みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#19 The Days of Vengeance, NO.19

2024年06月14日 | 報復の日々

p86~
Recapitulation of Covenantal History
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録2-3


契約の歴史の要約


以前に、7つの教会は抽象的に教会史の7つの時代を表すという誤謬について論じた。

7つの教会とは、教会史(旧約聖書教会史)の7つの期間と関連するという別の見解もある。

アジアの7つの教会を記述するために用いられるイメージは、エデンの園から紀元1世紀の状況に至るまでの年代に従って進んで行く。

1.エペソにある教会(2:1-7)。

パラダイスということばが、この箇所全体を通して明らかにされる。

キリストはご自分が創造主であることを宣言する。

7つの星を持つ。

神が、裁きのために (Gen. 3:8)、エデンの園を歩き回ったように、評価のために燭台の間を歩き回る。

アダムがエデンの園を守り、妻エヴァを敵であるサタンから守ったように (Gen. 2:15)、エペソ教会の天使は、敵から教会を適格に守るように奨励される。

しかし、エペソ教会の天使は、アダムのように、最初の愛から離れてしまった。

それ故、裁きのために、キリストは彼のもとへ行き、そこから燭台を取り除いてしまうと脅した。

ちょうどアダムとエヴァをエデンの園から追放したように。

にもかかわらず、エデンの園の門は、誘惑者に打ち勝つ者たちのために開かれている。

打ち勝つ者のために、私は、わが神のパラダイスの中にある命の木から食べることを認めよう。

2.スミルナにある教会 (2:8-11)。

家長(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ)とエジプトにいるイスラエルの子らの状況が、このメッセージのことばに反映されているように思われる。

キリストは、イサクの命 (Gen. 22:1-14; Heb. 11:17-19)において、そしてヨセフの命 (Gen. 37:18-36; 39:20- 41:45; 45:4-8; 50:20)において予示された贖罪の業、すなわち「死んだが、生き返った」者と、ご自身を記述する。

同様に、奴隷の家からのイスラエル救出において予示された贖罪の業として、ご自身を宣言する。

スミルナ人が一見貧乏であり、実際には富んでいるという状態は、約束の地において、異邦人として生きた家長たちの経験と類似する (Heb. 1 1 :9)。

イサクを迫害したイシュマエルに似ている(Gen. 21:9; cf. Gal. 4:22-31)。

誹謗中傷による扇動のために投獄の危険に晒されていることは、ヨセフの人生に似ている(Gen. 39:13-20)。

勝利の前の10日間の艱難は、解放の前の10の疫病を経るイスラエルの話しを投影する。

 

 


