みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#572 神の法第五戒

2020年06月30日 | 神の法
第5戒
家族と権威
205~
The family and Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

Sorinの見解が感慨深いのは、聖書理解にたけているからではなく、1840年代のキリスト教アメリカの信仰と実践を反映しているから。

Bodeは次のように述べている。

この本が貴重なのは、特徴ある忠告を与えてくれているだけでなく、中流レベルのアメリカ家庭生活を記述してくれているから。Sorinは外国生まれで、われわれのことをより綿密に観察している。この国生まれだからと言って、われわれをネイティブのアメリカ人とは考えてはいない。彼はその本が不適切であることを謝罪している。この国の社会の原則や習慣を特別に受け継いでいる者が執筆すべきではないかと。彼はあまりに謙遜過ぎる。彼の客観性は、十分な洞察によって支えられているからだ。

Sorinによって描かれているのは、家庭の秩序。

これに対抗して立つのが、多くの革命的活動。

寛容は親の権威を直撃する。

革命的な考え方が家庭にも学校にもある。

寛容の流布は自己訓練の発展を阻止する。

自己訓練の欠如は、現在の少年非行の原因であることが知られている。

少年非行は自己訓練の欠落やわがままが原因。

他人の権利を尊重し、行動する前にそのことを考える大人にとっては考えられない程の利己主義が原因となる。

Blaineは付け加える。

自己訓練はTopsy(トプシー)のように成長しない。それは、両親が原動力となる2段階成長過程の結果。教会、学校、仲間、ヒーローたちがそれぞれの役割を演ずるが、礎石が敷かれているのは家庭。

自己訓練の欠落はうぬぼれへとつながる。

自分以外の権威ある判断基準がないため、甘やかされて育てられた子どもは自己評価のためのしっかりとした基準を持たない。

コメント:

聖書的な国のあり方を目指して




#571 神の法第五戒

2020年06月28日 | 神の法
第5戒
家族と権威
204~
The family and Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

一般的な考え方に加えて、男と妻の間の相補的義務的事項について着目しておきたい。

妻については、従属的な精神を示し、夫に従うことが必要(エペソ5:22)。

夫については、妻を愛し、守ることが必要。

妻のために、最も優しい愛情を養い育てる必要がある。

力に応じて、妻を守る必要がある。

健康、財産、人望など。

妻の慰安に関するすべてのことは、夫の力の及ぶ限りにおいて当然のことと考えるべき。

キリストが教会を愛したように、夫は妻を愛するべき(エペソ5:25)。

妻については、上の者としてではなく、家庭のやりくりにおいて上に立つ者として、夫に敬意を払う必要がある。

男から権威を奪うべきではない。

アダムが最初に形成され、次いでエヴァ(第1テモテ2:11、14)。

下品なことばや、卑劣でつまらない態度によって、自分を愚かで情けない者としないことは夫の義務。

力任せではなく素晴らしい手本となることにより、高いレベルの精神と道徳により、また物事を巧みに操ることにより、夫は自分の立ち場を保つべきだ。

それが夫の関連において期待されれば良いことであり、従うための用意と快諾があれば一層良いこと(第1ペテロ3:3、7)。

自分の場所から迷い出ることなく、家を守ることが妻の義務であるように、その家ができる限り楽しくて気分が良いようにするのが夫の義務(テトス2:5)。

コメント:

プレミレを冷笑するつもりは全くありません

大多数のクリスチャンがプレミレを無批判に受け入れているのは、この世が進化論を無批判に受け入れているのとよく似たような現象であるように思う。

ディスペン主義は、進化論哲学とそこから派生した共産主義思想を土台にしているため(Rushdoony)、(インテリには)居心地が良く、なかなか抜け出すことができない。

旧創造時代の悪しき思考回路。








#570 神の法第五戒

2020年06月24日 | 神の法
第5戒
家族と権威
203~
The family and Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

明らかに、母権制社会へと向かう傾向は今日の西洋文明においても見出される。

母権制社会とは女性が支配する社会ではないことは強調されるべきだ。

そうではなく、男性が支配権を行使できない社会のこと。

それ故、女性は2重の責務を問われることになる。

自分の労務だけでなく、男性の道徳的失策によって創られた無政府状態をくい止めるために働かなければならない。

母権制社会において、女性は重荷を負わされても、昇格することはない。

罰せられることはあっても、報われることはない。

クリスチャンファミリーの秩序の原則は、1840年Matthew Sorinによって概説された。

結婚関係から生じる義務的事柄。

1.相互愛。神による支配の秩序と法制に従い、この生活の事々における統治のために男は任命されている。家庭に幸福と栄誉ある結果をもたらすため、家族の支配を統制すること、家族の利益を誘導することは男の特権。神によるこの任命は、創造の秩序において始まり、その適否は堕落の秩序において現われる。節度と愛をもって統治することは夫の義務であるのと同様、統治することは夫の権利(エペソ5:25)。妻の従順は、不忠実な霊の落胆すべき出来事ではなく、喜びに満ちた心の快活な奉仕。「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。(第1ペテロ3:1~5)」

