みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#59 The Days of Vengeance, NO.59

2024年10月24日 | 報復の日々

p119~
The Dominion on the Dead
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

無料で読むことができたサイトが閉鎖されてしまった。

全文無料で読むことができる別のサイトが確かあったと思ったが。

・・買ってしまうのがベター。


◇◇


サルディス:死者に対する裁き

3章1-6節


1.サルディスにある教会の天使に書き送る。神の7つの霊、7つの星を持つお方が言われる。「私はあなたの行ないを知っている。あなたは生きているが、死んでいるという噂されている。」

2.目を覚ましなさい。そして、死につつあるが、まだとどまっている事々を増強せよ。というのは、私の神の目から見て、私はあなたがたの行ないが完了したとは考えていない。

3.それゆえ、あなたがたが受け入れ、耳にしたことを思い起こしなさい。それを守り、悔い改めよ。もしも目を覚まさないなら、私は盗人のようにやって来る。私が何時くるか、あなたがたは知らない。

4.サルディスには、衣を汚していない者が幾人かいる。彼らは、白い衣を身にまとい、私とともに歩む。彼らはそれにふさわしい。

5.勝利を得る者は、白い衣を身にまとうことになる。命の書からその者の名を消すことはしない。私の父とみ使いたちの御前で、私はその者の名を告白する。

6.耳ある者に、聖霊が諸教会に言うことを聞かせなさい。


1節

サルディスにある教会の司教へ。神の七つの霊を持つ者として、キリストご自身が宣言する。

すでに見たように、これが聖霊の定義であり、ニカイア使徒信条宣言にあるように、御父と御子に由来する。

Rev 1:4  ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から

キリストもまた、教会のみ使いである七つの星を持つ。

Rev 1:16  また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。 

Rev 1:20  わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。 

教会統治者はキリストによって認められ、キリストに対して全責任を負っている。

サルディスの長老たちは、絶対にこのことを覚えておくべきだった。

何故から、彼らは教会が死ぬことを許してしまったからだ。

 

 


#83 基礎教理 Led by the Holy Spirit

2024年10月23日 | 基礎教理

Led by the Holy Spirit


◇◇

あなたはこのことを何回聞いたことだろうか。

「聖霊がこれをするように言ったのか、あれをするように言ったのか」と。

私たちクリスチャンは、強く強く警戒しなければならない。

確かに、聖霊なる神は私たちを導いて下さいます。

しかし、新約聖書において、聖霊の導きに関する最も重要なことは、誰と結婚すべきかとか、どのような仕事に就くべきかとか、どの町に住むべきかとかということではない。

聖霊の一義的な導きは、聖へと至るための導きである。

聖書に書いてあるように、これが神のみ旨であり、あなたの聖化にある。

私たちの内におられる聖霊は、私がクリスチャンとして、より従順となるために働いておられる。

 

 


#82 基礎教理 Nothing Can Happen by Chance

2024年10月20日 | 基礎教理

Nothing Can Happen by Chance

◇◇


自存する永遠なる神によってこの世界は創造されたことを否定する、今日の大多数の批評家たちは、全実存の始まりに対して、無から生じる何かを強く主張する。

宇宙は偶然によって創造されたと言う時、数学的可能性を記述するための申し分のないことばを使いこなし、そして、そのことばに魔法の力を吹き込んだ。

何かが偶然によって起こりうるという時の偶然とは何だろうか。

偶然によって起こりうることは何もない。

何故なら、偶然からは何も起こらないからだ。

私はかつて、ハーバード大学教授と議論したことがある。

氏は、宇宙は偶然によって創造されたと私に話した。

このことに関して、私は、この問題を例証するために硬貨を使って、氏に議論を吹っ掛けた。

氏にこう言った、「私に50%のチャンスがあるとする。それを空中に放り投げたら、表の出る確率はどれ位か。」

氏は言った、「50%、フィフティー・フィフティー。」

「では、硬貨の投げ方によって(表の出る)確率はどれ位影響を受けますか。」

氏は尋ねた、「どういう意味かね。」

「表が出るか裏が出るかの仕方は、力の入れようや大気の濃度、硬貨にかける回転数等によって決定される、また、硬貨をここで掴むのか、それともこっちで掴むかによっても違う、掴んだ後硬貨をひっくり返すのか、ひっくり返さないのかによっても違う。

