みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#66 基礎教理 Parable of Lazarus and the Rich Man, NO.3

2024年06月03日 | 創世記

Parable of Lazarus and the Rich Man: The Parables of Jesus with R.C. Sproul

15分00秒から最後まで。

◇◇

そこから出て、他の場所へと自由になるために控訴できる法廷はない。

セカンドチャンスという考え方を考慮することもない。

アブラハムよ。誰でもセカンドチャンスの権利を与えられているのではないのか。

アブラハムは答える。

神がそのような権利を与えているという記載を、私は見たことがない。

仮に神が与えているとしても、大分前にあなたはその権利を使い切ってしまっている。

あなたは第2,第3、第4のチャンスを使い切って生きてきた。

しかし、あなたは悔い改めなかった。

憐れみをかけることもなかった。

完全に自分のことしか考えず、自己中心的だった。

責任を取るべき日が来るという考えをあざ笑い、善なる神、愛なる神、恵みあふれる神が実は卑劣、たちが悪くて、もがき苦しみの場所へとあなたを閉じ込めたと思っている。

しかし、神の愛する子は、くり返しくり返しあなたに警告を発したではないか。

イエスは天国のことよりも地獄のことを教えたではないか。

以前にあなたの口から出たすべてのむだなことば、謹直なことばではなく、熟練したことばでもなく、意図的なことばでもない、それほど容易に口から転がり出たそれらのことば、言わなくてもよいことば、軽薄なことば、そんなことばのすべてが裁きの対象となると、イエスキリストは言ったのでなかったか。

たったひとつの事でさえ、父の告発から逃れることはできない。

裁きの時、すべての舌はその動きを止められるであろう。

そして、いくら言い逃れようとしても全くの徒労に終わることを知るだろう。

すべてをご存じの完璧な裁判官と議論することは不可能。

残念ながら、子よ。

そこから出てここに来ることはできない。

金持ちは理解した。

そして、今度は彼が乞食となった。

この例えは、ラザロが乞食で始まったが、今や金持ちが物乞いをしている。

彼は言う。

父よ、あなたに乞い願います。

ラザロを私の父の家に送ってください。

私のところに送ることができないのなら、あなたと私の間に超えることのできない淵があるのなら、ラザロがそこを渡ることができないのなら、ラザロを私の父の家へ送ってください。

私には5人の兄弟がいます。

こんなところで彼らと会いたくはありません。

このようなもがき苦しみの場所へと来ないように、彼らのところに送ってラザロに証言させてください。

アブラハムは言った。

ラザロを送れと言うのか。

宣教の旅か。

天国からか。

あなたの家に行って、あなたの兄弟のために特別な啓示をせよと言うのか。

父の王国で楽しんでいる至福の時を邪魔しろと言うのか。

あなたの家に行って、あなたの兄弟たちに話をしろと。

ふざけるな。

何故彼らはラザロが必要なのか。

彼らにはモーゼがいるではないか。

家には聖書があるではないか。

彼らには預言者がいる。

彼らは預言者の声を聞けばよい。

金持ちはことばを返した。

いやいや、そうでない、それは足しにはならない。

それでは、彼らは納得しない。

私の兄弟たちは俗物だということを知っているだろう。

彼らの心は堅く閉ざされている。

霊的なことに目を向けようとはしない。

モーセ律法や旧約聖書の預言者たちの預言なんぞくだらないと思っている。

注意を向けようとするはずがない。

しかし、死者の中から誰かが、例えばラザロが彼らのところに行けば、彼らも話を聞くにちがいない。

そうすれば、悔い改めるだろう。

兄弟たちが悔い改める必要があるとその金持ちは分かっていた。

もしも悔い改めなければ、今自分がいるところが最後の場所となるだろう。

アブラハムは彼に答えて言った。

もしも彼らがモーゼや預言者の言うことを聞かないのなら、死人の中からよみがえった者の言うことも聞かないであろう。

イエスはこのことを聞く人たちに話している。

モーゼの言うことを聞かない。

預言者の言うことを聞かない。

父が私を死者の中からよみがえらせたと言っても、あなたはそれを聞かないだろう。

聞かない理由は聞きたくないから。

聞く耳がない。

聞く耳がない理由は、聞く耳を持ちたくないから。

神ことを考えたくないから、地獄のことも考えられないのです。

死は怖い。

主から受ける最も冷静な警告のひとつがこの箇所です。

今が私たちの永遠を保証する時であるという警告であります。

死んでからでは遅すぎる。

遠すぎる。

お祈りしましょう。

父よ。

モーゼと預言書の言うことに耳を傾けることができるようにお手伝いください。

そして、イエス様の言うことに。

主の御名によってこのことをお願い致します。

アーメン。

 

 

 