2.相互信頼。夫婦の愛を維持し、活発にエネルギッシュに実践する上で、これほど重要なものはない。信頼関係を破壊することは、家庭の輪において良質かつ重要なものすべてを除くこと。

3.相互の気遣いと敬意。家族の輪に仰々しく押し込められた、虚しく繰り返される儀式ばった気遣いではない。魂の正真正銘の感情を表現するというより、見る人を満足させるといったこと。本物の愛が息吹く、単純で、わざとらしくない、意図的ではない敬意と愛情。

4.相互援助。最初の女は男に与えられた。男の仕事を手伝うためではない。男の生計のために働くためではない。男とひとつになるために、女はデザインされた。男の悲しみや喜びを同じように分かち合うために。男の助け手になるために。結婚した人は、家庭の輪の中に利益と喜びをもたらすために、お互いに負うべき3つの援助がある。

1.家族の利益を一時的に増進させる支援。

2.秩序の維持のための相違支援。子どもの教育と統治。

子どもにおける両親の権利は同一。この世において、子どもが栄誉的であったり、裕福であれば、それは両方の親にとって幸せなこと。子どもが放蕩であったり、癖が悪ければ、一方の親が他方よりもさらに不幸であるということはない。

3.お互いの霊的祝福促進のための相互援助。

コメント:

終末預言はどこに?




#569 神の法第五戒

2020年06月22日 | 聖書研究・信仰
第5戒
家族と権威
203~
The family and Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

このエピソードは、先鋭かつ極端な例として、男と女のさまざまな本性を明らかにしている。

この悲哀的出来事に巻き込まれた男たちは、時には非道徳的ではあったが、少なくともある種の秩序に関心を持っていた。

今日、男たちは男らしさを過度に捨ててしまったので、秩序にはあまり関心を示さず、喜びにかなりの関心を払っている。

結果として、自分たちや子供たちの安全の故に、女性たちの立場が危険に晒されている。

そして、社会の腐敗、法、そして秩序といった問題に巻き込まれるようになってきた。

社会的、ないし政治的行動が、切迫的な女性の関心事となっている。

女性の関心事は、社会の腐敗や男性の失策などに向けられている。

女性が自分の防衛を案ずるということは、通常、外部の侵入者が脅威となっているか、または、社会秩序の中で、男が男としての機能を果たしていないか、のいずれかを意味する。

女系権力は、正常の法秩序の代用として発達する。

つまり、母系社会とは、退廃的で破損した社会ということ。

強力な母系的黒人社会とは、黒人男性の道徳的失敗による。

彼らの失敗とは、家族に対する責任と扶養、そして権威の喪失。

同じことが、今日母権制であるアメリカンインディアンにも当てはまる。

そのような社会では、女性が家庭収入の大部分を支えている。

男の道徳的怠慢がそうさせている。

強い甘えの体質が子の訓練において優位となり、男の道徳的失策は次世代へと伝搬していく。

コメント:

使徒たちはポスト・ミレを信じていた




#568 神の法第五戒

2020年06月19日 | 神の法
第5戒
家族と権威
202~
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The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

他方、イングランド王ヘンリー8世(Henry Ⅷ)の場合、純粋個人的な(つまり女性的な)観点のみから彼の人物像を評価することはできない。

確かに彼は罪深い男ではあったが、基本的動機には、男子後継人を得ることにより、無政府状態から祖国を守ることという願いがあった。

彼の父親の王位継承以前には、長い間、イングランドは血に染まった王位継承権争いが絶えなかった。

Henryの基本的な関心事は、確実で強固な王家継承によって、秩序を守ることだった。

彼にとって、それは男子相続人を意味した。

このことは、ヘンリー8世にとって、基礎的道徳的配慮だった。

一方で、私的な関係は、キャサリンにとって基本的道徳的関心事だった。

ヘンリーは自分の原則によって、すべての出来事を読み込み、それにより全ての段階の理由付けを行なった。

彼は才能があり、知的な男であったが、未熟でひとりよがりでもあった。

彼以外にも、秩序と王位継承という非個人問題におけるイギリスの状況を憂慮する者がいた。

ルター(Luther)とメランヒトン(Melanchthon)は、法的二重婚に関するヘンリーの苦境に答える用意があった。

ローマ教皇クレメンス7世(Pope Clement VII)も同様の提案を用意していた。

両者を許すための試みがなされるが、メリットは全くなかった。

理由はどうあれ、これら宗教指導者たちは、ある提案をした。

キャサリンとヘンリーの間の法秩序の純粋私的問題だけでなく、彼らはみな、男として、政治的背景やイングランドの秩序問題にも関心があった。

コメント:

地上的現実と霊的現実



#567 神の法第五戒

2020年06月16日 | 神の法
第5戒
家族と権威
201~
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The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

これらの特徴は、人間生活にも当てはまる。

個人的な場合において、女性は法や秩序の問題にのめり込む。

例えば、家族が、あるいは家庭の安全が崩壊の危機に晒されるような場合。

男性は、危機的状態とはかけ離れた社会の問題について興味を示す。

社会的崩壊が個人的な関係となる場合、女性は関心を示し、次第に一大関心事となる。

男と女はお互いに必要であり、彼らの敬虔なる秩序は結婚。

結婚とは神の下での男と女の結合であり、神への栄光であり、神のための奉仕。

お互いを敬遠し、騙し合い、争うならば、男と女の協調は一方的になる。

このことに関する例を挙げると、次のような風刺画的極論にまで達する。

Henry Ⅷと女王Catherineのケース。

Catherineは、Sir Thomas More以上に、当時のカトリック教聖徒に相応しい人物だった。

Sir Thomas Moreは最初で最後のヒューマニスト。

一方、Catherineは熱烈な信仰と勇気のある敬虔な女性だった。

スペインの偉大な女王Isabellaの娘。

気違いJuanaと揶揄された姉妹とともに、個人的問題に驚くほどにのめり込んでしまった。

結果として、Catherineの最愛の父、当時貧困に喘いでいたFerdinandは、スペイン勢力のために、彼女を人質として最大限利用した。

それはイギリスを破壊するためだった。

Ferdinandは、Juanaの夫を殺害し、Juanaの王位を奪った。

彼は親族の利権を利用することに対して良心の咎めはなかった。

Catherineもまた、夫であるHenryの対応に関して全く無頓着だった。

夫Henryとの間には、さらに個人的な問題が絡んでいた。

コメント:

律法強調に伴う危険




#566 神の法第五戒

2020年06月12日 | 神の法
第5戒
家族と権威
201~
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The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

支配権は、家庭内の夫や父親に宿る雄性にとっても神の原理(第1コリント11:1~15)。

雄の性質と特権としての支配権は、神の創造の布告の部分として、動物界において至る所に見出される。

Ardreyが指摘するように、動物には性的ないし他の衝動性を支配する権威がある。

雄が性行為に対する興味を完全に喪失する時が来る可能性があるが、威信をかけた戦いを止めることはない。

社会的動物における支配権は普遍的な本能であり、性行為とは無関係。

雄の支配に関する本能は、具体的に3通り見出される。

第1に、縄張り意識。すなわち土地に関する本能や衝動。

第2に、威厳。すなわち、厳格なヒエラルキーにおいて地位を確立する衝動。

第3に、サバイバル。サバイバルのための秩序。

これらは自然界という設定において当てはまる。

一方、動物園では、動物たちは非常に恵まれた環境にあるため、性行為に熱中する。

雄における支配権は、性の能力と持続性を増強する。

力強さによる序列の本能が特徴。

雌の性的あるいは母性的本能は個々それぞれであり、ある意味において無政府状態とも言えよう。

コメント:

前千年王国説のキリスト教は滅びる




#565 神の法第五戒

2020年06月11日 | 神の法
第5戒
家族と権威
200~
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Rousas John Rushdoony

◇◇

最後に、社会は崩壊し、囚われの身となる。

イザヤ3:16~26
主は仰せられた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」それゆえ、主はシオンの娘たちの頭の頂をかさぶただらけにし、主はその額をむき出しにされる。その日、主はもろもろの飾り・・足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、くるぶしの鎖、飾り帯、香の入れ物、お守り札、指輪、鼻輪、礼服、羽織、外套、財布、手鏡、亜麻布の着物、ターバン、かぶり物を除かれる。こうして、良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。その美しさは焼け傷となる。あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。 

