みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#443 神の法序論

2019年10月31日 | 神の法
序論
聖書律法の有効性

The Validity of Biblical law
INTRODCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇


今日の教会生活や説教、聖書教育を支配している性格は無律法主義であり、反律法。

無律法主義者は、信仰によって、クリスチャンは律法から解放されていると信じている。

クリスチャンは律法の外にいるのではなく、律法に対して死んでいると。

しかし、聖書の中にはこのような無律法主義を支持する箇所はひとつもない。

コメント:
「無律法主義」と訳されている単語は、本文ではantinomianismという英語が使用されている。
DICTIONARY / 英ナビ!辞書によると
意味:信託と神の加護で、キリスト教徒は戒律から解き放たれるという宗教的考え(文化の倫理的基準を含む)、すなわち無律法主義。
the theological doctrine that by faith and God's grace a Christian is freed from all laws (including the moral standards of the culture).

確かに、「律法に対して死んでいる」という表現は聖書の中にある(ガラテヤ2:19、ローマ7:4)。

しかし、それは、信徒の代表としての、身代わりとしてのキリストの贖いの御業が信徒へそっくりそのまま付託されたという意味だ。

信徒は、違反者に死刑宣告を下す告発者としての律法に対して死んでいる。

しかし、神の義の律法に対しては生きている。

キリストの贖いの御業の目的は、人間を契約違反者の立場から契約遵守者の立場へ復帰させること。

人間を罪と死の律法(ローマ8:2)から解放し、律法を守ることができるようにすること。

律法の義がわれわれのうちに満ち溢れるようになること(ローマ8:4)。

人間が律法を守り行うことができる立場に回復することだ。

かくして律法は、次の3つの点において中心的な意味を持っている。

告発において;罪人に対する死刑宣告として。

贖いにおいて;新しいアダムとして完全に律法を守り行われた方が人間の身代わりとして死んだがゆえに。

聖化において;律法は聖化の道であり、人間は律法を守る時に恵みの中で成長する。




#442 神の法序論

2019年10月29日 | 神の法
序論
法の重要性
 
p1~
The Importance of the law
INTRODCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

ニューイングランドが法治社会として誕生した時、入植者たちは聖書律法を植民地の法律として採用した。

それは聖書への回帰であると同時に、古きヨーロッパへの回帰であった。

また、古い土台に基づく新たな始まりでもあった。

後にピューリタンに伴ってやって来た多くの使用人たちが、聖書的信仰と社会秩序に極めて反抗的であったため、始まりはけっして容易ではなかった。

だが、それはキリスト教界の原則への決然たる回帰であった。

ニューヘブン植民地の記録を見ると、それが新しい試みであると意識されずに、聖書律法が植民地の法律として採用されたことが分かる。

一六四一/二年三月二日。
また、植民が始まり政府が樹立されたときに完全かつ包括的合意に基づいて取り決められ、公表された基本協約に従えば、モーセを通して与えられ聖書各書で展開された司法律法には、永続的な原則が含まれるゆえ、それは、次の二つの条件下で、訴訟処理の規範とされるべきである。一、道徳律法を補強するものであること。二、儀式・象徴・カナン風土に関する規定を除く。

一六四四年四月三日。
モーセを通して与えられた司法律法は、この司法管轄区域内におけるあらゆる刑事訴訟の規範としなければならない…。

一六四九年に、トーマス・シェパードは、次のように記している。

儀式律法であれ司法律法であれ、すべての律法は十戒の補足または適用と呼ぶことができ、その他のあらゆる法はそれらの要約であると理解できる。

このような見解は聖書的でも歴史的キリスト教でもなく、単なるピューリタンたちの逸脱にすぎないとの意見は幻想にすぎない。

神の律法は新約時代に生きるわれわれにとって無意味であり、いかなる拘束力も持たないとする考えは全くの異端であり、極めて危険。

これは、ヒューマニズムや進化論思想の悪しき影響による。

また、神は進化し発展すると主張する一派が存在する。

このいわゆる契約期分割主義(ディスペンセーション主義)的神は、初めは律法において現われ、後に恵みにおいて現われ、今の時代には、さらに違った方法で現れるという。

これは聖書の神ではない。

神の律法と恵みはどのような時代であっても決して変わることがない。

至高者であり絶対者である神御自身は、決して変わることがなく、変わる必要もない。

コメント:
ディスペンセーション主義については、以下のサイトを参考にされたし。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
ディスペンセーショナリズムの問題点

