みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Sickness

2017年01月31日 | 聖書研究・信仰
Sickness
The Spiritual Man, CFP, Vol. 3,
Part 10 THE BODY, Ch. 2,
by Watchman Nee


我々はよく病気になる。

神に栄光を帰することができる状態に、この体を保つ必要がある。

そのために、まずは病気に対して取るべき態度を知る。

病気をうまく利用する術を知る。

さらに、癒される方法に関しても知っておかなければならない。

よく病気になるが故に、その取り扱い方を知らないと、生活上深刻な欠乏を来たすことになる。





Glorify God, #36

2017年01月29日 | 聖書研究・信仰
兄弟たち。

この体にあって我々が主を賛美せんことを、神は願っておられる。

我々のこの体、すなわち「主のための体」が献げられることによって、主は栄光化されることを願っておられる。

主のお体、すなわち「我々の体のための主」にあって現される祝福によって、主は栄光化されることを望んでおられる。

この体を自分のために使わないように十分気を付ける必要がある。

主がこの体のためはないかのような状況を許すな。

主を賛美せよ。

主が御力を自由に発揮できるようにせよ。

弱さ、病気、苦痛から解放してくださるように。

自分への関心、自己愛、そして罪から解き放って下さるように。





Glorify God, #35

2017年01月28日 | 聖書研究・信仰
「あなたがたは自分自身のものではない」

「ある代価で買い取られた」

「それ故、あなたがたの体において神をほめたたえよ(第1コリント19:20)」

ある代価で、あなたがたは神によって買い取られた。

あなたがたのものは皆、神に属する、特にあなたがたの体は。

あなたがたとキリストとの結合とあなたがたの中にある聖霊の証印は、特にあなたがたの体が神のものであるという証明である。

「故に、あなたがたの体において神を大いにほめたたえよ」





Glorify God, #34

2017年01月27日 | 聖書研究・信仰
この体がキリストとともに死んだ時、主に従う体となった。

すべての自己主張と独立行動は否認される。

この体が主の神殿になること以外何も求めない。

その時、聖霊はこの死ぬべきフレームの中に、復活のキリストの命を現わす。

真に主を経験することの何と素晴らしいことか。

癒しにおいて、パワーの付与において。

主が我々の健康や生活の中に居て下さるのだ。

この幕屋を聖霊の神殿とするなら、驚きをもって、愛をもって、主に従っていくであろう。




Glorify God, #33

2017年01月24日 | 聖書研究・信仰
我々の体は聖霊の神殿。

それは確かに経験できる事実だ。

しかし、コリントの信徒たちのように、この栄光ある可能性を忘れた者も多い。

聖霊が内住して下さっているにもかかわらず、存在していないかのように思う。

この神の事実を信じ、知り、受け入れるために信仰を実践する必要がある。

信仰により、我々自身によって引き出すことのできる事実があることを知る。

キリストの御霊は、我々の魂に、聖、喜び、義、キリストの愛をもたらす。

キリストの御霊は、我々の弱い、儚い、痛ましい体に、命、力、健康、剛をもたらす。

キリストの御霊は、この土くれの器に、その栄光に満ち溢れた体の活けるパーツだけでなく、自身の命をも与えて下さる。




Glorify God, #32

2017年01月23日 | 聖書研究・信仰
神の救いのご計画において、我々の体がどのような位置にあるのか理解する必要がある。

我々が聖霊に満たされ、御霊の手足となるように、キリストは肉のフレームを区別する。

死なれたが故に、復活し栄光化されたキリストは、今や任を得て、我々の体にご自身の御霊をお与えになる。

過去において魂が体に染み渡っていたように、今や主の御霊がこの体に染み渡っている。

キリストの命が各器官へと流れ込み、思いをはるかに超えて豊富に、主は命と絶大なるパワーを与えて下さる。




Glorify God, #31

2017年01月22日 | 聖書研究・信仰
第1コリント6:19
あなたがたは知らないのか
あなたがたの体は
あなたがたの中にある
聖霊の神殿
神から来ている
あなた方自身のものではない

これは、パウロが「あなたがたは知らないのか」と尋ねる2度目の例だ。

最初の例は、第1コリント6:15に出てくる。

「主のためのこの体」について語っている箇所だ。

当初、パウロは「あなたがたは神の神殿」と、一般的に表現していた(第1コリント3:16)。

今や、パウロはきっぱりと言う。

「あなたがたの体は聖霊の神殿だ」

このことは、聖霊の内住が霊を超えてこの体にまで及ぶことを指し示している。

しかし、この体が聖霊の本拠地であると考えてはならない。

初めに聖霊は我々の霊の中に住まう。

そこで、我々との交わりを保つ。

しかし、このこと故に、その霊から流れてくる霊の命が、我々の体を活かす妨げとはならない。

主の内住が我々の霊のみに留まると考える者は、その損失による苦痛を覚悟しなければならない。




Glorify God, #30

2017年01月20日 | 聖書研究・信仰
「ふしだらを避けよ。

人が犯す罪は皆、体以外のことだ。

しかし、ふしだらな男は自分の体に罪を犯す(第1コリント6:18)」

聖書はふしだらと淫行を他の罪々よりも深刻と考える。

何故なら、それらの行為はキリストの器官である体と特異な関係にあるからだ。

考えて欲しい。

何故キリスト者は淫行を避けるべきなのかを使徒パウロが繰り返し強調する理由を。

我々はふしだらと淫行を道徳的不純と考える。

しかし、使徒パウロは、それらの行為の全く違った点に強調点を置く。

淫行のみがこの体を他と結合させる誘因となる。

だから、これはこの体に対する罪となる。

キリストの器官を淫婦の器官にするのは淫行のみである。

淫行はキリストの器官に対して罪を犯している。

キリスト者はキリストと結合しているが故に、淫行は忌まわしさが倍化する。

別の視点から考えてみる。

淫行の忌まわしさを鑑みることにより、この体とキリストとの結合はまさに事実であることを実感するであろう。




Glorify God, #29

2017年01月19日 | 聖書研究・信仰
神と神の霊が、体においてキリスト者と交わりを持つことができると仮定する。

すると、当然のことながら、その者は体において御霊と交わることができると期待する。

しかし、神と神の霊は、決して人の体と直接に交わることはない。

神の子なら、体において神を味わうことに固執してはならない。

悪霊がその機会を捉え、体の内に入り込み、悪霊がその者が望んでいることに承認を与えることになるだろう。

その結果、取り憑かれてしまう。

信仰者の体とキリストとの結合とはこういうことだ。

主イエスとひとつになることにより、神の命を受け取ることができて、力を与えられるという意味だ。

その高貴な霊の業を体が邪魔しないように、徹底的に警戒する必要がある。




Glorify God, #28

2017年01月18日 | 聖書研究・信仰
しかし、この土くれの器は多大なストレスに耐えることはできない。

従って、この器はしばしば弱る。

さらに、肉体から分離したあの悪霊どもが人の体を欲しがっている。

この泥棒どもは人の肉のフレームを乗っ取ることが商売だ。

常識を超えた能力を有する体を持つキリスト者は、時として悪霊が働く機会を与えてしまう。

これが霊的領域の法則だ。