みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#48 救いの達成 The Battle for the Mind with Steven J Lawson, NO.4

2023年12月30日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

10分49秒から15分09秒まで。

gabage in, gabage out.

がらくたを受け入れるとがらくたが出て行く。

つまり、がらくたを受け入れるなということ。

われわれクリスチャンの場合、心はすでに新生されているので、取り込む情報に注意さえ払えば道を逸れることはない。

然り、アーメン。   
 

◇◇

続く箇所は、ある兄弟たちだけではなく、新しい兄弟たちだけでもなく、姉妹たちだけに語られているのではありません。

この箇所は、神の家族の中へと新しく生まれた私たち一人一人に語られているのです。

神は私たちに新しい知性を与えて下さいました。

その時、私たちはキリストへと回心しました。

神は私たちにキリストの知性を与えて下さいました。

私たちは新しい知性を受け取ったので、この知性を守る義務があります。

私たちはじっくりとこの知性を見張る必要があります。

つまり、ここで語りかけられている人々は兄弟姉妹であり、あなたや私も含まれています。

次に、必要とされる純粋について注目して頂きたいと思います。

引き続き8節を見ていますが、次のように書かれています。

すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての純粋なこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、もしも一粒の徳があるなら、もしも称賛に値することがあるなら、そのようなことに心を留めなさい。 

そのようなことに心を集中させ続けなさい。

8節の最後のことばにコメントを加えたいと思います。

そのようなことを思い続けなさい。

心を留める、集中する、思い続ける(dwell on)とはどういう意味でしょうか。

dwell onとは考え続けるという意味です。

精神的に注目するという意味です。

パウロは、これらのことを考え続けなさいと言っているのです。

これらのことに焦点を当て続けなさいと言っているのです。

こららのことに心を留めなさいと言っているのです。

私たちクリスチャンにとって重要なことは、この動詞が命令形で使われているということです。

これは命令であり、義務。

これらのことに心を留めるように、神は命令しているのです。

今ここに集うクリスチャンにとって、任意ではありません。

今ここに集う10代の若者にとって、真実なのではありません。

今ここに集う20代の人たちにとって、真実なのではありません。

中高年の人たちにとって、真実なのでもありません。

海を越えて、今の世のクリスチャンに対する使徒命令であります。

dwellという意味のギリシャ語について発音してみますが、ロギゾマイということばであり、そのことばの中に英語の単語が含まれています。

その動詞の中に、logarithm、或いはlogicということばを聞くことができます。

対数をとろうとする時、 懸命に考えようとするでしょう。

心を留めようとするでしょう。

このことばは数学的専門用語であり、緻密な計算という概念を有しており、大変な集中力を要する何かを研究することを意味します。

十分に考慮するという意味です。

聖書的には、十分注意して考える、計算する、評価する、熟慮するという意味です。

ピリピ書において、パウロは、われわれクリスチャンは精神的に集中して、知性をもってこれらのことに心を留めるように命じているのです。

これらのこととは、法にかなったこと、適切なこと、正しいことを表す事柄。

さらに知っておくべきことは、これらのことに心を留める(dwell on)という動詞が現在形で使われているということ。

つまり、一日24時間、週7日間、私たちはこれらのことに心を留める必要があるということです。

これらのことに心を集中させることに休みはありません。

これらのことを熟慮することに安息日はありません。

 

 

 


#47 救いの達成 The Battle for the Mind with Steven J Lawson, NO.3

2023年12月29日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

7分19秒から10分49秒まで。

◇◇

回避する方法はありません。

敬虔な考えが敬虔な生き方に通じるということは明らかです。

ピリピ4章8節でパウロが言っていることは、純粋な考えや正しい思考の勧めです。

これらの聖句は 私たちの目の前に置いてよいものの鋳型を与えます。

また、私たちの耳から入れてよいもの、私たちの知性の中へ入れてよいものの鋳型を与えてくれます。

法律的には、長い作成リストをあなたがたに差し出せばよいのでしょうが、聖書は決してそのようなことはしません。

聖書が与えるのは、私たちが生きてゆく狭き道を境するガードレールです。

これらの聖句は、日々の生活を覆ってくれる鋳型であり、テレビを見る時、映画を見る時、音楽を聞く時、ネットサーフィンをする時、雑誌を立ち読みする時、コンサートに行く時などに制限範囲を与えてくれます。

