みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

God as the Life of the Body, #3

2017年08月30日 | 聖書研究・信仰
もはや我々は、この外側の殻をみすぼらしい囚人として見ることはない。

何故なら、その殻の中に神の命が発現されているからだ。

より深い方法でそのことを経験できる。

もはや生きているのは私ではなく、私のうちに生きているキリスト。

今やキリストは我々にとって命の源だ。

かつて主はご自身の肉の中で生きていたように、今は我々の中で生きている。

かくして、主の主張の意味についてさらに詳しく理解できるようになった。

「わたしが来たのは、あなたがたが命を持つこと、そしてそれを豊かに持つためだ(ヨハネ10:10)」

さらに満ち満ちたこの命は、我々の体のあらゆる満たしのために付け加えられる。

パウロはテモテに熱心に勧める。

「永遠の命を捉えよ(第1テモテ6:12)」

確かにその時、テモテは救いをもたらす永遠の命を必要としてはいなかった。

この命とは、同じ章において、パウロがまさに正真正銘の命と述べている命ではないか(同19節)。

パウロはテモテにしきりに勧めているではないか。

死のあらゆる現象に打ち勝つことにおいて、今日永遠の命を経験すること。




God as the Life of the Body, #2

2017年08月28日 | 聖書研究・信仰
聖霊はどのようにしてこの死ぬべきフレームを生かすのか。

死んで、主が我々を蘇れらせるまで待つ必要はない。

すでに今、主は我々の死ぬべき体に命を与えているからだ。

将来、主はこの朽ちるべき体を死者の中から蘇らせるであろう。

しかし、今日のいま、主はこの死ぬべき体を生き返らせる。

主の命のパワーが、この体の細胞一つ一つに浸透する。

故に、我々はこの体において、主のパワーと命を経験することができる。




God as the Life of the Body, #1

2017年08月18日 | 聖書研究・信仰
The Spiritual Man, CFP, Vol. 3, Part 10 THE BODY, Ch. 3, by Watchman Nee

