みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#620 神の法第六戒

2020年11月25日 | 神の法
第6戒
国家の起源:預言的オフィス

238~
Origins of the State: Its Prophetic offices
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

歴史的に、神学者は、国家、すなわち市民政府の起源を、第6戒の中に、より正確には、人間の堕落の中にくり返し見出してきた。

堕落前に人は罪がなかったので、国家は必要なかった。

堕落後、神の罪に対する裁き故に、世界に死が入った。

人の罪を監視するために、罪の裁きにおいて、最高刑が死刑である刑罰を要求するために、国家が創造された。

故に、国家とは、堕落と再臨の間、人間を秩序の中に保つための神の絞首刑執行人であり、施設なのだ。

この考えは、国家を神の何か暫定的なものとして捉えるCullmannの中でこだまする。

Cullmannによると、キリストとキリスト教は、「ユダヤ人の神政主義的観念を・・サタン由来として」拒絶する。

さらに、「イエスは国家を神の国と同等である最後の施設と見做してはいない。

国家は未だに存在する時代に属してはいるが、神の国が到来するや消滅するもの。

国家はクリスチャンである必要はないが、限界を知っている必要がある。」

このことに密接に関係しているのがスコラ哲学やルター派の考えであり、自然の理由により国家を基盤とし、それ故、神との直接の連結において、かつ神に対する責務において国家を許容する。

もし国家の暫定的な特徴とは、国家の形態と関連性があるとわれわれが考えるのなら、ある意味において、この立場は正しい。

同じことは教会においても言えるだろう。

教会も、その形態において暫定的だ。

天において、あるいは最後の新創造において、司教、牧師、年長者、執事のオフィスはないだろう。

これは、教会はたかだか暫定的にすぎないということを意味しない。

同様に、国家もたかだか暫定的にすぎないとは言えない。

参考:

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです4

神の評価と比べれば人の評価は無に等しい



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#14 聖書信仰を堅持する

2020年11月24日 | 聖書信仰
初めに

4.両者の譲歩

p15~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

「ヴァンティル教授が“共通の基盤”に関する問題の重要性を詳細に示すために、この下りを引用した。」と、彼は付け加える。

Kuyperはそのようなことを信じていたので、トマスの自然神学へと向かう傾向があると非難されている。」

しかし、彼は次のようなことも付け加える。

「ヴァンティル教授はこの点を容認しているような素振りを見せることがある。

例えば、「それに関してある程度までは真実であるこの世に関する非常に多くの知識を、ノンクリスチャンは持っていることをわれわれは認識している」と彼は言っている。

つまり、ある意味で、われわれはノンクリスチャンの知識の価値を認めるべきだということ。

これは常に難解な論点となってきた。」

Kuyperは共通の基盤を信じており、私もそれを信じているとOrlebeteは認めている。

彼はここで止めずに、Kuyperに対する私の批判について言及する。

Orlebekeの論点は、Kuyperは知識・資格(qualification)のない共通領域を信じている一方で、私は知識・資格のある共通領域を信じているということ。

しかしながら、次のページから、オールベック(Orlebeke)は、知識・資格のある共通という観念について取り扱っている。

彼は、私の著作において存在する「曖昧」を解決しようとしている。

「曖昧」とは、一方で非信仰者の知識の価値を認め、他方で「罪人は現実を正しく理解できない」という考えを固持している点だ。

「信仰者と非信仰者の両者は、花のような単純な物体に関して持っているような、もちろん私も持っているような知識」について、彼は次のように述べている。

もしある人がこの花を欠くことのできない正確さで知っているとすれば、彼は、神の創造物として、神の知恵、神の力、そして神の栄光の明示として、その花を知る必要がある。この究極の論点からすれば、「自然の人」は、その花のことを本当に知っていることにはならない。同様の究極の論点からすれば、クリスチャンはすべてのことを本当に知っていることになる。しかし、上述からすれば、究極の観点からという場合を除けば、非信仰者の知識は何から何まで間違いということにはならない。つまり、花Bに対する花Aの空間的関係に関して、非信仰者は、限局的な場合において、真の知識を持つことができる。そして、信仰者はその空間的関係の限りにおいては、間違いを犯しうる。もしクリスチャンが花Aと花Bとの距離を偶然誤認するとすれば、それが当てはまるだろう。