関連文献(悪魔の走狗にならないために)
1.ディスペンセーション主義を論駁する
2.「世の終わりが近づきました」と言ってはならない!
3.ディスペンセーション主義とイルミナティ
4.終末は近いという人々へ
5.ディスペンセーション主義こそ反ユダヤである
6.プレ・ミレやア・ミレの終末論は絶望の教理である
7.ディスペンセーション主義の本質はサタン教である
8.ディスペンセーション主義から離れない限り悪魔の手助けをすることになる
9.ディスペンセーション主義の正体はNWOである
10.プレ・ミレは「この世の自分の知恵」に信頼する教えである

人間の力の源泉は、神の絶対性のうちにある。

律法を避けて通る聖書研究は、聖書の否定にほかならない。

聖書律法が果たした役割や影響を無視して西洋文明を理解する試みは、歴史の歪曲であり、二千年とその発展の拒絶である。

『The Institutes of Biblical Law(聖書律法綱要)』の目的は、現在の思潮を逆流させることにある。

本著は"Institutes"(古い語義で「基本原理」、ここでは「律法の基本原理」の意)と名付けられている。

それは、本著の目的が、聖書律法の初歩的、開始的考察にあるからである。

聖書律法は、神の下で社会を統治しなければならない。

それは社会を統治する運命にある。




#441 神の法序論

2019年10月27日 | 神の法
序論
法の重要性
 
p1~
The Importance of the law
INTRODCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

初めに
第3戒まで読み進めてきたが、序論を精読していなかった。
重要な論点が含まれている可能性があるので、第4戒に入る前に目を通しておきたい。

--

ウィクリフは、自身が翻訳した英訳聖書について次のように述べている。

この聖書は、人民の、人民による、人民のための統治に貢献するだろう。

しかし、法律は聖書律法が中心であるべきだとする彼の主張に関して、当時の人々の関心を引くことはなかった。

当時の人々はみな、法律は神の法であるはずだと考えていた。

コメント:
文脈が分かりにくいので捕捉しておく。
当時の人々がウィクリフの英訳聖書に関心を持たなかった理由は何か。
当時の人々はみな、法律は神の法であるはずだと考えていた。
つまり、今施行されている法律が聖書律法、すなわち神の法に則っているのだから代える必要がないと考えていたのだろう。しかし、当時の国家法は純粋な聖書律法ではなく、ローマ・カトリック教義に基づいた偽律法だった。大いなる誤解(欺きと言っても良い)があったと考えられる。
ジョン・ウィクリフについて

当時主流だった意見を離れ、ウィクリフは、人民は法を読み、それを知り、それによって統治されるだけではなく、それを用いて自ら統治すべきだと説いた。

このことについて、ヘールはいみじくも次のように述べた。

ウィクリフとフスは、大学教育と一般人の求道への強い願いを結び付けることができることを初めてヨーロッパに示した人々であると。

ウィクリフを支えていたのはオックスフォード大学の自由だった。

関心は、教会や国家よりも神の法に基づく統治にあった。

ブリンによれば、ヘブライ人の社会秩序は、神の律法の土台の上に形作られ、それによって統治されると考えられていた。

それ故、他のどのような社会とも異なっていた。

神が律法を与えられたのは、もっぱら人間の統治のためだった。

昔のイスラエルに劣らず、キリスト教界も自らを神の領域と確信していた。

キリスト教界は、聖書において明らかにされている神の法によって統治されていたからだ。

神の法から離れたり、それを歪めたり、不忠実なこともあった。

しかし、キリスト教界は、神の新イスラエルを自認し、神の律法の下にあることを自覚していた。




#440 神の法第三戒

2019年10月26日 | 神の法
第3戒
神の御名
 
p126~
The Name of God
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

メレディスの言葉を再び引用しよう。

神は、イザヤを通じて、「聞け。ああ、ヤコブの家よ。おまえたちは、イスラエルの名で呼ばれ、ユダの水から出、主の御名によって誓い、イスラエルの神について語るが、その言葉は、真実によらず、正義に基づかない」と言われた(イザヤ48:1)。

