリストが宗教的な人々のことに言及しているということであります。

神を知っていると主張する人々、主よ主よと言う人々、最後の日に、主よあなたは私のことを知っていると言う人々、あなたの御名でなければ悪魔を追い出すことはできなかったと言う人々、あなたの御名によって多くの奇跡を成し遂げたと言う人々について、主は話しているのです。

この極めて宗教的な人たちが、破滅に至る広き道の上にいると主は言います。

そのほとんどが永遠の地獄へと進んで行きます。

大変ショッキングなことばです。

山上の垂訓は、最初から大変ショッキングなことばで満ちています。

人々が普段聞き慣れていたことを、イエスは完全にひっくり返したのです。

 

 

 


#15 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 1

2023年08月22日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

◇◇

自分が属しているのは山羊の群れではないと断言できるか。

イエスキリストを信じて受け入れたのだから、天国行きに決まっているじゃないかと憤るかもしれない。

新生された人は必ず信じ、義と認められる。

信仰による義と聖化は別の過程であり次元であることに注意が必要。

パウロも嘆いているように聖化の過程は茨の道程。もちろん主導権は神にある。

◇◇

では、師の説教を拝聴しよう。今回もSteven J Lawson師のメッセ。

今回は相当長い説教、しかもかなり力が入っている。
つまり、重要であるということ。

最初から3分00秒まで。

◇◇

ここに戻って来れたことを大変嬉しく思います。

私のカレンダーには1年365日の予定が記されていますが、この場に集うことができるかどうか分からずにいて、大変暗い気分になっていました。

ここに多くの熱い魂がひとつの部屋に集い、ひとりがふたりになり、そして10人、20人になって、互いを激励し活気づいています。

ジョン・ウェスレーがかつて次のように語ったことを思い出します。

「100人を与えて下さい。神以外何も恐れず、罪以外何も憎まない牧師でも平信徒でもどちらでも構わない。この世をひっくり返してみせます。イエスキリストのことは熟知しています。」

この部屋には少なくても100人います。

実際、この部屋には2000人以上を収容することができます。

そして、あなたがたの多くが主を望み、永遠の命に預かりたいと願っています。

それ故、あなたがたは信仰において建て上げられるためにこの場におり、主の事々において勇気づけられ強くなるためにこの場にいます。

神がこの機会を最大化し、聖なる大胆さをもって、私たちがこのひと時に没入できるようにお祈りします。

さて、今宵の説教のためにこの場にいる理由は、この部屋におられるあなたがたの中に、いまだにキリストに巡り合うことができずにいる人がいるからであります。

そんなあなたがここにいるのは、主ご自身があなたをここに引き寄せ、キリストの事々をあなたに見い出してもらうためであります。

しかしながら、あなたはいまだキリストと巡り合うことができず、自身の命をキリストに委ねてはいません。

キリストに対して半分だけ身を委ねるということはありません。

全的献身か全否定かのいずれかしかないのです。

天の御国には生半可な信仰など存在しません。

安っぽい恵みもありません。

今宵の私のメッセージは、今この視聴室にいて、イエスキリストにあって救いのための信仰を実践したことのないあなたがたに直接向けられています。

あなたがたはいまだキリストに到達できてはいませんが、あなたがたの幾人かを神は知っておられます。

あなたがたはまだ救われてはいないことを認識していないかもしれません。

また、教会で育ってきた人もいるでしょう。

クリスチャンの中で育ってきたかもしれません。

聖書研究やクリスチャン音楽隊に通いながら育ってきた人もいるでしょう。

これらを通して、有り余るほどキリスト教とは何かを植え付けられてきたはずです。

キリスト教関連の多くのことばを知っており、また他のクリスチャンと上手くやっていく方法も知っています。

しかし、いまだに本物を知りません。

ゆえに、今宵私はイエスキリストの福音を宣べたいと思います。

この福音を通して、主に召し出され、御国へと入ることができるのです。

この場は福音の受け渡し場所となるでしょう。

そして、ここに居合わせる大人も子どもたちもイエスキリストにあって信仰に入ることができると信じます。

 

 


#14 救いの達成:Sanctification is so important for believers

2023年08月15日 | 創世記

How important is sanctification for the believer? by Steven Lawson

次のメッセージに移ります。

◇◇

クリスチャンにとって、聖(化)は極めて重要であります。

聖(化)のない人はクリスチャンではありません。

だから、重要なのです。

新生された人はみな、その時点で聖化に入り、生涯に渡る聖化の過程が始まります。

神が聖化の第一責任者ですから、義とされると直ちに聖化(の過程)が始まるのです。

狭き門を通り抜けると、続く道はひとつしかありません。

狭き道であります。

新生と信仰を経て狭き門を通り抜けた人はみな、広き道へと進むことはできません。

そして、聖化が始まります。

聖化のないところに義認はありません。

聖化の(過程に)ない人は新生されていなかったのです。

ヘブル12章14節にこう書いています。

ヘブル12:14
聖を追い求めよ
聖なくして主に会うことはできない

クリスチャンにとって、それほど重要なことなのです。

聖を追い求めようとしない人は、天において主と相見える至福のひと時を持つことはできません。

最後の審判の日、そのような人は主の眼前に立ち、永遠の刑罰を受けます。

 