コメント:

ややこしいことが書かれているので、若干解説を加えておく。

クリスチャンは、花Aが神によって創造されたと信じている。よって、これは究極の観点(神が存在するという観点)からすれば、クリスチャンは花Aに関して正しい知識を持っている。一方、神の存在を信じていないノンクリスチャンの花Aに関する知識は根本的にすべて間違いということになる。

花Aと花Bの空間的位置関係に関して言うと、当然だが、究極的観点(神の存在)云々が問題となることはない。つまり、非信仰者でも花Aが1階にあり、花Bが2階にあると正しく言い当てることができる。一方、クリスチャンと言えども、花Aが2階にあり、花Bが1階にあると言い間違いをする可能性がある。


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#619 神の法第六戒

2020年11月23日 | 神の法
第6戒
死刑

237~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

検察当局によって使われた極めて特殊なからくりのひとつが、証人側として、州がDudley Boyleのアリバイを証明することができるひとりの男を呼んだことだ。そのアリバイとは、強盗のあった朝早く、彼はリーノーを離れ、自動車でゴールドフィールドまで旅行をしていたというもの。サマーフィールドはその男の名前を呼び、話しかけ、証言台から退去させた。その後、マッカラン(McCarran)は、ジョージ・バーレット裁判官によって、繰り返し却下されたため、その男に対する反対尋問をすることも、ボイルのアリバイ証明をその男から引き出すこともできなかった。これがニュース解説だとしたら、まともに信じることはできないであろう。写しは利用できる。最高裁上告後でさえも、エドワードダッカ―裁判官は、恐ろしいほど安直な判決を言い渡し、ボイルは懲役6年から20年の実刑に処せされ、州刑務所に収容された。彼は6年後に釈放されたが、その後自殺した。仮釈放のために努力していた時、マッカランに手紙を書いている。「私は無実だと、私もあなたも知っている。」不幸にも、これが、皆がひどく混乱している大恐慌時代にあったこと。スパークス銀行の所有者が有罪判決を望めばそうなる時代だったと想像する。

これは孤立したケースではない。

しかし、よくあるケースでもない。

起訴されたほとんどすべての人が有罪となるというのは、いまだに事実だ。

彼らは、殆どの場合、有罪を不服としている。

法の行使を止めること、法を破壊することは、そのような不義ゆえに、不法を混ぜ合わせること。

市民法や刑法の執行は、罪深い、堕落した人間の手の中にある。

法を堕落させるわけにはいかない。

法の執行の質を高めるために、より多くの従順をもたらすために、われわれは信仰心のある人たちを得る必要がある。

法の弱体化に関する答えはないが、今後数十年を必要とするだろう。

法を破壊するために不義を用いることは、不義の中でも極めて悪質な行為だ。

参考:

バベルの塔建設を助ける者に祝福はない

放浪と文明

呪いがなければ祝福は来ない

>クリスチャンになると、何も問題はなくなり、毎日ハッピーで、病気も、悩みも、苦しみも、死別も、災害も何もなくなります、というのは、偽伝道師である

御意の通り! 


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#618 神の法第六戒

2020年11月22日 | 神の法
第6戒
死刑

237~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

しかし、より重要なことは、若年化に関する状況。

FBI統一犯罪白書によると、1964年重大犯罪逮捕者の48%は、18才以下の子どもだった。重大犯罪の罪で警察によって正式に起訴された子どもたちの43.3%は、処分のため少年裁判所へ送検された。若年犯罪者の年齢のピークは15才。一般的に言えば、大都市ほど、全逮捕者に占める18才以下の子どもの割合は小さくなる。全国の子どもたちの1/9、全少年の1/6は、10才から17才の間に、少年裁判所と何らかの接触を持つと見積もられている。

