みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#512 神の法第五戒

2020年03月31日 | 神の法
第5戒
命の約束
 
p166~
The Promise of Life
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

この法に特異な、もうひとつの一般原則とは何か。

過去に根づいた発展、すなわち発展のために働く土台としての相続。

第5戒の要求は、大人に対する敬意であって服従ではない。

一方、子供たちに対しては、服従を要求する。

エペソ6:1
子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

コロサイ3:20
子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。

エペソ6:1に関するHodgeの解釈は実にすばらしい。 

この従順の特徴は、主にあって、これらのことばによって表現されている。これは信仰心からくる。
そのような従順は主の御心であるという確信から生まれる。恐れや愛情からなされる奉仕よりもさらに高い次元の奉仕を生み出す。俊敏、誠心誠意、万全を保証する。κύριος(主)がキリストと関連しているということは、文脈全体から容易に分かる。前章21節において、われわれは次のように勧められている。子供たちに対する特殊な指示と、従順がキリストの恐れの中で与えられている。それに続く聖句においても、κύριοςは同様の意義を持つ。子らは従順でなければならないとする土台は、これは正しいというみことばに表現されている。両親の性格ゆえにではない。両親が親切であるからでもない。都合の良い存在だからでもない。聖書に、これは正しいとあるからだ。親と子の間の関係から出てくる義務なのだ。それ故、その関係が存在するところには必ず在する義務。

両親を宗教的に敬うという文化は多い。

しかし、これはたいてい先祖崇拝と関連しており、社会において息苦しくて、鈍感な要因となってしまっている。

中国が長い間発展できなかった要因は、この国の相対主義と家族制によって生み出された麻痺的社会にあった。

聖書信仰において、家族は過去から受け継ぎ、将来に向かって堅実に成長していく。

男と妻はひとつの肉となる。

結婚を通して、肉体と性的結びつきを共有する。

つまり、ひとつの肉となる。

かくして、聖書は宣言する。

創世記2:24
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

結婚は、男とその妻による進歩を要求する。

彼らは古い家族から出て、新しい家族を創造する。

2つの特異な家系から出た文化的財産であるという点で、2人には古い家族との結びつきはそのまま残されている。

両親を敬うべき宗教的義務によって強く結ばれている。

成長が現実となり、独立も現実となる。

新しきが古きから出でて成長し、古きの可能性を実体化していく。

コメント:

プレミレという悪魔教から脱出し、主イエスキリストが支配する神の国へ入場しようではないか。

法的千年王国と実際的千年王国

人々は終末の破局を期待するクリスチャンに魅力を感じるか?


#511 神の法第五戒

2020年03月29日 | 創世記
第5戒
命の約束
 
p165~
The Promise of Life
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

齢は尊敬を命じた。

ピレモン人に誓わせようとした時、パウロはひとつの要素として自身の齢をアピールした。

ピレモン1:9
むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、

愛、年齢、キリストのための投獄によって、パウロには道徳的権威が与えられた。

年齢に対して敬意を持てば持つほど、年齢とともに知恵において成長することが必然となる。

かくして、パウロは勧める。

テトス2:2、3
老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰において、慈愛において、そして忍耐において健全であるように。同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。 

これにより、この法に特有の一般原則を知ることができる。

両親に対する敬意、高齢者に対する尊敬は、相続という基本法の必須要件。

われわれが親から相続するものは、命そのもの、継承されるべき信仰と経験から来る知恵。

歴史の連続性は、この敬意と相続にある。

革命の世代は過去を破壊し、敵意と毒をもって、親に刃向かう。

世代は世代を勘当する。

両親のみならず年長者を尊敬することは、文化の相続においてて益となるあらゆることに敬意を払うということ。

確かに、この世は完ぺきではない。

法を守ろうともしない。

われわれは裸でこの世に入り込むのだが、空虚な世界へと入るのではない。

家、果樹園、畑、人の群れなどすべては過去の作品。

われわれは過去よりも裕福であり、過去に敬意を払うべき。

特に、われわれに与え、養う両親は、他の何よりも敬意を払うべき。

そうしなければ、われわれは神に対して罪を犯し、追い出されるであろう。

家族財産の廃嫡、両親に対する侮辱、尊敬と文化相続の拒否には親密な関係がある。

文化の相続の中核をなすのは、信仰、訓練、知恵、富、愛、日頃の結びつきなど。

親や老人が尊敬されないところでは、さまざまな伝統は毀損され、否定される。

子らによって侮辱されていることを認めようとしない親が多いという悲しい現実がある。

コメント:

戦場の最前線で、先陣切って戦っている兵士が敵の銃弾に倒れた。その兵士に対して「戦場で傷つくとはけしからん。死んでしまえ」と罵る者どもに、神の怒りが直ちに下るよう切に祈る!


#510 神の法第五戒

2020年03月27日 | 神の法
第5戒
命の約束
 
p164~
The Promise of Life
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

第5戒は、従順に関する大切な約束、すなわち命の約束を伝える。

出エジプト記20:12
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

申命記5:16
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。 

いずれの聖句も命の約束について語っている。

Rylaarsdamのコメントは、面白い現代解釈のひとつ。

彼の申命記20:12の解釈はこう。

第5戒は、社会法から市民法への移行点を指し示している。両親を敬うということは、ある意味敬虔なことだが、儀式遵守ではない。申命記5:16において、与えられようとしている土地で、齢の期間の約束に対する考えが付け加えられている。重要ではない子らは、厳しいしつけに縛られた(申命記21:15,17、レビ記20:9、箴言30:17)。この戒めは、無力でまだ親に頼る子供に適応される極めて特殊な命令。動物の危険にさらされ野ざらしに耐えることができないため、彼らを国外へ送り出すことはできない。神が与えたもう土地の所有(申命記においては、場所はシナイ)は、家族の基盤維持に依存する。

言い方を換えると、死に瀕していない限り両親は敬われるということ。

確かに、エスキモーの習慣は、古代の近東の習慣とは違う。

しかし、この解釈は、あらゆる意味で、意図的な間違い。

ここで必要はことは、宗教的な両親尊敬であり、老人に対する一般的敬意を含む。

レビ記19:32
あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。

老人に対する敬意がはっきりと告げられている。

箴言16:31
しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。

レビ記19:32
あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。

古い世代への道徳的観点とは無関係に、基本的敬意と尊敬は義務。

古い世代にとって「光栄の冠」が義。



#509 神の法第五戒

2020年03月26日 | 神の法
第5戒
家族の権威
 
p164~
The Authority of the Family
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

家族の意義を子作りに求めるべきではない。

神中心の権威と、地を従えてすべての生き物への全面的支配を実践するための召しという責務に求めるべき。

神の法秩序における女の役割は、男の支配と権威の実践における助け手となること。

女は男の召しにおける伴侶となり(創世記2:18)、男が卓越性を有する権威共同体を形成する。

男の罪は神の権威を奪う試みであり、女の罪は男の権威を奪おうとする試み。

いずれも只々無益な試み。

エヴァは誘惑に従うことに主導権を発揮した。

彼女はアダムに従うのではなく、アダムを先導した。

アダムは神のようになれるという誘惑に屈した(創世記3:5)。

エヴァの先導に従ってしまった。

伴侶としての女の権威は、総理大臣に対する国王の権威に劣らず現実的。

国王ではないからと言って、総理大臣が奴隷であるとは言えない。

同様に、女が男ではないからと言って、奴隷とは言えない。

箴言に、貞淑な女性、つまり信仰心のある女性に関する記載がある。

箴言31:10~31
しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。 
夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。 
彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。 
彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。 
彼女は商人の舟のように、遠い所から食糧を運んで来る。 
彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使の女たちに用事を言いつける。 
彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、 
彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。 
彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、手に糸巻きをつかむ。 
彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。 
彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。 
彼女は自分のための敷き物を作り、彼女の着物は亜麻布と紫色の撚り糸でできている。 
夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。 
彼女は亜麻布の着物を作って、売り、帯を作って、商人に渡す。 
彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。 
彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。 
彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。 
その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。 
しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている。」と。 
麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 
彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。 