これらは皆変数。

偶然は、(それらの変数によって)どの程度の影響を受けるのだろうか。

彼は私の言っていることが分かっていないようだった。

「数学的な可能性を説明するために、偶然ということばを使おうというのであれば、それは極めて有用なことばだ。

しかし、偶然が、何かを行なうことのできる力であるとするなら、偶然とは(実存する)何かであると言っていることになる。

では、それは何か。硬貨の裏と表を決める、この不可思議なファクターXとは何か。」

氏は私をじっと見ていた。

「ちょっと待てよ。偶然とは、行なう何かではないい。何故なら、偶然とは実存する何かではないから。」

振る舞う何かであるためには、まず最初にそれが存在しなければならない。偶然とは(実存する)物ではない。

それは何物でもない。

実存しない。

宇宙が偶然から創造されたと言う時、宇宙は無から創造されたと言っているのと同じこと。

数学的な可能性を記載する偶然という素晴らしいことばを発明し、それに魔法の力を吹き込み、偶然と言うことばに存在論的地位を与え、存在しない何かに行なう力を与えた。

これが、創造論の代用として使われている基本的な考え方です。

さて、宇宙は永遠であり、常にある存在であるという議論があることは知っています。

これはまだ別の問題です。

自存的存在、すなわち永遠の神によって、この世界が創造されたことを否定する大多数の批判家たちは、全(物質的)実存に対して、無から生じるある種の始まりを主張する。

帽子からウサギどころか、帽子もない、ウサギもない、マジシャンもない状態からウサギが飛び出るようなもの。

これはマジックよりもひどい、単なる夢物語ではないか。

 

 

 


#58 The Days of Vengeance, NO.58

2024年10月19日 | 報復の日々

p118~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇


26-29節

迫害され一見弱体化したテアテラにある教会。

これは良い知らせだった。

当時、彼らは強力な経済的、政治的権力の恵みを享受していた。

国家統制や国家崇拝は厳しくなり、男性クリスチャンは偽預言者や異端によって誘惑された。

テアテラにおいて忠実なクリスチャンであるということは、艱難、苦難を意味し、必ずしも賞賛されるべき状態ではなく、新聞の見出しを飾るような苦難を意味した。

キリストのことばに忠誠する、日々続く辛くて単調な生活。

好景気の只中にあって、職を失ったり、あるいは人を雇入れることができないという事実。

彼らの周囲の人たちは皆、少しばかりの香を焚くことができる程度の賃金のために働いたり、異教徒の祭壇から得られた少量の肉を食べたり、同意した上で「害のない」程度の性行為に従事していた。

大きな道徳的な革命を起こしうるような機会もなかった。

人々は、彼らを奇妙な連中と考えていた。

夜な夜な子供たちは食べ物のために泣いていた。

このような類の殉教は、決して魅力的なものではなかった。

しかし、忠実であり続けた者たちは、勝利を得ることが約束され、キリストとともに支配することが約束された。

状況は真逆だったが、まさにテーブルがひっくり返されようとしていた。

救うため、裁くために、キリストは来ようとしていた。

このようなクリスチャンの苦難は、世界の終わりではなく、むしろ始まりを意味した。

長くて暗い夜の到来のように思われたのは、実は諸国民に対するキリスト勝利の前ぶれであった。

彼らが経験する小競り合いは、世界によるキリスト敗北の兆候ではなく、ついに戦争が始まることの確信であった。

詩篇2編の預言は、彼らの主が勝利を得て、彼らとともにおられるということを保証するものであった。

キリストが背教のイスラエルとローマ帝国全体に光を向けた結果、暗闇に入ろうとしていたのは、異教、国家主義、ユダヤ教であった。

しかし、クリスチャンにとって、夜は終わった。

贖われた者たちと解放された万物は、明るい日中へと入った。

キリストは、彼ら勝利者に、明けの明星を与えようとしていた。

 

 


#682 神の法第六戒

2024年10月18日 | 神の法

第6戒
9.軍法と生産

p279~
Military Laws and Production
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

第7に、戦争は子どもの遊びではない。

必要な事態とはいえ、それは冷酷で残忍である。

イスラエルが戦争を仕掛けたカナン人は、神によって死刑の宣告を受けた。

霊的に、倫理的に、彼らは堕落していた。

あらゆる種類のこじつけは、実質的に宗教的な行動だった。

宗教的理由による売春の多くは、聖所で日常的に行われた。

以上から、神はカナン人を全滅するように命じた。

Deu 2:34  そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。 

Deu 3:6  私たちはヘシュボンの王シホンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶した。 

Deu 20:16  しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。 
Deu 20:17  すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。 
Deu 20:18  それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。 

