みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

A Dark Night -- A Resurrection Morn, #9

2016年09月30日 | 聖書研究・信仰
この事実が我々の中に確立すると、我々は「復活の地」と呼ばれる新地に至る。

我々の生まれながらの命における重大局面において、恐らく死が働いたのだろう。

ここに達すると、神が働いて、我々を復活の中へと解き放って下さっているのが分かる。

失っていたものが戻ってくるのを見いだす。

それはかつてのようなものではない。

命の原理が今我々の中で稼働している。

我々に力を与え、強靭にする何か。

我々を活気づかせ、命を与える何か。

これからは、失ってきたものが戻ってくるだろう。

今や我々は主の弟子であり、主の支配下にある。




A Dark Night -- A Resurrection Morn, #8

2016年09月29日 | 聖書研究・信仰
神のしもべなら、時として決して回復しない不自由を知る必要がある。

決して前と同じではない状態。

我々の中に、その状態が確立される必要がある。

今後も自分に恐れを持ち続ける状態。

自分から何か(ひどいもの)が出ていくことを恐れる。

ヤコブのように、何かをしようとする時に受ける、権威ある取り扱いを知る。

魂の衝動に駆られて動く時、主の御前において、本当にひどい時を過ごしていると心で分かる。

我々を愛する一人の神、「あなたがたを子として扱って下さる」一人の神。

我々を鍛えて下さる神の手の何たるかを知る(へブル12:7)。

御霊ご自身が我々の霊の中で証言する。

ローマ8:16
霊ご自身が、共に証言する
私たちの霊と
私たちが神の子らであるということを

ローマ8:17
もし私たちが子らなら
相続人である
神の相続人
キリストの共同相続人
もしそうなら
私たちは共に苦しむ
私たちが共に栄光を勝ち取るために
(GNT)

「我々の霊の父」に対してこう答えよう。

「嗚呼、わが愛する父さん」







A Dark Night -- A Resurrection Morn, #7

2016年09月28日 | 聖書研究・信仰
神は我々をある場所へと連れていくだろう。

そこで、主はひとつの希望を言い、我々はそれに即座に反応する。

それがしもべの霊だ(詩編40:7,8)。

しかし、その霊はそうやすやすと我々のもとへは来てくれない。

生まれながらのエネルギー源、意志、そして情緒の座である我々の魂が,、主の十字架のタッチを知った時にのみ、それはやって来る。

そのようなしもべの霊は、主が求め、我々すべての中に生まれる。

そこに至る道程は、苦痛を伴うかもしれない。

ある者にとっては、長く続く過程かもしれない。

或いは、一時的ではあるが、苦難を伴うものかもしれない。

しかし、神には御自身のやり方がある。

我々はそのやり方に敬意を払う必要がある。




A Dark Night -- A Resurrection Morn, #6

2016年09月27日 | 聖書研究・信仰
かつて、我々は生まれながらの命によって生きていた。

その命は、変化に富んでいる。

その命は、我々の気質に依存している。

感情によって主の道を歩む時、全速力で前へ進んでいくだろう。

しかし、感情が他の道へと向かうと、とたんに動くのを止めてしまう。

主の御手のうちで安息していないのだ。

我々の中にある嗜好の力、すなわち好き嫌いの力が、主によって弱められる必要がある。

そうすることで、我々が望んでいるからではなく、主が望んでいるから何かを行なうようになるだろう。

自分が楽しいとか、楽しくないとかではない。

宣教することにより、あるいは神のためにあれこれと何かを行なうことにより、一定の満足を得られる、だからやりたいのだというのはおかしい。

そうではない。

喜びが得られるとか得られないとかではない。

神の御旨だから、それを行なうのだ。

主の御旨をすることにより得られる喜びは、多様な感情の変化よりもはるかに深い。




A Dark Night -- A Resurrection Morn, #5

2016年09月26日 | 聖書研究・信仰
あのことを話してみたい。

回心してから1年間、私は宣教したいという欲望に駆られていた。

静かにしていられなかった。

自分の中で何かが動いているかのようだった。

その何かが前へ前へと駆り出し、動かざるを得なかった。

宣教が、まさに自分の人生そのものとなっていた。

しばらくの間そんなふうに進んでいる自分を、主が優しく許して下さっていたに違いない。

それだけではない。

主の大いなる祝福があると勘違いしていたのだ。

ある日、自分を駆り立てている生まれながらの力が、主によって触れられる。

今からしたいことができなくなる。

なぜなら、それは主が望んでいることだからではなく、自分が望んでいることだから。

主のタッチ以前は、自己満足のために宣教を行なっていた。

そんな風に主に仕えることは単なる自己満足に過ぎなかった。

だから、時に主は私を動かすことができなかった。

主が望んだことは何一つも私は行なうことができなかった。




Coffee Break,#52

2016年09月25日 | コーヒーブレイク

第2コリント5:17
Anyone who belongs to Christ is a new person.
The past is forgotten, and everything is new.
(CEV)