#63 基礎教理 Ask, and it shall be given you, NO.9

2024年05月23日 | 創世記

Prayer: Guaranteed to Succeed! - Charles Spurgeon Sermons

47分02秒から最後まで。

◇◇

あなたは大したことのないぼろ切れを着ているのだろうか。

求める者は誰でも受ける。

あなたは罪で汚れているか。

それは重要ではない。

探す者は誰でも見出す。

自分は神から完全に締め出されたと思うか。

それも重要ではない。

叩きなさい。そうすれば、ドアは開くであろう。

求めた者は皆受けた。

そこに選びはないのか。

疑いなく、それは絶対にある。

しかし、それが制限を受けないこの真理を変えることはない。

求めた者は誰でも受けた。

何てリッチな聖書箇所だろうか。

誰でも求めた者は受けた。

われらの主がこのことを語られた時、証拠として、主はご自身の命のことを指し示していたのだろう。

このことに関連して、キリストを受けなかった者は、キリストを求めなかったのだということを示すことができる。

主がカナン人の女を子犬になぞらえた時、彼女の願いは最初聞き入れられなかった。

しかし、子犬でさえテーブルから落ちたパンくずは食べますと勇気をもって話した時、求める者は誰でも受けるということを見い出すのです。

同様に、人込みの中でイエスの背後に来て、彼の衣のすそに触れた婦人。

彼女は求めなかったが、探す人だった。

そして、見出した。

このように、すべてに対して答えがあると思う。

激しい悲しみの中にある人が、「長いこと、救いのために神に叫んでいる。求め続けている。探し続けている。叩き続けている。しかし、答えはまだ来ない」と言う。

親愛なる、諸君。

真実なることが求められれば、神はあなたとともにおられます。

私は誰を支えているか知っている。

自分を信じる前に、神を信じるように勧めます。

神は祈りを聞いて下さっている。

救いの祈りの前にひとつ大事なことがあることを忘れてはいないか。

それは福音。

祈れば救われると福音書には書いていない。

それは福音ではない。

彼は救われるとは思うが、私があなたに宣べ伝えるように言われている福音はそうではない。

全世界に出て行って、すべての被造物に福音を宣べ伝えなさい。

信じて、洗礼を受ける者は、救われる。

さて、あなたは、救って下さるように神に求め続けている。

信じて、洗礼を受けなくても、神はあなたを救って入れると思い込んでいる。

ご自身のことばを無視するように神にお願いをするという図々しさはなかったのかもしれない。

神はこう言うであろう。

「あなたに命じる。御子を信じなさい。私を信じる御子は永遠の命を持っている。」

あなたはイエスキリストを信じていますか。

もちろん、完璧に信じています。

そうですか。

それなら、もはや救いを求める必要はないのではないか。

すでに、あなたは救いを手にしている。

あなたは救われている。

心の底からイエスを信じているなら、あなたの罪は赦され、あなたは救われている。

次回主に近づこうとする時、祈りとともに、賛美をもってそうしなさい。

歌い、主の御名を賛美しなさい。

しかし、私はすでに救われていることを、どのように知ることができるのだろうか。

ある人はこう言う。

バプテスマを信じる者は救われると神は言っている。

信じましたか。

バプテスマを受けましたか。

そうであるなら、あなたは救われている。

どうして分かるのか。

全世界の最善の証拠として、神がそう言っているから。

そのための証拠が欲しいのか。

私はこう考えたい。

あなたの考えは神の証言より優秀か。

神の証言以上のしるしを求めることによって、神を嘘つき呼ばわりしたいのか。

次のこと以外に私自身の救いを信じるための証拠を、私は持ち合わせてはいない。

心の限り、知性の限り、力の限り、私はキリストのみに安息している。

他の避難所はない。

そのようなことなら、これを求める必要があるという証拠となるだろう。

他の証言は、あなたの心に恵みが時に適って届き、あなたの回りに群れをなすかどうかということ。

あなたが告白する教えを崇めなさい。

しかし、まず初めにすべきことは、イエスを信じること。

信仰をずっと求めてきたと言う人もいる。

どういう意味だろうか。

イエスキリストを信じることは神の賜物だが、あなた自身の行ないでもあるだろう。

あなたに代わって、神が信じてくれるとでも思っているのか。

私たちの代わりに、聖霊が信じてくれるのだろうか。

聖霊は何を信じるべきなのか。

あなたは自分で信じなければなりません。

そうでなければ、失うでしょう。

主は嘘をつくことはできません。

あなたはイエスを信じていないのだろうか。

イエスは、信じる価値のあるお方です。

信じなさい、そうすれば、あなたは救われます。

そして、あなたの祈りは聞かれます。

別の人は次のように言います。

「私は信じ、すでに救われている。しかし、他の人たちの救いを追い求めており、この祈りに対する答えを待っている。」

親愛なる、君へ。

あなたはすでに答えを得ています。

求めた者は受ける。

探す者は見出す。

叩く者に、ドアは開かれる。

しかし、次のように言うかもしれない。

「ある人の回心のために、何年も何年も、幾度となく祈り求めてきた。」

いずれそれは得られます。

或いは、何故それを得なかったのか、それが分かる日が来ます。

どうしてそれを得なかったのか納得できるはずです。

希望をもって、祈り続けなさい。

死んでしまった人たちのために祈る人がたくさんいます。

自分の子どもたちのために長年の間祈り続けたけれども、回心してくれなかった子らを持つ父のことをお話したことがあります。

全く世俗的なことでした。

死の時が迫ってきた時、この父はベッドの回りに子どもたちを集めました。

最後に、キリストについてそのようない証しをすることができる希望を抱いて。

子どもたちが回心して祝福されることになるかもしれなかったからです。

不幸なことに、彼は心の深い苦しみの中にいました。

キリストにある自分自身の救いについて疑念を抱いていたのです。

彼は、闇の中で病に倒れた神の子らのひとりでした。

暗黒は何よりも彼の心の最悪の恐怖だったため、愛する自分の子どもたちが自分の苦しみを見て、宗教に対して偏見を持つのではないかと恐れたのです。

その善良な男は埋葬され、息子たちは葬儀に参列しました。

まさにその日、神はこの人の祈りを聞き入れました、恐らく。

彼らは墓から立ち去りました。

ある兄弟が別の兄弟に、次のように話していました。

「父は最も不幸な死を遂げたことに、私はとても驚いている。私たちの父ほど良い人はいない。父のような敬虔な人が死ぬのは辛いことと思うのであれば、信仰を持たない私たちにとっては、死はあまりにも恐ろしいものとなるだろう。」