#1 新天新地 He Will Wipe Away Every Tear

2024年06月10日 | 新天新地

He Will Wipe Away Every Tear: Ultimately with R.C. Sproul

最初から最後まで。

◇◇

神がご自分の民のところに来られて、民の涙を乾かす時

もはや死はない。

もはや苦痛はない。

それは、苦痛や悲しみによるあらゆる涙が終わる時。

私がまだ子供だった頃の話しをしたい。

時には、大変面倒なことになったこともあります。

私の町にひとりのいじめっ子がいました。

彼は、他の子どもよりも身長の伸びがはるかに早かった。

そして、他の子どもたちを見下ろすほどだった。

ある日、私は仲間の子らと遊んでいました。

そのいじめっ子は私よりも年上でした。

彼は私の悪口を言って、私を馬鹿にした。

私は気分が悪くなり、泣きながら家に帰りました。

その日のことは良く覚えています。

ある夏の日のこと、裏戸が開いていて、網戸が閉まっていた。

網戸を開けると、お母さんがキッチンに立っていて、エプロンを付けて料理を作っていました。

私が泣いていると、母はスプーンや持っているものをみな床に落として、私のもとに駆け寄りました。

私の手をしっかりと握りしめて、着ていたエプロンの中に埋まるように私を抱きしめました。

「どうしたの。」

逃げようとしたけど、涙が溢れてできなかった。

あの子にいじめられたと伝えると、落ち着くように私をなだめた。

母はエプロンの端を取って、私の涙を拭い去ってくれた。

母は何度も何度も同じことをしてくれたので、決して忘れることはない。

大分前にボストンにある病院に入院中の友人を見舞ったことがある。

彼は危篤状態で、人生最後の時を迎えていました。

彼のベッドサイドにいても、小さな氷のかけらを彼の渇いた唇に含ませること以外、何もしてやれず、ひどく落ち込んでいました。

ある日のこと私を見て、ことばを発するにはあまりに弱々しくて、彼は目に涙を滲ませていた。

ベッドスタンドにあった小さな布を取り、私はその涙を拭き取った。

どのように表現したらよいのだろう。

流した涙を拭き取ってあげる時、お互いにどのようなコミュニケーションを取ればよいのだろうか。

子どもの頃、母が私の涙を手で拭い去ってくれた時、大いに慰められました。

涙が止まり、元の状態に戻りました。

しかし、どうしてだろう。

涙が止めどもなく溢れました。

神がご自身の民のもとへやって来て、彼らの涙を拭い去る時、泣くことは終わる。

苦痛による流涙、悲しみや嘆き、不幸による流涙は終わる。

天において、これらの事々は永遠に止む。

もはや死がない。

もはや苦痛がない。

もはや悲しみがない。

 

 

 


#18 The Days of Vengeance, NO.18

2024年06月05日 | 報復の日々

p85~
Introduction
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録2-3

契約条文の構造に関するパート2・序論は、偉大なる王と配下の者たちとの関係の歴史を詳しく述べ、主の権威と契約の誠実さを思い起こし、与えられてきた利益をリストアップし、配下の者たちが犯す違法の数々を列挙し、配下の者たちを悔い改めさせて、服従を新たにし、そして将来の報酬を約束することを主旨とする。

序論における重要点は、契約の土地であり、土地を所有するための命令、そして、偉大なる王の御名によって征服すること。

cf. Deut.2:24-25,31; 3:18-22; 4:1, 14, 37-40)

申命記2:24-25
立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。 
きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。」 

諸教会に対する7つのメッセージは、いくつかの点で契約の序論と一致する。

それらの構造は類似する一般的パターンに従う。
教会に対するキリストの主権
忠実と不従順に関する各教会の記録
刑罰の警告
従順に対する祝福の約束

加えて、キリストの主権の下で、各教会は、契約の承認、征服の任務、勝利と支配の実践を命ぜられる。

黙示録2:7, 11, 17, 26-29; 3:5, 12, 21)

同2:26-29
 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。 
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。 
また、彼に明けの明星を与えよう。 
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』 

それぞれの教会へのメッセージは、5つの契約構造の要点を繰り返している。

エペソ教会への最初のメッセージを考えてみたい。

エペソ2:1-7
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・ 
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 
それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。 

1.序文
右手に7つの星を持つ方、7つの金の燭台の間を歩く方(2:1)

2.歴史的序章
わたしはあなたの行ない知っている(2:2-4)

3.道徳的明文化
どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めにしていた行ないをしなさい(2:5a)

4.制裁
悔い改めなければ、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう(2:5b)

5.継承協定
勝利する者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう(2:6-7)

   

 


#66 基礎教理 Parable of Lazarus and the Rich Man, NO.3

2024年06月03日 | 創世記

Parable of Lazarus and the Rich Man: The Parables of Jesus with R.C. Sproul

15分00秒から最後まで。

◇◇

そこから出て、他の場所へと自由になるために控訴できる法廷はない。

セカンドチャンスという考え方を考慮することもない。

アブラハムよ。誰でもセカンドチャンスの権利を与えられているのではないのか。

アブラハムは答える。

神がそのような権利を与えているという記載を、私は見たことがない。

仮に神が与えているとしても、大分前にあなたはその権利を使い切ってしまっている。

あなたは第2,第3、第4のチャンスを使い切って生きてきた。

しかし、あなたは悔い改めなかった。

憐れみをかけることもなかった。

完全に自分のことしか考えず、自己中心的だった。

責任を取るべき日が来るという考えをあざ笑い、善なる神、愛なる神、恵みあふれる神が実は卑劣、たちが悪くて、もがき苦しみの場所へとあなたを閉じ込めたと思っている。

しかし、神の愛する子は、くり返しくり返しあなたに警告を発したではないか。

イエスは天国のことよりも地獄のことを教えたではないか。

以前にあなたの口から出たすべてのむだなことば、謹直なことばではなく、熟練したことばでもなく、意図的なことばでもない、それほど容易に口から転がり出たそれらのことば、言わなくてもよいことば、軽薄なことば、そんなことばのすべてが裁きの対象となると、イエスキリストは言ったのでなかったか。