1964年以降の数値は、さらに悪くなっている。

少年裁判所と関係のない子どもたちのほとんどは、人間教教育と宗教による無法状態の学校で学んでいる。

その結果、警察の手が回らない状況となっている。

「土曜の夜のバークレーでは、2000組もの鍋パーティーが行われる。各パーティーに対し密告者か警官を配置できるだろうか。」

法の背後にある信仰が失われると、法は破綻する。

死刑に対する敵意は、神の法に対する人間教ヒューマニズムの敵意。

しかし、神の支配は勝利し、神の代わりとなるものも明らか。

人と国家が神の法に従うか、あるいは神が彼らに対して死刑を発動するか。

起訴された人たち全員に関して、有罪となる率が極めて高いことを例示した。

このことは、潔白な人が非難されることは稀であるということを意味しない。

Dudley Boyleの例がそのようなケースだったと思われる。

炭鉱技術者で元気のよい若者だったDudley Boyleは、大恐慌の頃、スパークス銀行強盗の罪で逮捕された。

彼の弁護は、後のネバダ州上院議員となるMcCarran氏が務めた。

彼はBoyleの無実を確信した。

裁判によって、驚くほどの不正行為が明らかとなった。

McCarran氏の娘がその様相のいくつかを次のように要約している。

参考:

近代の間違い

信条の重要性
 
キリスト教対中立教


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#13 聖書信仰を堅持する

2020年11月18日 | 聖書信仰
初めに

4.両者の譲歩

p15~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

以下が、その(私ヴァンティルの)一節。

重さを量ること、長さを測ること、普通に理性を働かせることは、ひとつの統合された解釈行為の側面にすぎない。

自称「自律している人」は、自分が考えていることを絶対的非人間的原理として利用しつつ、粗雑で剥き出しの事実として、自分が考えていることの重さや長さを測定する。

一方、信仰者は、自分が神の被造物であることを知っており、神によって創造された事実として、そして神によって創造された法として、自分が考えていることの重さや長さを測定する。

従って、何か物事を見るという時、Kuyperが見込むよりも大きな共通領域を見込むことになる。

この大きな領域はある資格を共有する。

この資格により、われわれは、Kuyperが強調するよう教えてきたアンチテーゼに対して十分な評価を下すことができる。

また、この資格により、トマス・アクィナスの後パターン化された自然神学に堕ちることから守られる。

Kuyperはそれを拒否するようにわれわれに教えている。

コメント:

実に難解なことが書かれているが、流れとしては、主に信仰者と非信仰者の接点と乖離点について論じられている。

自称「自律している人」とは、自分という尺度を用いて自分(の考え)の整合性を判断する人であり、Rushdoonyが言うところの人間教徒(ノンクリスチャン)に類似する。

カントからヒューマニズムへと発展していく流れだ。

一方、クリスチャンは、神の諸事実(=聖書)を基準として、自分(の考え)の整合性を判断する。

ノンクリスチャンにせよ、クリスチャンにせよ、人が何かを見て判断する時は、ある共通(common)の領域(territory)があり、その領域内の知識・資格(qualification)に従って、その何かの整合性を判断する。

共通の領域とは、ノンクリスチャン・クリスチャンそれぞれが別個に共通する領域なのか、それともクリスチャン・ノンクリスチャン問わず共通の領域が存在するのかは、さらに読み進めてみないとはっきりしない。

次に、トマス・アクィナスの後パターン化された自然(natural)神学とは、どのような学問か。

調べてみると

トマス・アクィナス

この中で

トマスは、「物体としての天体は物体としての人間の身体には作用するが、非物体としての人間精神や意志には直接作用することはない。」と解釈してキリスト教神学とアリストテレスの自然哲学を調停した。