同じ思いが彼ら全員をよぎり、彼ら全員を十字架へと駆り立てました。

神秘的な仕方で、善良な男の祈りは聞かれたのです。

天と地は過ぎ去ります。

神が生きている限り、祈りは必ず聞かれます。

神がご自身のことばに真実であり続ける限り、願いは無駄とはなりません。

いつも祈ることのできる祝福を、主が与えて下さいますように。

アーメン。

 

 

 

 


#58 基礎教理 Ask, and it shall be given you, NO.3

2024年04月30日 | 創世記

Prayer: Guaranteed to Succeed! - Charles Spurgeon Sermons

13分28秒から21分19秒まで。

*重要な個所はくり返し語られている。


◇◇

加えて、万物の支持者として、私たちは主を崇拝しています。

すべての自然法則は、主の御力によってのみ運用されていて、しかも主の力によってそれらの運動は維持されています。

つまり、主は世界中のすべての力の運動を知っておられます。

主が求めなさいと言う時、それは必ずや与えられます。

知らずに言っているのではなく、肯定したことを知っているのです。

主ご自身のことばを妨げる力は存在しません。

創造主から、そして維持者から出たことば「私はあなたに言います」は、すべての議論を永遠に終わらせます。

しかし、昔からある議論ですが、もうひとつ祈りに異議を唱える人たちがいます。

彼らは大変力強い議論をします。

それは、批評家によるのではなく、真理の一部を共有する人たちによるものです。

つまり、こうです。

祈りは、何らの効果も生み出すことはない。

何故なら神が万事を決定し、これらの神意は不変であると彼らは言う。

祈りは、何らの効果も生み出すことはない。

何故なら神が万事を決定し、これらの神意は不変であると彼らは言う。

神が万事を決定するという主張を否定するつもりはない。

神は、天においても地においても、起こることすべてをあらかじめ知っており、また予定しているというのが十分な信仰です。

川辺の葦の位置も神の御座と同様に、神はあらかじめ知っておられる。

地上の吹きあがる塵が進む進路を、神はあらかじめ知っておられる。

神命は、大きなものから小さなものまで包括し、そして万物に至る。

問題は、何故わたしたちは祈るのかということ。

何故私たちは呼吸するのか、食べるのか、動くのか、それをするのかということと同じ理屈です。

私たちはすでに十分満足する答えを持っています。

すなわち、わたしたちの祈りは神命の内にあるということ。

神はご自身の民の祈りを世のものとは何か別のものとして任命されました。

私たちが祈ると、神が定めた運命との連鎖反応を生み出すのです。

運命は、「私は祈らなければならない、私は祈る」と宣言します。

運命は、「私の祈りは聞かれるであろう」と法令を出します。

そして、(祈りに対する)答えが私の下へと届きます。

また、知られざる神の法令によって、自分の行動が規制されることはありません。

例えば、食べたり飲んだりすることに疑問を呈することはありません。

何故なら、食べたり飲んだりすることが神命かどうかは問題ではないからです。

仕事量が神命によるという理由で、働くかどうか決めるわけではありません。

普段の行動において、よく分からない神命を自分のガイドにすることは、常識とは相容れません。

祈りにおいても同じことが言えます。

(祈れば何がが起こるか分かる、つまりクリスチャンにとって常識であるから)

だから、祈るのです。

しかし、そのようなことよりも、はるかに良い答えを得ることがあります。

主イエスキリストが前面に現れて、今朝私たちにこう言います。

「わが愛する子らよ。神命は決してあなたを煩わせることはない。あなたの祈りと相容れない神命はない。私はあなたに言います。求めなさい。そうすればそれは必ず与えられるであろう。」