女は役に立たない奴隷ではなく、居候のようなものでもなく、大変有能な妻であり、管理人、女性実業家、そして母。

まさに権威ある人。

それ故、家族に関する聖書教理の鍵は、聖書の中核をなす権威という事実に見出される。

そして、その事実から家族の意義が見出される。



#508 神の法第五戒

2020年03月25日 | 神の法
第5戒
家族の権威
 
p163~
The Authority of the Family
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

支配と所有の実践には、責任と権威が伴うことは明らか。

人は地を利用するに当たり、神に対して責任がある。

忠実な統治者として、王法すなわち神のみことばに則って自分の召しを遂行する必要がある。

召しによって、ある種の権威が与えられる。

神によって、家族に対する権威、地に対する権威が与えられる。

マルクス主義では、家族から国家へ権威が移る。

それにより、機関としての家族は意味を失う。

あらゆる実務面において家族は廃止され、国家が教育、仕事、宗教、子のしつけを決定する。

唯一両親に残される役目は子作りのみ。

出産制限政策により、この役目もまた消滅しつつある。

そのような社会における家族制は、古い秩序の遺物であり、秘密裏かつ不法に存続している。

つねに国家権力の介入に晒されている。

現代社会において、家族から国家への権威の移行は、様々なレベルで完了している。

聖書的考え方からすると、家族の権威は社会にとって基本であり、神中心の権威のひとつ。

戒めは共有する2組の石板と2組の面に分けられた。

それぞれの5つの戒めの中で、第5戒は神に対して果たすべき人の義務に関連する戒めに沿っている。



#507 神の法第五戒

2020年03月24日 | 神の法
第5戒
家族の権威
 
p163~
The Authority of the Family
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

家族および親に関する人間中心的考え方に対抗するために、家族に関する神中心的な聖書教理を理解、強調する必要がある。

家族に関するヒューマニズム的教理は、人間中心的、かつ社会中心的教理。

家族はひとつの社会的機関と考えられる。

それは、進化の過程において、初期の古い集合体を提供した。

人が本当の家族となる時、新しい集合体へと道を譲るはずの集合体。

聖書教理の特徴は、家族は神中心的な機能と起源によって捉えられる。

人にとって、家族とは神の目的の一部。

それは、あるべき姿として神の栄光のために機能する。

そして、神の下で人が自己を理解するために機能する。

創世記1:27~30
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。 

注)この箇所を、Rushdoonyは次のように訳出している。

「地を従えよ」は、subdue the earth。

「すべての生き物を支配せよ」は、exercise dominion over it under God。

神の下で、すべての生き物を支配するために体を使え。

神の下で、すべての生き物への全面支配を実践せよ。

--

アダムが創造された時、既婚者としての男に創造命令がなされたことは明らか。

神の思いの中に、女の創造がすでにあった。

すなわち、地を従えることと、すべての生き物への全面支配を実践することは、神の支配下にある家族にとって非常に重要な職務。

また、家庭の頭としての男の役割にとっても、欠くことができない責務。

これにより、家族は所有すべきという職務が与えられる。

地を従えて、すべての生き物への全面支配を実践せよということは、聖書において私的財産所有という考え方が容認されているということを意味する。

神の御名において全創造物への全面支配を実践し、そこに神の法秩序をもたらすことは人の責務。

地の創造は大変良かったが、神によって任命された統治者である人間による服従と所有に関しては、地はいまだ未開発だった。

地の統治は、男が夫として父として召し出されたということを意味する。

また、家族がひとつの機関として召し出されたことを意味する。

人の堕落によって、この召し出しは変更されることはなかった。

ただし、キリストの新生の御業なしで、この統治が完了することは不可能となってしまったが。

参考文献:

自分の財産を国家の略奪から守るには

相続財産は悪か?



