みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

One Living Sacrifice, #4

2016年05月31日 | 聖書研究・信仰
ローマ書12章と続く次の章は、我々キリスト者の生活と歩みにとって、大変実践的な教えを含んでいる。

献身に関して、強い口調で再度説いている。

6章13節において、パウロは次のように語っている。

「神に自分自身を差し出しなさい。死人から生き返った者として、そして自分の四肢を神に義の武具として」

しかし、12章においては、強調点がやや異なっている。

「私はお願いする、それ故、兄弟たちよ。神の御慈悲によって、あなたがたの体を生きた献げものとして差し出すように。神にとって聖い、受け入れられる、それがあなたがたの合理的な奉仕だ」

12章において、パウロは我々を「兄弟」としてアピールする。

これは、8章29節の「多くの兄弟たち」という考え方とリンクしている。

召し出されて、兄弟姉妹がひとつとなる信仰の段階。

ひとつとなった「生きる献げもの」として、我々の体を神に差し出す。



One Living Sacrifice, #3

2016年05月30日 | 聖書研究・信仰
ローマ書8章に続き、イスラエルに対する神の統治と取扱いに関する挿入がある。

そして、11章ではなく、8章から続いて12章の議論が始まる。

これらの章を簡単に要約しておく。

我々の罪は許されている(5章)。

我々はキリストとともに死んだ(6章)。

生まれながらの肉はどうしうようもない(7章)。

これらに続いて、その結果として

「我々は・・・キリストにあって、ひとつの体である(12章)。

以前に過ぎ去っていった全てのことの帰結であるかのようだ。

そして、それがまさに目指していたことのように感じられる。





One Living Sacrifice, #2

2016年05月27日 | 聖書研究・信仰
第8章でパウロは、長子としてのキリストについて語る。

霊によって生まれた、多くの「神の子ら」の長男としてのキリスト(ローマ8:14)。

というのは、神はあらかじめ知っていた者たちを、神の御子のイメージに同一化するようにあらかじめ定めていた。

彼が多くの兄弟たちの中の長子となるように。

彼があらかじめ定めていた者たちを、彼らを彼は召した。

彼が召した者たちを、彼らを彼は義とした。

彼が義とした者たちを、彼らを彼は栄光化した(ローマ8:29、30)。

ここに、義は栄光へ導くと書いてある。

複数ある個ではなく、単数である多における、ひとつの栄光へ。

あの方のイメージを発現する多くの者たちにある栄光。

贖いの目的、すなわちこの栄光は、「キリストご自身の愛」の中にあらかじめ置かれている。

これが8章の最後の聖句の主題だ(ローマ8:35-39)。

この8章において暗示されていて、12章において明らかとされていることがある。

キリストの体というテーマだ。




One Living Sacrifice, #1

2016年05月26日 | 聖書研究・信仰
キリストの死には、ある側面がある。

エペソ5章にある通りだ。

ローマ書に書いてある内容とは、やや趣きが異なる。

しかし、その側面こそ、我々がローマ書で得ようとした結論そのものなのだ。

エペソ書が我々を導き入れようとしているのもまたこの側面であり、見ての通りだ。

贖罪によって、我々は神の本来の目的の線上へと導かれていく。





The Love Of Christ, #12

2016年05月24日 | 聖書研究・信仰
神には、ただひとりの御子である長子がいる。

神は、そのひとり子が兄弟を持つことを求めている。

ひとり子という立場からすると、最初の神の子となるだろう。

ただ1人の息子の代わりに、神は多くの息子を持つであろう。

一粒の麦の種が死んで、多くの種が弾けるであろう。

最初の種は唯一の種だった。

それは多くの種の最初の種となるように変えられる。

主イエスはご自身の命を捨てた。

その命は多くの命の中に現れた。

以上がこれまで我々が学んできた聖書真理の輪郭像だ。

この輪郭像から分かるように、一つが多数に置き換わる。

主の十字架の結果は一人の人。

御子のための花嫁だ。

キリストは主にある教会を愛した。

そして、主は花嫁のためにご自身を捨てた。




The Love Of Christ, #11

2016年05月23日 | 聖書研究・信仰
アダムは眠らされた。

