☞ Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)
54分52秒から最後まで。
◇◇
ありがたいことに、私の妻は私がどんな人か良く知っています。
しかし、そのことを私と張り合う手段として使ったことはありません。
クリスチャンライフの重要性を良く知っているからです。
靴下が見つからなくでいらいらしている時をわきまえています。
如何にイエス様と違うか想像できるでしょう。
グレイの靴下が見つからないという大きな試練に苦しんでいるからです(笑い)。
しかし、「それでメッセージできるの?見つからなくていらいらしてるでしょ」と彼女は言いません。
証明済みであるけれども、彼女は正直な男と結婚したと思っているはずです。
キリストに従いたいと思っている男と。
しかし、事は単純です。
私もただの男です。
分かりますね。
私が説教することもありますが、神がそれをなさるのです。
「どうしたのかしら。彼はどうなっちゃたのよ」と人々は思うでしょう。
彼はどうなっちゃたのかしら、と。
人々は驚くに違いない。
私がこの学校で説教していた時のこと、リバイバルが起こりました。
リバイバルと大騒動が同時に起きました。
学校の半数は大いに満足し、半分は私を殺そうとしました。
学生たちは「ポール兄弟、あなたは自分の栄光に浴するために、ペルーに行くと言うのですか」と聞きました。
「その通りです。」
「神のしもべから学ぶために、私はペルーに行きます。」
私が使徒パウロであるかのように思いながら、彼らは飛行機から下りました。
2が月後、私の救いを祈りながら、彼らはあの飛行機に乗り込んできました。
私は聖を真剣に捉えています。
あなたが「どうでもよい」と考えるような人ではありません。
あなたがどのような人で、あなたがたの牧師がどのような人であるかを教えたいのです。
彼らは誠実な人たちであると信じます。
私の家で2日間彼らと過ごしたことがあります。
彼らの誠実さや願いを知っていますが、私は靴下を見つけることができないただの人です。
分かって欲しいと思います。
神によって祝福されつつ用いられて欲しいからです。
自分はある程度の霊的段階に達していて、実際神はあなたがたを用い始めているとあなたがたの多くは思っているはずです。
もしそうなら、その段階がどのようなものか私は分からないし、私はそうは思いません。
私の伯父が宣教に携わっていた頃、私にこう言いました。
それは、私が学んだことのある中で、最も偉大なことのひとつでした。
彼はこう言いました。
「ポールよ。神のために何かができる人は大変少ない。何故かというと、中へと切り込んでいく、あるいは、出て行って事を成すために、ある段階や完璧な状況にあるまで待っているからだよ」と。
彼は「今出て行って事を成せ」と言いました。
さて、これで終わりにして、今夜再度取り上げようと思います。
もうひとつ言っておきましょう。
誠実なクリスチャンがこのことを十分に理解するならば、これは大変役に立つということも真実です。
弱さはクリスチャンライフにおいて障害ではありません。
それは刺激剤です。
問題は、クリスチャンが弱いということではない。
自分は弱くないと思っていることが問題なのです。
自分がどれくらい弱いと思っているのか教えてあげましょう。
では、テストします。
この1週間、聖書にどれ位の時間を費やしましたか。
祈りにどれ位の時間を使いましたか。
「ごくわずかの時間」と答えた人は、自分が弱いと思ってはいません。
祈りやみことばを通して、キリストに頼ろうとしていますか。
そうでない人は、偽の謙遜をもって私のところに来ないでください。
聖書で叩きます。
自分が如何に弱い存在なのか分かっていないのです。
どのようにしたら弱さの聖書的意味を理解できるでしょうか。
朝起きて目を開ける。
そして、我思う。
「恵みを乞い願い、祈りの中で神の御名を呼び求めるまで、右へも左へも一寸も動きはしません。」
「主よ。寝室の床に降り立つまでの間でさえ罪を犯すかもしれません。」
「あなたの恵みがなければ。」
「ここから床へと転げ落ちるかもしれません。」
「あなたの恵みがなければ。」
「嗚呼、神よ。あなたが必要です。」
「それがすべてです。」
「われらを試みに合わせないでください。」
「主よ。これは恵みのお願いです。」
「恵みがなければ、落ちてしまいます。」
「私には力がありません。」
しかし、次のように言う人がいるかもしれません。
「ポール兄弟。私たちには恵みがあるじゃないか」と。
確かにありますが、さらなる恵みを願ってもよいのではないでしょうか。
弱さという点から、またクリスチャンライフの無力性という点から、私たちはさらなるさらなるさらなる恵みを求めてもよいではないか。
弱さを知れば知るほど、その人の悲壮感は大きくなり、キリストへと走り、すがるようになります。
すると、その人はより強くより大きくなります。
分かりますか。
これは基本中の基本です。