次のように言われたのは誰でしょうか。

何故、創造の始めから、彼は御父である神とともにおられのか。

主は御父のみ旨を知っておられ、神の御心が何であるかを知っておられる。

御父はあなたがたを愛していると主は言ってくださいました。

主は御父の命、御父の心を知っておられるので、永遠の目的において、この真理と相対するものは何もないという究極的証言を私たちに語ることができるのです。

それ故、求める者は受け、探す者は見出すのです。

初めから終わりに至るまで、主は神命を読んで知っておられます。

主は聖書を手に取り、7つのフィールドを開き、天の法令を宣言したのではなかったか。

涙の混じった強烈な祈りと相容れないものなど存在しない。

あなたが探し求める恵みの雨を、あなたに注ぎかけて下さる御父が開く天の窓と相容れないものなど存在しない。

さらに、キリストは神ご自身です。

天のみ旨はイエスご自身のみ旨です。

天のみ旨を定められたお方は、祈りにおいて障害となるものは何もないという保証を与えて下さいます。

私はあなたに言います。

イエスを信じる者たちよ。

あなたがたの疑いは風に散らされ、神はあなたの祈りを聞いて下さることを主はご存知です。

しかし、別の困難が心に浮かぶことがあります。

それは、自分に対する自己判断や自分勝手な神への評価と関係しています。

私たちは神は偉大であることを知っており、神の威厳に恐れおののきます。

私たちはあまりに小さきものであることを知っています。

加えて、卑しいものであることを知っています。

そして、そのような罪深くとるに足りない者たちが、神の御手を介して世界を動かす力を持っていることは、あまりに信じられないことのように思われます。

確かに、私たちは神は偉大であることを知っており、神の威厳に恐れおののきます。

私たちはあまりに小さきものであることを知っています。

加えて、卑しいものであることを知っています。

そして、そのような罪深いとるに足りない者たちが、神の御手を介して世界を動かす力を持っていることは、あまりに信じられないことのように思われます。

恐れは祈りの妨げになります。

しかし、主イエスは穏やかにこう答えて下さいます。

「わたしはあなたに言います。求めなさい。そうすれば、それは必ずや与えられます。」

も言う一度聞きます、「私はあなたに言います」と言ったのは誰でしょうか。

神の偉大と人の弱さを知っているのが主イエスです。

イエスは神であります。

主の卓越した威厳によって、主が「私はあなたに言います」と言うのをじっと聞く。

求めなさい。そうすれば、それは必ずや与えられるであろう。

しかし、主は私やあなたがたのようであります。

主は言います、「小さき者たちよ、恐れるな。試せ。あなたの骨の骨、あなたの肉の肉。」

間違いなく、神は人の祈りを聞いておられます。

主のことばは、ブレンドされた音のハーモニーとともに、私たちの下へとやってきます。

神なるイエス、人なるイエスがともに私たちに語りかけます。

「恐れるな、偉大なる汝らよ。あなたの祈りは聞かれている。汝の弱さを恐れるな。私は、人として、すでに神に聞かれている。」

 

 

 


#57 基礎教理 Ask, and it shall be given you, NO.2

2024年04月29日 | 創世記

Prayer: Guaranteed to Succeed! - Charles Spurgeon Sermons

7分40秒から13分28秒まで。

◇◇

私はあなたに言います。

求めなさい。そうすればそれは必ず与えられるであろう。

探しなさい。そうすれば必ず見い出すであろう。

叩きなさい。そうすればドアは必ず開かれるであろう。

この聖書的箇所において、まず初めに、私たちにご自身の権威の重みを授けることによって、主はすべての困難を満たして下さいます。

私はあなたがたに言います。

次に、私たちに約束を差し出すことによって、主はすべての困難を満たして下さいます。

求めなさい。そうすればそれは必ず与えられるであろう。

探しなさい。そうすれば必ず見い出すであろう。

叩きなさい。そうすればドアは必ず開かれるであろう。

そして、求める者は誰でも受けるという明白な事実を思い起こさせることによって、主はすべての困難を満たして下さいます。

祈りに際してクリスチャンが絶対に疑ってはならないことが3つあります。

第一、われらの救い主は、私たちにご自身の権威の重みを授けて下さいます。

私はあなたがたに言います。

われらの救い主は、私たちにご自身の権威の重みを授けて下さいます。

私はあなたがたに言います。

キリストに聞き従う者は、主を信じているという紋章を身に付けています。

主イエスが肯定的に言っていることに疑義を呈する者は、主に従ってはいない。

ある教理が幾万もの艱難に取り囲まれていたとしても、それはイエスが言ったことです。

その教理がその時点において証明されていなくても、クリスチャンなら、すべての疑念を拭い去らなければならない。

私たちが必要なのは、私たちの主イエスの宣言のみです。

「私はあなたに言います」が私たち論理です。

イエスこそ私たちのために神から送られた知恵であると聖書には書かれています。

イエスは間違うことが不可能。

イエスは嘘を言うことが不可能。

イエスが「私はあなたに言います」と言う時、あらゆる論争に終止符が打たれます。

しかし、兄弟姉妹の皆さん。

十分な確信をもって、主のことばに留まるように導かれる確かな理由があります。

主イエスの一言一言には力があります。

しかし、今日の私たちにとって、主のことばには特別な力があります。

今日、自然法則は変えることができないがゆえに、祈りは聞かれることはないだろうと言って、祈りに批判的な人たちがいます。

人々が祈ろうと祈るまいと、それらの自然法則は変わることなく永続すると言うのです。

自然法則は巨大などんぶりのようなものであるがゆえに、祈りは聞かれることはないという人たちもいます。

人々が祈ろうと祈るまいと、それらの自然法則は変わることなく永続すると言うのです。

たとえ、宇宙のすべての聖人たちが嵐や病気に対抗して抗弁しても、一粒の水滴は、波の中でその位置を変えることはないし、また感染性物質の一粒子は、その進路を変えることもないと彼らは言います。

