みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Man’s State By Nature, #2

2015年01月26日 | 聖書研究・信仰
信仰生活を始めてまだ間もない頃、我々は行ないにのみ関心があった。

我々の中にある問題は全く気にしなかった。

自分の行ないのことについて悩みはするが、自分の何たるかには興味がなかった。

あれを直せば良いキリスト者になれるのではないか。

そこで、行ないを変えてみようといろいろやってみるのだが、惨憺たる結果に終わる。

できないのだ。

できないので戸惑う。

こうして、外側の問題ではない何かがあるのではないかと気が付く。

何か重大な問題が自分の中にあることを知る。

主を喜ばせたいと思うが、そうしたくない何かが自分の中にある。

謙虚になろうと思うが、我々という存在そのものがそうなるまいと拒む。

主を愛したいと切に願うが、断固拒否する感情が逆巻く。

微笑み、しとやかに振る舞ってはいるが、感情は無愛想そのものだ。

外側を取り繕おうとすればするほど、内側の問題がいかに根深いかが分かる。

そして、主の御前で訴える。

主よ、今こそ分かりました。

私の行ないもそうだが、私の何たるかが悪なのだということが。



Man’s State By Nature, #1

2015年01月22日 | 聖書研究・信仰
偉大なる一節、ローマ書5章12節から21節へと踏み込んでいく。

恵みと罪、キリストの従順とアダムの不従順が対比されて展開していく。 

この箇所は、ローマ書5章12節から8章39節までの後半導入部に位置し、特に注目すべき聖句だ。

パウロはさらに我々が深く黙想するための土台になる結論へと議論を進めていく。

土台となる結論部分は5章19節に見い出される。

ここに、神の御霊がどうしても我々に伝えたいことが書かれてある。

我々は何たるか。

そして、なぜ我々はその何たるかに至ってしまったのか。


ローマ5:12
こういうわけで
一人の人を通して、その罪がこの世界の中に入った
その罪を通して、死が
このようにして
すべての人の中に、死が通り過ぎた

同5:13
律法の前にも、罪は世の中にあった
罪は勘定されない
律法がないので

同5:14
死が支配した
アダムからモーゼまで
一度も罪を犯したことがない者たちの上に
アダムの違反と似たものの上に
(アダムは)来たるべきお方の型である

同5:15
その罪のようにではなく、次のその恵みのように
一人の罪によって多くの者が死んだとしたら
神の恵みはなんと大きいことか
一人の人イエスキリストの恵みの中にある賜物は
さらに多くの者の中へと満ち溢れた

同5:16
罪を犯したひとりを通してのようではない
その賜物は
ひとりから出たその結果は有罪宣告へと至る
多くの罪々から出た(その結果は)
義の中へと至る

同5:17
一人の罪過によって
死が支配するなら、そのひとりを通して
はるかに多く
恵みと義の賜物の豊かさを
持っている人々は
永遠の命の中で
一人のイエスキリストを通して
支配するであろう

(注)大変難解な文章だが、何となく意味は取れる。動詞の目的語が分かりにくい。

同5:18
今や、一人の罪過を通して
すべての人の中へ有罪の宣告へと至る
同じように、一人の義を通して
すべの人の中へ永遠の命の義へと至る

同5:19
一人の不従順を通して
多くの者たちが罪人の性質となった
同じように
一人の従順を通して
多くの者たちが義人の性質とされるであろう

同5:20
律法が入った
罪過が増すように
罪が増し加わったところに
恵みが満ち溢れた

同5:21
罪が支配するように
死の中で
同じように
恵みが支配した
義を通して
永遠の命の中へと至る
我らの主イエスキリストを通して



Some Further Distinctions, #8

2015年01月18日 | 聖書研究・信仰
パラグラフ7は省略(同4、5、6の内容とほぼ同じ)

・・・

やってることは悪いが、自分の性根はそれほど悪くない。

我々はそう思いがちだ。

しかし、神はこの考えをどうにかしてでもたしなめたいのだ。

我々の存在自体が悪いのに、思い上がりもはなはだしいと嘆いておられる。

我々の性根は罪人だ。

だから、処理される必要がある。

罪は血によって取り扱われる。

我々自身は十字架によって処理される。

血は我々の行ない(罪々)に対して我々に赦しを与える。

十字架は我々自身(性根、つまり古い人)から我々を解き放ってくれる。

血が我々を赦し、十字架が我々を解き放つ。

我々(の善行なんぞ)が入る隙は微塵もない。


Some Further Distinctions, #6

2015年01月15日 | 聖書研究・信仰
我々はどのようにして罪人の性質となったのか。

アダムの不従順によって。

我々の行ないによってではない。

アダムが犯した罪によって。

つまり、アダムがなってしまった性質によって。

英語を話すからといって、日本人である私が英国人の性質となったとは言えない。

第3章でパウロは、行ないに対して読者の関心を引こうとするために

我々は皆罪を犯したと書いたのだ。

我々の行ないによってではなく、我々の性質において。

これを言いたいがために。



Some Further Distinctions, #5

2015年01月12日 | 聖書研究・信仰
ローマ書1章から4章に罪人ということばは殆ど出てこない。

何故か。

「罪人(古い人)」(原罪)ではなく、犯された罪々を問題視しているからだ。

第5章において、パウロは「罪々」よりも「罪人」ということばを重視する。

パウロが罪人ということばをどのように使用しているのか。

5章に、罪々を犯したから罪人なのではなく、生まれながらにして罪人であるが故に罪人である、と書かれている。

ローマ3:23
すべての者は罪を犯した
神の栄光に不足している

通りすがりの男を捕まえては「お前は罪人だ」と言いたがる教会関係者者がいる。

彼はこの聖句を誤用している。

パウロの言いたいことはこうだ。

我々は罪を犯したから罪人なのではない。

罪人だから罪を犯すのだ。

行動によってではなく、性質において罪人なのだ。

ローマ5:19
ひとりの男の不従順を通して
多くの者たちが罪人の性質となった


for as through the disobedience of the one man
the many were constituted sinners
(YLT)

*性質において:in constitution




Some Further Distinctions, #4

2015年01月04日 | 聖書研究・信仰
主の血潮は我々の罪々を取り扱うという事実を見てきた。

主イエスは、我々の身代わりとして、十字架上で我々の罪々を身にまとい

我々のために、罪の赦し、義、そして神との和解を勝ち取った。

だから、我々は皆、神のご計画に従い、さらに次の段階へと進んでいかなければならない。

神は我々の中にある罪の原理をどのように処理して下さるのだろうか。

血は我々の罪々を洗い流してくれる。

しかし、我々の中の「古い人」を洗い流すことはできない。

我々を十字架に付けてくれる「主の十字架」が必要だ。

主の血潮は我々の犯した罪々を処理してくれる。

さらに、主の十字架とともに、我々の中の罪人(古い人)を十字架に付ける必要がある。