みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#26 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2024年07月15日 | 創世記

第1章
キリスト教神学

p32~
Chapter 1
Christian Theology 
Part One 
The Structure of My Thought  
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

言葉で言い表すことのできない神のご性質は、神の超越性を強調する。

言葉で言い表すことのできる神のご性質は、神の内在性を強調する。

これら2つは、お互いの意味を暗示する。

超越性に関するキリスト教観念と内在性に関するキリスト教観念は調和する。

クリスチャンとして、神の超越性と内在性の両者を信じると言ったとしても、それは一神教の十分な説明にはなっていない。

多神教徒は、神の内在性のみを信じており、理神論者は神の超越性のみを信じている。

われわれクリスチャンが信ずる超越性とは、理神論者が信じる超越性ではない。

われわれクリスチャンの信ずる内在性とは、多神教徒が信じる内在性ではない。

理神論の場合、超越性とは実質的に分離を意味する。

一方、多神教の場合、内在性とは実質的に同一性を意味する。

分離に同一性を加えるなら、結果として、一神教は存在しなくなる。

われわれクリスチャンが一神教としての神について言う時、それはある特定の神を意味する。

同様に、われわれクリスチャンがある種の超越性とある種の内在性について言う時、それはある特定の超越性と内在性を意味する。

神に関する教理は、創造された宇宙と神の関係について明確な概念を含む。

つまり、神に関する教理は、創造された宇宙にある万物の明確な概念を含む。

***

神の超越性と内住性に関する定義が説かれている。


 


#73 基礎教理 Do You Bear Fruit? NO.7

2024年07月15日 | 創世記

Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)

45分16秒から54分52秒まで。

◇◇

キリストは、くり返しくり返し、ひとつの偉大なる真理を私たちに思い起こすように求めています。

キリストから離れて、私たちは何もできない。

キリストに依存して、私たちは何でもできる。

キリストにとって、困難なことは何もない。

難しいことは何もない。

福音宣教をする時言うことがあります。

「一人の人と聖書を与えて下さい。そうすれば、私は膝を屈めて、この国を得るだろう。」

以上の理由から、山上の垂訓は、霊の貧困から始まります。

「霊において貧しい者は幸いです。」

以上の理由から、私たちの弱さを私たちに指し示すために、神の摂理は絶えず働いておられます。

これが、あらゆる試練、あらゆる艱難の理由です。

分かりますか。

あらゆる試練、あらゆる艱難、人生におけるあらゆる逆風は、あなたの無能性、あなたの弱さを、あなたに指し示すためにあるのです。

そして、神の懐に戻るようにとあなたを駆り立てます。

さあ、ご一緒に見ていきましょう。

ヨハネは置いておいて、第2コリント4章7節を開いて下さい。

私たちは、この宝を土の器の中に持っている。というのは、この測り知れない力が神から出たものであって、私たちから出たものでないからである。 

パウロが使っていることばに注意しましょう。

自分の人生や宣教活動において、パウロは計り知れない力を認めています。

しかし、同時に、その力が神からのものであって、自分自身からのものではないことも認めています。

ここで、間違わないようにして下さい。

パウロが言っているのはこういうこと、つまり「私の内で激しく働く力。」

それ故、聖霊の選びのもとで、恵みの領域において前進することができるのです。

そして、行ないがなされる時、その者の肉体は、文字通り征服されます。

それ故、多くの人たちは言っているように、私もイアン・マーレ―を信じます。

彼を間違って引用をしたくはありませんが、それが真のリバイバルが継続してはいない理由です。

それは次から次へと続いてはいません。

何故なら、人間の体も精神もそれに耐えることができないからです。

確かにそうであり、疲弊してしまうでしょう。

数分間の神の臨在、それがどのようなものか分かりますか。

それは、EF5級の竜巻からわずかに1m離れてひざまずいているようなもの。

パウロは言います、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」

パウロの言っていることが分かりますか。

全てのことは神のみ旨の働きであり、パウロ自身の中には何一つ希望を与えないようにご計画されているということ。

再度パウロの知性について、聖書研究者たちを論駁しようと思う。

これは本当に馬鹿げたことです。

使徒パウロが自分の知性について話している箇所が1カ所でもあるだろうか。

ありません。

それでいながら、何故私たちは、パウロの偉大な業績をパウロの知性によると考えるのでしょうか。

パウロが言っていることとは次のようなことです。

パウロが求めていたことは神の事々を無視しようとしていたのではありません。

自身の知的努力から自身を解放しようとしていたのです。

パウロは、自分のことばで話すよりもはるかに善いことを話すことができました。

人の確信は自分の知力にあるのではなく、神の力にあるという仕方において、パウロは語りました。

第2コリント12:10を見てみましょう。

第2コリント12:10
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。  
(直訳)私は弱さに十分満足している。