God as the Life of the Body, #1


我々の体が聖霊の宮であるとはどういうことなのだろうか。

パウロが体に対して特に重点を置いていることに注目したい。

キリストの命は我々の体のためにではなく、我々の霊のためにあると考えるのが一般的だ。

最初に命が与えられて、次に神の救いに至ると理解している者はいない。

有益ゆえに、神が我々の霊の中でのみ生きることを望んでいるとするなら、パウロは次のように言う必要があったはずだ。

「あなたがたの霊は神の宮である」と。

そして、体に関しては言及しなかったはずだ。

以上から、我々は次のような理解に至る。

聖霊の宮としての我々の体は、特殊恩恵の受容体以上の意味合いがある。

つまり、有効なパワーのための誘導体という意味合いだ。

聖霊の内住は我々の内なる人を力づけ、心の目に光を与え、我々の体を健やかにする。





The Believer’s Attitude towards Sickness, #29

2017年08月15日 | 聖書研究・信仰
信仰の働きとは「今ここに在る」であって、「将来に期待する」ではない。

単純な例を挙げてみたい。

福音を伝えていて、ある人が信仰を告白したとしよう。

その人に、救われているのかどうか聞いてみる。

彼の答えが私は救われることを願うというものなら、その返答は不適切である。

私は救われるであろうという返答でも、やはり不正解ということになる。

応答して私は間違いなく救われていると思うと言っても、やはり何かが足りない。

しかし、私は救われていると彼が答えるなら手ごたえは十分だ。

信じるなら、すでに救われているのだ。

信仰は過去を取り扱う。

私は信じる、私は癒されるであろう、これは真の信仰ではない。

信じるなら感謝してこう言うであろう。

「私は癒しをすでに受けた」

3つのステップをしっかりと理解せよ。

神は何でもできる、神は望んでおられる、神はすでに持っている。

人の信仰がこの3つのステージに触れる時、病いは終結する。




The Believer’s Attitude towards Sickness, #28

2017年08月14日 | 聖書研究・信仰
信仰とは何か。

信仰とは、神は何でもできる、神は望んでおられ、すでに成して下さったと信じることだ。

望んでいることをすでに受けたと信じるなら、それを持つだろう。

神がみことばを下さったのであれば、神に感謝を献げて、こう言うだろう。

「神は癒して下さった。神はすでにそれを成し遂げた」

多くの信徒は癒されることを単に期待しているだけ。

期待とは物事の将来に関すること。

しかし、信仰とは物事の過去を取り扱う。

もし本当に信じるなら、20年も100年も待っているのではない。

直ちに立ち上がり、こう言うであろう。

「神に感謝します、神は癒して下さった」

「神に感謝します、私はそれを確かに受けた」

「神に感謝します、私は清くなった」

「神に感謝します、私は元気になった」

故に、完全な信仰とは、神は何でもできる、神は望んでおられ、すでに成して下さったと主張することだ。





The Believer’s Attitude towards Sickness, #27

2017年08月11日 | 聖書研究・信仰
c)主の行ない

「神は持っている」

神がすべきもう一つのこと。

「まことに、あなたがたに言う」

「この山に向かって、持ち上げられて、海の中へ投げ込まれよと言い、心の中で疑わず、言ったことが実現すると信じる者は誰でも、それを持つであろう」

「それ故、私はあなたがたに言う、あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」

「そうすれば、あなたはそれらを持つであろう(マルコ11:23~24)」




The Believer’s Attitude towards Sickness, #26

2017年08月08日 | 聖書研究・信仰
神のパワーが如何に強力であっても、神が癒すことを望まないなら、そのパワーは役に立たないだろう。

まず解かれるべき問題はこうだ。

神にできるのか。

第2点。

神は望んでいるのか。

らい病ほど穢れた病いはない。

律法によれば、らい病人に触れた者は誰でも穢れる。

それほど穢れた病気なのだ。

しかし、主イエスはらい病人に触れて、そして言った。

「私は望む」

らい病人を癒すのであれば、我々の病を癒すことを主はどれ程までに望まれているだろうか。

我々は寸分も疑わずに、こう主張するであろう。

「神にできないことはない」

そして

「神は望んでおられる」




The Believer’s Attitude towards Sickness, #25

2017年08月07日 | 聖書研究・信仰
b)主の御心

「神はなさる」

確かに、神はなさるのだろう。

しかし、神が実行するのかどうかどうやって知るのだろう。

正直なところ、私には神の御心が分からない。

私を癒すことを望んでいないのかもしれない。

マルコ伝にもう一つのストーリーがある。

「らい病人が主のところに来て、ひざまずいて彼に言った」

「もしあなたがお望みになるのなら、どうか私を清めて下さい」

憐れみで動かされて、主は手を伸ばして、その者に触れた。

そして言った。

「私は望む、清くなれ(マルコ1:40-41)」





Coffee Break, #98

2017年08月06日 | コーヒーブレイク
ガラテア3章19節
では、律法とは何でしょうか
それは約束をお受けになった
この子孫が来られるときまで
違反を示すためにつけ加えられたもので
御使いたちを通して
仲介者の手で定められたのです

この日本語、理解できるか。

実は、この聖句分かりにくいため、教職者の恰好の研究材料となっている聖句なのだそうだ。

これまでの考察から、日本語訳をいくらいじくり回しても、埒が明かないのは分かり切っているので、英語訳を参考にしながら考察を進めていきたい。

このみことばを通してパウロが言いたいことは何か。


Wherefore then serveth the law
It was added because of transgressions
till the seed should come
to whom the promise was made
and it was ordained by angels
in the hand of a mediator
(KJV)

これなら何となく分かる。

日本語と言う言語は、大事な単語がケツに来るために非常に分かりにくいのだ。単語の単複が不明瞭であることが文意の理解をさらに困難にしている。


the seedと訳された単語はτο σπερμαすなわち「精子」「種」。もちろん子孫という意味もある。ここでは恐らくイエスキリストのことなのだろう。

to whomは中性単数の関係代名詞なのでthe seedに掛かる。我々キリスト者(複数)ではない。

以上を踏まえて直訳していく。


それでは律法とは何ゆえか。
それは違反のために付け加えられた
その種が来るべき時まで
約束を完了するその種に
天使たちによって制定された
一人の仲介者の手の中で

意訳:約束を完了して下さるイエスキリストが来られるその時まで




The Believer’s Attitude towards Sickness, #24

2017年08月04日 | 聖書研究・信仰
神の子らが病いにある時に最初に取るべきステップは、顔を上げて、「主よ、お言葉を下さい」と言うことだ。

主が中風の者を癒した時のことを思い起こして欲しい。

主イエスはパリサイ人に言った。

「この中風の男に、罪は赦されたと言うのと、起きて、床を上げ、歩きなさいと言うのとではどちらが簡単だろうか(マルコ2:9)」

パリサイ人は罪赦されたと言うことの方が簡単であると考えていた。

実際にそうなったのかどうかはっきりと見て分かるからだ。

当り前のことだが、彼らは見ただけでは分からない方を選んだ。

主のみ言葉にはパワーがあり、罪の赦しのみならず、病いの癒しも実現した。

主は、罪の赦しと病いの癒しのいずれが難しいのかとは問わず、どちらが簡単であるかと問うた。

主にとって、そのどちらも簡単であった。

主にとって中風の者の罪を赦すことも病いを癒すことも難しいことではなかった。

しかし、パリサイ人にとってはそのいずれもが難しいことであった。