たったひとつの事でさえ、父の告発から逃れることはできない。

裁きの時、すべての舌はその動きを止められるであろう。

そして、いくら言い逃れようとしても全くの徒労に終わることを知るだろう。

すべてをご存じの完璧な裁判官と議論することは不可能。

残念ながら、子よ。

そこから出てここに来ることはできない。

金持ちは理解した。

そして、今度は彼が乞食となった。

この例えは、ラザロが乞食で始まったが、今や金持ちが物乞いをしている。

彼は言う。

父よ、あなたに乞い願います。

ラザロを私の父の家に送ってください。

私のところに送ることができないのなら、あなたと私の間に超えることのできない淵があるのなら、ラザロがそこを渡ることができないのなら、ラザロを私の父の家へ送ってください。

私には5人の兄弟がいます。

こんなところで彼らと会いたくはありません。

このようなもがき苦しみの場所へと来ないように、彼らのところに送ってラザロに証言させてください。

アブラハムは言った。

ラザロを送れと言うのか。

宣教の旅か。

天国からか。

あなたの家に行って、あなたの兄弟のために特別な啓示をせよと言うのか。

父の王国で楽しんでいる至福の時を邪魔しろと言うのか。

あなたの家に行って、あなたの兄弟たちに話をしろと。

ふざけるな。

何故彼らはラザロが必要なのか。

彼らにはモーゼがいるではないか。

家には聖書があるではないか。

彼らには預言者がいる。

彼らは預言者の声を聞けばよい。

金持ちはことばを返した。

いやいや、そうでない、それは足しにはならない。

それでは、彼らは納得しない。

私の兄弟たちは俗物だということを知っているだろう。

彼らの心は堅く閉ざされている。

霊的なことに目を向けようとはしない。

モーセ律法や旧約聖書の預言者たちの預言なんぞくだらないと思っている。

注意を向けようとするはずがない。

しかし、死者の中から誰かが、例えばラザロが彼らのところに行けば、彼らも話を聞くにちがいない。

そうすれば、悔い改めるだろう。

兄弟たちが悔い改める必要があるとその金持ちは分かっていた。

もしも悔い改めなければ、今自分がいるところが最後の場所となるだろう。

アブラハムは彼に答えて言った。

もしも彼らがモーゼや預言者の言うことを聞かないのなら、死人の中からよみがえった者の言うことも聞かないであろう。

イエスはこのことを聞く人たちに話している。

モーゼの言うことを聞かない。

預言者の言うことを聞かない。

父が私を死者の中からよみがえらせたと言っても、あなたはそれを聞かないだろう。

聞かない理由は聞きたくないから。

聞く耳がない。

聞く耳がない理由は、聞く耳を持ちたくないから。

神ことを考えたくないから、地獄のことも考えられないのです。

死は怖い。

主から受ける最も冷静な警告のひとつがこの箇所です。

今が私たちの永遠を保証する時であるという警告であります。

死んでからでは遅すぎる。

遠すぎる。

お祈りしましょう。

父よ。

モーゼと預言書の言うことに耳を傾けることができるようにお手伝いください。

そして、イエス様の言うことに。

主の御名によってこのことをお願い致します。

アーメン。

 

 

 


#17 The Days of Vengeance, NO.17

2024年06月01日 | 報復の日々

p82~
St.John's Commission
King of Kings 
Part One: The Son of Man
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録1:17—20


教会の天使として言及されている預言者的支配者の聖書的前例は数多く存在する。

天使とは、恐らく牧師か司教のこと。

しかし、ヨハネは、教会統治を、星/天使と擬人化表現している可能性がある。

天地の主は、それら星たち/天使たちを右手に握っている。

(キリストは復活したヨハネに対して使ったのも右手であり、すなわちヨハネは天使)

かくして、天使に当てはまることは、教会にも当てはまる。

ピリピ2:15-16
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、 
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