#506 神の法第五戒

2020年03月22日 | 神の法
第5戒
家族の権威
 
p162~
The Authority of the Family
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

共産主義のアプローチは以下の通り。

われわれは社会的革命を目指す。その中で、これまで存在してきたような一夫一婦制の経済的基盤は消滅するであろう。一夫一婦制は、一個人が手に入れた相当額の財産の集中から生まれた。この富を、他人ではなく、子孫へと残す必要性から生まれたのが一夫一婦制。経済的根拠から生まれたがゆえに、そのような根拠が消滅すれば、一夫一婦制も消滅するであろう。

人は次のように結論付けることもできよう。一夫一婦制は消滅するどころか逆に、十分認識されるようになるだろう。生産利益が社会的資産へと移行すれば、賃金労働、無産階級は消滅し、金のために自己犠牲を強いられる女性も消滅する。売春がなくなり、一夫一婦制は、衰退するどころか、最後にリアリティーとなるだろう。男にとっても。(だから、一刻も早く徹底的に潰すべきだ)

生産利益が共有所有権へと移行するにつれて、家族は社会の経済的一単位ではなくなる。個人的な家事労働は社会的産業へと移行する。子供たちの世話や教育は公的事業となる。社会がすべての子供たちを分け隔てなく世話をする。これにより、あらゆる不安が取り除かれる。経済的な要因だけでなく、社会的道徳的要因-女性が一人の愛する男性に自身を捧げることを妨げる要因-から生じる結末に対する不安から。それは、女性において開放的は性行為の成長を満足させるのではないだろうか。現代社会の一夫一婦制と売春は両立しないが、しかし互いに分かち難いものであり、同一社会の両側面であると考えられないだろうか。一夫一婦制を深い谷底へと引きずり込むことなしに、売春を消滅させることはできるだろうか。

Engelsの結婚観は、愛にのみ基づく、容易に破断する関係であり、ペナルティとは無関係の自由の関係のことを意味している。

聖書的結婚は、私産の廃止とともに廃止となった。

何故、現代の人間中心教育、すなわちマルクス主義教育が、家族に対して敵意を持つのか。

何故、マルクス主義教員が古い家族集合体から新しい集合体への置換に熱心なのか。

一夫一婦制という聖書的家族の破壊は、宗教の破壊、次いで私有財産の破壊を意味する。

マルクス主義者は、産業労働者にすることによって、女性を解放したいと考えている。

これは、釈義上の解放であって、聖書の「宗教・結婚・財産」複合体からの解放を意味する。

コメント:

聖書の主張に比べて、上に掲げた共産主義主張は実に分かりにくい。

隠然と聖書の陰口を叩き、人を騙そうとする魂胆があるからだろう。

参考文献:世界における共産化の進行


#505 神の法第五戒

2020年03月20日 | 神の法
第5戒
家族の権威
 
p161~
The Authority of the Family
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

Van der Leeuwは、家族と財産の関係について次のように述べている。

多くの民族の間で、財産は家族の共有要素として一役を担っている。財産は所有者の単なる所有物ではない。それは力。実際、力の共有。かくして、血と財産により密接に関連する家族の共有要素を見出す。この家族の共有要素は、血と財産に限定されるものではなく、神聖なものであり、与えられたものすべてを必要とする。

Hoebelによると

財産の基本的特徴というのは、社会との関連において見出され、われわれが財産と呼んでいる物事の相続的属性にあるのではない。財産とは金品ではなく、社会と関連する連絡網。この連絡網ネットワークは、物の用途や配備について、人の経済を統治する。