By Rick Warren


Ὥστε εἴ τις ἐν χριστῷ, καινὴ κτίσις·
τὰ ἀρχαῖα παρ ῆλθεν,
ἰδού, γέγονεν καινὰ τὰ πάντα.
(RP Byzantine Majority Text 2005)


Therefore if any man be in Christ, he is a new creature:
old things are passed away; behold, all things are become new.
(KJV)





A Dark Night -- A Resurrection Morn, #4

2016年09月25日 | 聖書研究・信仰
神は我々をある地点まで引き上げて下さる。

それがどのようにしてかは分からない。

しかし、神はそれを為さる。

深くて暗い経験を通して。

我々の生まれながらのパワーは神に触れられ、そして弱められる。

自分自身に信頼を置かなくなるように。

神によって大変厳しく取り扱われる者たちがいる。

彼らは困難で大変つらい道を通らされるでだろう。

そこに到達するためだ。

キリスト者としての業を行なうことがもはや「好きではない」時が来る。

主の御名において事を行なうことが恐ろしくなる時が来る。

しかし、そうなった時ついに、主は我々を用いることができるようになる。




A Dark Night -- A Resurrection Morn, #3

2016年09月24日 | 聖書研究・信仰
しかし、次のような重大局面もあるかもしれない。

ひとたびそこに到達して通り過ぎるや、我々の命全体はトランスフォームされ、神に仕える者となる。

小さな門をくぐり抜け、我々は全く新しい道へと進んでいく。

そのような局面が、ぺ二エルでヤコブに起きた。

神に仕えて、神の目的を達成しようとしていたのは、ヤコブの中の「生まれながらの人」であった。

ヤコブは、神がこう言っているのを十分承知していた。

「年上の者は年下の者に仕えよ」

しかし、ヤコブは、自分の天性の才能と力量によって、その目的を達成しようとしていた。

神は、ヤコブの中にあるその生まれながらの能力を損なう必要があった。

そうするために、神はヤコブのすねの筋肉に触れた。

その後もヤコブは歩くことはできたが、足が不自由のままだった。

名前の変更から示唆されるように、彼はヤコブとは違う男になった。

彼の足はそのままで使うことができたが、その筋肉は触れられたままだった。

決して回復することのない傷害のため、ヤコブの足は不自由のままだった。




A Dark Night -- A Resurrection Morn, #2

2016年09月23日 | 聖書研究・信仰
最初に明らかにしておくべきことがある。

生まれながらの力と源の蓄積を持っている魂は、死ぬまで我々の中で活動し続けるということ。

死ぬまで日々何度もなんども、主の十字架が、我々の中で業を為し続ける。

主の十字架は、深きにまで達しつつ肉の水源を掘り起こしていく。

この一生涯続く十字架の働きが、次のみことばに良く表現されている。

「自分自身を否定せよ、自分の十字架を取れ、そして、私に従え」(マルコ8:34)

過去のことではない。

それを避ける男は「私に相応しくない」(マタイ10:38)

その男は「私の弟子になることはできない」(ルカ14:27)

死と復活は、依然として我々の命における永遠の原理であり

まさに魂の喪失と御霊の覚醒だ。




A Dark Night -- A Resurrection Morn, #1

2016年09月22日 | 聖書研究・信仰
それで、我々はアーモンドの枝のところに戻っている。

その枝は、ある夜のために至聖所の中へと持って来たものだ。

その夜は暗くて、何も見えなかった。

しかし、その朝、それは芽吹いた。

そこで、我々は死と復活を理解した。

命が生まれ、命が育まれた。

そこで、我々は宣教を開始する。

しかし、これをどうやって実践していくのか。

神は本当にそのように自分を取り扱っていると認識してよいのか。