ここで、世の「光」とは、lights [luminaries, stars] 。

7つの燭台とは7つの教会の意。

この7つの教会は、言及されている特別な教会のみならず、全世代における教会全体の充満を意味する。

7と言う抽象表現は、教会と関連する。

全世界において、パウロは全ての7つに区分された全教会に教えた。

つまり、ローマ教会、コリント教会、ガラテア教会、エペソ教会、テサロニケ教会、ピリピ教会、コロサイ教会の7つ。

カソリック教会は1つ。

7つの教会という数を超えることがなく、パウロは手紙を個人あてに書き送った。

7つの燭台を従える、古い幕屋という燭台はキリスト(命の木)。

旧約聖書の時代において、教会は、中央集権的で、無理のない特徴を持っていた。

イスラエルの特別な集合体のユニットは、地理的にエルサレムに集中していた。

新エルサレムはそうではなく、多中心性となった。

しかし、依然として、教会は7つにしてひとつ。

(見えない)教会(The Church)の一致は、イエスキリストに中心を置く。

教会はもはや一つの場所に拘束されない。

普遍的な「王」の御名によって支配するために、(見えない)教会は全世界へと派遣されている。

ある特殊な場所が聖なのではない。

全世界が聖となった。

キリストが贖われたからだ。

キリストはご自身のイメージによって、教会を再創造された。

キリストが栄光の輝きの中におられるように、主が支え保持する教会は光によって特徴づけられる。

(見えない)教会の記述に関しては、21章9節から22章5節を参照せよ。

 

 

 


