みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #272

2018年10月31日 | コーヒーブレイク
ヘブル10章14節
キリストは聖なるものとされる人々を
一つのささげ物によって
永遠に全うされたのです

>全うされた

と書いてある。

日本語訳には、この「全うされる」ということばが時々出てくるが、よく分からないことばだ。

原典ではτελειόωという単語が使われていて、意味は

τελειόω:
teleioō
tel-i-o'-o
From G5046; to complete, that is, (literally) accomplish, or (figuratively) consummate (in character): - consecrate, finish, fulfil, (make) perfect.

(make) perfectが良い。「完全にする」



For by one sacrifice he has made perfect forever
those who are being made holy
(NIV)

一つの献げ物により
聖とされている者たちは
キリストによって
永遠に完全なものとされた

*動詞の時制は完了形






Coffee Break, #271

2018年10月31日 | コーヒーブレイク
ルカ5章8節
これを見たシモン・ペテロは
イエスの足もとにひれ伏して
主よ
私のような者から離れてください
私は
罪深い人間ですから
と言った


When Simon Peter saw it
he fell down at Jesus' knees
saying, Depart from me
for I am a sinful man
O Lord

これはペテロが目撃した最初の奇跡。

この後、3年半にわたり、恐らく数百回以上にわたり、しるし、不思議、癒し、悪魔祓い、死人の蘇りを目撃していたのではないだろうか。

主の神性については、とことん実体験していたはずだ。

にもかかわらず、何故主を3度否定し得たのだろうか。

また、これ以降、殉教するまでの間に何があったのか。

これらの事実から、しるし、不思議、癒し、悪魔祓い、死人の蘇りなどの奇跡の目撃あるいは体験だけでは、我々の思いが決定的に変容することはないのではないか。

第2ペテロ1:15
また
私の去った後に
あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう
私は努めたいのです

この覚悟の本質は一体何だろうか。




Coffee Break, #270

2018年10月28日 | コーヒーブレイク
ガラテア3章12節a
しかし律法は
信仰による
のではありません
律法を行なう者はこの律法によって生きる
のです

信仰によると書いてある。

原典を見ると

εκ πιστεως

前節と同じ。

律法は信仰の中からは出てこない


律法は信仰の中からは出てこない
律法の教えの数々を行なう者は
それらの教えの中(εν )で
永遠の命を生きるであろう

命のない宗教(律法)の中で永遠の命を得ることは不可能だとパウロは言いたいのだろう。

宗教と信仰とは全く別次元、マトリックスが違うのだ。




Coffee Break, #269

2018年10月27日 | コーヒーブレイク
ガラテア3章11節
ところが
律法によって神の前に義と認められる者が
だれもいないということは明らかです
義人は信仰によって生きる
のだからです

「律法によって」「信仰によって」と書かれている。

「律法によって」の「によって」は原典では εν が、「信仰によって」の「よって」はεκが使われている。

律法によって εν νομω 

信仰によって εκ πιστεως

ενは何かの中にある状態(in)を、εκは何かの中なら出てくる状態(out of)を表す前置詞。

以上のことを参考にして、意訳すると


律法の中にいて
神によって義とされることはない
義人は
信仰の中から出てきて
永遠の命を生きる
ということは明白だ

これが良い。
真に迫ってくる。




Coffee Break, #268

2018年10月24日 | コーヒーブレイク
ガラテア5章5節
私たちは
信仰により
御霊によって
義をいただく望みを熱心に抱いているのです

この聖句、英語訳を見てもピンと来ない。

原典はこうだ。

ημεις γαρ πνευματι εκ πιστεως
ελπιδα δικαιοσυνης απεκδεχομεθα

英語に直訳する。

We but spirit out of faith
hope of righteousness expect fully

単純化すると

We expect fully

これがこの文章の基本。

我々は大いに期待している

間に挟まっているのが、間接目的語と直接目的語。

間接目的語がspirit out of faith

直接目的語がhope of righteousness

信仰から出てくる霊

義の希望

つまり

我々は
信仰から出る霊に
義の希望を
大いに期待している

これがこの聖句の意味だ。

すでに、何度も説明してきたように

信仰とはキリストの信仰

信仰とは霊

義とは神の義

説明を加えながら直訳すると

我々は
キリストイエスの信仰から出る霊に
神の義の希望を
大いに期待している

我々は(キリストイエスの信仰から生まれ出る)霊に期待するのであって

ワレ(の信仰)に期待するのではない。

ガラテア5章は、割礼(旧約)にこだわる者たちに対するパウロのメッセージ。

一方、我々キリスト者は、キリストイエスの信仰の霊も神の義もすでに持っている。

期待も希望もすでに叶っている存在だ。





Coffee Break, #267

2018年10月21日 | コーヒーブレイク
エペソ1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように
神はキリストにおいて
天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました

エペソ1章には、我々のオツムでは理解しがたいことが書かれている。

聖書の常識は我々の非常識、聖書の世界はアドベンチャーワールドだ。

さて、書いてある順番に素直に読み取っていきたい。

上の日本語訳でまず気になるのが「キリストにおいて」ということば。

何か浮いてしまっているように見える。

早速、原典で確認。

εν χριστω(in Christ)は末尾にある。


Blessed is the God and Father of our Lord Jesus Christ
who did bless us
in every spiritual blessing
in the heavenly places
in Christ
(YLT)

これが原典に正確に訳出された英語。

ενとは、in, byという意味。ここではinが適訳。

和訳すると

キリストの中にある
天々の中にある
すべての霊的祝福の中にある
我々を
神は祝福した

となる。

キリストの中に天々があり、天々の中にすべての霊的祝福があり、全ての霊的祝福の中に我々がいる

ということだ。

キリストはomnipotentであり、omnipresentなるお方。

全宇宙のどこにでもおり、かつ全宇宙の外におられるお方(マルコ1:10)。

もちろん、我々キリスト者の中にもおられる。

10節にも同様のことが書かれている。

神は予め定めておられた時が満ちたので
天々にあるすべてと地上にあるすべてを
キリストの中に集め上げて
ご自身の管理下に置いた

「キリストの中に集め上げて」と書いてある。

つまり、天々にあるすべてと地上にあるすべてが、キリストの中にあるということ。










Coffee Break, #266

2018年10月20日 | コーヒーブレイク
コロサイ2章15節
神は
キリストにおいて
すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし
彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました

有名な聖句の一つ。

>キリストにおいて

と書いてある。

こう書かれると、武力によって、キリストという武将がすべての支配と権威の武装を解除したと誤解する者が現れてもおかしくはない。我々はそうは思わないが。

早速、英語訳。


And having disarmed the powers and authorities
he made a public spectacle of them
triumphing over them by the Cross
(NIV)

原典にはεν αυτωとあり、αυτωは男性代名詞単数なので、前節のσταυρῷ(十字架)を受けていると考えるのが自然。ενはin、byなどと訳されるが、ここではbyが良いだろう。
「キリストにおいて」ではなく、「主の十字架によって」が良い。 


神は
主イエスの十字架によって
支配という名の悪魔どもと権威という名の悪魔どもをすべて
武装解除し
さらしものにして
圧倒的勝利を得た



Coffee Break, #265

2018年10月17日 | コーヒーブレイク
ルカ17章1節
イエスは弟子たちにこう言われた
つまずきが起こるのは避けられない
だが
つまずきを起こさせる者は
忌まわしいものです

>つまずきが起こるのは避けられない

マタイ伝18章7節に平行記事がある。昔の癖で平行記事と書いたが、この平行記事という言い方には注意が必要。同じことをいっているようで、意味がまるで違うことがある。

早速比較してみたい。

つまずきが起こるのは避けられない

と書いてある。

つまずきと訳された単語はマタイ18章7節と同じ単語σκάνδαλονで、敵の誘惑、罠、欺き、策略、躓き、といった意味。

この箇所において、「避けられない」と訳されている単語はἀνένδεκτοςで、意味は

ἀνένδεκτος:
anendektos
an-en'-dek-tos
From G1 (as a negative particle) and a derivative of the same as G1735; unadmitted, that is, (by implication) not supposable: - impossible.