このことについて、急いで答えを得ようとする必要はありません。

私たちの敵は証明すべきことがあまりにも多いし、彼らはネガティブなことを言うのが好きです。

私たちは、自然法則は乱されるということを証明する必要はありません。

神は奇跡を起こし、そして過去に成したことを再度成すことのできるお方です。

しかし、しもべの祈りに答えるために神が奇跡を起こされるのは、クリスチャン信仰の一部でしかありません。

約束を果たすために、人が物事を再調整したり、事態の進行をすべて停止しなければならない時、自分はただの人間であり、知恵や力に限界があるというとを悟ります。

しかし、神はすべてが可能です。

ご自身の民の願いを成就するために、力を逆向きに動かしたり、ご計画の一部を取り除いたりすることなく、神はすべてのことがおできになります。

主は万能であり、ご自身の法のひとつでさえ中断することなく、まるで奇跡のような結果を生み出すことができます。

祈りに答えるために、神は宇宙のメカニズムを止めたことがあります。

しかし、クリスチャンの祈りに答えるために、事象に命じることはあるが、自然の法則を中断することはありません。

そのことについて語ることのできるお方の声を聞きます。

そのお方は、「私はあなたがたに言う」と言います。

求めなさい。そうすればそれは必ず与えられるであろう。

探しなさい。そうすれば必ず見い出すであろう。

さて、これを言ったのは誰でしょうか。

それは、万物をお創りになったお方であり、このお方なしで何も創られませんでした。

彼は、ご自分の方法で語ることができます。

嗚呼、永遠のことばよ。

始めに神とともにおられた君イエスよ。

雲を天秤にかけ、地の土台をつないで、自然の法則と変わることのないその構造が如何なるものかをあなたはご存知です。

あなたが求めなさいと言う時、それは必ず与えられ、そして、自然法則がどうあれ確かにそうなるのです。

 

 


#9 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.3

2024年04月02日 | 創世記

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur

11分59秒から18分52秒まで。

◇◇

ダニエル書によると、悪魔は政府の中に包み込まれている。

悪魔は政府の中に埋もれている。

この原則はやはり成立します。

しかし、いかなる形態であれ、政府は神によって任命されています。

それ故、政府に服従すべきなのです。

ある時ある場所において、神の目的、神が定めたことがあります。

あなたがエジプトに住んでいるイスラエル人であり、ファラオの下で奴隷として苦しんでいたとしたら、神は自分のことをすっかり忘れてしまったのではないかと思うでしょう。

そして、神の目的から外れて、ファラオは権力を握ってしまったのではないかと。

しかし、これは出エジプト記の記載とは違います。

「このために、全地を通して、私の力をあなたがたに示し、私の名をあなたがたに宣言するために、この一連の疫病とこの虐待の下であなたがたをエジプトに留まることを私は許したのだ。(出エジプト記9章)」

神には目的があります。

それが極悪な政府の場合でも。

人には想像できません。

具体例を提示します。

アメリカ合衆国政府は、エジプトで起きていることに関して、大変難しい言明をしています。

公言を恐れています。

ムバラク大統領にマイナスとなるようなことを言うのを躊躇しています。

何故なら、政府はムバラクに多額の資金援助をしているからであり、中東において合衆国と軍事同盟を結んでいます。

そのような軍事同盟が必要なのです。

町を通行中の人々の意に反することは言えません。

大衆の反応を恐れています。

独裁者の手による悪弊があることを知っています。

政府は何を言うべきでしょうか。

直ちに言うべきです。

言うべきことは明らかです。

犯罪行為であるとはっきり言うべきです。

その政府がどのようであれ、通りで殺人を犯すような政府よりははるかにましです。

どんな政府であれ、無政府状態よりははるかにましです。

聖書的な考え方がこの国の指導者の心にあるなら、立ち上がって「これは犯罪行為だ」と言うはずです。

「これは罰せられるべき行為だ」と言うはずです。

彼らの社会がどうあれ、政治がどうあれ、社会の目的が何であれ、通りを占拠して犯罪を犯す権利はありません。

暴動を鎮圧するために権力を行使して、暴徒を制圧する権利を政府は有している。

これが実例ではないでしょうか。

誰も答えてはくれない、嗚呼神よ。

第一に、すべての政府は、神の法令による。

故に、私たちは政府に従う必要があるのです。

第二に、政府に反抗するということは、神に対する反抗であるということ。

第2節、「したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。」

diatage(ディアターゲ、原語)、施設、神の創立、神によって敷かれたものにそむいている。

政府に反抗する者は誰でも、神に対して反乱している。

素晴らしいコメンテーターであるロバート・ハルデインは、1839年に次のように書いています。

「神の民は、自分たちが生活している政府に対する抵抗は、重大犯罪、ひいては神ご自身に対する反抗であると考えるべきだ」と。

「この国でおきていることを好きになれない」という人がいるかもしれない。

想像してみて下さい。

神に対して背を向けた国に対して、ご自身の目的を適合させるような政府形態をお決めになったのではありません。

権威に抵抗する者は誰でも。

抵抗すると訳されたことばはantitasso。

tassoということばは、整列するという意味を持つことば。

つまり、antitassoとは、永久的に神に対抗するために整列するということ。

敵対心をもってあなたは整列したということ。

出エジプト記22:28に「支配者を呪ってはならない」とあります。

パウロはテモテにこう書き送りました。

「あなたがたの権威である人たち皆のために祈りなさい。彼らの救いのために祈りなさい。」

ローマ皇帝が人民によって選出されたのか、元老院によって任命されたのか、あるいは軍事クーデターによって置き換わったのかどうかははっきりしません。

カエサルによる皇帝権威が正義か不義かもはっきりしません。

カエサルが同性愛者だったのか、小児性愛者だったのか、母殺しだったのか、あるいは善良な男だったのは重要ではありません。

神の法は常に同じ。

反乱者や犯行者のための居場所はありません。

何故なら、それは神に対する抵抗だからです。

この構図をよく理解して下さい。

イランで起きたように、エジプトでも起きるのです。

事の成り行きは現状よりもはるかに悪くなります。

パウロもダニエルも、そしてキリストも、どんな政府であれ、政府に対する敬意をためらうことはありませんでした。

 