Hoebelは、財産とは金品ではなく、社会と関連する連絡網であるとする。

社会と関連する連絡網ネットワークは、一体何を統治するのか。

Hoebelは、これらの連絡網が統治するのは物資であると。

これらの物資が財産でないとすれば、一体何なのか。

財産(資産)と家族(血族)の関係に関して、人の場合を簡単に説明したのがFriedrich Engelsフリードリヒ・エンゲルスだった(マルクス主義理論)。

一夫一婦制家族は、男性優位性を基本としている。

異論のない父系の子孫を生み出すことを明白な目的とする。

そのような父系制が要求される理由は、子孫がのちに父親の財産を相続資産とし手に入れるため。

一夫一婦制は女性の重要性を減じてきた。

また、その制度が拡がりを見せるにつれ、女性に対する蛮行が顕著となってきた。

一夫一婦制、そして現代の家族は、妻の家庭内奴隷制度の上に成り立っていると言える。

初期の集団結婚はペアによる結婚へと道を譲り、一夫一婦制となった。

それに伴い、不貞や売春が横行してきた。

共産主義は、伝統的な一夫一婦制と私有財産の廃止を目指す。



#504 神の法第五戒

2020年03月19日 | 神の法
第5戒
家族の権威
 
p160~
The Authority of the Family
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

2種類の宗教が存在するとされる。

つまり、母の宗教と父の宗教。

van der Leeuwは次のように述べている。

母の宗教ほど神聖なものはない。われわれの魂において、子と母の関係に関する最も深淵な秘密へと導いてくれる。Otto Kernはこのテーマのエッセンスを明らかにした。非難したい「力」の背後に、ある形態の輪郭がある。その中に、男は自身の母の特徴を見出す。彼の孤独感は、「力」に立ち向かう時、母との親密な関係へと変容していく。

五穀豊穣の儀式の起源は、母礼拝、すなわち子宮の安全への回帰と受胎への願い、において見出される。

母の儀式は、結局父の儀式へと移行する。

Van der Leeuwによると、すべての男にとって母は神。父が神であるように。母は命を生む。父は歴史を生む。つまり、五穀豊穣の儀式は、有史前の問題であり、原始的文化。神としての父は、歴史上の人の発達段階。

イザヤ63:16と64:8について、Van der Leeuwは次のように注釈している。

イザヤ63:16
まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。 

同64:8
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。 

聖書の神は発明家ではなく、創造主。

神と人との関係は、血族関係とは全く違う。

神の御前に、人は深くぬかずくが、そこには絶対的信頼がある。

宗教とは、家族の投影画と考えることができる。

それ故、宗教が破滅するためには、まず家族が破滅する必要がある。

私的財産は、家族の副産物と考えられる。

私的財産の廃棄は、前提として家族の廃棄を必要とする。

コメント:

まだまだRushdoonyの考察は続くが、かつて考察したことのある次の聖句を思い出す。

マルコ10:29~31
イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」

Rushdoonyによる上記の考察によれば

初めに宗教ありきではなく、初めに家族ありき、ということになる。

すると、主の主張は律法違反ということになってしまう。

どうなっているのか。

以前の考察において、「捨てる」という訳出には問題があることを指摘した。

Rushdoonyの主張と主イエスの主張に食い違いがあるのではなく、日本語訳の訳出に問題がある

ということのようだ。

何もかも捨てて出家せよ、ということではない(と思う)。



#503 神の法第五戒

2020年03月18日 | 神の法
第5戒
家族の権威
 
p159~
The Authority of the Family
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

原始的な群れ、すなわち太古の社会は、粗暴な原始的父によって統治された。

その父は息子たちを追い出して、母や娘たちを性的所有物とした。

われわれの中にある道徳の起源は、エディプスコンプレックス(親母複合)に由来する。

反逆心旺盛な息子たちは、互いにつるんで、憎み恐れた父を殺して食べた。

そして、母や娘たちを性的所有物とした。

自分たちの行為に対する自責の念や罪悪感は、人に関する3つのタブー、親殺し、人喰、近親相姦、を生んだ。

フロイトにとって、キリスト教とは次のようなもの。

十字架によって息子による父殺しが赦され、人喰が聖餐式へと変更された。

以上から、なぜ人類学者が次のように言うのかそれなりに理解できる。

家族とは、あらゆる社会的集合体の中で、最も基本となるもの。

その分布において普遍的存在。

さらに、家族とは、文化的に決定づけられた社会的形態。

すなわち、家族とは、文化の進化論的産物である。

ゆえに、「宗教儀式」という問題は、「血族関係の拡張」を分析する過程においてはっきりする。

親の権力と家族の安全は、好まざる状況に対抗するための投影。