みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #59

2016年11月30日 | コーヒーブレイク
And Jesus went about all Galilee, teaching in their synagogues,
and preaching the gospel of the kingdom,
and healing all manner of sickness and all manner of disease among the people.






The Holy Spirit and the Body, #10

2016年11月29日 | 聖書研究・信仰
この11節によって、神は体における特権を子らに告げ知らせる。

体における特権とは、内住する聖霊を通して、死ぬべき肉の体(フレーム)にとって命となるものである。

「罪の体」が聖なる体になると言っているのではない。

「低級な体」が栄光の体に変えられると言ってはいない。

この死の体が不死になるとも主張してはいない。

この命において、このようなことは現実化しない。

我々の土くれの器の復活は、主が再臨し、我々をご自身に受容れるまで待たなければならない。

この時代において、我々の体の性質を変えることは不可能だ。

それ故、聖霊が我々の体に命を与える意味とは、以下のように要約される。

(1)我々が病気になると、聖霊は復して下さる。

(2)もし病気でないなら、聖霊はその状態を維持して下さる。

聖霊は、土くれのテントに力を与えて下さる。

以て、我々は神の要求を満たすことができる。

以て、自身の命ゆえの歩みを止める。

以て、神の国が我々の体によって病むことはない。




The Holy Spirit and the Body, #9

2016年11月28日 | 聖書研究・信仰
この聖句が具体的に説明していることはこうだ。

もし神の霊が我々の中に宿るのなら、この内住する力によって、神は我々の死ぬべき体にも命を与えて下さる。

これは将来の復活について言っているのではない。

ここでは、それが主題ではない。

単純に、主イエスの復活と今日我々がこの体に命を受け取ることとが対比されている。

ここで注目されているのは、死ぬべき体のみだ。

死に渡されてはいるが、まだ死んではいない。

キリスト者の体は霊的には死んでいる。

それは墓場に向かって突き進み、死ななければならない。

しかし、文字通りの意味において、すでに死んでしまっている状態とは全く違う。

聖霊の内住が画期的出来事であるように、聖霊が我々の死ぬべき体に命を与えてくださるのもまた同様に画期的な経験である。

ここでは、新生のことを言っているのではないことに注意を要する。

聖霊は我々の霊に命を分け与えるのではない。

我々の体に命を与えてくださるのだ。




Coffee Break, #58

2016年11月27日 | コーヒーブレイク
How to bring Heaven to Earth

https://www.youtube.com/watch?v=Kw9lEo1AwyE&feature=youtu.be




Coffee Break, #57

2016年11月27日 | コーヒーブレイク
Jesus healed all sick people that were taken with divers diseases and torments, and those which were possessed with devils, and those which were lunatick, and those that had the palsy.

主イエスは、潜函病や激痛のある者たちを皆、悪魔に憑かれた者たちを皆、発狂した者たちを皆、麻痺となった者たちを皆、癒した。

これ、絵に描いた餅になっていないか。
ここに神の国がある。





The Holy Spirit and the Body, #8

2016年11月27日 | 聖書研究・信仰
「死者から主イエスを蘇らせた」お方とは神だ。

何故、直接「神」と言わないのか。

死者から主イエスを復活させたという神の御業を強調するため。

神がイエスの死体を復活させたように、我々キリスト者の死ぬべき体をも復活させることができるという神の実現可能性に注目させるためだ。

聖霊とは神の霊だ、と間接的ながらパウロは言う。

そして、そのお方は復活の霊でもある。

パウロは、再度“if”という単語を使う。

「もし、そのお方の霊が・・あなたがたの中に宿る・・そのお方は・・あなたがたの死ぬべき体に命を与えるであろう」

聖霊は信仰者の中に存在するということを、間違いなくパウロは信じている。

9節でパウロは言及する。

キリストに属する者は誰でも、キリストの御霊を持つ。

パウロが言いたいことはこうだ。

我々の中には聖霊が宿っている。

それ故、我々の死ぬべき体は聖霊の命を経験する。

これが、内在する御霊を持つ者たちすべてによって共有されている特権だ。




The Holy Spirit and the Body, #7

2016年11月26日 | 聖書研究・信仰
確かにこの体は霊的に死んでおり、その命も死んでいる。

では、如何にして我々はこの体を取り扱えばよいのか。

死んでいるこの体の命と関わることなく、どのように霊的命の要求に反応すればよいのか。

我々の体は、うちなる命の御霊の御旨を行なうことはできない。

これだけではない。

我々の体は、御霊に反逆するだけではなく戦いを挑んでくる。

では、如何にして聖霊は我々の体が主の召命に答えることができるように導くのだろうか。

御霊ご自身が、死のこの体に命を与えて下さる以外に方法はない。




The Holy Spirit and the Body, #6

2016年11月25日 | 聖書研究・信仰
体が死んでいるのは、この外側の殻という意味においてではない。

体が死んでいるのは、それが墓場に向かって突き進んでいるという意味においてだ。

霊的に言うと、体は死んでいると見做される。

人の考えからすると、体には命がある。

しかし、神から見ると、その命は死んでいるのだ。

何故なら、その命は罪にまみれているから。

「我々の体は、罪の故に死んでいる」

体には力があるが、我々はその力を現わすことを禁じられている。

この体は活発に動いてはいけないのだ。

何故なら、この命の活動はただ死んでいるから。

罪がその体の命であり、罪とは霊的死だ。

この体は、霊的死によって生きている。

他方、我々は神を証言し、神のための奉仕者であるべきだと思っている。

証言したり、奉仕するためには、体の力が必要だ。




The Holy Spirit and the Body, #5

2016年11月24日 | 聖書研究・信仰
ローマ8:11
死者からイエスを蘇らせたお方の霊が
あなたがたの中に宿っているなら
死者からイエスを蘇らせたお方は
あなたがたの死ぬべき体にも命を与えるであろう
あなたがたの中に宿っているそのお方の霊を通して
(Nee訳)

10節は、神がいかにして我々の霊を生き返らせるのかを説明する。

11節は、神がいかにして我々の体に命を与えるかを説明する。

10節は、体はいまだに死んでいるが、霊が生き返ることについて書いている。

11節では論点がさらに進み、霊が生き返った後、体もまた生きる可能性について書いている。

最初の部分において、我々の中に宿っているキリスト故に霊が生きる、ということが明らかにされる。

次の箇所において、我々の中に宿っている聖霊故に体が生きるであろう、と公言する。

聖霊は我々の体に命を与えるだろう。




The Holy Spirit and the Body, #4

2016年11月23日 | 聖書研究・信仰
体は死んでいるが、我々の霊は生きている。

より正確に表現すると、キリストにある義の故に、我々の霊は命を受け取ったのだ。

主を信頼するということは、我々自身の義となる主を受け入れるということ。

同時に、我々は神によって義とされる。

キリストがまさにご自身を我々に分け与える(実質的処理)のが前者。

キリストゆえに神が我々を義として下さる(法的処理)のが後者だ。

この分与なしに、義とされる術はない。

キリストを受け入れた瞬間に、我々は神の御前で義とされる法的地位を獲得する。

加えて、キリストが我々に分け与えられたということを実体験する。

我々の死んでいる霊が生き返るために、キリストが命として我々の中に入ってくる。

これが、「あなたがたの霊は義の故に生きている」という聖句の意味だ。