 


#13 救いの達成:Be Holy as I Am Holy, NO.7

2023年08月14日 | 創世記

Be Holy as I Am Holy: Fear and Trembling with R.C. Sproul

22分44秒から最後まで。

◇◇

さて、次のような疑問を抱くことがよくあります。

あなたの罪は赦されたと宣教師や牧師、伝道師が言っているのに私がそれを聞き逃したとするなら、一体自分はそのように思うだろうか、と。

部屋に一人でいて、キリストが部屋に入って来て、私の頭に手を置いて、「R.C. よく聞きなさい。あなたがこれまで犯してきた罪をすべて赦す。太陽が東から上り続ける限り、あなたの罪をすべて取り去る。あなたの罪過を洗い清め、あなたを清める」と言ったとするなら、私は一体どのように思うであろうか。

キリストがあなたに、「あなたを洗い清め、あなたの咎を赦し、神の御前において非の打ち所のない者としよう」言うなら、一体どのように感じるだろうか。

「あなたの罪は取り去られ、あなたの咎は清められた」と神が言った時、イザヤはそれに答えて、次のように言った、「『私は誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くのだろうか』と主が言っておられるのを聞きました。」

神は、「私のところに来なさい」とは言わなかった。

自分のところに来るようにと言うのではなく、「行きなさい」と言ったのです。

私たちは神の下へと行けば、神は癒し、赦して下さいます。

そして、神は私たちを遣わすのです。

「私は誰を遣わそうか。私のために行ってくれるのは誰か。」

イザヤは答えます、「私はここにおります、私を遣わせてください。私が行きます。」

神に感謝します。

「あなたが私の罪をすべて赦して下さるなら、私のすべての咎から洗い清めて下さるなら、私のような聖ではない者を、あなたの御前に立たせて下さるなら、私は地を這ってでも、あなたの慈悲深さと恵みを、会う人すべてに語り伝えましょう。」


「私が聖であるように、あなたも聖であれ」と神は言います。

神は聖であるが、私たちはそうではありません。

聖なる贖い主イエスキリストは、私たちを義として下さるだけでなく、私たちに聖なる霊を与えて下さいます。

私たちが聖を追い求める時、聖霊は手助けをしてくれます。

あなたの聖を達成せよ。

恐れおののいて、あなたの救いを達成せよ。

何故。

神があなたの内で働いておられるから。

・・・(略)

イエスが生涯を終えようとしている最後の夜、弟子たちはイエスに次のように聞きました。

「私たちに御父を見せて下さい。そうすれば、満足します。」

イエスは弟子たちに失望し、どれほど長くあなたがたと一緒にいたのだろうか。あなたがたは私のことがまだ分からないのか。私を見たのなら私の父を見たのだということが分からないのか。」

公生涯においてイエスは、この世をひっくり返しました。

ご自身の存在とともに、イエスは誤った偶像、神の関する誤った理解や誤った考え方を徹底的に粉砕しました。

主イエスは神本来のご性質を明らかにしてくれました。

私たちは宗教の時代に生きています。

自分が望むものは何でも崇め奉り、自分たちで作り上げた神々を礼拝しています。

しかし、友よ。

真の神、聖書の神は、ただお一人です。

キリストのご人格によって明らかにされたのが聖書の神です。

この神を追い求めることを切にお願いします。

この神こそ、その聖において荘厳であり、その偉大さにおいて超越しています。

この神こそ、われらの主イエスキリストの御父であります。

この神を追い求めることを生涯の事業とするなら、あなたの人生は180度違ったものになるでありましょう。

アーメン。

 

 