Jos 11:14  これらの町々のすべての分捕り物と家畜とは、イスラエル人の戦利品として自分たちのものとした。ただし人間はみな、剣の刃で打ち殺し、彼らを一掃して、息のあるものはひとりも残さなかった。 

その理由は、彼らが神による死刑宣告を受けたからであり、イスラエルの汚染を避けるためであった。

同様に堕落した同族、あるいは近隣の民は、全滅ではなく、男と結婚している女は殺害されたが、若い処女は取って置かれた。

Num 31:7  彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺した。
 
Deu 1:1  これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。 
Deu 1:2  ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。
Deu 1:16  またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。 

Deu 20:16  しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。 
Deu 20:17  すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。 

Num 31:17  今、子どものうち男の子をみな殺せ。男と寝て、男を知っている女もみな殺せ。 
Num 31:18  男と寝ることを知らない若い娘たちはみな、あなたがたのために生かしておけ。 

その他の諸外国においては、質の良い場合、捕えられた女性は結婚することができたが、奴隷や捕虜として扱うことはできなかった。

Deu 21:10  あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕えて行くとき、 
Deu 21:11  その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、 
Deu 21:12  その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、 
Deu 21:13  捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところにはいり、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。 
Deu 21:14  もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。 

このことは、国民の特徴において、 カナン人と他の民族の間に違いがあったことを示している。

このような規定は、現代では非難されるのが一般的であるだが、皮肉にも、歴史上最も野蛮な行為や全面戦争に至ることが多かった。


 

 


#57 The Days of Vengeance, NO.57

2024年10月17日 | 報復の日々

p117~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇


26-29節

この箇所における引用の要点は、クリスチャンの勝利者は、当時の地上においておキリストのメシア的支配に預かることが約束されたということ。

あらゆる対立にも拘わらず、国民の上にご自身の王を制定された。

Psa 2:1  なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。 
Psa 2:2  地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。 
Psa 2:3  「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」 
Psa 2:4  天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。 
Psa 2:5  ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。 
Psa 2:6  「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」 

神の命令に忠実である者たちは、世を支配し、神の法に従ってご自身の栄光のために世を再建する。

詩篇2篇は、御国に敵対し、打ち破ろうとする悪人の虚しい試みを、神はあざ笑うことを示している。

すでに神は、御子に「天と地におけるいっさいの権威」を与え、時代の終わりまで、ご自身の教会ととともに在られる。

Mat 28:18  イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 
Mat 28:19  それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 
Mat 28:20  また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 

王が打ち負かされることがありうるだろうか。

実際、主は、すべての地上の支配者たちにご自身の統治に委ねるように警告している。

さもなければ、滅び去るであろう。

Psa 2:10  それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。 
Psa 2:11  恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。 
Psa 2:12  御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。 

同様のことが主にある教会にも当てはまる。

われわれに仕えない国民は滅びるであろう。

Isa 60:12  あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。 

地上のすべての民は、われわれの足下で抑えられるであとう。

Psa 47:1  すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。 (47:2) まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。 
Psa 47:2  (47:3) 国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。 
Psa 47:3  (47:4) 主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。セラ 

この約束は、元来イスラエルに対してなされたが、今や新イスラエルである教会において成就するであろう。

 

 


#81 基礎教理 God Is Present When His People Suffer

2024年10月15日 | 基礎教理

このテーマは、前回シリーズで拝聴したJohn Piper師のメッセージThe Second Coming: Wrath and Rescueと似ている。

今回からしばらくの間、R.C. Sproul師によるショートメッセージを聴こうと思う。

短時間で聖書のエッセンスに触れることができる。


God Is Present When His People Suffer: Ultimately with R.C. Sproul

◇◇


イエスは言われる、「私の民は恐らく苦しむだろう、いやそれは必ず起こる。」

困難なこともなく、危険な目に合うことなく、苦しむこともなく、災難に会うこともなく、私たちはそのようなクリスチャンライフを送るであろうと神は約束してはいない。

テレビに出演している宣教師がそこに立ち、もし十分な信仰があれば、クリスチャンは苦しくこともなく、病気になることもなく、死を経験することもない、そのようなことを約束するのを聞いて、私は怒りが込み上げて来る。

何故なら、それは真実ではないからだ。

聖書は、苦難の民としての神の民の歴史をくり返し語っている。

「自身の民の苦難はある程度避けられない、いや必ず起こるであろう」とイエスは言われる。

そのことを私はくり返し指摘してきた。

この世において、あなたがたは艱難に会う。

苦難に遭遇する。

痛み、悲しみ、万事そのようなことを経験するであろう。

苦痛のない人生、死のない人生、危険も危機もない人生が送れる、そのような絶対的約束を、神から頂いたことはない。

神が無条件に約束されたこと、イエスを通して私たちに絶対的に約束されたこと、それは神ご自身の臨在である。

「私はあなたとともにいる。」

否定形では、「私はあなたを決して見捨てない。」

 

 

 


#56 The Days of Vengeance, NO.56

2024年10月14日 | 報復の日々

p117~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇


Rev 2:18  また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。 
Rev 2:19  「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。 
Rev 2:20  しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。 
Rev 2:21  わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。 
Rev 2:22  見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。 
Rev 2:23  また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。 
Rev 2:24  しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。 
Rev 2:25  ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。 
Rev 2:26  勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。 
Rev 2:27  彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。 
Rev 2:28  また、彼に明けの明星を与えよう。 
Rev 2:29  耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』 


26-29節


御子なる神は、全世界と全国民は、ご自身のメシア的王権の配下になるであろうと考えていた。

Psa 22:27  地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。 
Psa 22:28  まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。 
Psa 22:29  地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。 
Psa 22:30  子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。 
Psa 22:31  彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。 

Psa 46:4  川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。 

Psa 46:10  「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」 

Psa 65:2  祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。 

Psa 66:4  全地はあなたを伏し拝み、あなたにほめ歌を歌います。あなたの御名をほめ歌います。」セラ 

Psa 68:31  使節らはエジプトから来、クシュはその手を神に向かって急いで差し伸ばす。 
Psa 68:32  この世の王国よ。神に向かって歌え。主に、ほめ歌を歌え。セラ 

Psa 86:9  主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。 

Psa 102:15  こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。 
Psa 102:16  なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ、 
Psa 102:17  窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。 
Psa 102:18  次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように。 
Psa 102:19  主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。 
Psa 102:20  捕われ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。 
Psa 102:21  人々が、主の名をシオンで語り、エルサレムで主を賛美するために。 
Psa 102:22  また、国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。 

Psa 138:4  主よ。地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。 
Psa 138:5  彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。 

Psa 145:10  主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめたたえます。 
Psa 145:11  彼らはあなたの王国の栄光を告げ、あなたの大能のわざを、語るでしょう。 


御国に対抗しようとする勢力は何であれ完璧に破壊されるであろう。

この箇所において預言されているが、キリストが普遍的王となられた事実は、初臨-誕生、死、復活、そして昇天-において起きたことは明らかである。

多くの新約聖書における詩篇2編と110編(両者はキリストの王権に関する記事)を調べれば、このことは容易に納得できる。

 

 

 


#80 基礎教理 Does Regeneration Precede Faith? NO.1

2024年10月13日 | 創世記

Does Regeneration Precede Faith?

ディスペンセーション主義プレミレから脱出することができた直後に与えられた基礎教理。

ネットを調べてみると、こんな単純で分かりやすい真理を受け入れることができずにゴネてる人たちがいる。これは驚きだ。普段どんな聖書の読み方をしているのだろうと首を傾げたくなる。

しかも、口汚く罵るばかりで論理性が欠落しているので、否定したい理由がさっぱり分からない。

John MacArthur - Regeneration Precedes Faith

John MacArthur師はカルヴァン主義者ではなく、福音派牧師。基本的なことが分かっていない。

R.C. Sproul - Regeneration Precedes Faith??

Those who believe regeneration precedes faith are unsaved!

Does Regeneration Cause Faith?

この動画はやや論理的だが、原典に基いて議論していないので、物足りなさと空滑り感がある。

◇◇

人間側に一縷の望みを抱きたい気持ちは分からなくもない。

しかし、改革派は total depravityを主張する。全的堕落、すなわち全的絶望だ。

信仰を持つ前、われわれは罪という名の深い深い海の底にいた。そこは罪に塗れた暗黒の世界。自力で脱出することは絶対に不可能。では、どうやってわれわれはそこから脱出できたのか。まず最初に神の御手が働いたのだ。それ以上の議論は必要ない。

◇◇

彼らが引用している聖句を見てみよう。

ローマ10:17
faith (comes) by hearing, and hearing (comes) by the word of God.

信仰は聞くことによる、聞くことは神のことばによる。

「による」の原語は、ἐκ, ἐξ、すなわちout of。

信仰は聞くことから出てくる、つまり、生み出されるということ。

聞くことは神のことばから出てくる。

神のことばは神から出てくる。

ここまで書けば、自ずと答えは出てくる。

信仰は神から出てくる、人からではない。

使徒16:30、31
And brought them out, and said, 
Sirs, what must I do to be saved?
And they said, 
Believe on the Lord Jesus Christ, 
and thou shalt be saved, and thy house.

この聖句を引用して、「新生は信仰に先立つことはない」と主張する。

パウロは、信仰を持った後のことを伝えている。

信仰を持ったなら、自身と家族が救われる。

今問題となっているのは、信仰を持つ以前の話だ。

改革派教理は、新生→信仰→救い、ということ。

この教理と上の使徒30:31の内容は、お互いに矛盾してはいない。

16章全体を読むと、神が背後で働かれていることがひしひしと伝わってくる。つまり、神の御手が働いて、信仰を持つことができるということ。

自分の力で信仰を持つことができるという考え方は、極めて驕り高ぶった考え方であることを指摘しておく。

さて、時間がもったいないので、スムーズに理解できるメッセージを掲げておく。

Does Scripture Really Teach that Regeneration Precedes (and Enables) Faith?

Regeneration Precedes Faith

Does Faith Cause Regeneration?

最後のJohn Piper師のメッセージは特に有用。

References: ヨハネ福音書3章、エゼキエル36章

 


#17 再臨 The Second Coming: Wrath and Rescue, NO.14

2024年10月10日 | 再臨

The Second Coming: Wrath and Rescue
 

1時間22秒から最後まで。


◇◇

驚嘆することにより、主を称賛する。

テレビやらこの世のことやら、あるいは全銀河などよりはるかに主を思うこと。

それらも驚きだがキリストはそれよりもはるかに驚嘆すべき存在。

主はどのようにそれをなさるのか、どのようにあなたをふさわしい者とされるのか。

最後の文章二つ。

2Th 1:5  このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。 

あなたがたの苦難は、神の義なる裁きの証拠であって、あなたがたを神の国に十分相応しい者とするためです。

そのために、あなたがたは苦しみを受けているのです。

もし私が、この章において強調しているような者でないとしたら、祈りを通して、主ご自身が宣教を成し遂げることになります。

スモールグループに対して、主が宣べ伝える。

いや、そうではありません。

この章にはそういうことは宣べられていない。

この章には、苦難と呼ばれる神の義なる裁き、そして神の国に相応しくされるための苦難が書かれています。

主が来られる時、恥じるのではなく、私たちは主を称賛し、驚嘆する。

この箇所は、おもに迫害について焦点を当てていると考えることができます。

何故なら、あなたがたは、すべての悪人たちに報復するからです。

すべての神が定められた苦難から、神の目的を推定することができます。

すなわち、その苦難は、私たちの驚嘆へと向きを変えるようにデザインされているのです。

私たちの驚嘆へと向きを変える。

これは否定的な考え方ではありません。

向きを変える(redirect)ということばを選びましたが、以前にこのことばを使ってことはありません。

聖書的には罪ある驚嘆(迫害のことか)を殺すと言えるのではないか。

ただ今はこのようにしておきます、「向きを変える」と。

何故なら、驚くことは良いことだからです。

ある世界に驚くことは良いこと。

ご承知の通り、自然はあなたを驚かせます。

神は、苦難を、その世界に対する驚嘆へと向きを変えて、その上にキリストを覆い被せる。

それが苦難によって起こること。

それが、あなたの民に起こらなければ、彼らは十分に教えられてはいないということになる。

彼らは教えられなければならない。

自然に任せていてはそうなりません。

あなたがたが彼らに教えるのです。

あなたがたがすべき主なことは、彼らが癌に罹患する前に、どうすれば癌になるのか、どうすれば愛する人を失うのかを彼らに教えるのです。

人々が現実を理解できるように、あなたがたが教えるのです。

現実とは、神がお与えになった苦難であります。

彼らが神の国に相応しい者と見なされるように。

ただ私はここにいて、この世界に対してうめき声をあげ、私の背中に横たわる苦難がもはや私の気を引くことがなくなる。

絶望して、私はそれより大きなものを望む。

神に対して怒りをぶつけることも、またそれを見出すこともない。

来たる義なる裁きは、主の再臨の頂点の時にやって来る。

すべては満足し、キリストに驚嘆する。

(祈り)