みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #97

2017年07月31日 | コーヒーブレイク
ヘブル10章19節
こういうわけですから
兄弟たち
私たちはイエスの血によって
大胆にまことの聖所にはいることができるのです

ヘブル書が続く。

さて、今回の箇所はここだ。

>まことの聖所

聖所に、まことの聖所とウソの聖所があるのかという疑問。要するに誤訳。適訳が見つからなければ、とりあえず直訳しておいて欄外に注釈を付記すべきではないかと思う。

英語訳を見れば一目瞭然。


Having therefore
brethren
boldness to enter into
the holiest by the blood of Jesus
(KJV)

the holiestを日本語訳では「まことの聖所」と訳している。

原典はこうだ。

των αγιων

つまり、「聖へと」。空間ではない。atmosphere(日本語では表現不能)あるいは、realm(領域)。またKJVでは最上級で訳出されているが、原典では最上級ではなく、単に「聖」。異本でもあるのか。


こういうわけで
兄弟たち
我々はイエスの血によって
聖(の領域)へと入る大胆さを持っている



Coffee Break, #96

2017年07月29日 | コーヒーブレイク
ヘブル10章22エ節
そのようなわけで
私たちは心に血の注ぎを受けて
邪悪な良心をきよめられ
からだをきよい水で洗われたのですから
全き信仰をもって
真心から神に近づこうではありませんか。


有名な聖句。意味が良く分からない箇所がある。「邪悪な良心をきよめられ」は何度も考察したのでここでは割愛する。

指摘したい箇所は

>全き信仰をもって

分かったようで分からない言い回しだ。

原典を見てみると

εν πληροφορια πιστεως

直訳すると

信仰の有り余るほどの充満の中で

つまり、信仰に満ち溢れた状態と言う意味。

πληροφοριαとは「確信」と言う意味を持つ単語だが、語源はπλήρηςであり

πλήρης:
From G4130; replete, or covered over; by analogy complete: - full.

よって、ここでは、その語源の意味を生かして「充満」と訳出したいところだ。

信仰とは霊であり、ポータルでもあるから、「(聖)霊に満ち溢れて、天に通ずる門が無限に開いている状態」ということだろう。つまり、(我々の)霊はすでに第3の天にいて神と会いまみえているのだ。

さて、「(神に)近づく」と訳された単語はπροσέρχομαιで、意味は

προσέρχομαι:
From G4314 and G2064 (including its alternate); to approach, that is, (literally) come near, visit, or (figuratively) worship, assent to: - (as soon as he) come (unto), come thereunto, consent, draw near, go (near, to, unto).

「近づく」という意味もあるのだが、この辞書にあるように、‘worship’や assent to’という意味もある。つまり、賛美する、或いは、賛成する。こちらの訳の方が良く分かる。(注)worshipは、礼拝ではなく讃美。


ヘブル10章22エ節
そのようなわけで
私たちは心に血の注ぎを受けて
邪悪な良心をきよめられ
からだをきよい水で洗われたのだから
信仰の有り余るほどの充満の中で
真心から神を讃美しようではないか