聖書は、これまで書かれた書物の中で最も適切な書物です。

私たちの生活の中で重要な問題を取り扱います。

日曜の朝、この場で、一人きりになることはありません。

ここには、神のことばが溢れています。

しかし、各人の家や寮、あるいは帰っていく場所場所において、他の事々が私たちの知性に入り込んでくるのを許してしまいます。

自分は全く失敗のない人物であり、自分のクリスチャンライフは高い次元に維持されていると思い込んでいます。

違う。

ソロモンは箴言において次のように言いました。

「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。」

この修辞的疑問は、人の思考に対する明白な答えを示唆しています。

「自分の中に火を取り込めば、火傷する。」

恵みによって、原因と結果の関係を分離することはできません。

そこで、本日私は聖の追及に焦点を当てたいと思います。

敬虔の追及について話そうと思います。

何故なら、この教会が、多くの点において、神の目に大いなる教会となるためであります。

敬虔と聖を追い求める教会であるために。

今日のテキストをなんとかものにしたいと思っています。

なんとかものにできる時間はあるのではないかと信じています。

次回に残そうとは考えておりません。

まず8節の始まりに注目して下さい。

ピリピ4章8節は「最後に、兄弟たち」から始まります。

8節と9節に続くみことばはすべての兄弟姉妹へと向けられています。

各自自分の聖書で確認してください。

すべての地域、すべての世代、すべての大陸のすべてのクリスチャンと信仰者に語りかけています。

あなたや私に語りかけています。

私たちは兄弟姉妹の一部であります。

 

 

 


#48 基礎教理 カルヴァン主義の5特質

2023年12月29日 | 基礎教理

カルヴァン主義の5特質とは、以下のことを指す。

1.全的堕落 (Total depravity) 
2.無条件的選び (Unconditional election) 
3.制限的贖罪 (Limited atonement) 
4.不可抵抗的恩恵 (Irresistible grace) 
5.聖徒の堅忍 (Perseverance of the saints) 

頭文字を取って、TULIPと略す。

制限的贖罪に関して、以前に触れたことがある。
 
◇◇

カルヴァン主義の5特質は、とても重要なものですが、現在クリスチャンで知っている人はあまりいません。

人間は全的に堕落しているということを否定するならば、堕落していない部分で人間は自律的に生活できるのではないかと考えてしまい、ヒューマニズムの侵入を許してしまいます。

人間は、あらゆる部分において堕落しており、健全な部分が一つもないということを思想の根底に据えなければ、キリスト教は、単なるヒューマニズムの一派になってしまいます。

人間の体の中で病気にかからない部分はないのと同じように、あらゆる部分が病んでいます。ローマ・カトリックは、ギリシヤ思想の影響によって、理性だけは病んでいないと言いましたが、カルヴァンは、理性そのものが堕落しており、人間は自分の理性によっては神を受け入れることはできないと主張しました。

これは、当時の人間回復運動(ルネサンス)の潮流に逆らう主張であり、それゆえ、カルヴァン主義はカトリックやヒューマニストから攻撃されたのですが、もしこの主張を撤回してしまうならば、アルミニウス主義のように、「人間は自分の力で救いを受け入れることができる」と主張することになり、「神人協力説」というペラギウスの異端に陥ってしまいます。

アルミニウス主義は、たとえて言えば、「人間とは溺れかかって助けを求めている人間であり、浮き輪を差し出してあげればそれにつかまって助かることができる存在である」と主張します。しかし、カルヴァン主義は「人間とは、助けを求めることすらできない死人である」と主張します。エドウィン・パーマーは人間を「サメに心臓を食われてしまって、死に絶え、海底10,000メートルに沈んで身動きひとつできず、まして、助けを求めることすらできなくなった者」にたとえました。