私は、無駄となるような試練や弟子訓練、神命は好みません。
それは、あなたがキリストへと走り寄り、力を求めるために用意されています。
悪魔は嘘つきであり、殺人者です。
嘘をつきながら人を殺します。
失敗した瞬間、次のように言ってきます。
「お前は昨日も罪を犯し、罪の中で失敗しているではないか」と。
「昨日罪を犯したじゃないか。」
罪が、あなたの人生において取りついているように見えます。
つまり、あなたはその罪を犯しているのです。
そして、次のような思いが脳裏をよぎります。
「罪の赦しを求めて、キリストのもとに走り寄るなら、キリストへと走りすがりつくなら、私は偽善者ではないのだろうか」と。
昨日悔い改めたが、同じことを繰り返している。
つまり、実は私は悔い改めてはいなかった。
2日前に冒した罪を昨日悔い改めた。
それじゃ、私はただの偽善者ではないか。
その時、声がします、「ああそうだ、お前は偽善者であり、偽善そのものだ。」
「キリストのところへは行くな。彼はお前が欲しくない。これを取れ。ペナルティボックスに行くがよい。」
これが地獄からやって来る嘘。
本当の悔い改めは、その罪を捨て去るはずです。
しかし、真の悔い改めのしるしとは、罪のない完璧なものではありません。
「私はその罪を捨てた。その罪を憎んでいる。」
私が犯したその重大な罪が何たるかを知りたい。
私がもがいているもの、それは不信仰と心配。
不信仰と心配。
極めて些細なことで、不安になり心配している自分を見出す。
そして、それは罪と分かる。
神は、常に大きな問題から私たちを救い出してくれています。
しかし、悩む。
それを悔いて、憎み、捨てる。
神が救い出してくれます。
その時、別の状況が生まれます。
神が私を如何に救ったかという過去のことから学ぼうとせず、極めて些細なことにくよくよ悩んでいる自分を見出す。
悔い改めなかったのか。
いいえ、悔い改めた。
この手続きは進行中。
そして、徐々に徐々に、さらなる大勝利を実感し始めます。
私が体験したこととはこうです。
「この罪を犯したのは100回目だ。神のところへ戻る必要はない。大した罪ではない。」
悪魔はあなたにそう信じこませるでしょう。
しかし、弱さを自覚するその度毎に、神の下へとくり返し走るべきです。
それが主イエスのことばです。
そのようにイエスは宣べなかったでしょうか。
ペテロは、「何度まで兄弟を赦すべきでしょうか」と主に問いました。
「7回までとは言いません。 7回を70倍するまでです」と主はお答えになりました。
主は回数を言わずに、際限なく赦すべきだと言いました。
主はご自分が宣べたことを実践しないでしょうか。
罪に対して無頓着で、何も気にしない、地獄から脱出するチケットとしてイエスを利用するような人のことを言っているのではありません。
誠実なクリスチャンで、罪と格闘しているあなたのことを言っているのです。
その格闘の最中で、主の下にはもどれないと思い続けているのではないか。
何かおかしい。
この祝福はこの事から自分を解放してくれないじゃないか。
極めて困難であるけれども行わなければならないことを知っているはずです。
書き記して欲しい。
極めて困難であるが、クリスチャンライフにおいて行わなければならないこととは何か。
最も険しい山であるが、登らなければならない山とは何か。
極めて困難ではあるが、成し遂げなければならないこととは何でしょうか。
それはこれです。
神ご自身が言っているまさにその通りに、神はあなたを愛して下さっているということを信じること。
何と素敵な山登りではないですか。
改心していない教会員の方々もこれを聞いて前進して下さい。
素晴らしい祝福が満ち溢れています。
一方、新生したクリスチャン、真のクリスチャン諸君たちも前進して欲しい。
もしそうなら、愛がそれほどに無条件であるあるなら、祝福がそれほどに無償であるなら、あらゆる苦境の際に主に走り寄るなら、何度それを繰り返そうとも、主の下へと立ち返るのであれば、主は両手を広げて、あなたがを迎え入れて下さいます。
そして、すべての罪を赦し、すべての不義からあなたを清めて下さいます。
聖であるとを慕います。
身を捧げることを切に願います。
お祈りしましょう。
父よ、みことばに感謝します。
主よ、あなたのことばを信じ、あなたの約束を信じることができますように。
主よ、告白します。
疑う理由を与えられたからではなく、あなたのような人が一人もいないからです。
あなたのような手本は他にありません。
あなたのような愛以外、あなたの下さる祝福以外、他の何物もありません。
時に、主よ、あなたが下さった約束があまりにも素晴らしすぎて、信じられないことがあります。
私たちには素晴らしすぎるのです。
主よ、信じられる者として下さい。
信じることによって、あなたを賛美できる者として下さい。
イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン。