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みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

引っ越し完了

2025年05月07日 | コーヒーブレイク

追記:

あまりにも移転されるデータが少ないので再度インポートを試みたところ

過去10年分ほどの記事が再現できました。

小生がプレミレを脱出できたのがおよそ5年前ですから、それ以降の記事はすべて移行できたことになります。

https://doctor-mk.hatenablog.jp/

恐らくこの記事が当ブログからの配信の最後となるでしょう。

 恐れおののいて自分の救いを達成してください。 

 

 


引越ししました

2025年05月06日 | コーヒーブレイク

読者諸氏:

はてなダイアリーへ引っ越しました。

URLは以下の通り。

https://doctor-mk.hatenablog.jp/

過去記事を確認しましたが、移転バイト数にかなりの制限があるようです。

当gooブログは時間の許す限り解放しておきます。参照して下さい。

いつもご覧頂きありがとうございます。

*下の記事(引っ越し後の初回記事)は当ブログにもアップしましたが

次回からは上記引っ越し先にのみ記事をアップします。

Work out your own salvation with fear and trembling!!

 

 


#106 基礎教理 クリスチャンは本当に幸せか, NO.1

2025年05月06日 | 基礎教理

Are Christians Happier Than Non-Christians in This Life?

最初から3分52秒まで。

◇◇

Rom 5:1  ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 

Rom 5:2  またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。 

◇◇

参考:

ローマ5:2
By whom also we have access by faith into this grace wherein we stand, and rejoice in hope of the glory of God.

1.wherein we standが修飾する語句はthis graceで良いのか。

2.「この恵みに信仰によって導き入れられた」という訳出は正しいのか。

に関して考察を加えてみたが、上記のような日本語訳で問題ないと思われる。

5章1節と2節は対比的構造になっている。

イエスキリストを通して、私たちクリスチャンは

信仰による義⇔信仰による恵み
神との平安⇔神の栄光

がある、を喜ぶ

というきれいな対比構造になっている。

この点以外の疑問は些細な問題と考えられる。

◇◇

もし2025年の「聖書読書計画ナビゲーター」を知りたいのであれば、今私たちはローマ書を読み進めているところです。

特に今、ローマ5章2節に注目しています。

ここで、パウロは、「神の栄光の希望にあって大いに喜ぶ」人生を提案しています。

今のこの私たちの喜びとは、希望ある喜び、事前に先んずる喜び、待ち望む喜び、今も感じるが、やがて来たるべき何かにおける喜びであり、今この時の喜びを支えている将来の栄光にある喜びです。

「ジョン師に聞こう」において、この真理はしばしば取り上げられてきました。

「ジョン・パイパーは幸せか」と尋ねるたびに、私はこの事を思い起こします。

この聖書箇所によれば、その答えは「はい、そうです。苦難に満ちた悲しみの時でも、ジョン・パイパーは幸せです」となります。

何故でしょうか。

師の本「ジョン師に聞こう」にあるように、ローマ書5章2節ゆえにであります。

手元に本がある方は、306~307頁を見て下さい。

ローマ書5章2節のような崇高な聖句を取り上げると、ジョージア州のチップ氏のようなリスナーから質問が直ちに届きます。

ジョン先生、今日は。

キリスト教的快楽主義に関して質問があります。

私たちの人生において最も深遠な思慕は、神によってのみ満足させられるのではないかと思うです。

神にあってのみ私たちは本当に幸せになれる。

では、何故パウロは、「復活がないとしたら、私たちはすべての人の中で最も哀れな者であろう」と言ったのでしょうか。

1Co 15:19  もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 

1Co 15:17  そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。 

今この時でさえ、私たちクリスチャンの人生は、ノンクリスチャンの人生よりも満足感があるのではないでしょうか。

--

私は大いに喜んでいます。

鋭くて、聖書に根ざした質問が大好きです。

以前にこの事を問うたことがあり、実際、この事に関してお話ししたことがあります。

数年前、まさにこの質問に関して、カメルーンのウイクリフの人たちに話しました。

それで、その時何を話したのか思い出そうとしていました。

この質問は、第1コリント15章に根ざした大変良い質問です。

まずはささいな事から始めて、今日考えていることをお話ししようと思います。

満足のいく答えを導き出せるかどうか分かりませんが、いくつか役に立つ答えを用意しています。

まずは、この苦痛多き人生において、クリスチャンの喜びについて明らかにしたいと思います。

クリスチャンとして私たちの喜びの大部分は、ローマ書5章でパウロが「希望にある喜び」と呼んでいるものであります。

言い換えると、それは、今この場で私たちが神について知ることのできる、また得ることのできるものにおいて完全ではない喜びであります。

私たちの今ある喜びは、将来において神について知るであろう、そして得るであろうことの希望にあります。

また、私たちの今この地にある喜びは、あの地にあるであろう溢れんばかりの喜びの前味わいであります。

今は完成していません。

鏡を通してぼんやりと見ており、一部分を知っています。

つまり、今の喜びは一部分なのです。

1Co 13:9  というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。 
1Co 13:10  完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。 
1Co 13:11  私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。 
1Co 13:12  今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 

その喜びは今でさえ強い。

その喜びは今でさえ深い。

その喜びは今でさえ成功するのに十分。

しかし、それは将来の喜びに近くはない。

ローマ書5勝2節にこうあります。

キリストを通して、信仰によって、私たちは今立っているこの恵みの中へと入る権利を得ることができた。そして神の栄光の希望にあって大いに喜んでいる。

つまり、来たるべき時代において得られるであろう喜びは、適度にこの時代へと還流しているのです。

しかし、十分ではなく、適度に。

 

 


#100 The Days of Vengeance

2025年04月27日 | 報復の日々

p157~
The Throne Above The Sea
Part Three: 
Ethical Stipulations
The Seven Seals
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

4章5-8節

現代文化における新バール教(非宗教的ヒューマニズム)の影響ゆえに、神が世界を創造した時に、ある種の自然法、或いは自動的に、非人格的に働く過程を構築したと考えがちである。

これは、キリスト教的ではなく、理神論(自然神教)的であり、この世的な考え方である。

われわれが自然法ないしは物理法則と呼んでいるものは、被造物を支配する際の、神の活動性を一般通念化したものである。

物質、空間、時間は神によって創造され、神によって直接的、かつ能動的に統治されている。

この神の規則を法と呼ぶ。

契約上の規範(キリスト教の自然法と等価)に従って、神は物事が同じようにふるまうようにする。

契約上の規範とは、創世記8章22節において確立された規範のこと。

神がその規範を変えることはないがゆえに、科学技術は可能となり、人間は自信をもって世界を探索し活用することができる。

しかしながら、そのような自信は、ある意味で自然を崇拝する信仰(バール教)や自然法、あるいは神信仰、契約規範を維持する約束に対する信頼となるのが常である。

 


#202 終末預言 主イエスは思いもよらない時にやって来る. NO.4

2025年04月25日 | 終末預言 

Paul Washer | Jesus Is Coming Back SOONER Than You Think – Are You Ready?

20分50秒から最後まで。

◇◇

今この時、門戸は開かれている。

今この時、神のご恩寵は延長されている。

しかし、主の日は必ずやって来る。

その時、すべての反逆は沈黙する。

好むと好まざるにかかわらず、すべての膝はかがむ。

神を愛した者たちは歓喜し、神を拒絶した者たちは嘆き悲しむ。

最も悲劇的なことは、自分たちが安全だと思っていた者たちに向かう。

教会に通い、福音を聞いていながら、自分の人生を決してキリストに明け渡さなかった者たち。

自分自身を吟味せよ。

準備はできていると思うな。

宗教行事や感情に基づく過去の経験を信用するな。

問題は、かつて祈りを奉げたことがあるということではない。

問題は、今の生き方がキリストとの真の関係を反映しているかどうかである。

聖さにおいて成長しているか。

神に飢えているか。

罪を悲しんでいるか。

主の再臨を待ち望んでいるか。

イエスは戻ってくる。

その時、すべてが顕かとなる。

神の御座の御前に、ぬるま湯(的信仰)が曝け出される。

神の御座の御前に、偽善が曝け出される。

神の御座の御前に、人の目から隠されていた罪が剥き出しにされる。

その時、弁解、議論、防御はいずれも立ち行かない。

あなたはキリストの血潮によって覆われているか。

自らの罪のすべての重さを背負うのか。

明日イエスが来臨するとしても罪を犯し続けるか、無用な時を過ごし続けるか。

あなたはその日その時を知らない。

しかし、ただ一つ確かなことがある。

主の再臨は近い。

ゲームの時間は終了。

弁解の時も終了。

悔い改めの時は今しかない。

差し迫ったキリストの再臨は殺生ではない。

過ぎ行く瞬間瞬間によって、その日が近づいてくる。

しかし、世は寝ている。

時間に限りがないかのように生きている。

明日が保証されているかのように生きている。

計画を立て、夢を追い、快楽を追及して、永遠のことは脇に追いやっている。

しかし、聖書には次のように書かれている。

人の子が戻ってくるその日その時を誰も知らない。

御父のみが知っている。

主は、突然に、予期せぬ時に、最終最後の時に再臨する。

最も危険なのは、キリストを公然と否定する人々ではなく、キリストへの服従が遅れても良いと考える人たちだ。

これが、時間的遅延という偽りである。

後でキリストに従おう。

この人生を生き抜いてからキリストに向き合おう。

まるで決定権が自分らにあるように悔い改めを遅らせる。

しかし、誰があなたに明日を約束したのか。

明日の朝もいつものように目が醒めると誰があなたに言ったのか。

聖書には次のように書かれている。

私たちの人生は、しばらくここにあるが、すぐに消え去る蒸気のようなもの。

次の呼吸をあなたは支配することはできない。

自分の心臓が何時止まるのかあなたは知らない。

いつものように呼吸できるのは、まさに神からの恵み。

あらゆる瞬間において呼吸できるのは神次第だ。

イエスが語った愚かな金持ちのたとえを考えてみよ。

成功をおさめ、裕福となり、将来に自身をもった金持ちがいた。

自分の富を貯え、自分の人生を楽しむために大きな納屋を作る計画を立てた。

まさにその日の夜、彼の魂が彼から取り去られた。

あらゆることは準備した、ただし永遠を除いて。

今日、非常に多くの人たちがこの者のように生きている。

この世において人々は仕事をし、貯え、快楽、安心を追い求めている。

しかし、神の御前に立たなければならない日のための備えがない。

まだまだ時間はあると世は言う。

しかし、実際には秒を刻むごとに裁きへと近づいている。

ノアの時代、人々は警告をことごとく無視した。

彼らは罪を犯し続けた。

洪水が起こりすべてを洗い流すまで彼らの反逆は続いた。

遅すぎた。

箱舟の扉は閉ざされた。

人々は泣き叫んだが、逃れることはできなかった。

同様に、イエスは「自分は盗人のようにやって来る」と警告した。

しかし、人々は裁きが下るとは思わなかった。

準備のできていない者たちに、次のチャンスはない。

だから、急を要するのだ。

悔い改めるべき時を自分で決めることはできない。

悔い改めは、都合の良い時に予定を立てて得られるようなものではない。

それは神の恵みである。

自分の心を頑なにし続けるなら、遅すぎたと気づく日がくるだろう。

聖書には次のように書かれている。

救いの時は今日であり明日ではない。

来年ではなく、今この時。

サタンがささやく大嘘のひとつは、「あなたは後でも十分悔い改めることができます」
というもの。

サタンは、「キリストは実在しない」とくり返し言うことにより、人々にその嘘を信じ込ませようとはしない。

時にサタンは単純に、「待つのも良いことでしょう」とそそのかす。

そして、真実を知る頃には手遅れとなってしまう。

恵みの門は常に開いているとは限らない。

祝福への招待は常に延長されているとは限らない。

最後の召命がなされる日が必ず来る。

聞き従うことを拒否する者たちは外の暗闇へと放り出される。

多くの人たちは、キリストが再臨する時が来ることは周知の事実と思っている。

その時には明らかに何らかのしるしがあるだろうから、ちょうど間に合って悔い改めることができるだろうと思っている。

しかし、そうではない。

突然すべてが変わるまで、食べたり、飲んだり、仕事をしたり、結婚したりして、世の人々はいつも通りに生活しているだろう。

注意力のない人は油断してしまう。

まだ時間があると思い込んでいる人は、準備できていないことを知る。

イエスは、5人が賢くて5人が愚かな10人の処女のたとえを語り、警告した。

愚かな人たちはランプを持っていたが、油がなかった。

準備はできていると思っていたのに、花婿が来ると外へ取り残された。

もう一度チャンスをくれるように懇願したが、戸は閉められた。

これは単なる物語ではない。

警告である。

起こりうる最悪の事態は、きっぱりとキリストを拒絶することではなく、安全でもないのに安全だと思い込んでいることにある。

罪の中で生き続けようとするなら、キリストに対する従順を引き延ばそうとするなら、悔い改めの機会を先送りにしようとするなら、次のことを理解しておくべきである。

後の日は来ないかもしれない。

今夜キリストの御前に立つことにかもしれない。

その日の朝目覚める前に、裁きのために呼ば出されるかもしれない。

準備はできているか。

教会出席をあてにするな。

宗教儀式をあてにするな。

昔祈った祈りをあてにするな。

生き方において変容の証拠が認められないとすれば、安心して頼れるのはキリストご自身のみである。

真にキリスト(の中)にあるのであれば、あなたの人生は実を結ぶであろう。

聖に対する飢え渇き、神に対する愛、罪に対する憎悪があれば、完璧ではないが必ず変わっていくだろう。

今この時恵みの門戸は開いていて、キリストへと向きを変える機会が与えられている。

しかし、キリストに敵対し続けるなら、後回しにし続けるなら、まだまだ時間があると思い込んでいるなら、自分の魂を使った危険なゲームをしていることになる。

キリストのものではないと知って慙愧に極みに耐えつつ、最後の日にイエスの御前に立っている自分を想像してみよ。

「私から離れていけ。私は決してお前を知らない」とイエスが言うのを聞いている自分を想像してみよ。

これ以上に恐ろしい現実があるだろうか。

にもかかわらず、「すべては順調だ」「準備万端だ」などと思い込み、全く気が付くことなく、多くの者たちがその時に向かって突き進んでいる。

しかし、その日、思い込みは消滅し真理のみが在る。

今この時、そのように対処しようと言うのか。

今この時、無関心な態度を続けようとするのか。

永遠がはるか遠くにあるかのように生き続けるのか。

それとも、ひざまずき、神に向かって叫び、自分の命をキリストに明け渡すか。

時は瞬く間に過ぎてゆく。

その日は必ずやって来る。

ひと度その時が来れば、もはや後戻りはできない。

 

 


#201 終末預言 主イエスは思いもよらない時にやって来る. NO.3

2025年04月22日 | 終末預言 

Paul Washer | Jesus Is Coming Back SOONER Than You Think – Are You Ready?

14分59秒から20分50秒まで。

◇◇

あなたが拒否しているキリストの御座の御前に立っている自分を想像してみよ。

その時、永遠においては価値のないもの、業績、財産、名声を追い求めて人生を浪費していた自分を想像してみよ。

どれもこれも重要ではない。

唯一重要なものはこれだ。

あなたはイエスを知っていたか。

あなたはイエスを愛したか。

あなたはイエスに従ったか。

騙されてはならない。

キリストの御前に立つ時、自分は追い出されることもなく安全であると考える人は多い。

聖書には次のように書かれている。

「主よ、主よ。あなたの御名によって、私たちは多くの力強い業を行なわなかったでしょうか」という人たちがいる。

そして、主は言われる、「私はあなたを知らない。私から離れよ。」

彼らは無神論者ではない。

彼らは宗教心のある人たち、教会に通った人たちである。

救われていると思っていたが、実は失われていた人々である。

今この時、恵みの門戸は開かれている。

今この時、あなたは悔い改めることができる。

しかし、ある日その扉は閉ざされる。

ある日、主の御座から裁きが断行される。

もはや慈悲はない。

その日、懇願も弁解も次の機会もない。

それが終わりの日。

明日キリストが再臨することを知って、今日どのように過ごすだろうか。

罪を犯し続けるだろうか。

この世の事々にしがみ付くだろうか。

或いは、神の慈悲を乞い願って、悔い改めの中でひざまずくだろうか。

待っていては手遅れとなる。

キリストの再臨は単に近いのではない。

それは差し迫っている。

主が来られると裁きが始まる。

問題は主が来られるかどうかではない。

そのための準備ができているかどうかだ。

イエスキリストの再臨は、想像できないほどの栄光と恐ろしいほどの裁きの時の両者を意味する。

それは秘密裡にではない。

徐々にでもない。

突然の、間違いのない、そして最後の出来事だ。

私たちの知っているこの世界は、瞬時に変わる。

すべての目は主を見る。

すべての魂は主の主権の現実に向き合う。

疑いの時は終わる。

悔い改めの時は過ぎ去る。

唯一つのことが重要となる。

主の再臨は遠くのおとぎ話であるかのように多くの人たちは生きている。

それは宗教仲間の間で話し合われることであって、日常生活には不適切なこと。

歴史はいつも通りに続き、明日は今日のようにやって来ると思い込んでいる。

しかし、聖書には次のように書かれている。

主の日は夜中に盗人のようにやって来る。

思いもよらない時に。

誰も準備ができない最後の時に。

それはノアの日々のようだ。

突然の裁きが下るまで、人々は食べたり、飲んだり、祝ったり、働いたりしていた。

箱舟の扉は閉められ、取り残された人たちは滅んだ。

同じように、キリストが再臨すると救いの扉は永遠に閉ざされる。

恐ろしいことに、準備ができていると思っているが、しかしそうではない人々が多数いる。

彼らは教会の中を歩き回り、聖書を読み、説教をしていたが、騙されていた。

彼らには宗教があったが、キリストはなかった。

彼らはキリストに関する知識はあったが、キリストご自身を知らなかった。

彼らは砂の上に信仰を建て上げた。

主の再臨という嵐が来ると、彼らの家は倒壊する。

聖書には次のように書かれている。

イエスに対して「主よ、主よ」と言う者が皆、神の国に入るのではない。

御父の御心を行なう者だけが(神の国に入る)。

今日多くの人たちがキリストに従っていると主張する。

しかし、彼らの生き方は不従順、妥協、俗念によって刻印されている。

まわりを見回してみよ。

この世界の状況を知っているか。

反逆、不道徳、退廃、神に対する憎悪に満ちている。

人々は聖さをあざけり、罪を楽しみ、正義をさげすむ。

裁きの恐れなど微塵も感じることなく、自分たちの目に正しいことを行なっている。

しかし、聖書には次のように書かれている。

炎がソドムに落ちたように、裁きは邪悪な国々へと降り注ぐ。

同様に、神の怒りがすべての不敬虔な者に露わとなる。

神の忍耐は偉大だが、無限ではない。

その日空が真っ二つに裂け、主は再臨する。

苦痛にゆがむ僕としてではなく、目は炎のようであり、口には国々を裁くための剣を持ち、万物を支配する王としてやって来る。

折衷はない。

キリストが戻る時、2つのグループのみ存在する。

キリストに属するグループと属さないグループ。

正義なる人たちは、御父の王国において太陽のように輝く。

しかし、邪悪な人たちは、号泣と歯ぎしりのある外の暗闇へと棄てられる。

交渉も次のチャンスもない。

その日キリストによって見出されなかった人は永遠に滅びる。

しかし、人々は時間があるかのように生活している。

後で悔い改めよう。

もう少し年を取ってから神に向き合おう。

今は自分の人生を楽しみたい。

しかし、分かっているのだろうか。

もう一呼吸できるという保証はないということを。

聖書には次のように書かれている。

私たちの人生は、しばらくの間現れてはまたすぐに消えていく霧のようなものだ。

あなたは次の心拍をコントロールできない。

一瞬のうちに万物は変わる。

キリストの御前に立つ時、すべての弁解は消滅する。

イエスが語った10人の処女の例えを考えてみよ。

彼女たちは花婿の到着に備えていた。

皆待っていた。

しかし、花婿が到着した時、5人だけがランプに油が満たされていた。

他の5人は準備を怠った。

彼女たちはもう一度チャンスを与えてくれるように懇願した。

しかし、遅すぎた。

扉は閉められた。

準備ができてもいないのに、できていると思い込むことが如何に恐ろしいことか。

同じような状況にある人が今日如何に多いことか。

彼らは天に迎い入れられると思い込んでいる。

しかし、彼らは決して真に悔い改めたことがなく、真にキリストに明け渡したこともない。

真に新生していない。

その日、その者たちに対して扉は永遠に閉ざされる。

終わりの徴候は至るところにあり、生みの苦しみは増している。

世界は解かれる。

戦争や災害、不法や迫害が増えている。

しかし、神へと顔を向けるどころか、人々は自分の心を頑なにする。

彼らは警告をあざ笑う。

楽しみ、金、享楽、真理から離れるもののためにに生きている。

しかし、真理は不変。

キリストはやって来る。

そうなれば、状況を変えるには遅すぎる。

 

 


#200 終末預言 主イエスは思いもよらない時にやって来る. NO.2

2025年04月20日 | 終末預言 

Paul Washer | Jesus Is Coming Back SOONER Than You Think – Are You Ready?

7分45秒から14分59秒まで。

◇◇

今日の最も重大な欺きは、神はあるがままのあなたを愛しているというもの。

どのように生きるにせよ、人々は罪の中で生き続け、聖を拒絶しても天国に行けると思い込んでいる。

しかし、聖書には次のように書かれている。

聖くなければ、だれも主を見ることはできない。

真の救いの証拠は、罪に対して日々成長する憎悪、そして義に対して日々成長する愛である。

これは、完成ではなく、変容を意味する。

自分の生き方を見よ。

戦っているか。

単に罪悪感からではなく、キリストを愛し、キリストを悲しませることを憎んでいるがゆえに己れの失敗を悲しんでいるか。

主の再臨を待ち望んでいるか。

或いは、この世をもう少し長く楽しみたいがゆえに、陰で主の遅延を助けてはいないか。

これは試験だ。

真にキリストに属する者は主の現われを望む。

この世を愛し自分の罪にしがみついていたい者は、聖なる神の御前に立つことを恐れる。

偽の確信はこの世ではなく、教会内に存在する。

教壇は真理を語らない牧師で満ちている。

彼らはおべっかを言い、罪に塗れている人に快感を与える。

神はあなたが幸福であることを望んでいると教える。

しかし、聖書には次のように書かれている。

平和がない時、偽教師は「平和だ、平和だ」と言う。

彼らは、耳をくすぐり、人々が聞きたいことを言う。

そして、破滅へと導く。

真の羊飼いは警告を発する。

真の牧師は、あなたの快楽のためにではなく、あなたの魂のために叫ぶ。

福音は自己修養、自尊心、自己達成のための書物ではない。

神の栄光と罪人の救いのための書物である。

自分を吟味しないのなら、自分の信仰をテストしないのなら、最終最後まで欺かれたままの人たちと同類である。

救われていると確信を持ち、神の御座の御前に立っている自分を想像してみよ。

しかし、実は神のものではなかったということを思い知らされる。

泣き叫びながら天の門戸が閉じるのを呆然と見ている自分を想像せよ。

主よ、私はせっせと教会に通ったではないか。

あなたに仕えたではないか。

あなたを信じたではないか。

しかし、主は「私から離れていけ」とあなたに向かって言う。

これを聞いても打ち震えないのなら、あなたは目が醒めていない。

これを聞いても膝から崩れ落ちないなら、自分の心を吟味するために神に嘆願しないのなら、永遠の重さを全く理解していない。

キリストは必ず再臨する。

これは空虚な宗教の時間ではない。

これは浅薄なキリスト教の時間ではない。

道は狭く、見い出す者はまれだ。

あなたはその道の上にいるか、それとも騙されてはいないか。

確信もなく罪の中で生きているなら、神に背いても何も感じないなら、決して欺かれることのないキリストよりもこの世の事々を愛するなら、準備不足の状態にある。

それ故、イエスは10人の処女の例えを用いて警告を発した。

彼女たちは皆、準備はできていると思っていた。

彼女たちは皆、花婿を出迎えれることができると思っていた。

しかし、5人だけがランプに十分な油が入っていた。

残りの5人は閉め出された。

ドアを叩き入れてくれるように懇願したが、遅すぎた。

救われていると信じ、神のものであると信じていたが、実は主のことを知らなかったとは何という悲惨なことだろうか。

自分の魂と賭けをしてはならない。

まだ間に合うと考えてはならない。

門戸は閉ざされる。

恵みの日は終わる。

その瞬間、唯一重要なこととはこのこと。

あなたは本当に主のことを知っていたか。

主は本当にあなたのことを知っていたか。

他のすべてのことは忘れ去られる。

あなたが成し遂げた実績、財産、名声。

そして、ただ一つのことが残る。

あなたは主のものか。

それとも、騙されてはいないか。

イエスは戻って来られる。

苦痛に喘ぐ下僕として来るのではない。

(万物を)支配する王として来臨する。

それは単なる出来事ではない。

裁きのための最後通牒である。

万物は正される。

多くの人はその日は来ないかのように生きている。

何とか神の怒りを逃れることができるだろうと信じながら、のほほんと悔い改めもせずに生きている。

しかし、聖書には次のように書かれている。

人は一度死ぬことが定められている。

その後に裁きが来る。

誰も逃れることはできない。

誰も脱出することはできない。

あらゆる隠された罪、あらゆる隠された思惑、あらゆる不注意な言動が、燃え盛る炎のような眼を持つお方の前に曝け出される。

この世には欺きがある。

「あなたは死ぬことはない」と囁く嘘。

エデンの園でサタンがエヴァに語ったのと同じ嘘。

無数の魂を地獄へと突き落とす欺き。

人々はまだ時間があると思っている。

今日犯した罪は、明日悔い改めようと考える。

しかし、聖書にはこう書かれている。

主は思いがけない時にやって来る。

人が思いもしない時に裁きが下る。

金持ちの例えを考えてみよ。

金持ちは全て手に入れた。

冨、快楽、安全。

この成功を楽しもうと思った。

しかし、まさにそう思ったその日の夜、彼の魂は彼から取り去られた。

彼には準備ができていなかった。

この世の人生設計はしたが、永遠のための準備はしなかった。

これは、今日多くの人々に当てはまる状況である。

人々は地上に宝を積んでいる。

キャリア、快楽、遊興を追い求めるが、自分の魂の状態についての配慮に欠けている。

キリストの御座の御前に立つという警告がなければ、一寸たりともそのことを実感することはない。

イエスの再臨は平穏な出来事ではない。

それは、人類史において最も恐るべきかつ栄光に満ちた瞬間である。

聖書には次のように書かれている。

大天使の大号令、神のラッパの音とともに主は下りて来る。

天地は揺り動かされる。

その時、あらゆる人は膝を屈め、イエスキリストは主であると告白する。

ある人々は喜び溢れる。

この日を待ち望んでいたからだ。

彼らは聖きの中を歩み、福音のために苦しみ、試練を耐え、信仰を貫いた。

彼らの希望はキリストに置かれ、今や彼らの信仰が彼らの目となった。

しかし、多くの人たちにとって、この日はとてつもない恐怖の瞬間となる。

信用していたものはみな全く価値がないことだと実感する。

彼らの言い訳は無と化し、彼らの罪が曝け出される。

自分たちに落ちてくるように岩に向かって叫び、子羊の怒りから身を隠そうとする。

このことの意味が分かるだろうか。

チャンスは1回しかないことを意味する。

もはや警告もなく、悔い改めの機会もない。

恵みの時は終わる。

今この時、恵みの時は延長されている。

今この時、罪人は悔い改め、そして永遠の命へと招かれている。

しかし、再臨すればもはや救いの道は閉ざされる。

主は裁きを断行する。

キリストによる最後の裁きである。

聖書に次のように書かれている。

主は羊を山羊から分け、麦を毒麦から分ける。

中間はなく、妥協もない。

すべての人は、2つのカテゴリーのいずれかに置かれる。

主に属するグループと属さないグループ。

主に属さない者は、交渉も弁解もできない。

判決は永遠。

イエスが地獄について何度も語った理由がここにある。

炎が決して消えない場所。

ウジ虫が決して死なない場所。

号泣と歯ぎしりのある場所。

イエスは、そこを外の暗闇、神から切り離された場所と呼んだ。

しかし、人々はそれを冗談として取り扱う。

罪を軽んじ、聖なる神が怒るほど大した問題ではないと考える。

神は愛であるから背きの罪を見逃して下さると言う。

彼らが理解すべきことはそうではない。

神は愛であるから罪を憎む。

神は義であるから悪を罰せなければならない。

キリストが再臨される時、神のすべての怒りは悔い改めない者たちの上に注がれる。

 

 


#199 終末預言 主イエスは思いもよらない時にやって来る. NO.1

2025年04月19日 | 終末預言 

Paul Washer | Jesus Is Coming Back SOONER Than You Think – Are You Ready?

最初から7分45秒まで。

◇◇

いろいろ異論はあるだろうが、改革派神学者(の一部、多くはない)は、今の時代を「千年王国が終わり、サタンが解き放たれている時代」と考えている。

この神学教理をpartial preterismという。

小生もこの教理を支持するが、「マタイ24章はイスラエルの滅亡によって完全に成就した」という見解には異議を唱える。

すでにくり返し説明してきたように、「マタイ24章は、イスラエルの滅亡を預言すると同時に、人類史終焉をも預言している」と考える。その根拠は既に何度も説明した。

世界の終わりの兆候は、イスラエル滅亡時に起きた徴候と酷似しているということ。

◇◇ 

Paul Washer師は、改革派牧師でありながらプレミレ説を支持する(本人談)。

いずれの終末論を支持するにせよ、今の時勢の流れを鑑みれば、世の終わりが近いことは肌で感じ取ることができる。 

早速、師のメッセージを聴いてみよう。

◇◇


このことを想像してみて欲しい。

いつものように朝起きる。

太陽は昇り、この世が動き始める。

お金、遊興、そして気晴らしを求めて、人々はせっせと自分の人生を営む。

そして、次の瞬間、思いがけず、予告もなしに、空が裂ける。

ラッパが鳴り、王の王が降りて来る。

突然、万物が虚無となる。

主イエスは思いもよらない時にやって来る。

これは遠い未来の神学概念でもおとぎ話でもない。

これは、極めて恐ろしい、そして栄光に満ちた真実である。

聖書は宣言する、「夜中に主は盗人のように戻ってくる。そして、多くの者たちは準備ができていないままその日を迎える。」

人々は教会に集まり、歌を歌い、主の御名を呼び求めた。

しかし、彼らは決して主を知ることはなかった。

主が来ると、悔い改めの時はもはやなくなり、慈悲を乞い願う場所もなくなり、門戸は閉ざされる。

そして、裁きが執行される。

準備はできているか。

永遠をかけたゲームをしているか。

今日、神は目を醒ますようにあなたを召しておられる。

キリストの来臨は近いのではなく、差し迫っている。

その日、2種類の人々が存在する。

歓喜に満ちる人々と嘆き悲しむ人々。

あなたはどちらに属するか。

主イエスは、思いがけない時にやって来る。

この世は先へと進んでいく。

まるで、歴史が漠然と続くかのように。

まるで、人の計り事が邪魔されないかのように。

そんなことはない。

万事は神のご計画に従って動いている。

キリストの再臨は見込みではない。

それは確定である。

初めから、神は終わりを宣言している。

イエスの再臨は、遠い未来の仮定上の何かではない。

それは真近に迫っている。

稲妻が空の一方から他方へと走るように、それはある日突然やって来る。

世は眠りに落ちている。

神の警告を無視して、人々は自分たちの生活に勤しんでいる。

裁きが戸口まで来ているのに、食べたり、飲んだり、結婚したり、建てたり、彼らはノアの日々のように生きている。

聖書には次のように書かれている。

準備のできていない世に洪水が襲ったように、ちょうど人の子の来臨もそのようだ。

雨が降り始めるまで、世の人々はノアを嘲った。

手遅れになるまで、今の世の人々もキリスト来臨の警告をあざ笑うであろう。

その日がやって来ると、もはや逃げ場はない。

えり好みをしている時間は終わりだ。

ある者は、まだまだ先の話しだと言うだろう。

主の来られる場所を、あなたは見ることができない。

主の来臨が遅れているのは神の慈悲による。

神の忍耐は救い。

神が猶予しておられるのは、神が鈍いからではない。

人々が悔い改めることを望んでおられるからだ。

しかし、人々は心を頑なにし、反逆の中で生きている。

明日があるということが、後で振り返る時間があることの保証であると考えている。

しかし、聖書には次のように書かれている。

主の日は、夜中に盗人のようにやって来る。

警告はない。

告知もない。

次のチャンスはない。

ラッパの音が鳴ると、恵みの時は終わりを告げる。

日曜ごとに教会に通い、説教を聞き、讃美歌を歌い、聖書を読んでいる人たちがいる。

しかし、彼らの心は死んでいる。

彼らはキリストを愛してはいない。

彼らは主の再臨を望んではいない。

彼らの手は罪でまみれているが、自分らは安全であると思い込んでいる。

かつてある決断をした。

くり返し祈りをし、教会の回廊を歩いた。

しかし、イエスは、「その日、多くの者が私に、主よ、主よ、と言うだろう」と警告する。

そして、「私は決してあなたを知らない」と宣言するだろう。

自分は主に属すると思い、このような恐ろしいことばを聞きながら、栄光の王の御前に立つことを想像してみよ。

それ故、自分自身を吟味する必要がある。

本当に信仰があるのか。

主の再臨に注意を払っているか。

聖書にこう書かかれている。

賢いしもべとは、主人の帰りを待って目を覚ましている人を言う。

一方、悪いしもべは、主人の帰りは遅いと思い、罪の中で生活し始める。

これが、今日の多くの人たちの状態。

まるでキリストはしばらく来ないかのように、裁きの警告は大げさだと言わんばかりに生きている。

しかし、次の瞬間空が裂け、大天使の声とともに主が降りて来る。

みなが主を見る。

ある者にとっては、長いこと待ち望んでいたことの成就であり、またある者にとっては、最悪の悪夢の実現となる。

世界は、まさに裁きの時を迎える。

この時代の罪が限界を超え、血がこの地を満たす。

罪のない者が殺され、真理が踏みにじられる。

人は悪を善と呼び、善を悪と呼ぶ。

神が見ていないと思うのか。

神は永遠に無言であると思うか。

聖書にはこう書かれている。

裁きがすべての悪い民に下されたように、同じことがまた起こる。

神の裁きは神話ではない。

それは確定である。

キリストは、飼い葉おけに置かれた赤子として、あるいは苦痛に喘ぐしもべとして来るのではない。

諸国の民を裁かんとするために、口の中に剣を持つ勝利の王として来臨する。

ぬるま湯に浸かっている時ではない。

キリストに無頓着でいられる時でもない。

キリストの来臨が近いと思うのであれば、あなたの生き方は変わるであろう。

どうして無関心でいられようか。

どうして罪にまみれたままでいられようか。

強盗は夜に来ると本当に信じているなら、その人は周到に準備しないだろうか。

そうであればなおさら、王の再臨のための準備をするのではないだろうか。

教会は目を醒まさなければならない。

その時は、間もなくやって来る。

私たちの目の前で、預言は展開している。

生みの苦しみはさらに増大している。

にもかかわらず、神の民はうたた寝をしている。

彼らは、気晴らしや遊興、あるいは空虚な娯楽を追い求めて生きている。

然るに、永遠は戸口に立っている。

前兆は明らかである。

警告はすでに与えられている。

耳を傾けているか。

あなたは、準備のできている人たちに属するのか、それとも、気付かないでいる人たちに属するのか。

主イエスは戻ってくる。

数世紀後にではない。

数世代後にではない。

思っているよりも早く、主は戻ってくる。

問題は「もしも」ではなく、「何時なのか」だ。

実際の問題は、主が来られた時にあなたは準備ができているかということ。

多くのクリスチャンは、キリストの再臨の準備はできていると思っている。

しかし、本当にそうだろうか。

最もおぞましい現実は次のようなこと。

数えきれない人々がイエスを知っていると告白し、主の御前に立ち、恐ろしいことばを耳にする。

「私はあなたを知らない。」

彼らは教会メンバーであり、聖書を持ち、キリスト教用語を知っている。

しかし、彼らの心はキリストから遠く離れている。

彼らは誤った確信に、救う力のない死んだ宗教に信頼を置いている。

聖書にはこう書かれている。

イエスを主と呼ぶ者がみな天の御国に入るのではない。

御父の御心を行なう者だけが天の御国に入る。

今日の教会は、神に対する恐れがなく、真の救いの確信がない人たちで溢れている。

彼らは救われていると信じている。

くり返し祈りを奉げ、礼拝に出席し、神の子どもとして洗礼を受けたことがあるからだ。

しかし、救いとはお決まり事ではない。

それは、神の超自然的御業である。

キリストがあなたを救ったのであれば、あなたの生き方がそれを証明するであろう。

私たちは、安直なキリスト教を教える文化の中で生きている。

心の中にイエスを受け入れるなら永遠に救われる。

犠牲、悔い改め、変容は要らない。

しかし、これは偽りである。

真の救いとは、変容transformation、すなわち新しい心、新しい命、キリストへの深い愛、そして罪に対する憎悪によって特徴づけられる。

聖書にはこう書かれている。

キリストにある者はだれでも新しい創造である。

古いものは過ぎ去り、新しいものが来た。

今の人生が前の人生と同じなら、自分はキリストに従っていると主張する前に恐れを抱くべきだ。

聖に対する渇きがない、神に対する希求がないなら、変容の証拠はないとされる。

何故、キリストに属していると思うのだろうか。

多くの人たちは、宗教的経験に重きを置いている。

彼らは教会の回廊を歩き回り、礼拝に感動を覚え、カンファレンスで霊的高揚を感じた。

しかし、感情によって人は救われない。

ユダはキリストとともに歩み、奇跡を目撃し、イエスの教えを聞いた。

しかし、彼は失われた。

イエスを裏切った後良心の呵責に苛まれた。

しかし、良心の呵責は悔い改めではない。

罪に対してやましい気持ちを抱くことがあっても、結局は死ぬ。

真の悔い改めは、単なる悲しみではない。

あなたのためにすべてを捨てて下さったキリストへと一目散に逃げ込むことである。

 

 


#99 The Days of Vengeance

2025年04月09日 | 報復の日々

p156~
The Throne Above The Sea
Part Three: 
Ethical Stipulations
The Seven Seals
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

4章5-8節


John CalvinはWilcockと同意見ではあるが、ケルビムの4つの顔の意義に関する考え方は、より過激である。

頭部(の形状)によって、全ての生き物は理解可能となる。
これらの生き物は、自分の中に宇宙の全部分を含んでいる。
言葉の綾によって、部分が全体を表現している。
一方、天使は生き物であるから、神が寄与している意味合いを考慮しつつ、獅子の頭、鷲の頭、人間の頭を観察する必要がある。
何故なら、これは、多少ながら、それらの本性に従っているように思われるからだ。
しかし、神は、天使と全ての生き物の動きの中に存在する分かち難い関係を、より分かりやすく表現することはしなかった。
それ故、人間が動き回り、任務を果たしながら、追及する対象に向かい、様々な方向に自身を適合させる。
野生動物も同様である。
しかるに、人も動物も動じることがないように、底辺の部分においては天使の動きがある。

カルヴァンは、数ページ後さらに力説する。

全ての生き物は、天使の動きによって命を吹き込まれる。

これは、自然、自然の法という人間的な概念に背いている。

しかしながら、それが聖書の教えである。

私たちの世界観が、古代バアル教と多くの共通点がある哲学によって浸食されているということは不思議に思われるかもしれない。

James B. Jordanは次のように書いている。

カルトであるバアル教の詳細は、現代の私たちにはあまり重要ではない。

バアル教の基本思想は、アメリカの教育や現代生活に影響を与えており、また、普通大学の科学科ではなくて、むしろ、ほぼすべてのキリスト教系大学の科学科で教えられている。

間接的にではなく、神は直接的に生命を維持する、と聖書は教える。

「自然」なる存在は存在しない。

神は、宇宙なるなるものに固有の発達能力を与えなかった。

間接的過程によってではなく、直接的作用によって、神は宇宙と生命を創造した。

神がご自身の息吹(聖霊、主と命の付与者)を吹き込むと、直後に死が後を追う。

Gen 7:22  いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。

内因的な力を有する自然なるものが存在するために、神は宇宙を巻き上げて、その後その成り行きに任せたという概念は理神論であり、キリスト教ではない。

どのようなシステムにおいても、自然の過程が神の行為に取って代わるのであれば、その程度に応じてそのシステムはバアル教的となる。

 

 


#98 The Days of Vengeance

2025年04月01日 | 報復の日々

p155~
The Throne Above The Sea
Part Three: 
Ethical Stipulations
The Seven Seals
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

4章5-8節


ヨハネとエゼキエルの幻のもうひとつの類似性は、4つの生き物が御座の中央とその回りに立っているという点。

このことは、戦車/御座が宙を飛ぶことを支持する。

Psa 18:10  主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。 

これは、エゼキエル書にある4つのケルビムと同じである。

ケルビムが御座の中央と周りにいることに注意せよ。

Rev 5:6  さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。 

これらの生き物は獣ではなく、前と後ろに目が満ちており、獅子、雄牛、人、鷲のような形態をしている。

これらの聖句とエゼキエル書1章と10章を比較すると、多くの興味深い類似性と相違性が明らかとなる。

イザヤ書6章1章と4章に書かれている6つの翼を持つセラフィムの幻と関連づけるべきである。

これら4つの生き物は、祭壇の形状をした地との関連性を説明する。

地の四隅、4つの風、4つの方向、エデンから流れる4つの川(これは全地に給水する)。

Michael Wilcockは解説する。

聖書のケルビムは、翼やえくぼを持つ丸々太った赤ん坊とはまるっきり異なる。それは素晴らしい生き物であり、神の存在を目に見える形で指し示す。

主はケルブ(ケルビムの単数形)に乗り、あるいは風の翼に乗って移動すると言う時、黙示録4:6にある4つの生き物と同7:1にある4つの風とのリンクを想起するかもしれない。

Psa 18:10  主は、ケルブ(ケルビムの単数形)に乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。 

Rev 4:6  御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。 

Rev 7:1  この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。 

自然の本質を思い起こすならば、神の絶え間ざる活動で躍動する計り知れない構造体であるケルブ/生き物は、「自然」と呼べるのかもしれない。

このケルブ/生き物の顔は、神の荘厳性、御力、知恵、気高さを表し、その無数の目は、被造物の全部分を絶えることなく見渡すことを表しているのではないか。

Eze 1:10  彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。 

全地の範囲や隅の数に対応し、神の世界を象徴し、24人の長老が教会を象徴することにより、それらが4つ存在することは、至極当然と考えられる。