それゆえ、人間が救われるのは、純粋に奇跡(神)の御業であるとカルヴァン主義は主張します。

人間が救われるのは、ただひたすらに神の恵み、神の選びによるのだ、と。生まれながらの人間は救われたいという思いすら持つことはできません。「十字架の言葉は滅びる人々にとっては愚か」なのです。ですから、人間が救われるには、神が人間を復活させて、助けを求めさせるところまで心を回復しなければなりません。私たちが神を信じることができたのは、私たちが立派だからとか、知恵があったからではありません。ただ神が私たちを選んで、自分が罪人であることを気づかせてくださり、救いを求めるように心を回復してくださったからにほかならないのです。

それゆえ、カルヴァン主義者は、けっして救いを功績とは捉えません。カルヴァン主義者は、ただひたすらに神の恵みに感謝するだけです。

しかし、アルミニウス主義者は、神が私を救ってくださったのは、私が罪人であることに気づき、積極的に救いをいただこうと求めたからだと主張します。それゆえ、アルミニウス主義者は、「人間は行いによって救われるのではない」と主張する一方で、「信仰」を自分の功績にしているのです。

神は、人間が誇り高ぶることのないように、救いに関することについては、人間の自己推薦を一切許さない方法を取られました。

人間は慈善事業をしたから救われるのでも、殉教したから救われるのでもありません。人のためにいのちを捨てても、救いの条件には入りません。

なぜならば、人間が善行を行うときに、そこには必ず傲慢がつきまとうからです。慢心や利己心から自由になれる人はいません。

神は人間に徹底して謙遜になることを求めておられるので、神からの一方的な選びによる以外の方法を取られなかったのです。

もし人間が自分で救いを受け取る力があるということになれば、人間は必ず「私が救いを求めたから救われたのだ。もし、私が救わたいと思わなければ、神も救うことはできなかっただろう」という冒涜の言葉を吐くでしょう。

人間は、あまりにも堕落しており、何を行っても常に誇り高ぶる傾向があるため、とくに救いに関しては、神は人間の側に功績を一切与えなかったのです。

 

 


#3 進化論と宗教 進化論とマルクシズム

2023年12月28日 | 進化論と宗教

くり返し、論じているように、マルキシズムは進化論から導かれたイデオロギー。

同様に、ディスペンセーション主義プレミレも進化論から誘導された教理だ(Rousas John Rushdoony)。

われわれの古い脳、すなわち理性は、進化論によってトコトン汚染されている。

クリスチャンといえども例外ではない。だから努力が必要なのだ。 

では、どうやってこの洗脳から脱出すれば良いのか。

ただひたすら聖書を読みこなしていく以外に手はないように思う。

怪しげな神学(悪魔学?)に耳を傾けることなく、自身で道を切り開いて欲しい。

Ligonier Ministriesが提供してくれている動画はかなりの助けになるはず。

大いに利用して欲しい。

◇◇

 
進化論は、かつてのマルクシズムの発展段階説に似ています。

これらはどちらもヘーゲルの弁証法的歴史発展説の非神話化の切り札として現れたものですが、マルクシズムは史実性という点において決定的な問題をかかえていました。

すなわち、原始共産制から奴隷制、封建制、資本主義、社会主義、共産主義という筋道で歴史は段階的に発展する運命にあると主張したのに、現実にかつて原始共産的共同体があったという証拠はありませんでした。

また、資本主義から社会主義にかならずしも至るというわけではなく、現実の世界では資本主義は資本主義のままであり、発展するはずであった社会主義から共産主義への移行は実現しないまま、ソ連は崩壊しました。

つまり、マルクスが考えたような筋道をかならずしも現実の世界はたどらない。

これはそもそも歴史が発展するなどという近代の支配的な歴史観に従ったことに問題があったのではないかという反省が起こってきたわけですが、同じことは、進化論についても言えるでしょう。

