みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#36 The Days of Vengeance, NO.36

2024年07月27日 | 報復の日々

p101~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

9-10節
Rev 2:9  「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。 
Rev 2:10  あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。 


そして、自分をユダヤ人と自称するがそうではない者たち、すなわち迫害者たちの冒涜についても、主はすべてをご存じである。

初代教会の前に立ちはだかる対立の正体を主は知っていた。

ニコライ派と称される人々、すなわち偽使徒バラムやイゼベルの支持者たちは、自分たちはユダヤ人、アブラハムの子らであると主張するが、実は悪魔の子らであることが明らかだった。

この者たちは、キリストを拒絶した、従って、アブラハム、イサク、ヤコブの神を拒絶したイスラエル人。

有名な話にこうある、「ノンクリスチャンのユダヤ人が旧約聖書の神を信じる真の信仰者であり、彼らの十分足りている宗教に、新約聖書を付け加えるだけで良い。」

しかし、新約聖書がこの点について妥協することはない。

ノンクリスチャン(のユダヤ人)は、神を信じる信仰者ではなく、契約を破棄した背教徒である。

ヨハネ8:39-44
Joh 8:39  彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。 
Joh 8:40  ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。 
Joh 8:41  あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」 
Joh 8:42  イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。 
Joh 8:43  あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。 
Joh 8:44  あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。 

クリスチャンではない者が正統なユダヤ人とは言えない。

旧約聖書を信じるユダヤ人なら、キリストも信じるであろう。

キリストを信じない者は、モーセも信じない。

ヨハネ5:46
Joh 5:46  もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。 

 

 


#35 The Days of Vengeance, NO.35

2024年07月26日 | 報復の日々

p101~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

9-10節
Rev 2:9  「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。 
Rev 2:10  あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。 


スミルナにおいて、クリスチャンであることは容易なことではなかった。

確かに、自分たちが受けている艱難から、自分たちが「携挙される」ことはなかった。

信仰の堅持の故に、このこと(クリスチャンであること)は、同時に貧困を意味することが多かった。

彼らは財産の没収や剥奪行為に晒されることもあったようだ(cf. Heb. 10:34) 。

Heb 10:34  あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。 
 
国家崇拝者や背教ユダヤ人との連携を拒否したために、経済的ボイコットの対象となったものと思われる(cf. 13:16-17) 。

Rev 13:16  また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。 

貧しい中にあっても、最も基本的、根本的なことにおいて彼らは富んでいた。

この世には貧しいと思われても、大いに富んでいた。

何も所有していなくても、万事を所有していた。

第2コリント6:10
2Co 6:10  悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています

あなたがたが堪え忍んでいるあらゆることを、私は知っている。

主は彼らを安堵させる。

彼らのあらゆる苦悩においてご自身も苦しみ、苦悩を共有することによって、主は彼らと思いを同じゅうする。

イザヤ63:9
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

ピューリタン神学者ジョン・オーエンが述べたように、私たちのすべての苦難は第1に主の苦難であり、参加することによってのみ私たちの苦難となる。

コロサイ1:24
ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。 

 

 

 


#10 携挙 The Return, NO.2

2024年07月25日 | 携挙

The Return: What Did Jesus Do? - Understanding the Work of Christ with R.C. Sproul


6分からまで9分21分まで。

◇◇


さて、パウロが第1テサロニケで語っていることは携挙であると考え方は、今日の教会で広く知られている。

教会は空中に携挙され(引き上げられ)、3年半または7年半、あるいは艱難の間、そこにとどまる。

そして、その期間が終わると、主イエスが再び来られる。

つまり、その時点で2度の再臨があるという。

パウロが第1テサロニケにおいて記していることについては、深刻な誤解があると私は思うのです。

今日の文化や教会における、その学派の指導者のひとりと話をしたことがあります。

彼は前艱難携挙説を教えており、彼の刺激を受けている人たちは大勢います。

前艱難携挙説とは、迫害や大艱難を受ける前に教会は引き上げられ(携挙され)、苦悩や苦難を免れるというもの。

私はその指導者に問いました、「助けて下さい。聖書のどこに前艱難携挙を教えている箇所があるのか分かりません。何処に書いてあるのか教えて下さいますか」と。

その指導者が私に言ったことを決して忘れることができません。

彼は言いました、「ええ、何処に書いてあるか見つけることはできません。しかし、私がまだ小さかった時から、そのように教えられてきたことです。」

そこで、私は言いました、「誰かが何年も前に話した日曜学校からではなく、聖書から神学を組み立てましょう」と。

さて、パウロがここで言っていることは携挙ではありません。

もしそうなら、歴史上最悪な秘密となってしまいます。

ラッパの大音響とともに栄光の雲に乗ってやって来るイエスの降臨を、そしてキリストにあるすべての死者のよみがえりを記しているのです。

あらゆる目は彼(の降臨)を見ることでしょう。

しかし、それは秘密裡に起こると言われています。

そうではなく、この出来事は、これまで以上に誰にでも分かり、目に見える形で起こります。

では、ここで起きていることは携挙とともに進行するのでしょうか。

もう一度見てみましょう。

「主は自ら、大声とともに、大天使の声とともに、神のラッパとともに、天から下って来られる。そして、キリストにあって死んだ人たちが最初によみがえり、それから生きている人たちが、彼らとともに雲の中で引き上げられ空中で主とお会いする。」

すなわち、よみがえった死者と生きている私たちが空中に引き上げられる目的は、私たちがどこかに消え去ってしまうことではなく、再臨する主イエスとお会いすることなのです。

主は、私たちをこの世から取り去ろうとしているのではなく、この世の外に留めようとしているのです。

ご自身の勝利の凱旋に参加させるために、私たちを引き上げようとしているのです。

 

 


#9 携挙 The Return, NO.1

2024年07月24日 | 携挙

携挙という教えに対するR.C. Sproul師の見解。

以前に参照として掲げたことがあるが、丁寧に読み込んでいこうと思う。

これまでの検討から、携挙は聖書に存在しない教えであるという見解に変更はない。

◇◇

要旨:

第1テサロニケ4:15
For this we say unto you by the word of the Lord, that we which are alive and remain unto the coming of the Lord shall not prevent them which are asleep.
(KJV)

unto the coming of the Lord の原典は

εις την παρουσιαν του κυριου

comingと訳された原語はπαρουσίαで

παρουσίαとは、strong辞典によると

παρουσία
parousia
par-oo-see'-ah
From the present participle of G3918; a being near, that is, advent (often, return; specifically of Christ to punish Jerusalem, or finally the wicked); (by implication) physical aspect: - coming, presence.

παρουσίαとは、戦いに勝利したローマ兵が大歓声とともに凱旋帰国したときのような状況を指す。聖書では、世界の終末における主イエスキリストの再臨を表現する場合に使われる。

従って、第1テサロニケ4章13節~18節は主の再臨を宣べていると解釈するのが正統。

同4:16
・・それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり

「よみがえり」と書いてある。

死者の復活が起きるのは、主の再臨の時以外にあり得ない。

マタイ27章に記載されている死者の復活もこれに近似した内容と考えられるが、詳細は不明。

その時生きているクリスチャンも、瞬時のうちに霊の体に創り代えられて(よみがえって)主を迎えることになる。

そして、神の国の民は地上で主をお迎えして、天に昇ることなく(4章にそんなことは書いていない)主とともに地を支配する。全く欠けのない完成化した神の国の樹立、すなわち新天新地の到来。

過去記事を参照のこと。

参考:

Understanding the Parousia: The Last Days According to Jesus with R.C. Sproul

◇◇

では、始めます。


☞ The Return: What Did Jesus Do? - Understanding the Work of Christ with R.C. Sproul

最初から6分まで。

◇◇

本日、キリストの務めに関する一連のメッセージの最後となりました。

終末におけるイエスの再臨を手短に見ていこうと思います。

再臨の時、主イエスは御国を完成させます。

地上における主の務めは十字架と復活において完了し、昇天して、御父の右に座しておられますが。

にもかかわらず、主の再度の来臨があるのです。

主の御国の務めを完了させるために、世の終わりに主はもう一度来臨されます。

さて、長年に渡って、諸教会はイエスの再臨を祝福された希望と考えてきました。

ここで、このことについて簡単にコメントしておきます。

主イエスの再臨は、私たちの希望です。

見ることに恋焦がれ、経験したくて待ち切れないことです。

新約聖書の最後のことばは、Even so, come, Lord Jesus(しかり、主よ、来てください)。

さて、英語において、hope希望ということばを使う時、わたしたちは、起こることを願う何か或いは、起こることが見たい何かを指します。

しかし、それが実際に起こる保証も確証もありません。

今年はスティーラーズがスーパーボールで勝つと思うかと聞くとします。

私は、「そう希望するが、賭けをするつもりはないよ」と答えるでしょう。

しかし、新約聖書の語彙において、ギリシャ語で希望を意味することばelpisは、必然性を欠く何かではありません。

新約聖書で言うところの希望とは、神によってなされる、成就することが必然であるところの、将来における約束のことを言います。

疑う余地がないのです。

私たちはこの希望をいただいており、神によって、聖霊によって与えられたこの希望は、決して消え去ることなく、私たちが恥をかくようなものでもありません。

この希望は祝福されていて、主イエスの再臨を確約する祝福です。

さて、主イエスの将来の再臨に関して、新約聖書には多くの記事が書かれています。

一回のメッセージにおいて、それらをすべて積み上げるだけの時間的余裕はありません。

再臨に関する事柄のいくつかを、パウロがテサロニケにある教会に宛てた書簡を通して見て行きたいと思います。

まずは第1テサロニケ4章13節を見てみましょう。

パウロはこう書いています。

「しかし、あなたがたが先に眠りについた人たちについて無知であって欲しくありません、兄弟たち。全く希望のない他の人たちのように悲しむことのないように。主イエスが死んで、そしてよみがえったと信じるなら、そうであるならなおのこと、イエスとともに、神はイエスにあって眠っている人たちを連れて来られるでしょう。それで、主のことばによって、あなたがたにこう言います。主の来臨の時まで生き残っている私たちが、眠っている人たちよりも先になることはありません。大きな叫び声とともに、大天使の声とともに、神のラッパの音とともに、主は天から下りて来られます。キリストにあって死んだ人たちが最初によみがえり、それから生き残っている私たちが、空中で主と会うために、雲の中に彼らとともに引き上げられます。かくして、私たちはいつも主といることになります。それ故、これらのことばとともに、お互いに励まし合いなさい。」

さて、ここに書かれていることは、一般には携挙と呼ばれるパウロの教えです。

携挙とは、主イエスの来臨に関してであり、主とともに聖人たちが空中に引き上げられることを指します。

この出来事については、多くの誤報や偽情報があると考えます。

しかしながら、携挙に関して、十分に理解しておくべき事項がいくつかあります。

第1に、主イエスの再臨は目に見える出来事であるということ。

それは肉体的であり、勝利的であるということ。

初臨の時のように、貧しさの中、静けさの中で来臨するのではない。

この時の来臨では、勝利の中、力の中、栄光の中、栄光の雲に乗って、主は来られる。

秘密裏にではなく、目に見える形で来臨する。

昇天に関する最後のセッションを覚えていると思うが、天使は弟子たちに話しかけました。

「ガリラヤの人たちよ。何故、天を見上げながら、ここに立っているのですか。この同じ神であるイエスは、同じように戻って来られます。」

つまり、私たちは目に見える来臨を切に期待しているのです。

栄光の雲の中を、見守られながら天に昇られたように、栄光の雲とともに、見守られながら主は再びやって来られます。

 

 


#34 The Days of Vengeance, NO.34

2024年07月23日 | 創世記

p99~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇


予定説の教えの対立概念は、「自由」でも「有意義」でもない。

もし私たちの人生の最も些細なところが、神のご計画の部分ではないとしたら、また、神によって決定され創造された事実ではないとしたら、私たちの人生は全く意味のないものとなってしまう。

私たちの人生は、善をなすためにともに働くことができなくなってしまう。

神の統治という真理を理解しているクリスチャンは、その人生には意味があり、目的があるということに確信を持っている。

そして、ご自身の栄光のために、また私たちの究極の善のために、万物をお定めになられたという確信がある。

このことは、私たちの苦しみさえも、調和したご計画の部分であるということを意味する。

私たちが神と敵対している時でさえ、神は私たちを見捨てるという恐れを抱く必要がない。

私たちは神の目的に従って召し出されたが故に(Rom. 8:28)、人生における万事は、その目的(達成)に必要な部分である。

マルチンルターは、「神が偶然的に予知することはなく、ご自身の不変の、永遠の、朽ちない意志に従って万事を予知しているということを、クリスチャンが知ることは基本であり健全である」と述べている。

逆境におけるクリスチャンの主な慰めは、神は決して嘘をつかず、万事を不動の如くに通過させ、神のご意志は決して抗がうことができず、変えることもできず、また妨げることもできないということにある。

キリストは初めであり終わりであるばかりでなく、死んで、よみがえったお方である。

死が勝利に飲み込まれるために (1 Cor. 15:54)、主にあって死んだすべての人たちの初穂として(lCor. 15:20-22)、私たちの復活を保証するために、主は死に完全勝利したお方である。

第1コリント15:20-22
1Co 15:20  しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 
1Co 15:21  というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。 
1Co 15:22  すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 

第1コリント15:54
1Co 15:54  しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。 

迫害者の暴力や残酷行為にもかかわらず、この世においても、次の世においても、スミルナのクリスチャンは打ち負かされることはない。

 

 


#74 基礎教理 Do You Bear Fruit? NO.8

2024年07月21日 | 基礎教理


Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)

54分52秒から最後まで。

◇◇


ありがたいことに、私の妻は私がどんな人か良く知っています。

しかし、そのことを私と張り合う手段として使ったことはありません。

クリスチャンライフの重要性を良く知っているからです。

靴下が見つからなくでいらいらしている時をわきまえています。

如何にイエス様と違うか想像できるでしょう。

グレイの靴下が見つからないという大きな試練に苦しんでいるからです(笑い)。

しかし、「それでメッセージできるの?見つからなくていらいらしてるでしょ」と彼女は言いません。

証明済みであるけれども、彼女は正直な男と結婚したと思っているはずです。

キリストに従いたいと思っている男と。

しかし、事は単純です。

私もただの男です。

分かりますね。

私が説教することもありますが、神がそれをなさるのです。

「どうしたのかしら。彼はどうなっちゃたのよ」と人々は思うでしょう。

彼はどうなっちゃたのかしら、と。

人々は驚くに違いない。

私がこの学校で説教していた時のこと、リバイバルが起こりました。

リバイバルと大騒動が同時に起きました。

学校の半数は大いに満足し、半分は私を殺そうとしました。

学生たちは「ポール兄弟、あなたは自分の栄光に浴するために、ペルーに行くと言うのですか」と聞きました。

「その通りです。」

「神のしもべから学ぶために、私はペルーに行きます。」

私が使徒パウロであるかのように思いながら、彼らは飛行機から下りました。

2が月後、私の救いを祈りながら、彼らはあの飛行機に乗り込んできました。

私は聖を真剣に捉えています。

あなたが「どうでもよい」と考えるような人ではありません。

あなたがどのような人で、あなたがたの牧師がどのような人であるかを教えたいのです。

彼らは誠実な人たちであると信じます。

私の家で2日間彼らと過ごしたことがあります。

彼らの誠実さや願いを知っていますが、私は靴下を見つけることができないただの人です。

分かって欲しいと思います。

神によって祝福されつつ用いられて欲しいからです。

自分はある程度の霊的段階に達していて、実際神はあなたがたを用い始めているとあなたがたの多くは思っているはずです。

もしそうなら、その段階がどのようなものか私は分からないし、私はそうは思いません。

私の伯父が宣教に携わっていた頃、私にこう言いました。

それは、私が学んだことのある中で、最も偉大なことのひとつでした。

彼はこう言いました。

「ポールよ。神のために何かができる人は大変少ない。何故かというと、中へと切り込んでいく、あるいは、出て行って事を成すために、ある段階や完璧な状況にあるまで待っているからだよ」と。

彼は「今出て行って事を成せ」と言いました。

さて、これで終わりにして、今夜再度取り上げようと思います。

もうひとつ言っておきましょう。

誠実なクリスチャンがこのことを十分に理解するならば、これは大変役に立つということも真実です。

弱さはクリスチャンライフにおいて障害ではありません。

それは刺激剤です。

問題は、クリスチャンが弱いということではない。

自分は弱くないと思っていることが問題なのです。

自分がどれくらい弱いと思っているのか教えてあげましょう。

では、テストします。

この1週間、聖書にどれ位の時間を費やしましたか。

祈りにどれ位の時間を使いましたか。

「ごくわずかの時間」と答えた人は、自分が弱いと思ってはいません。

祈りやみことばを通して、キリストに頼ろうとしていますか。

そうでない人は、偽の謙遜をもって私のところに来ないでください。

聖書で叩きます。

自分が如何に弱い存在なのか分かっていないのです。

どのようにしたら弱さの聖書的意味を理解できるでしょうか。

朝起きて目を開ける。

そして、我思う。

「恵みを乞い願い、祈りの中で神の御名を呼び求めるまで、右へも左へも一寸も動きはしません。」

「主よ。寝室の床に降り立つまでの間でさえ罪を犯すかもしれません。」

「あなたの恵みがなければ。」

「ここから床へと転げ落ちるかもしれません。」

「あなたの恵みがなければ。」

「嗚呼、神よ。あなたが必要です。」

「それがすべてです。」

「われらを試みに合わせないでください。」

「主よ。これは恵みのお願いです。」

「恵みがなければ、落ちてしまいます。」

「私には力がありません。」

しかし、次のように言う人がいるかもしれません。

「ポール兄弟。私たちには恵みがあるじゃないか」と。

確かにありますが、さらなる恵みを願ってもよいのではないでしょうか。

弱さという点から、またクリスチャンライフの無力性という点から、私たちはさらなるさらなるさらなる恵みを求めてもよいではないか。

弱さを知れば知るほど、その人の悲壮感は大きくなり、キリストへと走り、すがるようになります。

すると、その人はより強くより大きくなります。

分かりますか。

これは基本中の基本です。

私は、無駄となるような試練や弟子訓練、神命は好みません。

それは、あなたがキリストへと走り寄り、力を求めるために用意されています。

悪魔は嘘つきであり、殺人者です。

嘘をつきながら人を殺します。

失敗した瞬間、次のように言ってきます。

「お前は昨日も罪を犯し、罪の中で失敗しているではないか」と。

「昨日罪を犯したじゃないか。」

罪が、あなたの人生において取りついているように見えます。

つまり、あなたはその罪を犯しているのです。

そして、次のような思いが脳裏をよぎります。

「罪の赦しを求めて、キリストのもとに走り寄るなら、キリストへと走りすがりつくなら、私は偽善者ではないのだろうか」と。

昨日悔い改めたが、同じことを繰り返している。

つまり、実は私は悔い改めてはいなかった。

2日前に冒した罪を昨日悔い改めた。

それじゃ、私はただの偽善者ではないか。

その時、声がします、「ああそうだ、お前は偽善者であり、偽善そのものだ。」

「キリストのところへは行くな。彼はお前が欲しくない。これを取れ。ペナルティボックスに行くがよい。」

これが地獄からやって来る嘘。

本当の悔い改めは、その罪を捨て去るはずです。

しかし、真の悔い改めのしるしとは、罪のない完璧なものではありません。

「私はその罪を捨てた。その罪を憎んでいる。」

私が犯したその重大な罪が何たるかを知りたい。

私がもがいているもの、それは不信仰と心配。

不信仰と心配。

極めて些細なことで、不安になり心配している自分を見出す。

そして、それは罪と分かる。

神は、常に大きな問題から私たちを救い出してくれています。

しかし、悩む。

それを悔いて、憎み、捨てる。

神が救い出してくれます。

その時、別の状況が生まれます。

神が私を如何に救ったかという過去のことから学ぼうとせず、極めて些細なことにくよくよ悩んでいる自分を見出す。

悔い改めなかったのか。

いいえ、悔い改めた。

この手続きは進行中。

そして、徐々に徐々に、さらなる大勝利を実感し始めます。

私が体験したこととはこうです。

「この罪を犯したのは100回目だ。神のところへ戻る必要はない。大した罪ではない。」

悪魔はあなたにそう信じこませるでしょう。

しかし、弱さを自覚するその度毎に、神の下へとくり返し走るべきです。

それが主イエスのことばです。

そのようにイエスは宣べなかったでしょうか。

ペテロは、「何度まで兄弟を赦すべきでしょうか」と主に問いました。

「7回までとは言いません。 7回を70倍するまでです」と主はお答えになりました。

主は回数を言わずに、際限なく赦すべきだと言いました。

主はご自分が宣べたことを実践しないでしょうか。

罪に対して無頓着で、何も気にしない、地獄から脱出するチケットとしてイエスを利用するような人のことを言っているのではありません。

誠実なクリスチャンで、罪と格闘しているあなたのことを言っているのです。

その格闘の最中で、主の下にはもどれないと思い続けているのではないか。

何かおかしい。

この祝福はこの事から自分を解放してくれないじゃないか。

極めて困難であるけれども行わなければならないことを知っているはずです。

書き記して欲しい。

極めて困難であるが、クリスチャンライフにおいて行わなければならないこととは何か。

最も険しい山であるが、登らなければならない山とは何か。

極めて困難ではあるが、成し遂げなければならないこととは何でしょうか。

それはこれです。

神ご自身が言っているまさにその通りに、神はあなたを愛して下さっているということを信じること。

何と素敵な山登りではないですか。

改心していない教会員の方々もこれを聞いて前進して下さい。

素晴らしい祝福が満ち溢れています。

一方、新生したクリスチャン、真のクリスチャン諸君たちも前進して欲しい。

もしそうなら、愛がそれほどに無条件であるあるなら、祝福がそれほどに無償であるなら、あらゆる苦境の際に主に走り寄るなら、何度それを繰り返そうとも、主の下へと立ち返るのであれば、主は両手を広げて、あなたがを迎え入れて下さいます。

そして、すべての罪を赦し、すべての不義からあなたを清めて下さいます。

聖であるとを慕います。

身を捧げることを切に願います。

お祈りしましょう。

父よ、みことばに感謝します。

主よ、あなたのことばを信じ、あなたの約束を信じることができますように。

主よ、告白します。

疑う理由を与えられたからではなく、あなたのような人が一人もいないからです。

あなたのような手本は他にありません。

あなたのような愛以外、あなたの下さる祝福以外、他の何物もありません。

時に、主よ、あなたが下さった約束があまりにも素晴らしすぎて、信じられないことがあります。

私たちには素晴らしすぎるのです。

主よ、信じられる者として下さい。

信じることによって、あなたを賛美できる者として下さい。

イエス様の御名によってお祈りします。

アーメン。

 

 


#33 The Days of Vengeance, NO.33

2024年07月20日 | 報復の日々

p99~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇


スミルナ:偽イスラエルに対する裁き(2:8-11)

Rev 2:8  また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んだが生き返った方が言われる。 
Rev 2:9  「わたしは、あなたの行ないと艱難、そして貧困を知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。 
Rev 2:10  あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。 
Rev 2:11  耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』 

8節

スミルナ(そこにある教会には重大な問題があるという意味)には2つの特徴があった。

第1に、その町の住民は帝国カルトを強く熱愛していた。

第2に、スミルナには、キリスト教信仰に敵対するユダヤ人が多数いた。

そのような未信者らの迫害に苦しめられていた、この信心深い教会に、イエスキリストは、ご自身を「初めであり終わりである」と宣言する。

神のこの御名は、イザヤ書44:6と48:12に由来する。

イザヤ48:12
Isa 48:12  わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。 

これらの聖句の内容から、神を、最高位の主、歴史の決定者、あらゆる現実の計画者であり支配者として同定していることは明らか。

予定説という教えは、正しく理解される時、クリスチャンにとって恐れの源とはならない。

それは、安楽と保証の源泉となる。

 

 