ここで、質問です。

あなたがたは弱さに十分満足していますか。

これは、私がもがいていることでもあります。

あなたがたは苦慮なくこの箇所を読み過ごすことができるでしょう。

何故なら、あなたがたはここに書かれていることが分かっていないからです。

多くの人たちは怒り、また苦々しく思うに違いありません。

何故なら、そういう人たちは自己中心的であり、予期せぬことであるからです。

人々はそんなふうに生きたいし、そうならないと怒るのです。

弱さに満足すること、あなたがたの体における弱点、問題、試練、苦悩に満足すること。

そのようなことに満足すること、恥辱、苦難、迫害、艱難に満足すること。

キリストのために。

しかし、何故パウロは満足できるのか。

「私が弱い時、私は強いから」とパウロは言います。

パウロは、「自分が強くなるように自分を弱くしてくれる武具があり、それらの武具は祈祷会の主題から外すべきである」と言っているのです。

大抵の祈祷会では、そのような主題は避けるべきです。

あるいは、そのようなことが行われているとすれば、直ちに止めるべきです。

何かを学んだがゆえに、「それらの只中にいて、私は満足している」とパウロは言っているのです。

すべての希望が途絶えた時、主イエスキリストへと向かい、主の力を引き出し、そして真に真に強くなるのです。

そうではないですか。

神の御用に使われたいと願う時(私はこれをギデオンの召しと呼んでいます)、ギデオンの召しという神の手順を踏んでいく必要があります。

ギデオンの召しとは何でしょうか。

「ギデオンよ、あなたはミディアン人から私たちを救い出そうとしている。」

ギデオンが選んだ人たちを見てみましょう。

ある男が、ぶどう畑に隠れていることを恐れる。

神は「ギデオンよ、軍を徴集せよ」という。

ギデオンは兵を募るが、神はギデオンを止める。

問題があった。軍が大きすぎた。

あなたは、自分の問題は何と言いますか。

「私にはこれはできません」と言う。

何故そう言うのか。

「私はあまりにも取るに足らなさ過ぎる」「私には才能がない」「これがない」「私には知恵がない」「私には・・がない」「私には・・がない」

神はこれらを利点と見ています。

神はギデオンに言います、「この軍隊を選りすぐる必要がある。」

何故こう言ったのでしょうか。

率いる軍隊の大きさは問題ではない。

ミディアン人を打ち破ることはできない。

何か事を行なう時、何かに信頼を置くのは望ましくはない。

何がひどかったのでしょうか。

神から出たことだと人々が考えるあらゆる可能なことを神が行ない、ギデオンはそれとは何ら関係がないとしても。人々はギデオンを神に仕立て上げようとします。

私たちも同じことをするのです。

そこにあるのは、神の力のみであります。

私が望もうと望むまいと、あなたがたはみな私の家に来るでしょう。

私のファミリーに会うために。

私の家族についていろいろと知りたいと思っているから。

しかし、それはあなたがたが知るであろうことではない。

私の妻はまじめなクリスチャンだと思う。

私たちな偽善者ではないと思う。

私たちはキリストに栄光を与えたいと思う。

その通りです。

私たちはそれぞれ家庭に決まり事を持っています。

私たちは子供たちを教えます。

このようなことを皆実行しています。

自分の家族に不従順であろうなどとは思いません。

しかし、最も注目すべきことは、私たちの抱える問題は共通しているということです。

あなたがたを悩ませていることは私たちを悩ませます。

あなたがたの問題は私たちの問題でもあります。

あなたがたは信仰生活ができないと言っているのではありません。

否、できます。

私たちは信仰生活を送ることはできるし、クリスチャン家庭を持つこともできます。

あなたがたに分かって欲しいことは、私たちは平凡な人々であるということです。

私たちはみな同じ問題を抱えています。

とるに足りないことをあれこれ議論します。

私たちはただの人です。

しかし、神の力は私たちの弱さを通して働きます。

 

 

 


#30 The Days of Vengeance, NO.30

2024年07月13日 | 報復の日々

p96~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇


エペソの生活において、このイメージの土台の一部として、ヨハネは潮流の動きを重要視していたようである。

ケイスター川から流されてくる堆積物によって、海岸線は絶えず変化していた。

そして、砂や砂利が徐々に港に堆積して、沼地へと変えられていった。

町はその場所から移動させられ、海から切り離されていった。

2世紀前、大規模計画によって、多くに努力、忍耐そして困難を代償に港は浚渫された。

しかし、1世紀半ば、港は再び泥土によって満ちた。

港として、エペソが影響力を維持するつもりであれば、市民は自分たちの怠慢を悔い改めて、再度最初の業務を行なうべきであることは明らかだった。

紀元64年に、ついに町は港を浚渫する工事を始めた。

その後しばらく、エペソはその場所に留まることができた。

しかし、長年に渡る沈泥が妨げられることなく進み、今やエペソの町の廃墟は、海から6マイル離れたところにある。

かつてエペソの港だったところは、今は草が生い茂る吹きさらしの平原となっている。

愛への回帰は、神学的基準を減ずることを意味しない。

ある意味で、それは神学的基準そのものの強化を意味する。

キリストとその民に対する真の愛は、悪に対する憎悪を要求する。

主はこのことを堅持するように命ずる。

「しかし、このことを行ないなさい。あなたがたがニコライ派の人々の行ないを嫌っているように、私も嫌っている。」

2世紀の司祭、聖エイレナイオスによると、ニコライ派とは、使徒らによって最初に執事の一人に任命されたニコラオの信奉者たちのこと(Acts 6:5)。

使徒6:5
Act 6:5  この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、 

彼らは、抑制のきかない耽溺の生活を送っていた。

彼らの教えとは、姦通を行なったり、偶像に捧げた物を食べることに無頓着というものだった。

聖エイレナイオスが正しいとすると、彼の見解には議論の余地がある。

執事ニコラオ(ギリシャ語ではニコラオス)は信仰を捨て、他の人々を異端の道へと誘い込み、異教徒と妥協することを求める「偽使徒」と成り果てていた。

 

 


#29 The Days of Vengeance, NO.29

2024年07月12日 | 報復の日々

p96~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

花嫁の霊的無力感に対するキリストの解毒剤は、そのような態度を変える勧めなどではない。

始めの頃の典型的な花婿とのロマンスを実行するように主は命じる。

悔い改めは栄養となり、悔い改めの態度を養うだろう。

しかしながら、悔い改めない場合には、キリストは次のように警告する。

これらの手紙において、3回以上発せられた警告(2:16; 3:3, 11)。

黙示録
Rev 2:16  だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 


Rev 3:3  だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

以前に見たように(1:7)、キリストの来臨は、歴史の終わりの大変動と関係があるのではなく、(その時々の)歴史上の来臨と関係がある。

主はすぐに来る-とは、黙示録において7回出現することによって強調されていることば (2:5, 16; 3:11; 11:14;22:7, 12, 20)。

主の再臨によって、エペソにある教会を脅しているわけではない。

あの者たちと対峙するために来る、と主は言っている。

その場所から、あなたがたの燭台を取り除くであろう、と主は言う。

あの者たちの影響力は取り除かれるであろう。

実際、あの者たちは集うことを止めるであろう。

愛の欠落ゆえに、群れ全体が破門の危機にある。

教会の長老たちが弟子訓練に失敗し、正統派の教えに失敗するだけでなく、愛を目指すことに失敗するなら、イエスご自身が介入し、裁きを下すであろう。

こうなったら、もはや悔い改めるには遅すぎる。

 

 


 


#28 The Days of Vengeance, NO.28

2024年07月10日 | 報復の日々

p95~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

耳に痛いことが宣べられている・・。

◇◇

4-6節。

Rev 2:4  しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 
Rev 2:5  それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 
Rev 2:6  しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。 

◇◇

しかし、主は教会の天使を諫める。

あなたと対峙すべきことがある。

あなたは、最初の愛から離れてしまった。

健全な教えに対する教会の願望が、キリストにある兄弟たちに対する頑強な姿勢へと逸脱してしまった

つまり、愛を欠落してしまった。

正統に対する熱心な関心それ自体が、そのまま愛の欠落を意味するものではないということは重要ではある。

兄弟たちに対して頑強になるというのは、正統派という名の倒錯である。

エペソのクリスチャンはあまりにも正統派すぎると、主キリストは批判しているのではなく、最初にあった愛を離れ、捨ててしまったと言っている。

教理vs愛という疑問は、聖書的に言って、問題とはならない。

事実、神がつなぎ合わせたものをばらばらにしようと目論むことが、特に未信仰者における問題である。

クリスチャンは正統であることと愛することの両者を要求され、そのいずれかの欠落は結局のところ神の裁きを招く。

それ故、あなたが落ち込んでしまったところから思い起こしなさい。

エペソ教会のクリスチャンはかつて、愛と正統派教理という調和の取れた組み合わせを有していた。

しかし、キリストは彼らに、悔い改めて、行ないについての考えを切り替え、最初に行なっていた行ないをするように命じた。

愛とは、心の問題でも態度の問題でもない。

愛とは、神の法「私たちが神を愛し、神の命令を守る時、これによって、私たちは神の子どもたちを愛するということを知る」を履行すること。

神の命令を守ることが、神を愛するということ。

神の命令は負担にならない (1 John 5:2-3; cf. Rem. 13:8-10)。

第1ヨハネ5:2-3
1Jn 5:2  私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。 
1Jn 5:3  神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