進化論に存在する「非史実性」は、進化論がマルクシズムとまったく同じ道をたどることを暗示しています。

理論に照らして存在するはずのものが存在しない。

進化論の考えに反して、種は非常に安定しており、種と種の間には大きな断絶があって、中間種を作り出すことが非常に難しい。

作り出しても長生きしない、

子孫を残さない。

化石だけではなく、実際に生存しているはずの、進化の過程にある、試行錯誤の最中の生物と思われるものが少ないか存在しない。

このような非連続はいったい何か?カエルやミミズやサルなどと同じくらいどうして普遍的に、猿人が生存していないのか。

淘汰されて残ったはずの生物がなぜ、あるものは残り、あるものは残らなかったのか。
それは単に現在の環境が適していたかどうかによる差であると片付けられるであろうか。
単純に素直に考えてみれば、猿人が現在サル並みに多数生存していないのは、「そもそも存在しなかったからだ」といわざるを得ないのではないだろうか。

これだけ進化否定する要素が揃っているのだから、マルクシズムと同じように、その根本に横たわる歴史観に立ちかえって考え直してみる必要があるのではないだろうか。

「本当に世界は進化しているのだろうか?」と。

 

 


#47 基礎教理 悪の起源と世界の救い

2023年12月13日 | 基礎教理

 
悪とは、神の御心に反することです。

つまり、神の法を破ることです。

神は、天使と呼ばれる霊的な人格的被造物を創造されました。

しかし、ある時、その中の最も位階の高い天使が、自分を誇り高ぶり、自ら神になろうとして堕落しました。

「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。…あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。…あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。」(エゼキエル28・12-18)

そして、彼は多くの天使を引き連れて堕落し、被造物の頭である人間をたぶらかして、自分の手下にしようと誘惑をしました。

その物語が創世記3章に記されています。

人間は、このサタンに騙されたために、悔い改めのチャンスが与えられました。キリストが人間の罪の刑罰を身代わりに負ってくださったので、人間は悔い改めてキリストを信じる時に救われます。しかし、サタンは誰に誘惑されたわけでもなく、自分からすすんで堕落したために悔い改めの余地はなく、ただ火の池に投げ込まれる以外にいかなる道もありません。彼は徹底して堕落しているので、神の意志に逆らうこと以外何もできません。

サタンは、今でも人間を騙すために世界中で働いており、人間を自分の道連れにしようとたくらんでいます。彼は、神の造った世界を悲惨に陥れ、それを混沌に陥れるために精力的に活動しています。

しかし、キリストは、サタンの頭を砕くためにやってこられました。キリストを信じる者は新たに生まれ変わるので、もはやアダムの子孫ではなく、キリストの子孫となったのです。

真にキリストを信じる人は、サタンと戦い、勝利することができます。なぜならば、彼らの背後には、すでに十字架上でサタンに勝利されたキリストの権威があるからです。

真にキリストを信じる人の人生は勝利の人生であり、たとえ苦難にあってもそれに負けることがなく、どんなに悲惨な中にあっても、そこから不死鳥のように復活できます。

なぜならば、彼らの父祖であるキリストが死にうち勝って復活したからです。もはや、死は彼らを支配することがないので、彼らは永遠の生命を持ち、永遠に祝福を受けつづけます。

真にキリストを信じる人は、この地上で神のために善を行い、世界を変えることができます。そして、サタンに支配され、奴隷状態にある人々を次々と解放し、世界を義と平和と繁栄に導くことができます(*)。

歴史を通じて、キリストの支配が拡大され、ついに万物が原初の状態に回復する時に、キリストは再臨され、最後の審判が行われ、私たちが肉体において行ったすべての行為について、報いが与えられます。

真にキリストを信じる人は、永遠の祝福の中に入り、信じない人々は、永遠の呪いを受けつづけます。

 

(*)これから先、人類の終焉に向かい、救いに予定されてはいるが、現状においてサタンに支配され奴隷状態にある人々は次々と解放されていく。

しかしながら、同時に、

以下のテキストにあるように、神に敵対する者はますます神に敵対して、霊的戦いは激化していく。

黙示録22:11~12
不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」 
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。  

マタイ13:28~30
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』 
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」 

以上のテキストと以下の聖句とは、どのように整合性を取ればよいのか。

以下、過去記事から引用。

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キリストは、敵が制圧されるまで天にとどまっておられます。

「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(へブル10:10~13)

「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物が元の状態に回復する時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3:21)

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(ローマ16:20)

以上、引用終了。

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さらに探求していきたい。

 

 


#46 救いの達成 The Battle for the Mind with Steven J Lawson, NO.2 

2023年12月10日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

3分55秒から7分19秒まで。

◇◇

古の昔、箴言23章7節において、ソロモンは次のように言いました。

「人は、自分が思っている通りの人間である。」

クリスチャンライフの現実、その全体と実体とは、自分の知性の中で考えているものと合致します。

高次元において神を慮ることは、気高い生き方、崇高な礼拝へとつながる一方、低次元において神を慮ることは、大変つまらない生き方やどん底の生き方へと落ちてしまいます。

あなたの知性が行くところ、あなたの生活もあるのです。

それ故、クリスチャンライフにおいて、私たちの知性は殊の外重要であり、クリスチャンライフにおける戦場の最前線です。

ローマ書12章2節で、パウロはこう書いています。

「この世と同化してはならない。」

これは、「この世の考え方という鋳型に押し込められてはならない」という意味です。

「しかし、あなたの知性を新たにして、変えられなさい。」

内部から徹底的に変えられる唯一の方法とは、あなたの知性を新たにすることによってです。

あなたの思考を制御せよ。

そうすれば、あなたの知性は、あなたの人生や決断の方向性を支配するはずです。

エペソ書4章23節、「あなたがたの知性の霊において新たにされ」とあります。

これは、絶えず、継続的に行なわれるべき今この時の過程です。

私たちは新たにされ、私たちの知性を磨く必要があります。

マタイ22章37節、「心を尽くし、魂を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

恵みある霊的成長にとって、私たちの知性は大変重要です。

第1ペテロ1章13節で、ペテロはすべてのクリスチャンに命じます、「行動に移すために準備せよ」と。

言い換えると、あなたの知性を準備しなければ、クリスチャンライフの何事も始まらないということです。

コロサイ3章2節、「地上の事々ではなく、上の事々に知性を置きなさい。」

つまり、知性、すなわち私たちの内的思考生活が強調されています。

これらの聖句においてパウロが強調しているのは、純粋で敬虔な考え方を呼び起こすことであります。

次のテキストを見る前に、次のことをお話ししておきます。

あなたは、あなたが考えているもののようになるであろう。

類似は類似を生む。

穢れた考えは汚れた人生を生みます。

それは必然です。

 

 


#4 宗教と現代思想 無意識について

2023年12月09日 | 宗教と現代思想

 

Q.

私がかねがね疑問に思っていることなのですが、フロイトの精神分析学では、人間には、表層意識の下に、深層意識(無意識の領域)があって、その関係は、ちょうど、海上からちょっこと顔を出した氷山と、その下にある巨大な氷の固まりのようなものであり、人間を動かす根本的なものは、リビドーだとか性欲だとか言われます。

果たして、無意識の領域というのはあるのでしょうか?神様は、人間の心にそういう機能を持つものとして創造しておられるのでしょうか?聖書には、無意識という言葉はないと思うのですが、キリスト教界においても、「内面の癒し」とか言って、心理学な手法を使ったカウンセリングなどもなされています。聖書的にみてどうなのでしょうか。正しいキリスト教心理学の確立にとっては重要なことだと思うのですが。

A.

(1)無意識の探索は真の問題解決には役立たない

無意識の領域はあると思うのですが、カウンセリングの実際において重要なのは、人間の基本的な問題――神との契約の違反――であると聖書は繰り返しているのですから、罪の悔い改めを除いて、いくら無意識の問題を扱っても、クライエントに本当の解決はないと思います。

近代心理学の基本的な前提は、「この世界は創造された世界ではない」ということにあります。つまり、世界は進化によって「自律的に」成立したのだ、という前提に立っています。もともと人間は、自由で倫理に縛られない生活をしていたが、社会ができて複雑な環境が生まれ、ストレスにさらされるようになり、その重圧の下において心の問題が生じるようになった。そのような抑圧からの解放こそが、真の解決であると考えます。

つまり、聖書において、人間の問題は「倫理的」であるのに対して、心理学において、それは、「環境的」なのです。人間が悪いのではない、環境が悪いのだ。もし、環境を変えれば問題はなくなるはずだと考えます。

聖書においては、人間の問題は罪を悔い改め、神に立ちかえることによって解決しますが、心理学においては、抑圧を取り去ることによって解決します(※)。

例えば、抑圧を取り去って、性的に解放すれば問題は解決するという解決を信じて、60年代からセックスレボリューションが始まりましたが、かえって離婚によって家庭が破壊され、問題が深まるだけでした。また、性的に解放された人々は正常になるどころか、同性愛やサディズムなど倒錯的な欲望にますますはまり込んで行きました。

キリスト教が心理学を採用するならば、この誤った前提とそこから導き出される誤った解決法を排除する必要があります。問題を環境に置くのは、アダムがエバに責任をなすりつけたのとまったく同じです。「わたしが悪いのではなく、あなたが与えたこの女がわたしを誘惑したのだ。」と述べても、神に対して罪を犯したという事実に変化はありません。問題は、神の法に違反したかどうか、であり、その法律違反がどのような原因・過程で行われたかは問題ではないのです。

教会におけるカウンセリングにおいてはあくまでも、聖書が教えているように、クライエントを「神との契約者」として扱うことだと思います。無意識においてどのようなことをクライエントが考えているかどうかはそれほど重要なことではなく、彼(または彼女)がどのようなことを行ったのか、が問題なのです。

例えば、過去の悲惨な体験からトラウマを持つ人がいるならば、トラウマそのものは根本的な問題ではないので、時間の経過や対話によって解決できます。しかし、トラウマが新たな罪を生み出しているならば、その罪はその人を滅ぼす真の問題になるので処理が必要です。ある人からひどい仕打ちを受けたとか、いじめられたという経験を持つことそのものは、それほど大きな問題ではありません。心の傷は、神がいやしてくださるからです。それには時間がかかるかもしれませんし、何らかの(プラスの)体験が必要でしょう。心の整理をつけるために過去を振り返ることが必要かもしれません。

しかし、そのような心の傷が、他者を苦しめる原因となっているならば、それは罪となっているので、悔い改めが必要になります。自分がいじめられたことが人をいじめることにつながっている場合があります。幼児期に虐待を受けた人は、自分の子供にたいして同じことをしてしまう、ということがあります。自分が虐待を受けたことは、自分に倫理的な責任がなければ、決定的な問題ではなく、それは神によって癒していただくことができます。しかし、自分が虐待者になっている場合は、神による癒しはありません。神と被害者に謝罪し、二度とそのようなことを繰り返さないことをキリストにあって誓う以外に方法はありません。

心の傷は、自分を人間的に成長させてくれますが、罪は自分を滅ぼすことしかしません。罪は絶対的な悪条件であってそれを処理する方法は、内面の探索に求めることではなく、キリストの十字架において赦しを求める以外にはありません。

(2)他者の無意識の領域について裁くことはできない

聖書において悔い改めるべき罪とされるのは、顕在化された罪――「実際に犯された悪い行為」と「意識的に思った悪い考え」――だけです。無意識の領域の罪についてまで悔い改めることはできませんし、また他者に悔い改めるよう求めることもできません。

パウロは、自分を問題視するコリントの教会の人々に対して、「わたしはやましい所は少しもない」と断言しました。それは、彼が自分に示された罪についてすべて悔い改めて正しく処理していたからです。

「さて、わたしはあなたがたに裁かれることも、人間的な基準によって評価されることも、まったく意に介していない。わたしは自分自身を裁くことすらしない。わたしは良心に照らしてやましい所は少しもない。しかし、それだからといって、わたしにまったく非がないとは言えない。なぜならば、わたしを裁くのは主だからである。」(第1コリント4・3-4)

自分の良心に照らして、やましいところがあるならば、他者に批判された場合、素直に悔い改める必要があります。しかし、自分が行いにおいて、思いにおいて、罪を犯していることが明らかではない場合、他者の批判に耳を傾ける必要はありません。

なぜならば、自分は神と人に対してすべての問題を悔い改め、良心がクリアになっているからです。

人間は、他人の内面を知ることができないので、それについてとやかく言うことはできません。「君は、そもそも、性格が傲慢なんだよ。」というような漠然とした批判の仕方はできないのです。もし傲慢であるというならば、具体的な事例について批判しなければなりません。「君は、○○さんをあざけった。これは傲慢な行為だ。」ということはできますが、人の性格全体を批判して、その人を問題視することはできません。それ自体が傲慢な行為です。

私たちは、具体的な罪について互いに指摘することができますが、その人の内面について批判することはできません。その人の内面を扱うのは神だけです。

しかし、それでは、すべての明らかな罪を悔い改めているから、わたしは罪人ではない、と言うことはできるのか、というとそうではありません。

なぜならば、神は私たちの内面をごらんになっているからです。

無意識の領域は、神だけが扱う領域であって、それを人間が評価することはできません。

 

(※)たしかに、抑圧からの解放が必要な部分はあると思います。他者の理不尽な期待によって自分のありのままの姿を受け入れられなくなっているクライエントには、精神的な自立を促し、自分らしさを取り戻すことができるように助けの手を伸べる必要があると思います。

 

 

 


#5 進化論 形質の発展は偶然の飛躍の重合によって生まれた?

2023年12月08日 | 進化論

 

人間の身体の中には分泌物を出す器官だけではなく、それを身体の外に排出するための出口もある。

例えば、脳の中にある液体(髄液)は分泌されるだけではなく、それを排出する穴が開いている。もしその穴がふさがっているならば、頭蓋骨の中の圧力が高まって生命にとって危険な状態となる。

唾液もただ分泌されるだけではなく、それを排出する穴が口の中にある。

さて、進化論が正しいならば、分泌物を出す器官だけではなく、それを排出する穴とそれが最後に汗や尿となって体外に出るまでの仕組みがすべて偶然にできたと考えなければならない。

これは非常に難しいことである。

なぜならば、例えば、脳の液を排出する穴が開いている突然変異体が生まれたとしても、穴が開いているというだけでは生存に有利であるとは言えず、それが体外にうまく排出されるすべてのシステムが同時に揃わねば、環境に適用した強者は生まれないからである。

穴ができただけで管がない個体は死滅し、管が揃った個体が生存した?そして、管だけではなく、その管を通して排出された液体がうまく静脈の血の中に老廃物として流れ込む仕組みを持った突然変異体が生き残った?

しかし、(1)「穴が開いているだけのもの」と、(2)「その穴に管がついているだけでそれが液の排出に貢献していないもの」との生存能力の差は存在しないはずである。なぜならば、(1)と(2)のどちらの器官も(3)「実質的に液を排出する」という役割を果たしていないという意味において「生存寄与度」は同じだからである。

ということは、(1)から(2)の段階を踏んで(3)に至ったと結論することは必ずしも必須であるというわけではなく、むしろ、(1)から突然(3)に移行したと考えることが十分にできるということになる。

つまり、突然変異と淘汰によって進化が進んだというならば、生存に寄与しない中間の形質というものがあったということを必ずしも前提にはできないということになる。なぜならば、中間形質が「淘汰」に役立たないからである。

例えば、羽が生えていない動物が羽を獲得して空を飛べるようになったという進化の過程において、十分に空を飛べるだけの機能を持っていない羽を持つ動物と羽が生えていない動物との間に生存能力に差はない。いや、むしろ、足でもなく羽でもない前肢を持つ中間の動物は、邪魔なものをつけているので生存がしにくかったであろうと想像できる。

