みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Anointing Him Beforehand, #2

2016年10月31日 | 聖書研究・信仰
これらの聖句において、主イエスは「あらかじめ」ということばを用いて、時間的ファクターを紹介している。

この時間的ファクターとは、今日我々も新規に応用できる何かだ。

その時マリアにとって重要であったように、そのファクターは今の我々にとっても重要なものだ。

来たるべき時代において、より大きな仕事を為すために召し出されるであろう。

「よくやった、良い忠実なしもべよ」

「あなたは少しのことに忠実であった」

「私は多くのことをあなたに用意しよう」

「汝の主人の喜びの中へ入れ」

(マタイ25:21、cfマタイ24:47、ルカ19:17)

もちろん、より大きな仕事はあるだろう。

神の家の仕事は絶えることはないだろう。

ちょうど、そのストーリにあるように、貧しい者たちの世話が続いたように。

貧しい者たちはいつも弟子たちといる。

しかし、彼らはいつも主といることはできなかった。

香油の注ぎ出しによって象徴される何かがあった。

その何かを、マリアはあらかじめ行なう必要があった。

そうしなければ、彼女はその機会を失ってしまっていたであろう。

以前とは決してそうではなかったが、その日には我々も主を愛するであろう。

今日主のためにすべてを注ぎ出した者は、大いに祝福されるであろう。

顔と顔を合わせながら主と相見える時、我々は皆主のために、すべてをぶち割って注ぎ出すであろう。

しかし、今日、我々は何をすべきなのだろうか。




Anointing Him Beforehand, #1

2016年10月30日 | 聖書研究・信仰
「彼女をそっとしておきなさい」

「なぜ面倒をかけるのか」

「あなたがたは貧乏な人々とはいつも一緒にいるではないか」

「あなたがたは彼らにいつでも良いことができる」

「しかし、私とはいつも一緒とは限らない」

「彼女はできることをしてくれた」

「埋葬のため、あらかじめ私の体に油を注いてくれた」

(マルコ14:6-8)