#12 救いの達成:Be Holy as I Am Holy, NO.6

2023年08月10日 | 救いの達成

Be Holy as I Am Holy: Fear and Trembling with R.C. Sproul

19分46秒から22分44秒まで。

◇◇

祭司が山羊の上に手を置くという動作の象徴的意味とは、民の罪、民の咎を取り去り、それを山羊の背中に移すということ。

そして、山羊は野営の外、すなわち神の臨在が満ちている所の外、外の暗闇、見捨てられた領域へと連れていかれる。

神が人の罪、咎、汚れた唇を取り除いた時、キリストに起きたことがこれです。

イザヤのように神に向かって叫ぶとき、神はその叫びをキリストの上へと置くのです。

神がそれを行なったまさにその時、何が起きたか。

光が消えて闇となった。

キリストはエルサレムの外、野営の外で処刑された。

主イエスは生贄となった。

しかしながら、イエスは、神の要求を満足させる子羊でもあった。

非のない子羊、その唇は汚れていなかったが、神へと捧げられた。

私たちが受けるべき刑罰を払い、ご自身が受けるべき義を私たちへと譲渡した。

故に、クリスチャンライフは赦しから始まるのです。

それは義をもって始まります。

義において起こることというのは次のようなこと。

聖ではない(unholy)私たちが、義ではない(unjust)私たちが、神によって義と宣言される。

ダビデがその疑問を発した時のことを覚えているだろうか。

ダビデは言った、「もし神が不正を弾劾するなら、誰が堪えることができようか」と。

もしも神が学生に関するブラックリストを手に取り、神の法に違反する度、神に逆らう度にそのリストに詳細が記され、それに基づいて神があなたがたを裁くとすれば、一体どうなるでしょうか。

「もし神が不正を弾劾するなら、誰が堪えることができようか」と、ダビデは言いました。

それはいささか修辞的な疑問であります。

もちろん、その答えは「否、誰も耐えることはできない。」

誰も耐えることはできません。

聖ではない人間が、聖なる神の御前で裁きを受け、耐え忍ぶことができるでしょうか。

人の不聖が洗い清められるなら、人の不聖が取り除かれるのなら、人の不聖が覆い隠されるのなら、それが神の裁きを堪え忍ぶことのできる唯一の方法です。

それがまさに贖い。

つまり、キリストの聖が持っていない私たちに分け与えられるということ。

それによって、キリストが私たちを神と和解させ、キリストが神の御前で私たちを義とさせるのです。

そして、キリストは言います、「恐れおののいて実行に移し、この救いを達成せよ」と。

ピリピ2:12
So that, my beloved, as ye always obey, not as in my presence only, but now much more in my absence, with fear and trembling your own salvation work out,
(YLT)

 

 

 


#11 救いの達成:Be Holy as I Am Holy, NO.5

2023年08月05日 | 救いの達成

Be Holy as I Am Holy: Fear and Trembling with R.C. Sproul

16分01秒から19分46秒まで。

◇◇

何故神はこのようなことをなさるのでしょうか。

罪の中にいるイザヤを苦しめたり、拷問するためでしょうか。

否。

悔い改めとはどのようなものかを知りたいのではないでしょうか。

この箇所にそのことが書かれています。

神の御前で自分が罪にまみれていることを知った時、イザヤは神に向かって泣き叫びました。

現代風に書くとすれば、次のようになるでしょう。

「私は汚れた唇を持つ者。汚れた唇を持つ人々とともに住んでいます。嗚呼、何と悲惨なことよ。」

現代風にあなたは次のようにことばをかけてあげるのではないでしょうか。

「どうしたのか、イザヤ。自分に辛く当たるな。自分のイメージを悪く見過ぎている。あなたの自尊心に関心を払う必要がありそうだ。ほら、大した問題ではない。男の子はやはり男の子。さあ立ち上がって、残りの時間を過ごそうではないか。罪を犯してなんかいない。悪く考えすぎている。」

いや、違う。

神はこの事実を否認することはありません。

唇に押しあてられた炭火はイザヤを拷問にかけるための道具ではない。

イザヤを清めるために準備された。

それは傷の焼却のためであり、神はイザヤの唇の傷を清めようとしているのです。

カウボーイの映画とか市民戦争の映画を見たことがあるでしょう。

誰かが打たれて、玉が取り除かれた後、燃えさかる炭火で焼き印を熱して、それを傷の焼却滅菌に使用する場面を見たことがあるはずです。

この箇所において、イザヤに向かって言われたことばを聞きましょう。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取れ去られ、あなたの罪は洗い清められた。」

あなたの咎は取り除かれた。

神はあなたの咎を取り去った。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される(詩編103:12)。

十字架において、キリストは罪の贖いの業を成し遂げられた。

Expirationとは罪を取り除くこと。 

毎年贖罪の日、旧約時代のイスラエルでは、1頭以上の動物が殺されたことを覚えていると思います。

子羊が殺され捧げられただけでなく、そこで得られた家畜は何であれ、最初に生贄とされました。

生贄の話しは知っておられるでしょう。

一頭の山羊が大祭司の下へと引き出され、大祭司は山羊の上に手を置く。

山羊は野営の外、荒れ野へと連れ出される。

つまり、見捨てられた区域、すなわち神の存在から遠く離れた所へと連れ出される。

この事の象徴的意味合いとは何だったのか。