☞ Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)
20分28秒から28分8秒まで。
耳に痛いことが宣べられている・・。
◇◇
神はあなたのすべての汚れを清められ、あなたのすべての偶像の汚れを清められる。
そして、私が死ぬまで、神はこれを成し遂げ続ける。
何故なら、栄光化とは、私たちが完成に至る時だからです。
しかし、かん違いしてはならない。
あなたがたは変容されうるのです。
1970年代、80年代、90年代にわたり、聖によって光り輝く多くの聖人たちと会いました。
私たちは変わり得るという多くの約束を聖書は与えてくれています。
私の今朝の証言を思い出して下さい。
神が如何に私のような大嘘付きを救って下さったのかあなたがたに話しました。
改心した後も、真理と格闘し続けました。
容赦なく、神は死の渕まで私を叩き続けました。
御覧の通り、私たちの中で善き業を開始した神はそれを完成されます。
必ず完成させます。
そして、罪を超えて勝利があるのです。
あなたは罪を超えた勝利を得ていますか。
さて、次のように言い換えてみます。
クリスチャンライフとは、「救われる。そして、直線的に聖化される」というわけではありません。
そうではない。
しかし、平坦な直線でもない。
平坦な直線の意味は、あなたは死んでいるということです。
その意味は、あなたが新生されていないということ。
では、どんな感じでしょうか、パウロ兄弟。
こんな感じです。
私は、ここ、海面の高さにいるとしましょう。
これから、私はバージニアの美しい山々の中を昇って行きます。
直線的に昇るのでしょうか。
いいえ、違います。
平坦な直線上を昇るのでしょうか。
違います。
平坦な直線上を昇り、それから垂直に昇るのでしょうか。
これも違います。
飛行機でもこれは無理です。
では、私はどのように昇っていくのでしょうか。
上がったり、下がったり、また上がり、そして平坦な道を、それから上がる・・。
私がどんどん進んでいくのを見ることもあるでしょう。
そして、「これが何よりの証拠だ」と言うかもしれない。
しばらくの間、私が立ち往生しているのを見ることもあるでしょう。
すでに得たレベルまでもが目減りしてしまうこともあるでしょう。
もちろん、あり得ることです。
しかし、生涯を通してみると、私がクリスチャンならば、確実に前進しているのが確認されます。
ただし、落ち込む瞬間もあります。
しかし、人生全体を通して、神の事々において私は前進していきます。
改心して以来、神の事々においてあなたは前進しているでしょうか。
自分は祝福の中で成長していると正直に言えますか。
あなたを義とされたお方は、今やあなたを聖化しているでしょうか。
これは大変重要な問題です。
神が成して下さっているこの業に関して私たちが学ぶ理由は、神が御子を愛しているからであり、神が御子を高く上げようとしているからです。
神は御子の満足と喜びを求めておられます。
この満足と喜びが純粋な花嫁です。
ぶどうの木である御子が、歪んだ、実を結ばない、死んでいる枝と結ばれることを神は望んではいません。
そんなわけで、私や牧師たちのように、新生されているあなたがたの中に、弟子訓練を経るクリスチャンがいるのです。
神はさまざまな方法であなたがたを取り扱います。
神の御力によって、祝福の中で神があなたを大きく成長させて下さる時があります。
罰を与えることによって神はあなたを成長させる時もあります。
そのようにして、神はぶどうの木を美しくするのです。
ぶどうの木を美しくするために、神はあなたがたの幾人かを取り除くでしょう。
さて、神はどのようにそれをなさるのでしょうか。
新約聖書には、殺すことによってと書いてあります。
そのようにして、神はアナニアとサッピラを取り去りました。
何故。
彼らは、ぶどうの木を大変見にくいものにしたからです。
神はそれを忍耐できなかった。
このようにして、神はあなたがたの幾人かを取り除くでしょう。
そして、あなたは両親、つまりあなたの権威から自由になります。
その教会から出て行きます。
他の教会に加わるかもしれません。
未信者である限り、宗教的な事々に参加するのもまた容易なことです。
本当の教会、真の教会からあなたは取り除かれます。
そして、あなたを取り去るために、偽りの何かへとあなたを閉じ込めます。
それはおそろしいことですが、真実です。
神はつねにそれを実行してします。
私たちが実り多き存在となるために、これらのことをなさっているのです。
昨日読み終えたばかりですが、おさらいをしましょう。
元気をもらいたいので、もう一度読もうと思います。
あなたが実を結ぶために、神はあなたを任命しました。
詩篇1:3
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
イエスはこう言いました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです(ヨハネ14:12)。」
「わたしが父のもとに行くから」とイエスは言います。
そして、神は聖霊を教会に注ぐ。
つまり、教会はそのような素晴らしい業の数々を行なうのです。
教会のメンバーは、そのような素晴らしい業の数々を行なうのです。
彼らは実を結びます。
結実と言うことばに関して注意する必要があると言いました。
単なる単語の学習であれば、このことばのあらゆる語義を見出すことができます。
必要なのは、このことばの基本的意味を見出すことです。
結実するためには、キリストの命で処理すべきものはすべて処理する必要があります。
敬虔なる性質、すなわち御霊の実は、私たちの命(生活)を通して、キリストがご自身の命を生きることです。
御霊の実とは、私たちを通してご自身の責務を成し遂げるキリストご自身のこと。
この世の人たちがあなたを見て、あなたの人生に意義を認めるだろうか。
あなたを見て、あなたの話しを聞いて、あなたの回りにいる人たちは天の趣きを感じることができるだろうか。
あなたの思いが永遠に置かれているがゆえに、この世の人たちも永遠に触れているだろうか。
あなたと触れ合う時、この世の人たちは聖書的何かに衝撃を受けているだろうか。
信仰が前進するにつれ、人々は助けられているだろうか。
あなたと触れ合う時、罪人は罪を認めているだろうか。
あなたは実り多きぶどうの木ですか。
教えて下さい、あなたの実を指し示して下さい。
ちょっと考えてみて下さい、今この時。
心で考えて下さい。
どれ位私は実を結んでいるだろうか。
多くの福音派の人たちが次のように言うのを知っていますか。
「私は毎週日曜日教会に行きます。」
本当ですか。
どれ位あなたは実を結んでいますか。
もし実りを見出すことができないのなら、恐れた方がよい。