#65 基礎教理 Parable of Lazarus and the Rich Man NO.2

2024年05月31日 | 基礎教理

Parable of Lazarus and the Rich Man: The Parables of Jesus with R.C. Sproul

6分11秒から15分00秒まで。

◇◇

そして、人々に憎まれていました。

しかし、それでも、犬たちはあの金持ちよりも乞食に対して優しかった。

あなたがたは良く分からないと思いますが、私は血液を薄めるための治療を受ける必要があります。

その結果、私の皮膚は、ほんのちょっとした衝撃で出血を起こしてしまい、それがしみとなり、腕全体に出血斑ができます。

それで、私の妻は、私にスポット(Spot、しみ)という愛らしいニックネームをつけました。

小学校1年生の入門書にある犬の名前みたいな。

スポットが走っているよ。

ベスタはそのことに大変関心があるようでした。

彼女はいつも私の腕にバンドエイドを貼ってくれます。

そして、愛犬のジャーマンシェパードが、毎晩私のところにやって来ます。

彼女がしたいことはひたすら私の傷をなめることであり、私も彼女を追い払うのに必死です。

しかし、この子の関心事は、私を治して上げたいという一心なのです。

傷や怪我などがあれば、犬ができる精一杯の治療法です。

ゴミをあさる犬たちがこの乞食のもとにやって来て、傷をなめることによって得られる唯一の安堵を、その犬たちが与えてくれる。

そして、この乞食は死にます。

この者が死ぬとすぐにやって来たのは、彼の友人や親戚ではなかった。

神の天使たちでした。

最後の息をして目を閉じて、この世の命を終えた時、ラザロが最初に見たものは、天の万軍の光り輝く栄光だった。

この哀れな乞食は彼らの手によって引き上げられて、パラダイスへと運ばれ、アブラハムの懐へと抱かれた。

ラザロの死の描写以外、天の恵みが優しく描かれている聖書箇所は他にありません。

ラザロは天使たちによって天へと移されました。

ラザロの埋葬に関する記載はありません。

この世にラザロの記念碑についての記載もありません。

次に、あの金持ちの死について書かれています。

彼は埋葬され、逝った先はアブラハムの懐ではなかった。

彼は、神の天使たちによって、栄光の中で運ばれることはなかった。

徹底的に苦しめられるために、地獄へと送られた。

見上げると、天を見ることができた。

すると、あの惨めな乞食が、栄光の中で、アブラハムの腕に抱かれているのを見ることができた。

あの金持ちは叫んだ。

神に向かって叫んだのではない。

悔い改めの叫びではない。

アブラハムに向かって大声を上げ、今の状態を改善して欲しいと懇願する。

父アブラハムよ。私を憐れんでください。

ラザロをここに送ってください。

あの者はただの乞食です。

あなたは偉大な家長アブラハム。

あなたには権威があり、あなたが送ろうと思えば、どこにでもこのようなしもべを送ることがおできになれます。

それで、お願いをしているのです、

アブラハム様。

あのしもべをここに送ってください。

指先に水を浸して、私の舌を冷やすように命じますから。

私はこの炎の中でもがき苦しんでいます。

私が欲しいのは、水の中に浸した彼の指先だけです。

その指が私の舌に触れれば、十分に癒されるでしょう。

かつて、ある教授が私に次のように話したことがあります。

「地獄にいる罪人は、この世での犯した罪を繕い、一寸でも今の苦しみを軽くするためなら、持っているものすべてを差し出し、できうることはなんでもするであろう。」

あまりにも恐ろしくて想像できません。

ここに、かつて日々贅の限りを尽くした男がいる。

そして、今この時、一滴の水を物乞いしている。

一滴の水。

舌に。

しかし、アブラハムは答えた。

「子よ。あなたは生きている間、良いものを受け、ラザロは悪いものを受けた。しかし、今、ラザロは慰められ、あなたはもがき苦しんでいる。事態は逆転してしまった。」

あまりに遅すぎた。

生きている間にすべきではなかったのか。

あの男の苦しみを気づかうことさえしなかった。

そして、今、あの男に来てもらい、苦しみの只中にいる自分に仕えて欲しいと思っている。

遅すぎる。

次がこの例えの中で最も深刻な個所ではないかと思います。

アブラハムは言う。

このことに加えて、私たちとあなたの間には大きな割れ目があり、ここならあなたのところへ渡ることはできない。

そこから私たちのところへ来ることもできない。

分からないのか。

そこにいるあなたと、アブラハムの懐にある私たちの間には、計り知れないほどの深淵、つなぐことのできない深い溝がある。

この深淵に架ける橋を作ることのできる強さを持つ物質は存在しない。

あなたは今そこにいて、これから永遠にそこに居続けることになる。

そこからここに来ることはできない。

ラザロはここを離れて、あなたのところへ行くことはできる。

分からないのか。

この割れ目の向こう側には、この深淵の向こう側には、執行猶予のための備えはない。

与えられた刑は永遠に続く。

将来の執行猶予の希望はない。

保護観察期間はあった。

希望はない。

 

 


#16 The Days of Vengeance, NO.16

2024年05月30日 | 報復の日々

来年6月以降がアブナイ!!

彼らは黙示録を巧みに利用している。地上に地獄が迫っていると見せかけて、人民をパニックに陥れ、自由を奪い、人民の富を根こそぎ収奪し、この世の完全奴×化を目指して、世×統×政×の早期樹立を目論んでいる。

◇◇

p81~
St.John's Commission
King of Kings 
Part One: The Son of Man
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録1:17—20


このような解釈を支持するのが、天使たちと預言者との間の関係。

聖書的預言者の主な特徴は、天の会議が開かれている最中、神と天使たちの御前に預言者は立っていたということ。

cf. Isa. 6:1-8; Ezek. 1-3, 10

イザヤ6:1-8
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、 
セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、 
互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」 
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 
そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」 
の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。 
彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」 
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。

そのこと故に、預言者は神の民に対する権威ある代弁者たり得た。

エレミア15:19
それゆえ、主はこう仰せられた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。 

真の預言者と偽の預言者の間の決定的な違いは、天の会議に参画するために、雲に乗って、霊によって引き上げられるのが真の預言者。

エレミア23:16-22
万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを虚無の中へと導こうとしている。主の口からではなく、自分の心の想像を語っている。 
いったいだれが、主の会議に立ち、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。 
わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。 
もし彼らがわたしの会議に立たなかったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行ないから立ち返らせたであろうに。 

預言者たちは、天の会議の審議を見ていただけでなく、実際に参加した。

cf. 1 Kings 22:19-22

預言者の意見を聞くことなしに、主は何もなさらなかった(アモス3:7)。

つまり、聖書預言者の特徴的な務めは、執り成しと仲介だった。

cf. Ex. 32:7-14; Amos 7:1-6

預言者は主の友であり、主は彼らと率直に語り合った。

Gen. 18:17; Ex. 33:11; 2 Chron. 20:7; Isa. 41:8; John 15:15

イザヤ41:8
しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。 

十分に贖われている人のイメージとして、預言者は神の栄光を共有し、国々の統治を実践した(エレミア6:5-8)。

彼らは道徳的に変えられ(イザヤ6:5-8)、肉体的にも変えられた(出エジプト記34:29)。

出エジプト記34:29
それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。 

つまり、預言者は天の天使たちとよく似ていて、angel(ヘブル語malak、ギリシャ語angelos)ということばが、聖書的預言者を表現していたことは驚くには当たらない。

cf. 2 Chron. 36:15-16; Hag. 1:13; Mai. 3:1; Matt. 11:10; 24:31; Luke 7:24;9:52

ハガイ1:13
そのとき、主の使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。・・主の御告げ。・・」 