not supposableとある。これが良さそうだ。「考えられない」

ルカ:
敵の誘惑が来ないことは考えられない

となる。

一方、マタイ伝において使用されている単語はἀναγκήで、意味が違う。

ἀναγκήは先に見たように、constraint, must needs, necessityといった意味であり、上のἀνένδεκτοςよりも語気が強い。

マタイ:
敵の誘惑が来ることは強制だ

二重否定のルカ伝よりも、肯定文であるマタイ伝の方が強さを感じる。

さて、マタイ伝では

忌々しいものだ
この世は
敵の欺きのゆえに

という一文が先頭にある。

以上から、ルカ伝に比して、マタイ伝の方が主のことばに迫力を感じる。

マタイ伝において

弟子たちが

Who is the greatest in the kingdom of heaven

と質問したことに対して、主はかなり憤慨したのではないか。

サタンの不法占拠下にあるこの世において獲得される負け犬の特性

まんまと騙され続けているアホさ加減

不甲斐なさ

さて、最後。

マタイ:
忌々しいものだ
敵の誘惑をまき散らすあの者よ

マタイ伝では、きっぱりとこの世に欺きをまき散らすのはあの者、サタンだと宣言する。

一方、ルカ伝はどうか。

ουαι δε δι ου ερχεται

英語に直訳すると

Woe but through whom it is coming

忌々しいものだ
それをまき散らす者よ

マタイ伝とは違って、「あの者」と断定していない。

つまり、ルカ伝では、サタンによってうまく騙されている、上に書いたような者たちのことを差しているのではないか。

今は騙されていて毒を撒いているが、いずれ運命を共有する同志

だから、赦せ

と主は付け加える。

ルカ17:1
敵の欺きが来ないことは考えられない
忌々しいものだ
偽りをまき散らす者よ

マタイ18:7
忌々しいものだ
この世は
敵の欺きのゆえに
敵の欺きが来ることは必然だ
しかし
忌々しいものだ
偽りをまき散らすあの者よ




Coffee Break, #264

2018年10月15日 | コーヒーブレイク
マタイ17章27節
しかし
彼らにつまずきを与えないために
湖に行って釣りをして
最初に釣れた魚を取りなさい
その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから
それを取って
わたしとあなたとの分として納めなさい

>つまずきを与えないために

つまずきと書いてある。

ここでは、次の章にある「つまずき」と同じ単語が動詞形で使われている。

σκανδαλίζω:
skandalizō
skan-dal-id'-zo
To “scandalize”; from G4625; to entrap, that is, trip up (figuratively stumble [transitively] or entice to sin, apostasy or displeasure): - (make to) offend.

英語訳はやはりoffendと訳している。


Notwithstanding
lest we should offend them
go thou to the sea・・

>lest we should offend them

主語がweとなっている。

我々とは主イエスと弟子たち。

彼ら(them)とは世の王たち。


我々は世の王たちを怒らせないために
海に行って・・

と、主は弟子たちに言った。

この聖句では、σκανδαλίζωは素直に「怒らせる」と訳出するのが良い。




Coffee Break, #263

2018年10月14日 | コーヒーブレイク
*重要な変更点がふたつあります。ご注意を。

マタイ18章7節
つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです
つまずきが起こることは避けられないが
つまずきをもたらす者は忌まわしいものです

>つまずき

と書いてある。

「つまずきを与える」というと、不慮の過失であり、弁明すれば許されるのではないかという印象を受けてしまう。

英語ではoffendと訳されている。

offend:怒らせる、傷つける

原典はこう。

σκανδαλίζω:
skandalizō
skan-dal-id'-zo
To “scandalize”; from G4625; to entrap, that is, trip up (figuratively stumble [transitively] or entice to sin, apostasy or displeasure): - (make to) offend.

entice to sinとある。
「そそのかして、罪を犯させる」
つまり、これはサタンのやり口、敵の誘惑と同じ。

敵の誘惑ゆえに
世の忌々しさよ

次が難解。

英語は

for it must needs be that offences come

よく分からない。

must needsと訳されている単語はἀναγκήで、意味は

ἀναγκή:
anagkē
an-ang-kay'
From G303 and the base of G43; constraint (literally or figuratively); by implication distress: - distress, must needs, (of) necessity (-sary), neededth, needful.

constraintとある。「強制」「圧迫」「束縛」という意味。

敵の誘惑の数々(offences)が来ることは強いられている

ということだと思う。

なぜ敵の誘惑の到来が強制的なのか。

分からない。

そう書いてあるからそうなのだろう。

最後はYLT訳が良いと思う。

but woe to that man through whom the stumbling-block doth come

和訳するのが難しい。

忌々しいものだ
敵の誘惑をまき散らすあの者よ

(*敵の誘惑が入り込んでいる→敵の誘惑をまき散らす)
(もう一箇所変更が必要:まき散らす者→まき散らすあの者)

敵の誘惑を英語ではちゃんとtemptationと訳しているが、日本語訳では試みと訳出し、まるで主が試練を与えているかのような印象を受けるので注意が必要。