この預言が向けられた人々は、たしかに神の御名を用いている。

しかし、彼らは、神の御名の中に含まれる神の啓示に従うことに失敗している。

聖書には、神を表す数多くの称号が記されている。

これらは、神の御性質の様々な側面を啓示している。

しかし、神の御名は、エホバとかヤーウェ(正確な母音構造は不明)として与えられる。

これは、神が「存在する者」であること、つまり、自存のお方、「我は有りて在る者」であることを意味している。

これこそ、御名の中に含まれる神の啓示である。

神こそが、法と万物の定義の原理。

神こそが、あらゆる思考の根拠であり、すべての思想領域にとって必須の前提。

それゆえ、神を証明しようとの試みは冒涜。

神がすべての証明の必然的前提であるがゆえに、思考、生活、行動、存在のあらゆる領域の根拠を三位一体の神以外のものに置くことは冒涜。

神を前提としない教育
神を前提とせず神の法に依拠しない法律
あらゆる権威を神から引き出さない市民的秩序
神の御言葉に基づかない家庭

これらは皆冒涜。

コメント:
確かにここに書かれていることは紛れもなく真理。
それは、我が国がキリスト教国家になるということを意味する。
絶対にあり得ないことのように思われる。
しかし、神に不可能はないと聖書に書いてある。
それを信じるのみ。
政治はノンクリスチャンに任せた方が良いなどと考えることは神に対する冒涜だ。





#439 神の法第三戒

2019年10月25日 | 神の法
第3戒
神の御名
 
p126~
The Name of God
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

さらに、メレディスはこう述べる。

無罪と訳されているヘブライ語は、清い(clean)と訳すほうがよいかもしれない。

つまり、主は、御名をみだりに唱える者を清い者とは見なされない、と。

その人が霊的に清いかどうかは、神の御名に対してどのような態度を取るかによって明らかになる!

神の御名を真理のために用いているだろうか。

それとも、虚栄のために用いているだろうか。

それによって、彼が清い人かそうでないかが分かる。

ピューリタン神学者トマス・ワトソンは、その著書『神の御体』の続編として著された『十戒』の中で、第三戒の定義を明示している。

ウェストミンスター大教理問答書も、同じことを次のように述べている。

第112問。 第三戒において何が命じられているか。

答え。 第三戒は、神の御名、称号、属性、命令、御言葉、礼典、祈り、誓い、宣誓、配分、御業、その他神がそれによって御自身を知らしめようとされるあらゆるものを、思い、瞑想、言葉、著述の中で、また、聖なる告白や会話において、聖く、かつ、敬意を込めて、すべて神の栄光と、自分自身及び他者の建徳のために用いることを命じている。

第113問。 第三戒において禁じられている罪とは何か。

答え。 第三戒において禁じられている罪とは、以下のようなものである。すなわち、神の御名を、命令に従わずに、無知や虚栄、不敬、冒涜、迷信、邪悪な発言の中で乱用すること。神の称号や属性、命令、御業を、冒涜や偽証のために利用すること。あらゆる罪深い呪いや誓いや宣誓、分与。合法的な誓いや宣誓の不履行。非合法的な誓いや宣誓の履行。神の命令や摂理に対するつぶやきや反抗、興味本位の詮索、不適切な適用。御言葉やその一部を、汚れた冗談に用いたり、興味本位や無益な問題、もしくは、空しい議論、間違った教理の主張のために、誤って解釈したり、適用したり、あらゆる種類の曲解を行うこと。御言葉や被造物や、神の御名の下にあるすべての事柄を、人を魅了したり、罪深い欲情や行為に誘うために利用すること。神の真理・恵み・道への中傷、あざけり、悪罵、不遜な反対。偽善や邪悪な目的のために信仰を告白すること。信仰を告白することを恥じること。または、不快・愚昧・無益・罪深い生活を送ったり、信仰から後退することによって、信仰告白に恥辱を加えること。


今日、神の御名は、善用されることよりも、悪用されることのほうが多い、ということがこの定義から分かる。

合同キリスト教会のウィリス・エリコット博士は、「聖書の無謬性への固執は悪魔的である」と言った。

B・D・オルセンは、聖書の無謬性を信じているが、「幻視(vision)」があるとも主張している。

これらの発言は、どちらも冒涜。



#438 神の法第三戒

2019年10月24日 | 神の法
第3戒
神の御名
 
p125~
The Name of God
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

絶対の主、裁き主である神は、万物の究極の仲裁者。

それゆえ、クリスチャンは神の御言葉に服従し、神を恐れなけらばならない。

真のクリスチャンが宣誓により語った言葉は、あらゆる証拠の枠造りの基礎となってきた。

法廷に影響を与えてきた教会の基本法は次のように述べている。

法廷における証明手段という意味で行われる宣誓は、「証言において神の御名を唱え、ある特定の発言の真実性を保証する」という自身の固有の性格を維持しつつ、ある事件に関する事柄が真実であることを証明したり、その真実に至るために使用されたりする最も強力かつ効果的な手段であり、判事が判決を下す上で欠くことのできないものである。