マタイ11:10
この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。 

 

 

 


#15 The Days of Vengeance, NO.15

2024年05月29日 | 報復の日々

p80~
St.John's Commission
King of Kings 
Part One: The Son of Man
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録1:17—20

20節

7つの星と7つの金の燭台の秘儀について、イエスはヨハネに説明する。

この7という数字はコード番号ではない。これは重要。

聖書的抽象表現の場合、お互いの関係において物事を配置する。

星と燭台という表現は定義ではなく、天使と教会を別の観点から説明した言い方。

それは何か隠されているようなものであり、一連の手がかりに従って最終的にあることを発見するというようなものではない。

単に、知っているか、知らないかだけの真理。

その人に啓示されているかどうかによる。

ここでイエスが言っていることは、「お互いに関係することが2つある。お互い異なる点はあるが、等しく現実である。」

言い換えるなら、実際に存在するものによって抽象的ことばを理解するのではなくて、等しく実際的なものの2つのことばは単純に交換可能であると述べることによって理解する。

(注)やや難解な個所
星⇔天使、燭台⇔教会、という相互に関連する2つのことばは実際に存在するが、片や抽象表現であり、クリスチャンなら何を言い表しているか分かる。

ヨハネは、燭台の意味を理解できないこと(つまりノンクリスチャン)に関心はない。

燭台が教会と理解できる人たち(すなわち、私たちクリスチャン)にのみ関心がある。

燭台に関する事々、すなわち花嫁、町、教会、24人の長老、144,000人、無数の人たちに関心があり、これらの意味合いを聖書の他の箇所から知っていることが前提となる。

お互いに関連するこれらのことは、同じことの別表現。

7つの星は、7つの教会の天使たちに対応する。

天使と星は、聖書においてしばしば連結している。

cf: Jud. 5:20; Job 38:7;Isa. 14:13; Jude 13; Rev. 8:10-12; 9:1; 12:4

ヨブ38:7
そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。

ユダ1:13
自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。

黙示録8:10-12
第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。 
この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。 
第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。  

ここで、教会の天使たちは、スバル(プレアデス)座(星団)と関連している。

すでに承知と思うが、天使たちと星々は、統治と規則と関連する。

cf: Gen. 37:9; Jud. 5:20; Dan. 8:9-11; 10:13, 20-21

創世記37:9
ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」と言った。 

ダニエル8:9-11
そのうちの一本の角から、また一本の小さな角が芽を出して、南と、東と、麗しい国とに向かって、非常に大きくなっていった。 
それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじり、 
軍勢の長にまでのし上がった。それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。 

2-3章で、7つの教会に対して語りかける場面にいて、主イエスは各教会の天使たちに向けて話していることは明らか。

それぞれの教会の生活や管理について、教会の天使たちに責任があるとキリストとは考えている。

そして、預言の後半において、私たちは7人の天使が反逆的な地上に裁きを降り注ぐのを見る。

cf. Rev. 8-9, 16

これらは皆同じもの。

7つの星々と復活と支配の星団は天使たちのことであり、教会の統治に対応する。

 

 