とあるので、神学というより哲学のようなものではないか。

さらに、つぎのサイト「トマス・アクィナスとは?『神学大全』や思想、神の存在証明とは?」を見てみると

記事の中に

「神の存在証明」
「キリスト教的価値観に理性という価値観を入れた」

とある。

この2点から、トマス・アクィナス哲学は反聖書的であり、広い意味でヒューマニズムの範疇に入る哲学と考えることができる。

つまり、異端。



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#617 神の法第六戒

2020年11月18日 | 神の法
第6戒
死刑

236~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

人間教徒たちにとって、これらの刑罰は重くて不必要のようだ。

実際には、人々を刺激する聖書信仰のように、刑罰は犯罪を減らすために働いた。

ニューイングランドが、矯正不可能な非行少年や両親に暴力を振るう子どもに対して、死刑を要求する法律を通過させた時、死刑執行は必要ではなくなった。

その法は、子どもたちを巧みに制御した。

実行する必要もなく、望みうる効果を保証する法律もあるのだ。

1920年代、Llewellynによって記載された例を引用しておく。

ニューヨーク公立図書館の本は、紛失することが度々あった。これは、若年者非行の分野に特徴的だった。機会は全ての人に開かれていたが、窃盗の代価は、若年者にしか見合わないほど些細なものだった。法令が通過し、図書館のスタンプのある本の展示は違法となった。図書館職員は、都内にあるすべての古本屋がこの法令通告を受けたことを確認した。とたんに、すべての窃盗事件がほぼ消失した。市場は大幅に利益を減らした。法の下で告発はなくなった。必要がないのだ。

このことがいつでも当てはまるわけではない。

人民の宗教的かつ道徳的性格が崩壊している時というのは、法を破る者の数が警察と遵法者の数を上回り始める。

人間教の法秩序の弱体化は、法を守らない人間教徒たちの過激な犯罪癖による。

犯罪者たちに対する寛大な憐れみにもかかわらず、告発された者の80%は罪の言い逃れをする。

残りの20%の中に有罪となる者もいるが、不平を言う一団が有罪率を落としてきた。

Mayerが注目するのは、次のようなケース。

彼氏にめった打ちにされたにもかかわらず、その彼が欲しいと女性に決断させるにいたった若い男のケースが目立つ。

法手続きの渋滞を解消し、遅延や費用の増大を避けるために、有罪判決を受けた一団の多くは減刑を申し立てる弁明が許されている。

警察によって捕まった100例中、50例は有罪の申し立てにより有罪、5例は裁判後に有罪、30例はお咎めなしで釈放、13例は罪状認否後審判前に釈放、2例は裁判後無罪放免。

つまり、誤りを免れない人のシステムにおいて間違いはあるけれども、よくあることではない。

正義はあまり切れ味は良くないが、しかしそれに代わる選択肢がない。

さらに、Mayerがニューヨーク刑事法廷について説明しているように、弁護士は決して帽子を脱がない。

なぜなら、もし刑事法廷ビル内のどこかで帽子を脱げば、だれかがそれを盗むからだ。

犯罪の実践場は、弁護士があらかじめ費用を徴収するための法の一部署。

もちろん、その理由は、彼らの依頼人の過激なほどの不誠実さにある。

参考:

アメリカを支配してきた勢力は反セオノミー、反ポスト・ミレである

間違った教えを異端と呼ぶことについて

白装束の集団とハルマゲドン病



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#12 聖書信仰を堅持する

2020年11月15日 | 聖書信仰
初めに

4.両者の譲歩

p14~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

c. Jesse De Boer

Jesse De Boerもまた譲歩する。

事実、彼は、次のようなことばによって、最初に読者たちを警告する。

「 多くの基本的事項に関して、私とヴァンティルとの間には一致する点がないと考えたがる人を励ますつもりはない。その考えは純然たる間違い。そのような間違いをしそうな読者もいるが、ヴァンティルの考え方の全領域の要約を提示することによって、その間違いの信憑性を検証するために時間を割こうとは思わない。つまり、彼と一致する私の考え方の領域全体がある。但し、神がまるで真理体系の部分であるかのように話しておられるのに対して、ヴァンティルは、古典的クリスチャン思考方法によって話しているという事実はあるのけれども。」

d. Orlebeke

Orlebekeは、特に、諸事実に関する私の見解を取り扱う。

彼は観念論者の見解についてこう語る。

ある事実の存在(being)は、その事実の存在認知(being-known)と同一であると。

私が存在beingと認知knowledgeの間の相互依存性という観念によって影響を受けているとする証拠があると彼は考えている。

にもかかわらず、ある事実の認知とその事実の存在は同一であるという定説(テーゼ)を、私が防衛したことがなく、またその間違いを前提としていることもあると彼は述べている。

Orlebekeが信仰者と未信仰者の間に共通域に関する問題を取り扱う時、如何に私が徹底的にKuyperの見解から逸脱しているのかを示すために、Masselilnkや他の神学者らによって参考とされる私の一節を引用する。

参考:

無神学の教会?