これと同じ権威は、教会の基本法において冒涜を次のように定義している。

この犯罪は、神の存在や属性を攻撃し否定する異端的冒涜として現われたり、神の御名や聖人の名を中傷したり汚したりする単純な冒涜や呪いとして現れることがある。

ここで述べられている冒涜の定義については、どちらについてもすでに触れた。

神の御名について、より具体的に説明する必要がある。

あなたの神、主の『御名』をみだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を無罪とはしない。

聖書において名前は、その人物の性格や性質を表す。

性格が変わる時に、その人の名前も変化する。

メレディスは次のように述べている。

第三戒は、宇宙の偉大な至高の支配者である神の御名、務め、立場を扱っている。
聖書において、個人の名前には意味がある。
神のすべての御名または称号は、神の御性格のある特質を啓示している。
神の御言葉を調べ、神が御自身を啓示するために用いられた新しい御名について学ぶ時に、我々は、神の御性質と御性格について新しい事実を知る。換言すれば、神は御自身に、私はこのような者であるという名を付けられる!神の真の意味と御性質を否定するような方法で神の御名を用いる時、我々は第三戒を破っている。

旧約聖書だけではなく、新約聖書が示す名前の意味も、メレディスの主張を裏付けている。

ギリシャ語新約聖書において、次のように言うことができる。

主にヘブライ的な用法では、名前は、その名前がカバーするすべてのことを表すために用いられる。

名前を口にしたり、聞いたり、思い出すことによって、心の中に、その名前が表すあらゆること、つまり、その人の職位や権威、興味、楽しみ、命令、卓越性、行為などが想起され、体感される。




#437 神の法第三戒

2019年10月24日 | 神の法
第3戒
神の御名
 
p125~
The Name of God
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

絶対の主、裁き主である神は、万物の究極の仲裁者。

それゆえ、クリスチャンは神の御言葉に服従し、神を恐れなけらばならない。

真のクリスチャンが宣誓により語った言葉は、あらゆる証拠の枠造りの基礎となってきた。

法廷に影響を与えてきた教会の基本法には次のように書いてある。

法廷における証明手段という意味で行われる宣誓は、「証言において神の御名を唱え、ある特定の発言の真実性を保証する」という自身の固有の性格を維持しつつ、ある事件に関する事柄が真実であることを証明したり、その真実に至るために使用されたりする最も強力かつ効果的な手段であり、判事が判決を下す上で欠くことのできないものである。

これと同じ権威は、教会の基本法において冒涜を次のように定義している。

この犯罪は、神の存在や属性を攻撃し否定する異端的冒涜として現われたり、神の御名や聖人の名を中傷したり汚したりする単純な冒涜や呪いとして現れることがある。

ここで述べられている冒涜の定義については、どちらについてもすでに触れた。

神の御名について、より具体的に説明する必要がある。

あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を無罪とはしない。

聖書において名前は、その人物の性格や性質を表す。

性格が変わる時に、その人の名前も変化する。

メレディスは次のように述べている。

第三戒は、宇宙の偉大な至高の支配者である神の御名、務め、立場を扱っている。
聖書において、個人の名前には意味がある。
神のすべての御名または称号は、神の御性格のある特質を啓示している。
神の御言葉を調べ、神が御自身を啓示するために用いられた新しい御名について学ぶ時に、我々は、神の御性質と御性格について新しい事実を知る。換言すれば、神は御自身に、私はこのような者であるという名を付けられる!神の真の意味と御性質を否定するような方法で神の御名を用いる時、我々は第三戒を破っている。

旧約聖書だけではなく、新約聖書が示す名前の意味も、メレディスの主張を裏付けている。

ギリシャ語新約聖書において、次のように言うことができる。

主にヘブライ的な用法では、名前は、その名前がカバーするすべてのことを表すために用いられる。

名前を口にしたり、聞いたり、思い出すことによって、心の中に、その名前が表すあらゆること、つまり、その人の職位や権威、興味、楽しみ、命令、卓越性、行為などが想起され、体感される。



#436 神の法第三戒

2019年10月23日 | 神の法
第3戒
神の御名
 
p124~
The Name of God
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

1968年7月、メリーランド州ウェストミンスターにおいて、一人の男が公的な場所において、主の御名をみだりに唱え、神を冒涜したことにより、有罪の判決を受けた。

彼は繁華街で喧嘩をし、逮捕しようとした警察に抵抗した。

有罪判決の理由が問題の本質を明らかにしている。

最高裁の法解釈の下で、法律は着実に捻じ曲げられ、日常の事件における告発がますます困難になっている。

コメント:
やや難しい文脈。
繁華街で喧嘩をして警察に抵抗した犯罪者に対する告発理由が、「公的な場所において、主の御名をみだりに唱え、神を冒涜した」という理由にすり替えられたということ。
この程度の犯罪は罪には当たらないという(最高裁による)法解釈があったのか。或いは、下の記述を読むと、意図的に悪を擁護するような法体系があった可能性がある。