The Believer’s Attitude towards Sickness, #20

2017年07月29日 | 聖書研究・信仰
もし病いが敵の急襲であるなら、主の御名によってそれを諫めよ。

かつて長引く熱を患う姉妹がいた。

それがサタンの攻撃であることを知った彼女は、主の御名によってその熱を叱りつけた。

するとその熱は去っていった。

仮に、自分の手を火の中に突っ込み、自然法を破るとする。

すると確かに火傷を負うだろう。

自分を律する必要がある。

病いになるまで待っていてはいけない。

その前に自分の不備を告白してしまうこと。

平穏な日々を送っている間に、自分の体の手入れをしておくことも重要だ。




The Believer’s Attitude towards Sickness, #19

2017年07月28日 | 聖書研究・信仰
病いの原因がどうあれ、内的であれ外的であれ、神の目的が果たされるや、病いは必ず終結する。

パウロ、テモテ、トロフィモのような人々は例外。

パウロらの病いは長引いたが、彼らはそれが益であると知っていた。

彼らは神の栄光のために自分を律する方法を知っていた。

パウロはテモテに少量のワインを飲むこと、また飲み食いに注意するように忠告した。

体の弱さにもかかわらず、彼らは神の働きを怠りなく果たした。

主はそれらの不具合を打ち負かすほどの祝福を彼らに与えた。

パウロは弱きにありながら責務を果たした。

彼の手紙を読むと、彼は10人分の仕事をしたと言えるだろう。

神はこの弱き男を用いて、10人に勝るほどの働きをさせた。

神は弱いパウロに力と命を与えた。

聖書には彼らのような例外が記されている。

同じような扱いを受ける神の特別な器がいるのだ。

しかし、一般の人、特に初心者は、罪を犯していないかどうかチェックすべきだ。

罪が告白されれば、病いは即座に癒されていくのを自分の目で見ることができるであろう。

最後に神の御前で知っておいて欲しい。

時にサタンは突然攻撃を仕掛けてくることがあるということ。

時に自然法を知らず知らずのうちに犯していることがあるということ。

たとえそうだとしても、その病いを主のところに持ってくることが許されている。




Coffee Break, #95

2017年07月27日 | コーヒーブレイク
ヨハネ16章26節
その日には
あなたがたはわたしの名によって求めるのです
わたしはあなたがたに代わって
父に願ってあげようとは言いません


この文章も何か違和感を感じてしまう。

>父に願ってあげようとは言いません

この文章の意味は何か。そのまま素直に理解しようとすると、「私はあなたがたのために父にお願いしてあげない」となり、何か意地の悪い意味になってしまう。稚拙な訳だ。

KJVを見てみよう。


At that day
ye shall ask in my name
and I say not unto you
that I will pray the Father for you

直訳する。


かの日
あなたがたは私の名によってお願いするであろう
そして
私はもはや言うまい
私があなたがたの傍らで祈ろうと

つまり、こういうことだ。

これまで私はあなたがたの傍らでいつも祈り
そして御父にお願いをしてきた。
しかし、かの日にはそれは必要なくなるであろう。
私が上げられたら
私の名によってなんでもお願いするがよい。
その願いを御父は必ずやかなえて下さるであろう。

上の日本語では「に代わって」の訳が良くない。

原典で使用されている単語はπερίで

περί:

From the base of G4008; properly through (all over), that is, around; figuratively with respect to; used in various applications, of place, cause or time (with the genitive case denoting the subject or occasion or superlative point; with the accusative case the locality, circuit, matter, circumstance or general period): - (there-) about, above, against, at, on behalf of, X and his company, which concern, (as) concerning, for, X how it will go with, ([there-, where-]) of, on, over, pertaining (to), for sake, X (e-) state, (as) touching, [where-] by (in), with. In compounds it retains substantially the same meaning of circuit (around), excess (beyond), or completeness (through).