 


#8 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.2

2024年03月29日 | 創世記

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur

途中、異論のある箇所があるがコメントは差し控える。

7分7秒から11分59秒まで。

◇◇

王家の子孫が継承するにせよ、貴族の家系の関係にせよ、財閥の物質的資産にせよ、あるいは軍事力にせよ、民主的選挙にせよ、支配者が権力の座に付く場合、神の御心を度外視した統治権力は存在しません。

神に由来しない権威は存在しない。

神は、今ある権威に対して権威をお授けになります。

冷酷な場合はどうか。

不正な場合はどうか。

最初に、政府における暴力の乱用は、神のご性質を反映してはいません。

結婚における暴力乱用や教会における脱会が神の純粋を汚すのと同じです。

離婚は結婚をずたずたにし、背教は教会を引き裂く。

政府における暴力の乱用は、政府がなしうる善を破壊する。

しかし、乱用によって、その施設が神によって任命されているという真実が消滅することはありません。

人間は神の賜物をすべて悪用します。

邪悪な支配者は、面白いことに、神の目的を成就させるための神のご計画の部分です。

邪悪な支配者は、邪悪な国民を罰するための神のご計画の部分であり、悪を破滅へと追いやるための神のご計画の部分です。

初めに、神は、命や資産の保護、悪と犯罪の抑止、徳や善の奨励など、人間を守り保護するために政府を定めました。

それが神の定めたご計画でした。

権力は、神によって定められました。

権力は、支配者の意向、多数派の意志、あるいは一人の人間の意志によって定められたものではありません。

権力は神によって定められた。

興味深い別の見方が黙示録13章にあります。

何故、神は邪悪な政府を定めるのだろうか。

これは来たるべき艱難の描写です。

竜、サタンが海岸の砂の上に立つ。

これは世界におけるサタンの影響を表しています。

10本の角と7つの頭を持つ獣が海から上がって来る。その者の角には10の王権があり、その者の頭には神を汚す名前があった。

これは反キリストの描写であります。

この獣は豹のようであり、熊のようであり、ライオンのようであった。竜はこの獣に権力と自分の王座と大きな権威を与えた。その獣の頭のひとつが殺されたかのように私には見えた。しかし、その致命傷は癒され、全地は驚愕し、その獣に従った。

その獣とは反キリスト。

彼らはその竜を拝んだ。なぜならその獣に権威を与えたからだ。

彼らはその獣を拝んだ。「誰がこの獣のようであろうか。誰が彼と戦争することができようか」と言いながら。

将来の艱難の時に、世界は反キリストとその背後にいるサタンを崇拝するであろう。

そして、5節、「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。」

誰によって権威を与えられたのでしょうか。

神によって、であります。

「 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」

これを聞いて、何か不思議だと思いませんか。

何故、神はサタンにそのようなことをする権威を与えたのでしょうか。

何故、神は反キリストにそのようなことをする権威を与えたのでしょうか。

世界に大混乱と恐怖と悪を与えるようなことを。

何故なら、それは神の目的に適っているからです。

それは、神の裁きの部分だった、そして神の裁きの部分となるであろう。

 

 


#4 携挙 Is the Rapture Biblical? NO.1

2024年02月27日 | 創世記

先に上げた動画The Rapture is NOT in the Bibleと内容が類似する論考は多数存在する。

それらの考察の多くは、大変合理的、論理的であり、無理なく考察を進めている。

以下に、それらの中からいくつか紹介しておきたい。

Is the Rapture Doctrine Biblical? (Ben Witherington)

5 Problems with the Rapture

Will There Be a Rapture? 1 Thessalonians 4:13–18, Part 3

以下の内容はかなり辛辣ですが、歴史を踏まえて、異端であるディスペンセーション主義が如何に流布されてきたかを解き明かしている。

Dispensationalism: How Satan Used the Scofield Reference Bible (Part 16 of 23)

次の動画を訳出しておく。
教会メンバーからの疑義に答えている。

Is the Rapture Biblical? 

最初から5分9秒まで。

◇◇

何故私が携挙という考え方に否定的なのか説明します。

(質問者:OK)

つまり、携挙とは受け入れるにはあまりに皮肉的だからです。

聖書の中にその概念を見出すことができませんでした。

根本的に私がその考え方に疑問を呈した理由とはこうです。

主イエスが目に見える形で来臨する数年前に、クリスチャンが地上から引き上げられるという不思議について考えたことがないとします。

また、聖書テキストを読み込んでその考え方を心に抱いたことがないとしましょう。

そうした場合に、あなたは聖書テキストからそのような結論を引き出すことはできるでしょうか。

答えはNO、引き出すことはできません。

私には、その考え方を示唆する聖書テキストがあるとは思えませんでした。

(質問者:何故ですか)