キリスト系列とバビロン系列

教会の中にサタンが毒をまいたのです



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#616 神の法第六戒

2020年11月11日 | 神の法
第6戒
死刑

235~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

聖書は、数多くの犯罪に対して死刑を要求する。

1.殺人、しかし偶発的な致死は除かれる(出エジプト記21:12~14)
2.両親を殴る、或は罵倒する(出エジプト記21:15;レビ記20:9;箴言20:20;マタイ15:4;マルコ7:10)この法を破棄したが故に、キリストは律法学者とパリサイ人を非難したことに注意しておきたい。
3.誘拐(出エジプト記21:16;申命記24:7)
4.姦通(レビ20:11~12,14)
5.近親相姦(出エジプト記20:11~12,14)
6.獣姦(出エジプト記22:19;レビ記20:15~16)
7.男色、同性愛(レビ記20:13)
8.不貞(申命記22:20~21)
9.いいなずけの処女を強姦(申命記22:23~27)
10.魔術(出エジプト記22:18)
11.人身御供(レビ記20:2)
12.矯正不可能な非行、習慣性のある犯罪(申命記21:18~21)
13.神への冒涜(レビ記24:11~14、16,23)
14.安息日の冒涜(出エジプト記35:2;民数記15:32~36)
15.偽教理の流布(申命記13:1~10)
16.偽の神々に対する生贄(出エジプト記22:20)
17.法廷の決定受け入れ拒否、律法の否定(申命記17:8~13)
18.誓約や委託保全反故(エゼキエル18:12、13)

処刑方法は、火あぶり(レビ記20:14;21:9)、石打ち(レビ記20:2,27;24:14、申命記21:21)、絞首(申命記21:22~23;ヨシュア8:29)、剣(出エジプト記32:27~28)。

剣の使用は、例外的状況下において行われた。

全例における基本要求は、刑罰の形式ではなく、死の刑罰そのものだった。

さらに、Careyは次のように指摘する。 

死刑は、二人以下の証人の証言により課されることは決してなかった(民数記35:30;申命記17:6,19:15)。特殊な場合において、申命記13:6~10、17:7にあるように、
処刑は証人たちによって施行された。ある場合には、処刑は会衆によって行われた(民数記15:32~36;申命記13:6~10)、或は、最も近い親族、血の復讐者により施行された(申命記19:11~12)。

参照:

異常人間を増やさないために教会がすべきこと

聖書が教える救いの意味2

前提主義から再建主義へ



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#11 聖書信仰を堅持する

2020年11月04日 | 聖書信仰
初めに

4.両者の譲歩

p13~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

b.Cecil De Boer

幾何学問題を解くためには聖書を認める必要があることを示唆することにより、私の絶対主義を批判する時、Cecil De Boerは以下のような注釈を添える。

ウエストミンスター神学校ヴァンティル教授に対して公平を期すために、最近になり彼は現行課題に関する初期の過激な主張を否認したようだと申し添えておいた方がよいだろう。彼のシラバスの中に、被造物はある特性と自己の活動を持つといった陳述や、未信仰者はある程度の限りにおいて真実である知識を持っているといった陳述を見かけることがある。にもかかわらず、そのような陳述は、彼の弁証学の一般的主旨から言えば柄に合ってないことは明白であるため、それらの公言はKuyper博士や他の博士らが一般恩恵と呼んでいる事柄に対するリップサービスに過ぎないと言っても決して間違いではない。

つまり、私ヴァンティルが未信仰者が持っている真理に対して一定の評価をしていることを彼は認めているのだ。

私の絶対主義は現在よりも当初の方がより絶対主義的だったと彼は付け加える。

その一方で、Cecil De Boerは、Masselinkと同様に、自分の絶対主義を持っている。

クリスチャンの生活様式とノンクリスチャンのそれとの間のアンチテーゼは、過大視されるべきではないが、防衛すべき持論をもって、クリスチャンはそのアンチテーゼは馬鹿げていると見ることはできない。