ローマ13:8-10
Rom 13:8  だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。 
Rom 13:9  「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。 
Rom 13:10  愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。 

 

 

 


#27 The Days of Vengeance, NO.27

2024年07月09日 | 創世記

p94~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

2-3節。

エペソにある教会は、 信仰のための労苦と激務、そして対立や背教に対する忍耐で有名だった。

そして、キリストの御名ゆえに、艱難に堪え忍んでいた。

妥協ということばをを知らない、犠牲を何とも思わず正統派を喜んで堅持する教会であった。

教会宛てのパウロの全書簡の中で、エペソ人への手紙だけが使徒による修正を必要とする宗教的問題に一言も言及していない。

教会の指導者たちは、悪人を弟子化することは考えていなかった。

彼らは、異端裁判や破門の重要性を熟知していた。

そして、この両者の点に関して十分な基準を持っていたようである。

教会指導者たちは偽預言者たちを取り調べて、有罪判決を下していた。

教会年長者たちは、パウロによって与えられた奨励をしっかり心に留めていた(Acts 20:28-31)。

使途20:28-31
Act 20:28  あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。 
Act 20:29  私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。 
Act 20:30  あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。 
Act 20:31  ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。 

40年後も、この教会は正統派教会として名声を博していた。

聖イグナチオ(紀元107年に殉教)も、自身が書いたエペソ教会への手紙の中で次のように記している。

「真理に従って生きているあなたがたへ。いかなる異端もあなたがたの間に巣食うことはありません。もしも、真理に関してイエスキリスト以外の何かを言う者があれば、その者の言うことは聞く価値はありません。邪悪な教えをあなたがたにばらまこうとしている人たちがいることは、私も承知しています。彼らによって蒔かれた種を受けないように、あなたがたは耳を塞いできました。イエスキリストの命令によって、頭の先から足の先まで整えられているからです。」

これらの節にはいくつかの驚くべき相似性がある。

この教会に、キリストは、「私は、あなたがたの弱み、忍耐を知っている。そして、邪悪な者たちに我慢ができないことも知っている。しかし、私のために耐え難きを耐えてきた。そして弱り果ててもいない」と語り伝える。

 

 

 


#73 基礎教理 Do You Bear Fruit? NO.6 

2024年07月07日 | 創世記

Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)

35分20秒から45分16秒まで。

◇◇

修正:

悪魔が弱さの中へと入り込んできて、あなたは嘘を付きます。

→悪魔が弱さの中へと入り込んできて、あなたに嘘を付きます。

◇◇

生まれつきの才能や賜物だけで、チャールズ・スポルジョンを説明することはできない。

スポルジョンの頭脳が問題なのではない。

彼の心の広さからでもない。

彼の中に宿るキリスト。

分かりますか。

ひとつ例を挙げます。

聖書の登場人物について。

わたしが聖書の登場人物を言った瞬間に、その人物のイメージを描いて下さい。

神ではありません、聖書的に考えて下さい。

その人物の名前を聞いた瞬間に、あなたの心に浮かんだ人物のイメージを描いて下さい。

サムソン。

あなたにとって、彼はどのように映るでしょうか。

ユダヤ人版アーノルド・シュワルツェネッガーみたいな。

私はパレスチナに言ったことがあります。

サムソンの筋肉がどれほどすごかったかはさだかではありませんが、町の門を引き裂いて彼の背中に投げつけ、その残骸を丘の上まで運び、そこから投げ下ろすことのできる男はこの地上にはいません。

ろばのあごの骨を取ったり、千人のパレスチナ人をむち打つことのできる男はいません。

私が言いたいこととは何でしょうか。

私たちが思うこととは、いつも肉のことです。

私たちが思うことは、いつも才能のことです。

私たちはいつもこんな風に考えます。

彼らがデリラの所へ来たのは何故でしょうか。

「あなたに助けて欲しい、デリラ。あの男の力は何処から来ているのか検討もつかない。」

「ハルクのように筋肉隆々なら、彼の力の源を理解するのは簡単だ。」

「あの男は、ふつうの男と大差ないではないか。」

「痩せてはいるが、丈夫なだけだ。」

「あの男の力は何処から来るのだろう。」

「あの町の門を引き裂くことのできるの神の霊だけだ。」

「ロバのあごの骨で千人もの男を殺すことができるのは神の霊だけだ。」

言っていることが分かりますか。

私たちが考えることはいつも肉のことだけ。

「彼は才能があり、雄弁だ。」

「彼はこうだ、彼の頭はよく働く。」

これは、聖書に書いていることと相反するのではないでしょうか。

神の霊が働いているのです。

だから、神は、嘘つきを真理を話す者に変えるのです。

臆病者を勇者に変えるのです。

その力が人からではないことを万人が知るためです。

死人に命を与えるのは神です。

ないものにあれと命ずるのも神です。

これほど素晴らしいことがあるでしょうか。

これは本当の感覚です。

キリストが内住しているならば、神のみ旨の範疇において私に不可能なことは何もないことを私は確信しています。

話を戻しましょう。

改革派運動にいて、ポジティブなことについてもっと多くのことを話す必要があります。

神の約束、神の御力、相続人として私たちに与えられた万事についてもっと多くのことを話す必要があります。

さて、キリストから離れて、私たちは何もできません。

私たちが行うように命ぜられていることを見る時、このことがはっきりします。

このことは大変重要と思うので、あなたがたもこのことについてよく考えて欲しい。

これから言うことは極めて重要です。

クリスチャンライフが何であるかを理解し始めると、クリスチャンライフの不可能性がますます明らかとなってきます。

一例を挙げてみます。

自分の力で、山上の垂訓を実践できる人は、どれ位いますか。

このことをあなたがたに考えてもらおうと思います。

ご主人にお伺いします、奥さんに対して、第1コリント13章を実践している人はどれ位いますか。

エペソ5章は如何でしょうか。

分かりました。皆さん、意見は同じということです。

新約聖書の最も単純な命令さえ守ることができないということ。

ここに問題があるのです。

改心を理解しているが故に、自分の不甲斐なさを理解しているが故に、多くの人たちはこのことを認識しています。

しかし、ご覧の通りです、どうなっているのでしょうか。

人々はただ体を丸めて、「とてもできません」と言います。

新約聖書は私たちに何をするように命じていますか。

不可能であることを認識して、力を求めてキリストのもとへと走ることです。

弱さゆえに、私たちはイエスキリストの下へと駆り立てられるはずです。

分かりますか。

悪魔が弱さの中へと入り込んできて、あなたに嘘を付きます。

あなたの弱さと罪は、あなたをキリストから引き剥がし、あなたを隅へと追いやるでしょうと悪魔は囁きます。

人生における、あらゆる罪、あらゆる弱さ、あらゆる失敗について、あなたがそれを認めても、直ちにふさぎ込むのを止めなさい、嘘を信じてはいけない。

その罪、その弱さを認めたなら、直ちにキリストのもとへ逃げ込みなさい。

そうするために、あなたはキリストを信じているのです。

ちょっと、宣教の話しをしましょう。

昨日探していた例です。

ついに、別の説教に見つめました。

改革派牧師であるリチャード・バクスターによって記載されたメッセージです。

実に面白い。

「あなたの時代はどうだったの」と妻に聞かれたら、これが答えだと言うでしょう。

私たちはこの世を守ろうとしている。

これは私が今しようとしていることです。

私はこの世を守ってきた。

神の怒りからこの世を守ろうとしてきた。

全被造物を完成させるために、私は働いてきた。

キリストの死の終わりに到達するために働いてきた。

自分自身や他人を破滅から救うために、私は働いてきた。

一日中、悪魔と戦い、勝利してきた。

悪魔の王国を一掃してきた。

キリストの王国を樹立せんとしてきた。

人々が栄光の王国へと入城するように尽力してきた。

これは、今私が行なっていることと同じです。

以上が、リチャード・バクスターが記載した宣教についてです。

これが男にできると思いますか。

これが女にできると思いますか。

福音宣教とは何でしょうか。

この世を守り、天の御国を前進させること。

悪魔と戦うこと。

それは可能でしょうか。

否、不可能です。

しかし、聖霊の御力によって可能ですか。

可能です。

私の子どもイアンが、こんなことを聞いてきました。

イアンと一緒に遊ぶこともありました。

私は今と同じ仕事をしていた頃の話しです。

子供たちがかなり若かった頃。

ある日、イアンは私を見て、こう聞きました。

「パパのお仕事は何ですか。」

「飛行機に乗って、いろんな国に行ってるでしょ。帰ってくると、疲れて、具合悪そうにしている。」

「パパのお仕事は何ですか。」

一度で済まそうと、びっしりと詰め込んでいる。

そこで、「イアン、それを言って理解できる年ではないと思う。」

もちろん、あなたがたは何をしていたかお分かり頂けると思います。

ただ息子の興味を引いたようです。

「パパ、お仕事は何。」

「イアン、言っても信じないと思う。」

私の回りをついて来て、「パパ、お仕事は何ですか」とさらに聞いてくる。

「君は、このことをうまくこなすほど強い子だと思う。」

「パパの言うことを信じると約束できるかい。」

「はい」

「パパが何をしているか知りたいんだね。竜と戦っているんだ。」

「ええ、竜と戦って欲しくない。」

「信じるって約束したぞ。パパは竜と戦ってるんだ。」

「本当?大きな醜い頭を持ってる?」

「10の頭があるぞ、息子よ。」

「剣はあるの?」

「ああ、あるよ。」

さて、身を屈めて、子どもとなぞなぞでもしてのではないかとあなたがたは思っているかもしれない。

人々を抑圧し、殺し、奴隷化する竜と、私は闘っている。

私は竜と戦っている。

ちょっとロマンティックと思いますか。

どう思っても構わない、それはあなたがたの問題だから。

肉の目で万事を見ていませんか。

だから、あなたの人生はつまらないのです。

何かワクワクすることはないかとテレビを見ているでしょう。

ロード・オブ・ザ・リングを見て、それで生きていると思う。

死にかけている人々、飢えている子どもたち、あらゆる国の圧政、邪悪な政府、奴隷、束縛、母の胎にいる時に殺されている数千もの胎児たち。

私は竜と戦っている。

このようなことがあなたがたの物の見方を変えます。

私たちはこの宣教活動を達成できるでしょうか。

絶対に無理です。

第4節と5節に、「絶対にできない」とくり返し書いてある。

 

 


#26 The Days of Vengeance, NO.26

2024年07月03日 | 報復の日々

p92~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

エペソにある教会:偽使徒に対する裁き (2:1-7)

1.エペソにある教会の天使に書き送る:右手に7つの星を握るお方、7つの金の燭台の間を歩くお方が次のように言っておられる。

2.私は、あなたの行ない、苦労、忍耐を知っている。悪人たちに忍耐できないことを知っている。そして、使途と自称してはいるがそうではなく、彼らが偽者であることを突き止めたことも知っている。

3.あなたがたは忍耐している。私の名のゆえに艱難に耐えている。疲れ果ててはいない。

4.しかし、あなたがたに対して次のことを言わねばならない。あなたがたは初めの愛から離れてしまった。

5.それ故、落ちてしまったその場所から思い出して欲しい。悔い改めて、最初にしたことを行ないなさい。さもなければ、直ちにあなたがたのところへ行って、その場所からあなたがたの燭台を取り除く。-悔い改めなければ。

6.しかし、このことがあなたがたにはある。私も憎んでいるニコライ派の行ないをあなたがたは憎んでいる。

7.耳ある者は、御霊が教会に言っていることを聞きなさい。勝利する者に、命の木から食べる許可を与える。それは我が神のパラダイスにある。

1節:

エペソの町は、政治においても貿易においても、小アジアにおいて、最も重要な町であった。また、文化の中心地としても重要な町であり、芸術、科学、魔法、偶像礼拝、剣闘、迫害などを誇っていた。

メインストリートは、船着き場から劇場まで走っていた。

その途中、ビジターは、ジム、公衆浴場、公立図書館、公共売春宿などを通った。

アルテミス寺院(多産と野性の女神ダイアナ)は、古代世界の7不思議のひとつだった。

ルカはこの町について興味ある事実を提供している。

ひとつは、7つのメッセージに関連する重要な側面について。

エペソは、オカルトや魔術の温床だった(Acts 19:13-15, 18-19)。

1世紀の世界全土に渡り、背教のユダヤ教は、数多くの無宗教的空理空論や異教の実践業に順応していった。

そして、オカルトの知恵、ラビの教え、神秘宗教、禁欲主義や放銃、キリスト教教理の断片的知識を混ぜ合わせたような思想など、後にグノーシス主義として知られる宗教の初代宗派へと発展していった。

このごちゃ混ぜのインチキ宗教は、疑いもなく、小アジアの教会を苦しめてきた異端のための基本的な産卵場所を提供した。

エペソ内部における多彩な堕落にもかかわらず (cf. Eph. 4:17-19; 5:3-12) 、主イエスキリストは、ご自身の教会をこの地に定めた(使徒19章)。

そして、そのメッセージの中で、ご自分が右手に7つの星を握り、ご自身が定めた支配者たちを擁護・支持していることを、教会の天使に確信させた。

「主は、光と威光によって彼らを満たす」とMatthew Henryは注釈する。

「主は彼らを支えている。そうでなければ、彼らはやがて流れ星のように散っていくであろう。」

加えて、主は燭台の中央、すなわち、教会の中を歩き、彼らを守り、調べ上げ、ご自身との一体を通して、お互いをつなぎ合わせている。

レビ記26:11-12
Lev 26:11  わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。 
Lev 26:12  わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 

 

 

 


#71 基礎教理 Do You Bear Fruit? NO.4 

2024年07月02日 | 基礎教理

Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)

28分8秒から35分20秒まで。

◇◇

さて、話を戻しましょう。

大変重要なことを見ていこうと思います。

最初に、ヨハネ15章4節から6節。

ヨハネ15:4-5 
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 

さて、あることを見ておきたい。

最初に、主は言います、「私はぶどうの木です。」

これは主観的なことばではありません。

何か他のこと、他人や環境に依存してはいないということ。

主は事実を述べているのです。

これはとても重要です。

約束のための事実と捉えて混乱するクリスチャンがいます。

このためにあなたがすべきことではありません。

約束ではない、単なる事実です。

「私はぶどうの木です」とイエスは言います。

このことは、何か他のことによって左右されません。

「私はぶどうの木です」とイエスは言います。

彼はぶどうの木です、その通り。

何が起ころうとも、イエスはぶどうの木なのです。

「それの何が重要なのか」と言うかもしれない。

あなたについて、「あなたは枝です」とイエスは次に言います。

何故このことが重要なのでしょうか。

「本当のクリスチャンとして、枝となるために何かをしなければならない」と主が言っているのではありません。

すでにあなたは枝です。

さて、現代の福音主義は次のように言います。

「基本的にあなたはクリスチャンになることはできるが、その時点で実を結んではいない。より気高い人生を歩みたいのなら、弟子訓練や他のあらゆることを始めなければならない。そうすれば、あなたは実り多い枝となるのだ。」