女性にとって、危険と破滅の事態、非難と恥辱の時。

そんな状況下にあっても人に頼らない解放的な女性は、自尊心において控えめで、男性の保護と安全を追い求める。

7人の女は、廃墟の只中で、一人の男性を追い求める。女性は皆結婚を乞い願う。

孤立し、無防備な女を飲み込んでいる恥辱と羞恥が、自分たちから取り除かれるのであれば、自分で生きていく準備がある。

イザヤ4:1
その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。」 

イザヤははっきりと見た。

社会的大混乱のある所では、男の権威は失われることを。

家族の長として、男は秩序の必然的原則であり、かつ秩序における主体。

支配権は、自然を支配する人間にとって神の原理。

創世記1:28
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 

コメント:

一度しかない人生を人間的な心配で満たしたいだろうか




#564 神の法第五戒

2020年06月09日 | 神の法
第5戒
家族と権威
200~
The family and Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

今や、家庭は基本的社会構成単位以上の存在となった。

本質において、社会的機関となった。

しかし、先祖崇拝という不道徳な家族システムの力を無力化することはなかった。

先祖崇拝において、家庭は過去へと向けられ、未来には背を向ける。

クリスチャンファミリーの場合、新約聖書において解釈されているように、モーセ律法は
家庭を統治し、視線はクリスチャンの未来に、神の御国に、そして今日明日の必要へと向けられる。

家庭の権威がなければ、社会は急速に社会的混乱へと堕ちていく。

家庭の権威の源泉は、神。

権威の直近の場は、父、または夫(第1コリント11:1~15)。

第1コリント11:1~15
私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。 
さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。 
しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。 
男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。 
しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。 
女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女と男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。 
なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、 
また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。 
ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。 
とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。 
女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。 
あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。 
自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、 
女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。 

父親による権威の放棄、父親の権威の否認は社会的混沌へと至る。

イザヤ3:12
わが民よ。幼子が彼をしいたげ、女たちが彼を治める。わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、あなたの歩む道をかき乱す。 

女が男を支配し、子どもが不適切な自由と権力を握る。

そして、両親に対して謀反を起こす。

そのような社会秩序において無力化された支配者は人々を堕落させ、社会構造を破壊する。

コメント

未来の世代にターゲットを絞ろう



#563 神の法第五戒

2020年06月03日 | 神の法
第5戒
家族と権威
200~
The family and Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

禁止された性行為、特に商業目的のセックスは法によって罰せられた。

Zimmerman(ジマーマン)のメモにこうある。

家族外の性交渉に対して、支援や贈答用としての報酬を与える契約は違法とされた。

そのような契約を結ぶ団体はすべて違法行為の従犯となった。

これらの法的ステップは、明確な公的生活様式や地位を家庭に与えた。

結果として、この法令は文化的生活の方向転換となった。

家庭システムの創造は見事に型にはまり、成功を治めた。

著者らは完璧な人を想定したわけではなかった。

大いなる文化的世界の単位へと到達しうる社会システムへと、平均的な人を組み入れただけ。

この法令の効果は広範囲にわたった。

2つの重要な変化領域は、相続と財産分野だった。

相続は、家族の配慮によって運営された。

法的な妻と子どもたちは、内縁の妻や情婦とその子どもにはない地位が与えられた。

法的家族に相続を限定することにより、家族は重要な代理人となり、財産に関して権力を持った。

コメント:

クリスチャンは「地上で」支配する

この記事の中にこうある。

聖書に繰り返して出てくるパターン:

1.神は、契約の民に対して、まず約束をお与えになる。

2.そして、その根拠に、実現を予言される。

3.契約の民には、その約束を信じて行動するかどうかが責任として問われる。

この意味とよく似た意味を有する聖句がある。

ヘブル11章1節
εστιν δε πιστις ελπιζομενων υποστασις πραγματων ελεγχος ου βλεπομενων
(Greek NT TR) 

直訳する。

is now faith expecting substance practicing convince not seen

この文章は、明らかに2つの文章を含んでいる。

a) faith is expecting substance 

b) faith is practicing convince not seen

a)は、上の「まず約束を与え、実現を予言(約束の実体がすでに在る)」とよく似ている。

b)はどうか。

上の「その約束を信じて行動するかどうか」が、practicing convince not seenとみごとに共鳴している。

最重要箇所は「行動するかどうか」という箇所。

つまり

faith is practicing.

記事の文意に沿って補足すると

faith is practicing to reign on the earth.

目には見えないが神が約束されたことをこの地上において実践・実現すること、それが信仰。

以上から

前千年王国説は、「キリストの再臨があってはじめて地上で支配できるが、再臨前はクリスチャンは無力である」と説く。

無千年王国説も前千年王国説も不信仰の体系である。

こんな教えに力があるはずがない。

という結論に至る。

信仰義認とは全く別のテーマであることを書き添えておく。

勘違いしないように。