みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Glorify God, #11

2016年12月31日 | 聖書研究・信仰
何故、我々はこの肉のフレームを見ようとしないのか。

何故なら、主は我々を罪々から救って下さると勘違いしているからだ。

罪々からだけではない。

我々の体の病からをも救い出して下さる。

かくして、キリスト者は肉体的弱さや病気を治すために、人の手による手段に訴えることしかできなくなる。

福音書を調べてみると、魂の救いよりも体の癒しの方が多いことが分かる。

然るに我々は、肉体の病を霊的な病として無理やり理解することによって、物事をすべて霊的に捉えようとする。

主イエスは地上にいる間肉の病を癒したと、いやいやながら認める。

その一方で、今日主は霊的病のみを癒してくれると信じている。

癒しに関して、霊的病については喜んで按手する。

しかし、肉体的病については、どこか他の所へ行ってもらった方が良いと思っている。

主は肉体的病とは一切関係がないと決めつけている。

要するに、このみことばをすっかり忘れてしまっているのだ。

「イエスキリストは、昨日、そして今日、そして永遠に同じ(へブル13:8)」




Glorify God, #10

2016年12月29日 | 聖書研究・信仰
「そして、主はこの体のために」

何と素晴らしいステートメントだろうか。

主は霊と魂のみを救って下さると思い込んでいる。

しかし、「主はこの体のために(いて下さる)」と書いてある。

主イエスは我々の霊と魂のみを救うために来臨したと我々は思っている。

体は無用であり、霊的生き方には何ら価値を有せず、神の救いのご計画において何ら備えにならないと思っている。

しかし、「主はこの体のために(いて下さる)」と書いてある。

神は宣言する。

人が軽く見るにもかかわらず、その土くれの器のために、私は在る。




Glorify God, #9

2016年12月28日 | 聖書研究・信仰
「体は主のためにある」

この聖句の意味はこうだ。

外なる肉は主に属しているが、主のためにそれを維持することは人に任されているということ。

この真理を知っていて、実践しているキリスト者はまれだ。

今日、病や虚弱、苦痛に苛まれているキリスト者は多い。

己の体を生贄として神に献げているか。

神の精練だ。

完璧に神に明け渡しているのなら、必ず癒されるであろう。

神は子らに知って欲しいのだ。

この体は主のものであり、自分のものではないことを。

もし自分の願いに従って生き続けるのなら、神の罰がその上に留まるであろう。

病気の者は皆、この真理を心に刻み込む必要がある。




Glorify God, #8

2016年12月27日 | 聖書研究・信仰
食事やセックスといった生理的現象においてさえ、体はもっぱら必要を満たそうと働いている。

次に、必要は満足を要求する。

その一方で、体は主のためにあり、食べ物やセックスのためにあるのではない。

昨今、霊と魂の聖化を切望するキリスト者が多い。

彼らは、霊と魂の領域における聖化が体の聖化に大いに依存している、ということを理解できていない。

次のことを思い起こすべきだ。

あらゆる神経反応、感覚、行動、行為、労働、食事、会話といった、体に属する事項が悉く主のためにあるのでなければ、決して完成に至ることはない。




Glorify God, #7

2016年12月26日 | 聖書研究・信仰
使徒パウロは、この箇所において次のことを指し示す。

余計な肉は、徹底的にそぎ取る必要がある。

主のみが肉を用いることができる。

いかなる形であれ、自己満足のための耽溺が主を喜ばせることはない。

いかなる形であれ、義の道具として以外に体が用いられることはない。

我々が全的存在であるように、体が2人の主人に仕えることはできない。




Coffee Break, #62

2016年12月25日 | コーヒーブレイク
https://youtu.be/dO1Gbels2aQ




Glorify God, #6

2016年12月25日 | 聖書研究・信仰
使徒パウロは不品行の問題にも言及する。

これは体を汚す罪だ。

「体は主のためにある」という原則に完全に違反する。

ここで言うところの不品行とは、婚姻関係外のだらしなさもそうだが、婚姻関係内の耽溺も含まれる。

体は主のために、全き主のためにあり、自分のものではない。

かくして、法的に認められる性行為でさえも、過度の自由は禁じられている。




Glorify God, #5

2016年12月24日 | 聖書研究・信仰
「体は主のためにある」

これは極めて重要な意義を持つ。

最初に、パウロは食べ物のことについて語る。

飲み食いのことにおいて、キリスト者は「体は主のためにある」ということを実際に証明する機会が与えられている。

元々、人はまさに食べ物によって堕落した。

同様に、主イエスは、同じ問題において荒れ野で試された。

飲み食いにおいて主を栄光化する術を知っているキリスト者は少ない。

主の入用のため体を健康に保つために飲み食いするのではなく、自分らの個人的願望を満足させるためにそうする。

体は主のためにあるのであり、自分のためにあるのではないことを理解すべきだ。

自分の快楽のために、体を使うべきではない。

食べ物のことで神との交わりが損なわれてはならない。

体を健康に保つということは、ただ単純ににそう捉えるべきだ。




Glorify God, #4

2016年12月23日 | 聖書研究・信仰
「食べ物は腹のためにあり、腹は食べ物のためにある-神はその両者を滅ぼすであろう。体は不道徳のためにあるのではなく、主のためにあり、主は体のために」(13節)。

この聖句の前半は12節の前半と呼応する。

食べ物は法に適っている。

しかし、食べ物も腹も最後には滅ぼされて、どちらも永遠に有用ではない。

この聖句の後半もまた12節の後半に呼応する。

キリスト者なら、性の衝動を完全に超越することができる。

しかも、その体を完全に主に任せることができる(第1コリント7:34)。




Coffee Break, #61

2016年12月22日 | コーヒーブレイク
Be not conformed to the religious world controlled by demons.