この教理は、キリストの後1800年もの間、全く根拠がありませんでした。

この教理が勢い付いた時期があります。

それがまた、私が疑いを持つ理由でもあります。

では、有名な聖句、第1テサロニケ4章に何と書いてあるか見てみましょう。

いま開いています、私も良く知っている聖句です。

ありました。ここに携挙が書いてあるじゃないかと人は言います。

ちょっとお待ちを。

これが、携挙という概念を確信させる聖句がと思います。

しかし、この聖句には携挙という概念は書かれていません。

ここに書かれていることを携挙と呼ぶことはできません。

これは別の何かです。

この聖句はそれが起きている時を正確に伝えています。

13節にこう書いています。

「すでに眠りについている(つまり、死んだ)人たちについて、知らないままでいて欲しくはありません。全く望みのない残りの人たちのように、あなたがたが悲しまないためです。私たちがイエスが死んで蘇ったことを信じるなら、そうであるなら、神はイエスにあって眠りについている人たちを、彼とともに連れてくるのではないでしょうか。

パウロのことばによると、主の来臨(παρουσία)の時まで、生きていて(世に)とどまっている私たちは・・。

ここで一寸立ち止まりましょう。

ここでパウロが記載していること、彼はある特殊な時のことを言っています。

それが起こるであろうとパウロが言っている時とは、主の来臨(παρουσία)の時です。

さあ、ここで質問です。

主の来臨は何回ありますか。

どのように答えますか。

(質問者:2回)

初臨は2000年前でした。

再臨は将来のいつかです。

来臨は2回だけです。

分かりますが、まだそこには行きません。

単純にしばらく思い留めておいてください。

第1テサロニケ4章で、パウロが何を言っていようとも、それは主の来臨の時に起こることを言っているのです。

つまり、それは主の再臨(second coming、παρουσία)において起こることです。

初臨があって、再臨があるのです。

ひとつ号令、大天使の声、そして神のトランペットとともに、主ご自身が天から下ってくる時、キリストにあって死んだ者たちが最初に蘇るであろう。

これは復活です。

携挙ということばは使われていません。

この箇所では、ラテン語由来のことばが使われています。

それはコリント人の手紙だったかもしれませんが、いずれにせよ、携挙ということばは使われていない。

ことばのあらを探すつもりはないが、テキストに書いていることを正確に反映していることばについて確認しておきたいと思います。

聖書テキストにはこう書いてあります。

「キリストにあって死んだ人たちは蘇るであろう。」

ここで、主の再臨の時に、私たちは復活について話しているのです(とパウロは言っている)。

続けて、こうあります、「生きていて(この世に)とどまっている私たちがともに引き上げられるであろう。」

ここに人々の言うところの携挙ということばが出てきます。

「空中で主と会うために、雲の中で彼とともに引き上げられ、私たちはいつまでも主とともにいるのです。」

パウロが言っていることとはこうです。

主の来臨の時に、眠りに付いている人々が復活する、すなわち、復活によって死者から生きた者へと移行するということ。

そして、まだ死んでいない人たちも、死という過程を経ることなしに変容するという意味において復活を遂げるのです。

(質問者:どうしてですか)

何故なら、終末だからです。

ここに(間近に)イエスがおられるのですから。

話は極めて簡単です。

さて、このことを心に留めておきつつ、つぎのテキストに移りましょう。

次も有名な聖書箇所で、そのことが書かれていいます。

第1コリント15章。

ところで、第1コリント15章全体が復活に関する内容です。

つまり、イエスが来臨する時に起こる「復活」と呼ばれる出来事について、語られているのです。

出来事とはこうです、最初に死んだ人たちが不死へと復活し、次に生きている人たちが変容し、キリストの下へと引き上げられていく。

つまり、死者の復活を勝ち取り、そして、ある意味で奇妙なことではあるが、生きている人たちの復活も勝ち取っているのです。

だから、第1テサロニケ4章にあるような言い回しをパウロはしているのです。

 

 


#49 救いの達成 The Battle for the Mind with Steven J Lawson, NO.5

2024年01月03日 | 創世記

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

15分09秒から18分34秒まで。


◇◇


これが絶え間なく続く生活スタイルです。

日々のあらゆる場面で、このような生活スタイルが絶え間なく続いていきます。

これらの事々を常に心に留めなければなりません。

これらの事々を習慣的に考えなければなりません。

さて、パウロが以前に述べ、慎重に定義した8節の最後にあるこれらの事々とは、この節の直前に書かれています。

すなわち、それが私たちのための緑の安全信号です。

それ以外は赤の危険信号。

黄色の点滅する注意信号はなく、赤信号のみ。

これらの8項目が要求する事項の外側は、危険な高速道路です。

このリストを確認していきましょう。

パウロが8つの聖なる項目を分類しています。

私たちが見るもの、聞くもの、読むもの、楽しむものを管理するのがこのリストです。

では、早速このリストを見てみましょう。

主イエスキリストの恵みと知恵にあって、成長しているクリスチャンが考えつつ生きていくためのパラメーターを表しているのが、このリストです。

これらが適切に管理されていないと、霊的成長が阻害され、最悪霊的に荒廃します。

「真実であることは何であれ」を、まず最初にあなたの心に留める必要があります。

「真実であることは何であれ」の「真実」とは、「まさに真実である」ことを意味します。

信頼性のある、正真正銘、「本物である(authentic)である」ことを意味します。

偽ものや嘘と区別されます。

神の規準を歪めたものに焦点を当てるなとパウロは言います。

神の規準とは、神が設定している事項の折衷案です。

真実なことに焦点を当てることにより、われわれは真のキリスト信仰へと導かれ、その結果、本物の敬虔へと至ることができます。

一方、虚偽に心を留めると、誤ったキリスト信仰や疑似成長へと導かれます。

虚偽に心を留めると、あなたは嘘の人生を歩むことになるでしょう。

惑わしに心を留めると、あなたは惑わしの人生を歩むことになるでしょう。

 

