みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

A Gate And A Path, #1-2

2016年03月28日 | 聖書研究・信仰
話が罪からの解放ということになると、さらに3つのステップがある。

聖霊による啓示の御業、すなわち聖霊による「知らせ」(ローマ6:6)。

信仰という決定的転機、すなわち「徹底的な吟味」(ローマ6:11)。

献身の継続、すなわち神に「自分を献げること」(ローマ6:13)。

もちろん、命の新しきの中で歩んでいることが基本だ。

以上の3つ。

次に、聖霊の賜物について。

これは見方を新たにすることから始まる。

何の見方を新たにするのか。

御座に昇られたお方としての主イエスに対する見方だ。

見方を新たにすることにより、油注ぎの御霊と内なる御霊の二重の経験を得ることができる。

神の満足ということについて、さらに次へと話を進めよう。

霊的照明が必要ではあるが、肉(すなわち人の命まるごと全部)に対する主の十字架の最重要性を見出すことができる。

信仰によってこの事実を受け入れると、ただちに「小さい門」の経験へと導かれる(ローマ7:25)。

この経験において、我々は行なうことをまずやめる。

そして、信仰によってキリストの命の力ある御業を受け入れる。

我々における神の具体的要求を満たすために。

ここを通ることによって、次に我々は御霊への従順にある歩みという「狭き道」へと入っていく(ローマ8:4)。





A Gate And A Path, #1-1

2016年03月25日 | 聖書研究・信仰
信仰生活や信仰上の経験には数多くの段階がある。

これらに加えて、さらに1つの事実があることに注目したい。

その事実とは、これらの段階が必ずしもある一定の順序で起こるのではなく、繰り返される場合があるという事実だ。

では、これらの段階とは何か。

第1に啓示。

啓示は信仰や経験に先立つ。

みことばを通して、神は御子に関する事実の真実性に対して、我々の眼を開いてくれる。

それに続いて、信仰により我々がその事実を受け入れる時、その事実は信仰生活上の経験として現実のものとなってくる。

つまり
1.啓示(客観的)
2.経験(主観的)