#32 The Days of Vengeance, NO.32

2024年07月18日 | 報復の日々

p98~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

7節
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

◇◇

各メッセージにあるように、エペソの教会宛ての手紙は、霊が教会に言っていることに耳を傾けるように勧める。

それぞれのメッセージは、各教会の必要性において異なるが、御霊が提示する基本的命令は「打ち勝て」の一点にある。

ギリシャ語動詞「ニカオnikaoはニコライ派Nicolaitanの語幹と同じ。

キリストは、教会を打ち負かそうとする者たちに対抗し、勝利する責務を教会に課す。

戦いにおいて、一方または他方が勝利者となる。

サタンの教会への対抗手段は様々な形式をとり、種々の教会と教会の種々の時代は、様々な問題や様々な打ち勝つべき敵に直面する。

如何なる問題に直面しようとも、各教会は、神の敵対者を征服し凌駕せよという神の勅令下にある。

勝利の責務は、自分たちを神に献げ、通常のクリスチャンへの要求をはるかに超える選ばれし少数「超クリスチャン」のために留保されたものではない。

全クリスチャンは勝利する者たちである。

神から生まれしことは何であれ、世に勝利し、世に打ち勝つことこそが勝利、すなわち信仰である。

第1ヨハネ5:4
1Jn 5:4  なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 

「子羊の血潮ゆえに、自分たちの証しのことばゆえに」、黙示録において語られているクリスチャンはみな悪魔に勝利した者たち(12:11)。

問題は、勝利か敗北かではない。

勝利か反逆かだ。

クリスチャンは勝利する。

そして、キリストは、我が神のパラダイスにある命の木の実を食べる特権をクリスチャンに与える。

これは別世界の希望などではない。

この約束の完全なる成就は歴史の終わりにもたらされるのだが、神の民が主に従い、地を支配するに従って、現在そして徐々に神の民の所有となっていく。

なぜなら、命の木はイエスキリストご自身であり、命の木を食べることは、救いの祝福と特典を受けることを意味するからである。

キリストにあって勝利するクリスチャンは、この世においても、永遠においても、回復したパラダイスをすでに享受している。

 

 


#31 The Days of Vengeance, NO.31

2024年07月17日 | 報復の日々

p97~
The Spirit Speaks To The Church: Overcome!
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

確かなことが一つある。

ニコラオという名の男にちなんで、ヨハネは彼らをエペソの異端宗派と呼んでいた。

その理由は、言語的考慮に基いているようだ。

ギリシャ語のニコラオスは、「民の征服者」を意味する。

興味深いことに、7つのメッセージの3番目において、ヨハネはペルガモの異端グループに言及している。

ヨハネがバラムの支持者と呼んでいるグループだ (2:14)。

ヘブル語で、バラムは「民の征服者」を意味する。

エペソのニコライ派をペルガモのバラム派に引っかけて、ヨハネはことば遊びをしている。

事実、彼らの教えは同じである(2:14-15)とヨハネは明らかにする。

ニコラオとバラムがお互いに同一のことばであるように(9:11に同様の技法が見られる)、教えにおいても同一である。

ニコライ派もバラム派も同じ異端カルトに属する。

この帰結は、さらなる結びつきによって強固となる。

ニコライ派やバラム派の異端と、第4のメッセージ (2:20)において言及されているテアテラの教会のイゼベル派の支持者を比べると、こららの教えも同一であることが分かる。

かくして、これらの特殊な異端は終末の日々における教会宛てのメッセージの集約であり、神の民を偶像礼拝や姦淫へと誘う異端であることが推察されよう。

ヨハネは、クリスチャン共同体の中に羊を食い荒らす狼が出現することや、牧師/天使は神の民をしっかりと守り、教会から彼らを追い出す義務があることを予言している。

ニコライ派の行ないを憎むとキリストは宣言する。

キリストが愛することを愛し、キリストが憎むことを憎むことによって、神の民はキリストのイメージを前面に押し出す。

詩篇139:19-22
Psa 139:19  神よ。どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。 
Psa 139:20  彼らはあなたに悪口を言い、あなたの敵は、みだりに御名を口にします。
Psa 139:21  主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。 
Psa 139:22  私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。 

 

 

 


#26 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2024年07月15日 | 創世記

第1章
キリスト教神学

p32~
Chapter 1
Christian Theology 
Part One 
The Structure of My Thought  
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

言葉で言い表すことのできない神のご性質は、神の超越性を強調する。

言葉で言い表すことのできる神のご性質は、神の内在性を強調する。

これら2つは、お互いの意味を暗示する。

超越性に関するキリスト教観念と内在性に関するキリスト教観念は調和する。

クリスチャンとして、神の超越性と内在性の両者を信じると言ったとしても、それは一神教の十分な説明にはなっていない。

多神教徒は、神の内在性のみを信じており、理神論者は神の超越性のみを信じている。

われわれクリスチャンが信ずる超越性とは、理神論者が信じる超越性ではない。

われわれクリスチャンの信ずる内在性とは、多神教徒が信じる内在性ではない。

理神論の場合、超越性とは実質的に分離を意味する。

一方、多神教の場合、内在性とは実質的に同一性を意味する。

分離に同一性を加えるなら、結果として、一神教は存在しなくなる。

われわれクリスチャンが一神教としての神について言う時、それはある特定の神を意味する。

同様に、われわれクリスチャンがある種の超越性とある種の内在性について言う時、それはある特定の超越性と内在性を意味する。

神に関する教理は、創造された宇宙と神の関係について明確な概念を含む。

つまり、神に関する教理は、創造された宇宙にある万物の明確な概念を含む。

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神の超越性と内住性に関する定義が説かれている。