#64 基礎教理 Parable of Lazarus and the Rich Man, NO.1

2024年05月28日 | 基礎教理

Parable of Lazarus and the Rich Man: The Parables of Jesus with R.C. Sproul

最初から6分11秒まで。

◇◇

最後のセッションで、金持ちで愚か者の例えを見たいと思います。

富に信頼を置くことが如何に危険であるか。

富に憑りつかれることが如何に危険であるか。

この点に関して、あまり深刻ではない例を取り上げたいと思います。

よって、このセッションで、地獄を取り扱っている例えについて話そうと思います。

富んでいる人とラザロの例え、あるいは、単純に、金持ちとラザロの例えと呼ばれる例えをお読みします。

ここで、富んでいる人(ダイブス、Dives)とは、実際には適切な人ではないという意味です。

ラザロと言う名の男がいて、ダイブスという名の男がいる。

ダイブスとは、ラテン語では「金持ち」という意味ですが、この例えにおいて、この男の名前は分かりません。

ちょっと時間を取って、イエスが与えたこの例えを見ていきましょう。

ルカの福音書16章19節から。

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」 

非常に恐ろしい例えです。

重大な対比にフォーカスが当てられた例えです。

この例えの特徴は、ダイブスと呼ばれる金持ちとラザロという名の乞食。

金持ちの男は、大変贅沢な形振りとして描かれています。

紫色できめ細かい亜麻布でできた、王家のような衣を着ている。

一年に一度とか、1月に一度とか贅沢な生活をしているのではない、毎日のように贅沢に暮らしている。

この男とは対照的に、ラザロという名の乞食がいた。

彼は、不治の皮膚病を患っていて、爛れが彼の体を覆っていた。

その金持ちの家の門まで、自分で動くことさえできず、そこまで誰かに、例えば友人に担いでもらう必要があった。

門のところで彼は横にされ、金持ちのテーブルからこぼれ落ちたパンくずで養ってもらおうと思っていた。

彼は残飯の残りで生活することに満足していた。

金持ちの贅沢な食卓から放られた残り物だ。

さらに、犬がやって来て、皮膚の爛れをなめた。

さて、思い出して欲しい。

イスラエルやパレスチナでは、犬は人間の親友ではありませんでした。

犬は家で飼うペットではなかった。

基本的に野生であって、ゴミをあさる極悪な動物と見なされていた。

 

 

 


#14 The Days of Vengeance, NO.14

2024年05月26日 | 報復の日々

p79~
St. John's Commission
King of Kings 
Part One: The Son of Man
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録1:17—20


ここで、プレテリズム的解釈によって黙示録を理解しようとする人たちに共通する間違いについて考察しておきたい。

ヨハネの抽象的スタイルとアンチ政治家という内容の2面性によって、政治的に過敏なメッセージが抽象表現の使用を生んだと信じる人たちがいる。

彼らは、自分のメッセージをローマ帝国官僚から隠すために、ヨハネは秘密コードで黙示録を書いたと信じている。

ジェームス・カラス(黙示録は、ネロではなく、ドミティアヌスの治世に書かれたと主張)の見解を掲げる。

彼(ヨハネ)は、意図的に偽装されたことばで書いている。彼はローマ人には理解できないイメージに訴えている。字義通りに、あるいは間違いのない方法で書き記すことはできない。自分の心の中にあることを明瞭に話すこともできなければ、不明瞭に話すこともできない。自分が思っていること、すなわちドミティアヌスは悪魔という冒涜の申し子であると書けばどうなるだろうか。人をかしずかせ、カエサルを礼拝するように要求するローマ帝国は、イエスから人々を獲得せんとする悪魔の悪行組織であると叫んだとしたらどういなるだろうか。その手紙は決して届けられることはないし、決して検閲を通過することはなかっただろう。
かくして、ヨハネは、自分の真意をカモフラージュしたり、隠蔽する必要があった。ローマ帝国検閲官が単なる狂った老人の思い耽りと見なすように、ヨハネは非字義的抽象表現に訴えたり、一見意味のない文献であるかのようにぼやかす必要があった。

ローマ人が正しく解読できないと思われるコードによって表された、13章18節にある666という数字が、ネロに関連しているというのはある意味において正しい。

しかしながら、そのような関連性がないとしても、黙示録は反逆的な文書であると言わざるを得ない。

イエスは地上の王たちの支配者であるという主張は、ローマ帝国の自治性に対する侮辱である。

黙示録第1章は起訴できるような内容であり、そこに書かれている抽象表現は、微塵も事実を不明瞭化してはいない。

啓示とは預言であり、抽象表現とは預言のための言語である。

ローマ政府はヨハネが誰であるかを熟知していた。

彼は単なる狂った老人ではなかった。

彼は、神のことばとイエスの証言に関して、帝国の禁止命令下にあった、主イエスキリストの使途である。