微罪裁判官チャールズ・J・シンプソンが1723年に制定された古い法律を適用したのは、「このような無名の法律でしか、この類の問題を扱うことができない」からだった。

この裁判官のジレンマは、格別驚くべきことではない。

平等に関する新しい教えの影響下で、犯罪は善と平等に扱われてきた。

しかも、優位な立場を与えられることすらある。

多くの人々からアメリカ最大の詩人と賞賛されているウォールト・ウィットマンは、この平等の原理を次のように直截に述べている。

善と呼ばれているものは完璧であり、悪と呼ばれているものも同じくらい完璧である。

善にも悪にも平等の価値が与えられるならば、法律の空文化は避けられない。

しかし、平等を否定するだけでは不十分。

平等を前提とした法律が認められるならば、エリートによる専制的支配を避けることはできない。

真正なる法は、唯一まことの絶対者なる神に依拠しなければならない。




#435 神の法第三戒

2019年10月22日 | 神の法
第3戒
宣誓と権威
 
p123~
The Oath and Authority
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

神の復讐には2つの合法的形態がある。

神の絶対的かつ完全な義は、最後に完全な義をもたらす。

歴史は、キリストの勝利においてその絶頂に達し、すべての悪に対して報復が行われる。

神がお立てになった権威、両親、牧師、市民的権威などは、神の正義と報復を行なう責任がある。

彼ら自身も罪人であるため、正義を完璧に行なうことは不可能だが。

しかし、いかに不完全であっても、正義は正義。

曇りの日の昼は真夜中ではない。

たとえ不完全であったとしても、義(昼)は不義(夜)ではない。

神の人は、完璧な正義や報復を期待しない。

人間にそれを期待することはできないことが分かっているから。

聖書には、報復の例や昔の悪に対して裁きが下った事例が記されている。

しかし、ポティファルの事件について、ヨセフの身にそのようなことは起きなかった。

ヨセフは、姦淫の嫌疑をかけられて牢に入れられたが、そこから出され、大きな権力を与えられた。

パロにとって、彼の過去は些事に過ぎなかった。

ヨセフは、死ぬ日まで、「あいつは前科者だ。強姦しようとしたために牢屋にぶち込まれたのだ」と陰口を叩かれ続けたことだろう。

しかし、ヨセフは正しい統治を行った。

兄弟たちと対面した時に、彼はその権力を用いて、彼らに報復した。

それは、彼らの内面を探るためであった。

たとえ彼がポティファルやその妻を罰したとしても、何も得られなかったことだろう。

この夫婦にとって、かつて自分の奴隷であった者が、エジプトにおいてパロにつぐ権力を持っていることを知った時ほど、恐ろしい瞬間はなかったことだろう。

神がヨセフを守ってくださった。

完全な正義を達成し、嫌疑を完全に払拭し、汚名を徹底して晴らそうとする人は、僭越にも、神にのみ属する復讐の務めを奪い、悪人の一味に加担している。

このような僭越な行為は、たとえ主の御名によって行われたとしても、やはり冒涜にほかならない。

出エジプト記21:17
自分の父または母を呪うものは、必ず死ななければならない。




#434 神の法第三戒

2019年10月21日 | 神の法
第3戒
宣誓と権威
 
p123~
The Oath and Authority
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

出エジプト記21章15~17節の死刑規定から明らかなことは、悪は、さらなる悪の言い訳にはならない、ということ。

たとえ、両親が極悪人であったとしても、子どもは神の基本的法秩序である家族を攻撃してはならない。

親は、子どもに悪を行わせたり、悪を善と呼ぶように強制してはならない。

栄誉は、それにふさわしい者に与えられるべきである(ローマ13:7)。

両親はそれを受けるにふさわしい人々である。

ローマ13:7
あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。 

この聖句は、人は正義を増進するために働かねばならないが、悪と戦う人の権利には制限があるということを意味している。

聖書は、復讐は神に属するということを強調している。

申命記32:35
復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。

詩篇94:1
復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。

ヘブル10:30
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。 

ローマ12:19
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 

パウロは、「親しき友よ。自分で復讐してはならない。復讐は神に任せなさい。『裁くのは私である。私が彼らに報復する。』と主は言われる」(ローマ12:19、バークレイ訳)とはっきりと述べている。