さらに引き続いて、そのような信仰生活上の経験は、さらなるプロセスへとつながっていく、2つの局面をとるのが通常だ。

John Bunyanの「小さな門」によって、このことを考えると分かりやすい。

その小さな門を通って、キリスト者は狭き道に入る。

主イエスは、そのような門と道が命へと通じると語った(マタイ7:14)。

そして、信仰生活における経験がこのみことばと調和する。

すなわち
1.啓示
2.経験
(a)小さな門
(b)狭き道

さて、以前に取り扱った問題をいくつかを取り上げ、さらに理解を深めていきたい。

最初の課題は、聖化と新生について。

これは、十字架という贖罪の御業における、主ご自身の啓示から始まる。

そして、悔い改めと信仰の局面が続く(狭き門)。

この時初めて、我々は神の御許に近づくことができた(エペソ2:13)。

そして、神との交わりという歩みへと入っていく(狭き道)。






Chapter 11: One Body In Christ, #3

2016年03月21日 | 聖書研究・信仰
そこに留まっていないキリスト者たちもいる。

神はその者たちを御子の十字架上の死に包括した。

罪から、そして古い人を処理することによって律法から解放するために。

彼らは、主にあって信仰を巧みに実践する者たちだ。

彼らはキリストイエスの中に栄光を見出し、肉の中に信頼を置くことを辞めた者たちだ(ピリピ3:3)。

彼らの中に、神は建てるべき強固な土台を置く。

ここが出発点だ。

多くの者たちは、さらに高きを目指している。

聖化とは自分を明け渡すことであると理解できた者たちだ。

御手の中へとすべてを注ぎ出し、主に従う。

これが第1段階。

ここから始まり、神によって備えられた経験の段階については我々はすでに触れた。

多くのキリスト者たちはこれらを喜んで受け入れた。

ここにいつでも戻れるということは基本中の基本だ。

これらのどれもが貴重な真理の断片だが、それぞれはそれ自体真理全体ではない。

十字架上のキリストの御業の結実として、すべては我々のものである。

どれひとつについても無知であってはならない。



Chapter 11: One Body In Christ, #2

2016年03月20日 | 聖書研究・信仰
救いは貴重な主の血潮にのみ由来すると考えているキリスト者たちがいる。

聖い信仰生活を送ることが救いのために必要と彼らは考えているようだ。

ある種の罪に関しては、神に簡単な申し開きを継続して行なうことの重要性を強調する。

そして、犯した罪を処理するための主の血潮の効果を主張する。

彼らは、主の血潮がすべてを成してくださると考えているようだ。

また、彼らにとって、聖とは過去からの完全な分離を意味する。

主の血潮に基づいて、自分が犯してきた罪を日々抜き去るなら、神がこの世から分離して下さる。

これが、彼らにとっての聖だ。

しかし、彼らはここで止まってしまう。

これでは、神の基本的要求に到達することはできない。

神が成して下さった御業の恵みに預かることもできない。

この考え方は明らかに不十分であると言わざるを得ない。




Chapter 11: One Body In Christ, #1

2016年03月17日 | 聖書研究・信仰
最後の重要な課題に移る前に、これまでカバーしてきた基礎の幾つかを再考し、経て来たステップを要約しておきたい。

我々は単純化して、理解に努めてきた。

その理由は、キリスト者がよく経験する事柄について明確に説明するためであった。

しかし、主との歩みにおいて為される新しい発見が多々あることも分かってきた。

従って、神の御業を恣意的に単純化することは慎むべきである。

単純化の過程において、深刻な混乱を招いてはならない。




The Fourth Step: “Walk ... After The Spirit”, #11

2016年03月16日 | 聖書研究・信仰
キリストは我が命、と多くのキリスト者はそう思っている。

神の聖霊が我々の中に内住していると我々は信じている。

しかし、この事実が我々の行ないに影響を及ぼすことはまれだ。

その理由はこうだ。

主は生きているお方であるという認識がない。

主をボスだと考えていない。




The Fourth Step: “Walk ... After The Spirit”, #10

2016年03月16日 | 聖書研究・信仰
結局、その男は上海にいる私を訪ねて来て、あの話をしてくれた。

打ち解けた表現を使って、こう言った。

「ニー兄弟」

「私に内住しているボスがあのワインを飲ませなかったんだ」

「それは良かった、兄弟」

「あなたは内住しているボスの言うことをいつも聞いていると思う」



The Fourth Step: “Walk ... After The Spirit”, #9

2016年03月15日 | 聖書研究・信仰
冬の寒い時期、その男は食事とともにワインを飲む習慣があった。

しかし、やや度が過ぎる傾向にあった。

私と別れた後、寒波の到来とともにワインが再びテーブルに上るようになったようだ。

ある日のこと、習慣であったようだが、その夫は頭を下げて、食事の前の感謝の祈りを捧げた。

しかし、祈りのことばが全く出て来ない。

何度か試みるも、言葉が出ないので妻の方を振り返った。

「何が悪いのだろう」

「今日はどうして、祈ることができないのだろう」

「聖書を持って来て、ワインについて書いてある箇所を見てくれないか」

私は彼らのために聖書を1冊を置いてきた。

彼の妻は、字は読めるのだが、みことばに無知だった。

彼女は聖書を開くのだが、その問題の解決となる箇所を探すことができなかった。

彼らは聖書の調べ方を知らなかった。

つまり、神の仲介役に問い合わせることが出来なかったのだ。

私は遠く離れていて、私と会うには数か月を要する可能性があった。

そこで、妻はご主人に「ワインを飲みなさい」と言った。

「次にニー兄弟と会う機会があったら、このことについて話し合おうよ」

しかし、なおもその男は、そのワインに対して主に感謝の祈りを捧げることができないことが分かった。

「捨ててしまえ」

ご主人が言った。

妻がワインを捨てると、ふたりで食事の前の感謝の祈りを捧げた。




The Fourth Step: “Walk ... After The Spirit”, #8

2016年03月14日 | 聖書研究・信仰
ある夏の終わりの頃、長期休暇をとるために、ある保養地へと出向いたことがある。

そこでは宿泊施設を得ることが出来なかった。

そのため、そこにいる間は、ある家に寝泊まりして、また別の家で食事を取る必要があった。

食事を取ったのは、修理工のご夫妻の家だった。

当初、そのご夫妻に福音について何も話さなかった。

ある日、主イエスについて彼らに話す機会が与えられた。

彼らは喜んで耳を傾け、罪の赦しのための単純な信仰告白をして、主の元に来た。

彼らは新生され、彼らの人生は新しい光と喜びで満ちた。

彼らの悔い改めが本物だったからだ。

彼らに起こったことを丁寧に説明した。

その後涼しくなってきたので、その地を離れて上海へ戻った。





The Fourth Step: “Walk ... After The Spirit”, #7

2016年03月13日 | 聖書研究・信仰
ひとつの魂をキリストへと導こうとする時には、徹底的に用意周到であるべきだ。

というのも、その魂がもう一度信徒の助けを得る機会があるという保証がないからだ。

主に罪の赦しを求め、主に人生を委ねることを決意した時、その者の心は、その直後から生きているお方の住まいとなる。

このことを新たに信徒となった者に、はっきりと分からせるように努める必要がある。

神の聖霊は今やその者の中におられる。

キリストを見出すことができるように、彼にあって聖書が開かれるために。

彼の祈りを指揮するために。

彼の人生を支配するために。

主のご性格を彼の中で再生させるために。