キリスト者に関しても同様に、死んだという表現よりも眠っているいう表現が適切だ。

何故。

何故なら、死が言及される時はいつも、そこには罪が背景にあるからだ。

創世記3章において、罪を通して世に死が入り込んだ。

しかし、アダムの眠りについては、死が入り込む前の話だ。

つまり、ここでの主イエスの型は、旧約時代における他の型とは違う。

罪と贖いとの関連において、子羊と子牛が屠られた。

しかし、あの時アダムは屠られなかった。

再び眠りから覚めるために眠らされただけだった。

かくして、アダムによって示されたことはこうだ。

罪に依るのではない死、すなわち、ある意味において復活のパワーを増強させる死があるということ。

さらに気を付けるべきことがある。

エバは独立して創造されたのではない、アダムと平行して創造された。

アダムが寝て、エバがアダムから創造された。

これは、主にある教会にも当てはまる神のやり方だ。

神の「第2の人」は、彼の「眠り」から起こされた。

主にある教会は、主にあって創造され、主から創られる。

主の命を得ることによって。





The Love Of Christ, #10-2

2016年05月23日 | 聖書研究・信仰
神は、目的に向かって真っ直ぐに描かれた、あのご計画を諦めるようなお方ではない。

アダムは神の命を得ることは出来なかった。

しかし、主イエスの死と復活における、分かつことのできない一連の御業により主の命は解き放たれた。

そして、その命は信仰によって我々のものとなった。

我々は、アダムが持っていたものよりもさらに多くのものを得た。

神の永遠の目的は、キリストを我が命として受け入れ、完成の領域に踏み込むことによってもたらされる。





The Love Of Christ, #10-1

2016年05月22日 | 聖書研究・信仰
しかし、我々は贖罪を、ある種の中断、すなわち「緊急的」手段と捉えるべきだ。

神の目的の線上にあった、ひとつの破壊的急転回は、この「緊急的」手段を必要とした。

贖罪は極めて偉大で、驚くべき御業だ。

我々の視野の中でも大きな領域を占めている。

しかし、神は言う。

人は贖いのために創造されたかのように見えるが、贖罪がすべてではない。

確かに、堕落は神の目的の線上にあって、大変悲惨な滑落だった。

我々のあらゆる罪が拭い去られ、我々は回復した。

贖罪により我々は祝福を受けて回復した。

しかし、このことが成就してもなお、アダムが決して得ることができなかったものを、我々に得させるためのプロセスが残っていた。

神はそのことを心に留めておられた。








The Love Of Christ, #9

2016年05月17日 | 聖書研究・信仰
アダムの眠りはエバの罪のためではなく、エバがこの世に存在するためのものだった。

それが、この箇所で言わんとしていることだ。

アダムの眠りは、エバの創造をその目的としていた。

それは、神聖な協議において決定されたものであった。

神はイッシャー(女)を望んだ。

神は男(イッシュ)を眠らせた。

男のわき腹から肋骨を一本取り、それからイッシャー(女)を創った。

その女をその男の連れとした。

神が我々に与えて下さろうとしているのは、まさにこのイメージだ。

主イエスの死の一つの側面を予見する。

贖いが目的ではない主イエスの死。

それは創世記2章におけるアダムの眠りに相当する。

しかし、一方で神は禁ずる。

主イエスは贖罪のために死んだのではないという我々の思いを。

神を賛美せよ。

主は贖罪のために死んだのだ。

我々はここで思い起こす必要がある。

我々はいま、創世記2章ではなく、エペソ5章の領域にいるという事実だ。

エペソ書は堕落の後に書かれた書物だ。

その影響に苦しめられてきた者たちのための書だ。

その中にあって、我々は創造における目的だけでなく、堕落の爪趾をも持っている。

そうでなかったら、「しみやしわ」という表現に言及する必要はないだろう。

我々はやはり地上にいて、しかも堕落は歴史的事実なのだ。

ならば「清め」はやはり必要なのだ。




The Love Of Christ, #8

2016年05月16日 | 聖書研究・信仰
エバが深刻な罪を犯したから、アダムが眠らされたのだろうか。

そうだろうか。

違う。

エバはまだ創造されていなかった。

アダムにはモラルの問題だけではなく、罪の問題もなかった。

アダムは明白な目的のために眠らされた。

もう一人を創るために、あるものをアダムから取り出す必要があった。