みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#403 神の法第三戒

2019年09月05日 | 神の法
第3戒
律法の否定的性格
 
p104~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇


あらゆる法的な予防策が講じられたとしても、どうして医者や患者にパーフェクトを求めることができるのだろうか。

医者にしても、患者にしても、愚行に走る者はいつの時代にも必ずいるものである。

しかし、問題の本質はもっと根深いところにある。

医療に対する国家の統制が強まるにつれて、同時に、医療過誤に対する訴えも増えつつある。

医師は、たえず訴訟の危険にさらされている。

アメリカの医療技術や外科手術がこれほど高い水準に達したことはなかった。

それにもかかわらず、訴訟はかつてないほど増加している。

これは奇妙な事実を浮かび上がらせる。

つまり、国家は医療関係者から基本的な業務遂行に関する権利を奪ってきたにもかかわらず、その責任を負おうとはせずに、逆に、医師に対して法的に過剰な責任を負わせている。

連邦政府は医薬品に許可を与える。

しかし、一たび問題が起こると、責任は医師にかかってくる。

国家は、国民の健康や一般的な福祉の保障において積極的な役割を演じるが、その責任は負おうとはしない。

国民も責任を免かれる。

そして、医療関係者(または企業や資産家等)が完全責任を負わされることになる。

完全責任への過程は徐々に進む。

しかし、福祉経済の下では、この進行をくい止めることはできない。

古代の異教国家においてすばらしい医療が実践されていたと述べる歴史家も多い。

彼ら歴史家は、実際よりもはるかにすぐれた業績を古代人に帰す。

同時に、キリスト教こそ、医療の発達を阻害し、退歩させた張本人であると述べる。

しかし、古代における医療の退歩が始まったのは、古代人自身が述べるところによれば、紀元前3世紀からである。

エントラルゴは、無益な前提から医療を救済したのはキリスト教であったと指摘している。




#402 神の法第三戒

2019年09月04日 | 神の法
第3戒
律法の否定的性格
 
p103~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇ 

法が肯定的に機能してきたと大部分の人に信じられている分野である医療について考えてみる。

医療に対する国家の統制を押し進めていたのは、主にロックフェラー財団。

医療業務だけではなく、医療関係の学校も国家の統制下にあった。

公認されていない医療行為は非合法とされた。

このような統制のおかげで医学は大きな進歩を遂げてきたと言われてきた。

しかし、医学の発達は、本当に国家の統制によるものだったのだろうか。

それとも、医療関係者の努力の賜物なのだろうか。

医療行為そのものが、医学の発展に貢献してきたのではないのか。

昔と比べて、インチキ医者が少なくなっているとは思えない。

いや、むしろ増えている。

権威筋が「でたらめ」と認定した医療行為に対して、1966年の1年間に20億ドル以上もの大金が投じられたと連邦政府は推定している。

厳密に言えば、詐欺から非公認の診療に至るあらゆるインチキ医療行為が含まれてはいる。

さらに、公認を得られない医療研究員は、インチキ医師と見なされるだけではなく、深刻な法律上のトラブルに巻き込まれることがある。

製薬会社と共に、普通の公認の医師も医療過誤の責任を議会から追及されてきた。

試験的に使用され、十分な実験を経ないままに市販されている様々な特効薬によって、深刻な問題が発生している。

医療関係の雑誌は、病院における医薬の過剰投与の実態を明るみに出している。

たしかに、賢明な処方を怠った責任を医師の側に問うことはできる。

しかし、多くの患者たちは、新薬の(場合によっては旧薬の)危険性を熟知しつつも、それを処方してくれることを望んでいる。




#401 神の法第三戒

2019年09月03日 | 神の法
第3戒
律法の否定的性格
 
p102~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

本来、愚か者は保護の対象にはならない。

というのは、愚か者の問題点は他人にあるのではなく、自分自身にあるから。

箴言は、愚か者について多くのことを語っている。

キドナーは、愚か者について箴言がどのように語っているか、次のように述べている。

愚か者の問題の根は、霊的であって、精神的ではない。

彼は、愚かさを愛している。

彼は「犬がおのれの吐いたものに戻るのと同様に」(26:11)愚かな行為に戻る。

愚か者は真理を尊ばない。

むしろ、自分の心を軽くしてくれる幻想の方を好む(14:8)。

彼が心底において拒否しているのは、神を恐れることである(1:29)。

彼が愚かになっている原因は実にこの点にある。

愚か者の自己満足が悲劇的な結果に終わるのは、神を恐れることを拒んでいるからなのである。

愚か者の安心は、自分を滅ぼす(1:32)。
 
愚か者は社会にとって脅威。

愚か者と話しても時間の無駄。

知恵の言葉は彼のうちにはない(14:7、モファット訳)。

さらに深刻なのは、愚か者が何かを思い立つと、誰も彼を止められなくなる。

愚かさにふけっている愚か者に会うよりも、子を失った熊に出会う方がましである(17:12)。

それが、悪ふざけであっても(10:23)、喧嘩であっても、彼らの愚行を止められる者はいない。

愚か者は争いを巻き起こし(18:6)、ついには死に至る(29:11)。

愚か者に近づいてはならない。