Ministering To His Pleasure, #6

2016年10月29日 | 聖書研究・信仰
他の者から眼を逸らせ。

汝の主を見よ。

もう一度主に問うてみよ。

最も高い価値を置いているものは何か。

無駄の法則とは、主が我々を統治している時に働く法則だ。

「彼女は私のためにこれを行なった」

無駄に自分を主に注ぎ出している時にのみ、本当の満足が神の御子の心にもたらされる。

これだけ多くを献げているのに、何も得ていないかのようだ。

これが主を喜ばす秘訣なのだ。

友よ。

我々は次に何を求めるのか。

弟子たちがそうしたように「用いること」を求めるのか。

弟子たちは300ペンスの1ペニーさえも最大限に利用しようとした。

彼らが問題にしたのは、測ることができ、かつ記録することができるという点で、神にとっては確かに「有用」であった。

しかし、主は我々がこう言うのを待っておられる。

「主よ、もはやそんなことは気にも止めません」

「主よ、あなたがお喜びになるなら、それで十分です」





Ministering To His Pleasure, #5

2016年10月28日 | 聖書研究・信仰
結局、このことから私は何を得ればよいのだろうか。

彼は楽しい時を過ごしている。

私には何も良いことがない。

彼はこんな歩みをしたことがない。

主にあるクリスチャンが霊的繁栄とみなしている多くを彼は得ている。

しかるに、私にはありとあらゆるトラブルが降り注いている。

これはいったいどういうことか。

人生を無駄にしているのか。

本当にもう十分にやり尽くしたのか。

これはクリスチャンなら皆が通る問題だ。

もしあの兄弟の歩みに従っていたらどうなっていただろうか。

言うならば

祝福のために十分自分を献げてはいるが、艱難を乗り越えて行ける程十分ではない。

主が用いて下さるほどに自分を献げてはいるが、何も語るなと主に言われる程十分ではない。

これで万事は完璧に大成功だ。

しかし、それで良いか。

そうではないことは十二分に承知をしているはずだ。




Ministering To His Pleasure, #4

2016年10月27日 | 聖書研究・信仰
結局、大変実践的な問題に戻らなければならない。

人は言う。

「あなたはあの地位を諦めた」

「あなたはあの奉仕活動を諦めた」

「明るい未来に満ちた魅力的な前途の先を行っている」

「こんなふうに主とともに歩むために」

さあ、主に仕えよう。

私の言うことを聞いて下さっていると思われる時がある。

然るべき答えのために待たされていると思われる時がある。

私を用いて下さっていると思われる時がある。

しかし、私を通り過ぎていると思われる時がある。

では、今回もそのようなら、こうしよう。

大きな組織にいる他のキリスト者と自分を比べてみる。

彼にも明るい未来があった。

それを未だに諦めてはいない。

彼は主への奉仕に邁進している。

彼は魂が救われていくのを見る。

主は彼のミニストリーを祝福している。

彼は成功者だ。

物質的にではなく、霊的に、だ。

彼の方が自分よりも主にあるキリスト者らしいと思うことがある。

とても幸せそうであり、とても満足そうだ。




Ministering To His Pleasure, #3

2016年10月26日 | 聖書研究・信仰
次のことを忘れないで欲しい。

主に対して自分を無駄に注ぎ出すことなしに、主が満足することはない。

主に対して多くを与え過ぎたことはあるか。

ひとつ言っておきたい。

我々の中に次のようなことを学んだ者たちがいる。

霊的奉仕において、無駄の法則とはパワーの法則であることを。

(キリスト者の)貢献度を決定する法則とは、まさに散乱の法則だ。

神の御手にある実際の貢献度は、「無駄」によって測られる。

やればできると思えば思うほど、限界まで自分の才能を生かそうとする。

時には限界を超えてまで頑張るだろう。

やればできると思えば思うほど、主の法則ではなくこの世の法則を適応しようとする。

神の方法は、我々の中でこの主の法則が確立されるようにデザインされている。

主のために行なう業が主に対する奉仕から湧き出るのが主の法則だ。

何もしなくてよいと言っているのではない。

我々にとっての第1は主ご自身であって、主の御業であってはならない。




Ministering To His Pleasure, #2

2016年10月25日 | 聖書研究・信仰
罪人たちの益を強調しすぎるのは良くないと思う。

我々がまだ十分理解できていないことがある。

主が最終ゴールとして視野に入れているものとは何かということだ。

福音がなければ、罪人は凌いでいくことはできないと思ってきた。

しかし、これは本筋ではない。

嗚呼、主を賛美します。

確かに、罪人にも己れの分がある。

神は罪人の必要を満たし、彼の上に祝福の雨霰を降らせてくれる。

しかし、それは最も重要な点ではない。

第1のこととはこれだ。

すべては神の御子の満足に対してあるべきだということ。

主が満足している時にのみ、我々も罪人も満足する。

主を満足させるために出ていきながら、自分は満たされなかった魂に会ったことはない。

それはあり得ない。

まず主が満足した後、間違いなく我々が満たされる。




Ministering To His Pleasure, #1

2016年10月24日 | 聖書研究・信仰
「福音が宣べ伝えられるところは何処でも・・」

この婦人が行なったそれは話されるであろう(マルコ14:9)

何故主はこれを言ったのだろうか。

何故なら福音とはこのようなことを生むから。

それが福音の目的だ。

福音とは、単に罪人を満足させることではない。

主よ、賛美します。

罪人は満足するだろう。

しかし、その満足は福音の副産物に過ぎず、福音本来の目的ではない。

福音が宣べ伝えられる第1の理由は、主が満足するためだ。




Coffee Break, #56

2016年10月23日 | コーヒーブレイク


Spirit requires flesh to express himself.


肉を通して、神はご自身を表す。
肉を通して、サタンは悪を表す。




Chapter 14: Waste, #15

2016年10月23日 | 聖書研究・信仰
我々は多くの集会に申し込み、多くの大会で宣べ、多くの福音キャンペーンで主をシェアする。

できないことではない。

フルに労苦し、フルに用いられることは可能だ。

しかし、主のための努めにおいて、絶え間なく働くことに主はそれほど関心がない。

それは主の第1の目的ではない。

主への奉仕が目に見える形で、あるいは分かる結果で測られることはない。

主の第1の関心は、我々の立ち位置にあり、主の頭に香油を注ぐことにある。

我々が石膏の箱として持っているものは何であれ-最も貴重なことであれ、我々にとって最も親愛なる何かであれ、それらを皆差し出す。

主の十字架によって生み出される命の流出。

それが我々から流れ出ていく。

ある人たちにとっては無駄。

これを理解すべきキリスト者の中にも、これを無駄だと思う者がいる。

しかし、これが主がなかんずく求めておられるもの。

満足すべき主への献身は、不断なき奉仕の中にあるのだろう。

しかし、主は奉仕を中止する権利を留保しておられる。

我々を留めているのがお務めなのか、主ご自身なのかを我々に見いだして欲しいからだ。