 

 


#22 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 8 

2023年09月10日 | 創世記

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

26分39秒から30分27秒まで。

◇◇

新生のないただの宗教がこの門の正体だ。

それは肉に訴える宗教。

それは、神について語り、キリストについて語り、天について語り、救いについて語る宗教。

唯一の問題は、その門がかの地へと導いてくれないということ。

箴言14章12節にこうあります。

箴言14:12
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死である。 

容易に信じることができるこの門は、あなたがあなたのままでやって来て、あなたのままが入ることができる門。

何も断念する必要がなく、何も捨てる必要がなく、何も告白する必要がない宗教。

悔い改めのない宗教。

キリストの主権に対して服従する必要のない宗教。

自分自身の人生を謳歌できる宗教。

自分の心の赴くままに生きることのできる宗教。

己に対する死のない宗教。

背負うべき十字架のない宗教。

己を否むことのない宗教。

何も犠牲を払う必要がなく、何も必要とせず、ただ立ち寄るだけの宗教。

手を挙げて、あなたが入るためのカードにサインしよう。

天国に行くのか。

否、地獄に落ちるのか。

結果は自ずと知れている。

彼らは自ずからを騙そうとしている。

彼らの目にはベールが掛けられている。

救いの道に入ったと信じている。

しかし、かの日地獄の炎の中で目が醒める。

マタイ7章21節
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 

この広き門から入る人々。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではない。

彼らは会話をする。

彼らは主よ主よと言う。

彼らは讃美歌の歌詞を知っている。

彼らは聖書研究会に出席する。

彼らは専門用語を知っている。

しかし、彼らは主を知らない。

マタイ7章22節
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 

最後の日に、多くの人たちは主よ主よと言う。

その日に、自分たちの働きぶりについて話すだろう。

多くの宗教活動を行ない、主の御名によって預言をし、主の御名によって悪魔を追い出し、主の御名によって多くのしるし不思議をなしたと言うだろう。

しかし、かれらはそのようなことはしなかったのです。

ただ単に、そうしたと思い込んでいるだけ。

自分を騙した。

彼らは主の御名によって預言をしたと言っている、これが神の言っていることだと言う。

違う。

神はあなたに話しかけてはいない。

悪魔を追い出した、奇跡を成し遂げたと言っているが、自分を騙している。

それは真実ではない。

救いに関して自分を騙している。

宣教に関して自分を騙している。

不正な宗教活動に関して自分を騙している。

あなたの全人生は見せかけ。

一度でよいからその覆いを下げてみたらよい。

真の自分を探ってみるがよい。

神がどのようにあなたを見ているか考えてみるがよい。

広き門があなたをどこに導くかに注意せよ。

それはあなたのための宗教であり、教会に対する異常な愛であり、教会ごっこ。

あなたはそれが大好きであるがゆえに広き門へと導かれてしまう。

 

 

 


#18 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 4 

2023年09月01日 | 創世記

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

11分15秒から14分40秒まで。

◇◇

このメッセージの最後に、イエスは最もすばらしい招待状について語ります。

天の御国に入城するための招待状。

イエスへと至る招待状。

自分が終わり、あなたの人生において主イエスが始まる招待状。

イエスの祝福と贖罪に至り、神の国に受け入れられる招待状。

これまでにない最もすばらしい招待状。

13、14節を見て下さい。

今宵この招待状がこのホールにおられる全員に送られるのかどうか知りたいと思います。

あなたが個人的に、あるいは個別に、悔い改めと信仰によってこの招待に応答したのかどうかを私は知りたい。

そして、あなたの命をイエスキリストに委ねることができたかどうかを知りたい。

仮に私に1万の命が与えられたとしても、すべての命をイエスキリストに委ねようと思います。

あなたの人生において最も大きな決断は、あなたの命をキリストに委ねることです。

あなたが行なう最も大いなることは、あなたの命をキリストに委ねることです。

神がなさることに注視して下さい。

今、そして永遠に神がなさることに注目して下さい。

今宵見ていきたい箇所は、マタイ福音書7章13節と14節であります。

マタイ7:13,14
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 

この聖句から、私は3つのことを見て行こうと思います。

狭い門から入れという命令。

そして、狭い門のすぐ近くにあるもう一つの門に警戒したい。

そのもう一つの門は見栄えが良く、近づきやすくて、かつ受け入れやすい。

それは広くて大きな門。

それ故、警戒が必要であり、あまりにも対照的。

14節で注意深く説明しているように、イエスはこの狭い門を通って入るように招いています。

イエスによる福音への招待は、狭き門から入れと命ずることによって開始されます。

今宵イエスがあなたに言いたかったことはこの命令です。

これ以外にないことに注意して下さい。

天の御国に入城するために必要なことが5つあるとか、あるいは10あるとかということではありません。

すべきことはただ一つ、神の国のメンバーになり、狭い門を通ることです。

あなたが御国の外で生まれたことが前提となります。

御国に入らなければならないという意味は、御国の外であるこの世にいるということ。

私たちはみな、肉体的に罪にあって生まれました。

詩篇51篇3節
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。 

詩篇58篇3節
悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。 

*悪者ども=私たち