愚か者の友となった者は、そのことを後悔するようになる(13:20)。

愚か者を使いに出すことがあっても、彼にことづけしてはならない(26:6)。

愚か者の愚行への走りやすさを示す例は、枚挙にいとまがない。

愚か者は、苦境から救い出されても、すぐに新たな泥沼にはまり込む。

インチキ医者から逃れても、さらに悪い医者にだまされる。

これは別に驚くべきことではない。

というのも、愚か者の本性は、愚行を求めているから。




#400 神の法第三戒

2019年09月02日 | 神の法
第3戒
律法の否定的性格
 
p102~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

法の否定的性格は自由を保障する。

いかなる人も、禁止されていない事柄について、法の拘束を受けることはない。

当然の事ながら、法は非禁止事項については全く無関係。

戒めが「盗んではならない」と言うならば、その戒めは窃盗について述べているのであって、それ以外のことについては述べていない。

合法的に得られた財産について、この戒めは何も言うことができない。

その法が冒涜や偽証を禁じている場合、それ以外の発言は本質的に自由である。

法の否定的性格は、ポジティブな生活と人間の自由を保証する。

もし法律が肯定的な機能を備え、人々の健康に関する法が最高の法であるなら、国家は完全な健康を与えるために徹底した支配権を持つことになる。

そうすると、人々は二重の刑罰を受けることになる。

国家には全権が与えられ、全体主義国家が生まれる。

あらゆるものは、健康へと導くだけでなく、健康を破壊する可能性がある。

故に、法は制限を失い、よって、国家も制限を失う。

悪をコントロールするのではなく、万人をコントロールすることが国家の仕事となる。

全体主義国家の基本的理念は、法の機能は肯定的であるべきだということ。

全体主義国家における法の機能の肯定的性格は、人間にはいかなる自由の領域も存在しないということを意味する。 
つまり、国家が人民の健康保全の名目で支配することのできない領域は存在しないということになる。

国家はあらゆることに関心を持ち、あらゆる活動、関心事、思想に干渉するようになる。

国家が国民の福祉を向上させること、また一般かつ完全なる健康を促進することが可能であると考えることは、国家が全能であることを認めることに等しい。

国家が全能であると認めることは、国民が無能であることを認めることに等しい。

国家は、子供っぽくて未熟な国民に奉仕する子守役となる。

法は肯定的な機能を持つ必要があると主張する人々は、国民は本質的に子供であると考えている。

この点で、聖書も同じことを述べているのではないか、と主張する人々もいる。

人間は長い時間を経て発達してきたとする進化論的信仰によれば、人間は原始的な本能や衝動を持ち、まだ子供の状態にいて、まだまだ進化する可能性がある。

しかし、聖書には、元来人間は成熟と善を備えた存在として創造されたと書いてある。

人間の問題は、その原始的な性質や子供っぽさにあるのではなく、無責任にある。

人間は成熟することを拒み、無責任を望む。

人間は反逆者であり、その行動様式は、幼稚なのではなく罪そのもの、無知なのではなく意図的な愚かさだ。





#399 神の法第三戒

2019年09月01日 | 神の法
第3戒
律法の否定的性格
 
p101~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

第三戒は次のように宣言する。

出エジプト記20:7
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに(in vain)唱える者を、罰せずにはおかない。

申命記5:11
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

この戒めを分析する前に、律法の中でも、特に現代人を不愉快にする側面に注意を向ける必要がある。

その側面とは律法の否定的性格(negativism)。

十の戒めのうち、八つは否定形で述べられている。

他の二つの戒め「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と「あなたの父母を敬え。」も、その下に否定形で記された数々の細則があり、これらの戒めを補強している。

安息日の戒めには否定命令も含まれている。

いかなる仕事もしてはならない(出エジプト記20:10、申命記5:14)。

十のうち、九つの戒めが否定命令。

現代人の目には、否定命令の律法は、抑圧的・専制的に映る。

否定的な制度である警察を廃止し、肯定的な行政官制度を導入しようとする。

しかし、公共安全保安官(公安)は、フランス革命において、恐怖政治の元凶となった。

肯定的な法律からは、専制と全体主義しか生まれないからだ。

法の肯定的な概念をもっとも的確に表現したのが、ローマ法法理「国民の健康こそ、最高の法である」。

この法理は世界の法律制度に受け継がれ、あらゆる領域に浸透した。

今日、この法理に疑いの目を向ける者はみな、その国家の根本的前提に戦いを挑んでいる者と見なされた。

否定的概念は、二重の利益をもたらす。

否定的概念は、特定の悪を具体的に扱うので実践的。

盗んではならない。

偽証してはならない。

否定命令は特定の悪を直接的かつ明確に禁止する。

特定の悪を禁止し、非合法であると宣言する。

つまり、法の機能は控えめ。

その機能は限定的であり、それゆえ、国家の機能も限定的となる。

法の執行を託された代理人としての国家の仕事は、悪を取り扱うことだけ。

万人をコントロールする権限は与えられていない。