つまり、「周り」と言う意味。
「あなたがたの周りで」「あなたがたの傍らで」
「代わって」という意味はない。





The Believer’s Attitude towards Sickness, #18

2017年07月26日 | 聖書研究・信仰
今や、真実を告げることが難しい時代になりつつある。

時に犠牲を強いられることもある。

率直にある兄弟に真実を告げるように、内にあって力づけられたことがある。

その長期に渡る病いは病気に対する愛のせいだ。

もちろん彼は否定した。

そこで、私は続けて指摘した。

あなたは病気が去っていくのを恐れている。

あなたは同情と愛とケアが欲しいだけなのだ。

他に代わる方法がないから、病気でいることによって手に入れている。

このわがままな願いから脱出する必要がある。

そうすれば、神はあなたを癒して下さるであろう。

元気かと人に聞かれたら、「大丈夫だ」といつも答えるべきだ。

真夜中に病気が癒えたとしたら、うそをつくことになりはしないか。

シュネムの婦人の話を思い出して欲しい。

彼女は死んだ子供を神の人のベッドに置いて、エリシャに会いに行った。

「あなたは元気でしたか。ご主人、子供はどうか」と聞かれて、彼女は「ええ。みんな元気です」と答えた(第2列王記4:26)。

あの子は死んで、エリシャのベッドに横たわっているのを知りながら、なぜそのようなことを言ったのか。

彼女は信仰があったからだ。

神はあの子を生き返らせてくれると信じた。

故に、今この時我々も信じ切る必要がある。





The Believer’s Attitude towards Sickness, #17

2017年07月25日 | 聖書研究・信仰
ある兄弟の話。

いつも彼はほかの人からの愛と親切を期待していた。

体の状態はどうかと尋ねられるといつも、自分の弱さについて不満を言うことが常だった。

そして、体の状態についてこまごまとしゃべり始める。

熱で何分うなされたか。

一分当たり何回呼吸したか。

脈がどれくらい乱れていたか。

彼は絶えず不快だった。

人が同情してくれるので、自分の病気のことを人に話すのが大好きだった。

とりとめもなく病気の話をすること以外に話題は無かった。

癒されることはないのだろうかと思ったことも何度かあった。





The Believer’s Attitude towards Sickness, #16

2017年07月24日 | 聖書研究・信仰
驚くべき事実がある。

病気の者が多い理由は単に、彼らが病いでいたいということ。

病いにあれば、健康な時にはない注目や愛が得られる。

そのような者は愛されたいが故に、しばしば病気になる。

これは習慣性を持つ。

そのような者たちには厳しい叱責が必要だ。

この点において神の取り扱いに素直に応じるなら、ほどなく病いは治っていく。





Coffee Break, #94

2017年07月23日 | コーヒーブレイク
ヤコブ4章9節
あなたがたは苦しみなさい
悲しみなさい
泣きなさい
あなたがたの笑いを悲しみに
喜びを憂いに変えなさい

この文章は、その通りに理解してはならない。

何故なら、この箇所の背景には、我々の中にあって神と真向から対立する「プライド」というテーマがあるから。

自分の中にあるプライドと悪魔が結託して、我々を落とそうとしているのだ。

だから、我々はプライドを捨て去る必要がある。

プライドから出てくる「高ぶり」「貪欲」「争い」「傲慢」を捨て去ることによって、一時的に我々は苦しみ、悲しみ、泣くことがあるかもしれない。

しかし、プライドに端を発する高笑いと狂喜は消滅する。

それは一過性に苦痛、悲しみや憂いに変わるが、この魂と霊の切り分けが主に聞き従うためには必要。

今通読中の「The Spiritual Man by Watchman Nee」でも、同様のテーマでストーリーが展開している。

「自分を愛さない者になる」とは、自己愛だけでなくプライドも捨てよということだ。





The Believer’s Attitude towards Sickness, #15

2017年07月22日 | 聖書研究・信仰
率直に言っておきたい。

多くの者が病気になる理由は、単純に自分を愛しすぎるからだ。

その者たちの心からこの自己愛を除いてやらないと、主は彼らを用いることができない。

故に、自分を愛さない者になる必要がある。

只々自分のことしか考えない人がいる。

宇宙は自分を中心に回っていると思っている。

自分は地球の中心、かつ宇宙の要にいる。

昼も夜も自分のことで頭がいっぱい。

全ての生き物は自分のために存在する。

全ては自分を中心を回っている。

キリストは言うまでもない、天の神でさえ自分のために在る。

さらに、教会も自分のためにある。

一体全体、神はこの自己中心をどのように打ち破るのだろうか。

治すことが難しい病いがあるのは何故か。

人の同情を買うことの、何と強烈なことよ。

人の同情を受けないなら、直ちに病いは癒されるだろうに。