神の自己啓示を拒絶する未信仰者が現実に疎くなっているということを否定するクリスチャンはいない。

しかし、結局のところ、現実から疎くなっているにも加減があり、概して、神のイメージにおいて創られた人間であることを止めてしまうほど疎くなっているわけではない。

神のイメージの保持者として、未信仰者もそれなりに信仰者と共通点を持っているのではないだろうか。

未信仰者にとって、宇宙の創造主であり扶養主としての神の考えは意味がないわけではない。

何故なら、意味があるからこそ、彼はそれを完全には否定することがないのだろう。

参考:

クリスチャンをご隠居にするキリスト教の時代は終わった

地を従えよ

>ディスペンセーション主義もダーウィニズムも、ヘーゲルの「歴史とは、相反するもの同士の対立と合一という試行錯誤を繰り返して進化する過程である」という考えを、一方は神学に、他方は生物学に取り入れた思想なのである。
とある。
このことはRushdoonyもThe Institutes of Biblical Lawの中で明言している。
この考えをイデオロギーに取り入れたのがマルクス共産主義思想。

神の法だけがヒューマニズムの反文化運動を阻止できる



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#615 神の法第六戒

2020年11月04日 | 神の法
第6戒
死刑

234~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

精神異常者申し立てに戻るが、ロスアンゼルスなどの都市には、すでに独立した精神病法廷があり、多くのケースが照会されている。

「その法廷は、精神病院への入院依頼、市民および犯罪者による麻薬、精神異常の疑われる犯罪者の市裁判所への送致を含む精神疾患を有するすべてのケースを取り扱う。」

死刑廃止運動は「モラルのための医療」へと置き換えられ、敬虔な法の規準のひとつである「個人責任の法的理論」を否定する。

無宗教者の蛮行のための門戸は、精神医学的アプローチによってすでに開かれている。

個人の責任、個人の罪、個人の処罰の代わりに、団体の責任、団体の罪、団体の処罰に重点が置かれる。

犯罪者ではなく、多くの場合、社会が、そして家庭が非難される。

罪がないということが危険となるであろう時代が間もなくやってくる。

何故なら、無罪が最も大きな罪となるであろうから。

このことは、すでに市民権革命論者の信念となっている。

ある裁判例における弁護が、法律の方向性を示している。

精神異常を理由に、時期を逸脱してまで無罪を主張する強姦容疑者は、法廷に2つの理由を提示した。

(1)彼には異常な染色体構造がある。
(2)女性たちに拒否されたと思った。

事実、Mennigerは次のように表明した。 

女性の無意識の恐怖は男性を刺激して、征服したい、恥をかかせたい、傷つけたい衝動へと駆り立て、あるいは典型的な女性らしさを無力にしたいという衝動に駆り立てる。

レイピストは罪を犯してはいない。

彼の恐れ、そして恐らく彼の染色体が彼をレイプに駆り立てる、

Menningerは、無罪人が実は有罪であるとする彼の信念を明確に示した。

犯罪者に罪はない。

彼は社会によって罪を犯すよう駆り立てられた。

ミネソタ州聖パウロ教会John Connollyは、上院議員ロバート・ケネディ殺人に対する裁判が始まった時、サーハン・ベシャラ・サーハンについてこう述べた。

「この貧しい男サーハンは、とても惨めな生き物だと思う。こんなことをするように駆り立てられる人がいるなんてとても想像できない。」

仮にサーハンや他の犯罪者が「駆り立てられた」男たちであるなら、一体誰が駆り立てたのか、そして、それ故その駆り立てた者が有罪となる。

もし犯罪者が環境によって罪を犯すように運命づけられているなら、ヒューマニストは、このことを断言することにより、神による予定論の代わりに、環境による決定論を用いてしまったことになる。

参考:

「エルサレムの平和のために祈れ」について

異端者の特徴

愚か者と争うな


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