残念ながら、これは、この箇所で描かれている考え方ではありません。

イエスが言っていることは、「私はぶどうの木である。」

あなたが私の本当の弟子ならば、すなわち、聖霊によってまことに新生され、新創造となっているのならば、あなたはすでにぶどうの木につながっているのです。

あなたは枝です。

であるなら、あなたは必ず実を結びます。

そうなるはずです。

分かりますか。

だから、イエスは言うのです、「実によって見分けることができる」と。

故に、新約聖書に疑問となることはありません。

枝でありながら、実を結ばないということはあり得ない。

疑問の余地はありません。

だから、イエスは言うのです、「ある人は100倍、他の人は60倍、そして別の人は30倍もの実を結ぶ」と。

つまり、この例えで言及されているクリスチャンは、少なくとも30倍もの実を結ぶことになります。

あなたは実を結んでいますか。

あなたは実を結んでいますか。

「私はぶどうの木であり、あなたは枝です。」

あなたは枝であるから、必ずや実を結ぶであろう。

あなたが全く実を結ばないのなら、あなたは折れて死んでいる枝ということになる。

ぶどうの木につながっているように見えるが、実はつながってはいない。

私は森を散歩します。

できるだけ多くの時間を森の中で過ごします。

たまたまあなたがそこにやって来た。

狩りをしている模様。

その場所で何かを探していいる。

ある木から枝がぶら下がっている。

いくつかの枝がその木からぶら下がっている。

それらすべての枝がその木につながっているように見える。

立ち上がって、一本の枝を蹴ると、抵抗なく落ちてくる。

その枝はその木につながってはいなかった。

事実、木はブナの木で、枝は二ㇾの木だった。

その枝は、たまたまその方向へと落ちてきた。

本当の枝のように見えたが、そうではなかった。

つまりこうです。

その枝は、ぶどうの木と同じ樹皮をもってはいなかった。

ぶどうの木と同じ葉をもっていない。

その枝は、決して実を結ぶことはなく枯れてしまう。

あなたがたの中に、いつも枯れている人がいます。

キリストのために決して緑を貯えることのない人。

決して実を結ぶことのない人。

あなたがクリスチャンであるなら、あなたは枝です。

あなたが枝であるなら、あなたは必ず実を結びます。

弟子訓練やキリストとの関係を密にすること、つまりこのような集いが重要であることは間違いありません。

しかし、私たちがキリストとの関係を密にするのは、より多くの実を結ぶためです。

そうしなければならないとも、実を結ばないのにクリスチャンでいられるとも言ってはいない。

さて、枝という比ゆ表現は、極めて壮大です。

物理的な枝は、それ自体で実を結ぶことはありません。

不可能です。

枝としての私が切り落とされてしまったら、私はどうすればよいのか。

私は死んでしまいます。

生きているように見えて、数日間の命です。

何が起こるでしょうか。

萎れていき、枯れます。

さて、ここで問題となるのは、枝はそれ自体身実を結ぶことはないということ。

枝はぶどうの木につながれていなければならないのです。

何か別のことを言っても、全く無意味です。

ここに一本の枝を持って来て、「この枝は多くの実と枝を生みます」と言ったとします。

しかし、見ると、、その枝は干からびていて、枯れています。

「この男は狂っている。馬鹿げた話だ」と言うに違いない。

この男の言っていることは、馬鹿げているにもほどがある。

私が言いたいことをしっかり理解して欲しい。

ぶどうの木との連結から離れて、枝は実を結ぶことは絶対にできません。

その比ゆ表現を見ていきましょう。

クリスチャンは、単独で実を結ぶことはできません。

命を与える、結実の聖霊(キリストの命)を通して、キリストとクリスチャンの関係-真の、霊的な、常に前進する試行錯誤の関係-が、クリスチャンの中で働く必要があるのです。

多くのクリスチャンはこう言うでしょう。

「私はこれもできないし、あれもできない」と。

違う。

あなたはひとりでは何もできません。

その考えを捨て去りましょう。

あなたは何もできない。

「私はこれはできない」とか「こんなことは無理」とか言ってみせても、謙虚ということにはなりません。

内住するキリストの命から離れて、あなたは何もできません。

自分はできると考えることは馬鹿げているということを理解して下さい。

しかし、これはこれで素晴らしいことです。

内住するキリストの命から離れて何もできないのであれば、内住するキリストの命ゆえに何でもできるのです。

多くの場合、伝記を書く人たちに、このことを見出すことができます。

大変霊的で、伝記を書くことに熱心な人たちがいます。

伝記を書き始めると、まるで彼らは自分の霊性を窓の外へ放り投げるように見えます。

彼らがチャールズ・スポルジョンについて語り始めると、機械的に次のようなことを言い始めます。

「彼は正確な記憶を持っていた」、「彼は信じがたいほどエネルギッシュだった」、「彼はこれをした、あれもした。」

どのようにしてある人物が優れた神学を獲得したのか伝記を書き始め、自分の持っている神学知識をすべて窓の外へ放り投げる。

この意味とはどういうことでしょうか。

 

 


#25 The Days of Vengeance, NO.25

2024年07月01日 | 報復の日々

p90~
The Structure of Revelation Foreshadowed
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

このサイクルが再び始まる。

かくして、最初の4つの教会へのメッセージの要点が、後半の3か所においてくり返される。

しかしながら、その詳細に関して相違があることに注意が必要。

このことを理解するために、最初のメッセージに戻る必要がある。

各教会へのメッセージの序文にあるキリストに関する記述は、1章にある人の子の幻の記述から引き出されている。

しかし、その順番は交差配列法が使われている。

交差配列法とは、各要点を逆の順に取り上げること。

人の子の幻
(ア)目は燃える炎のよう、足は光り輝く青銅のよう (1:14-15)
(イ)口から鋭い両刃の剣が出ていた(1:16)
(ウ)最初であり最後、死んでいるようで永遠に生きている、死とハデスの鍵を持つ(1:17-18)
(エ)私の右手にある7つの星と7つの金の燭台(1:20)


7つの教会への手紙
(エ)エペソ:右手にある7つの星を握るお方。7つの金の燭台の間を歩くお方(2:1)
(ウ)スミルナ:最初で最後、死んでいるが、生きている (2:8)
(イ)ペルガモ:鋭い両刃の剣を持つお方(2:12) 
(ア)テルテア:燃える炎のような目と光り輝く青銅の足を持つ神の子 (2:18)


(エ)サルディス;神の7つの霊と7つの星を持つお方(3:1)。
(ウ)フィラデルフィア:聖であり、真理成るお方。彼が開けると誰も閉めることができず、彼が閉めると誰も開けることができないダビデの鍵を持つ (3:7)。

(ウ)ラオデキア:アーメンなるお方。忠実で真の証人。神の創造の初めにおられたお方(3:14)。

この総括的パターンの繰り返しは、他の類似点によって補強される。

スミルナにある教会とフィラデルフィアにある教会の間の相似的内容は、「サタンの会堂」を取り扱うという点に見られる。

エペソにある教会の7つの燭台とサルディスにある教会の7つの神の霊との関係は、次の章において解説する。

天の御座に関するヨハネのヴィジョン。

御座の前に燃え盛る炎の7つのランプがあった。

それらは神の7つの霊(4:5)。