何故、我々はこの肉のフレームを見ようとしないのか。
何故なら、主は我々を罪々から救って下さると勘違いしているからだ。
罪々からだけではない。
我々の体の病からをも救い出して下さる。
かくして、キリスト者は肉体的弱さや病気を治すために、人の手による手段に訴えることしかできなくなる。
福音書を調べてみると、魂の救いよりも体の癒しの方が多いことが分かる。
然るに我々は、肉体の病を霊的な病として無理やり理解することによって、物事をすべて霊的に捉えようとする。
主イエスは地上にいる間肉の病を癒したと、いやいやながら認める。
その一方で、今日主は霊的病のみを癒してくれると信じている。
癒しに関して、霊的病については喜んで按手する。
しかし、肉体的病については、どこか他の所へ行ってもらった方が良いと思っている。
主は肉体的病とは一切関係がないと決めつけている。
要するに、このみことばをすっかり忘れてしまっているのだ。
「イエスキリストは、昨日、そして今日、そして永遠に同じ(へブル13:8)」
何故なら、主は我々を罪々から救って下さると勘違いしているからだ。
罪々からだけではない。
我々の体の病からをも救い出して下さる。
かくして、キリスト者は肉体的弱さや病気を治すために、人の手による手段に訴えることしかできなくなる。
福音書を調べてみると、魂の救いよりも体の癒しの方が多いことが分かる。
然るに我々は、肉体の病を霊的な病として無理やり理解することによって、物事をすべて霊的に捉えようとする。
主イエスは地上にいる間肉の病を癒したと、いやいやながら認める。
その一方で、今日主は霊的病のみを癒してくれると信じている。
癒しに関して、霊的病については喜んで按手する。
しかし、肉体的病については、どこか他の所へ行ってもらった方が良いと思っている。
主は肉体的病とは一切関係がないと決めつけている。
要するに、このみことばをすっかり忘れてしまっているのだ。
「イエスキリストは、昨日、そして今日、そして永遠に同じ(へブル13:8)」