だから、生物の進化の過程は、徐々に形質を獲得していったというよりも、「生存能力において十分に貢献する機能を身につけた個体」から「生存能力において十分に貢献するさらに高度な機能を身につけた個体」へ飛躍したと考える以外にはない。

例えば、(1)地蜘蛛→(2)糸を出す器官を身につけたが巣を作る本能を持たない蜘蛛→(3)糸を出す器官と空中に巣を作る本能と備え、昆虫を捕獲できる能力を持つ蜘蛛 というように変化したのではなく(なぜならば(1)と(2)に生存能力に差はないから)、(1)から(3)にジャンプしたとしなければ、「淘汰」による説明は不可能になる。

そうなると、「果たして遺伝子のランダムな変化だけによって、(1)から(3)へジャンプすることがはたしてありうるのだろうか。」という疑問が起こってくる。

すでに何度も述べているように、ティラノザウルスの1本の歯の片側にはギザギザがついている。このギザギザの一山が偶然に、このように、歯の片側だけに同じものが約30個も揃って並ぶ確率はきわめて小さなものだ。 

山が偶然にできたとしても、同じものが隣に並ぶ確率はきわめて小さい。しかも、それが30も40も並ぶということになれば、実質的に不可能である。こんな単純な形質の形成ですら不可能ならば、生物の身体を構成している様々な有機的な仕組みが偶然に整ったと考えることはきわめてナンセンスである。

くどくなってしまったが、私が言いたいのはこういうことだ。

中間の形質が生存に寄与しない場合に、『淘汰』による進化の過程で、その中間形質は存在意味がないため、進化の説明においていかなる意味もない。つまり、進化があったと主張するならば、この場合、形質は『役立つもの』から『役立つもの』へとジャンプしたと言う以外にはない。しかし、偶然によってある『生存に役立つ形質』が整う確率はきわめて小さなものでしかない。それゆえ、このような奇跡の連続を主張しなければ成り立たない進化論なるものが極めて非現実的であると言えよう。 

 

 

 


#2 聖書と現代思想 飲酒、聖餐、幼児洗礼について

2023年12月07日 | 宗教と現代思想

Q.
飲酒についていかがお考えですか。

A.
これは、「野菜しか食べない」人、「肉を食べてもよい人」とあり、互いに裁き合ってはならないとあるように、クリスチャンの間でそれぞれ確信を持っている場合、その確信によって行動されるのがよいと思います。

しかし、歴史的に見れば、ルターもカルヴァンも酒を飲み、ピューリタンも酒を飲んでいました。ヨーロッパは現在でも、一般に、クリスチャンと完全禁酒は結びつきにくく、今日のキリスト教が完全禁酒を好むのは、ギリシヤ禁欲主義の系列に属する新プラトン主義が、敬虔主義キリスト教という仮面をつけて、完全禁酒をクリスチャンに押し付けたのが起源とされています。

私の意見では、神が創造されたもので、悪いものは一つもない。悪くなるのは、その利用法が悪い場合だけであると考えています。包丁は料理に使えるが、人を殺すのにも利用できるように。神は、人間に禁欲させて自己満足に陥らせるために、この世界の様々な食べ物を創造されたのではなく、それを人間が楽しんで、神に感謝させるためなのです。

考えてみれば、お米や、大豆、きゅうり、トマト、リンゴ、メロン、梨、大根、…など、まさに人間が食べるために存在するとしか考えられないです。あるものは、生のままでも美味しい。例えば、バナナなど、そもそも人間が食べやすいように、形ができている。しかし、あるものは、加熱しないと、まずくて食べられない。ジャガイモなどそうです(だから、果物は、『神の恩恵のみによる救い』を象徴し、野菜は『神の恵み+人間の労働による文化建設』を象徴していると思うのです)。

しかも、人間の味覚に合ったものは、栄養価も高いということは、偶然の一致でしょうか。例えば、バナナがいくらおいしくても、そこに人間の肉体を養う働きがなければ、ただのおやつですが、しかし、神が創造されたものは、そこに、人間を育て、健康にするための、様々な隠れた栄養素があります。

すなわち、わたしは、食べ物や飲み物は、神の恩みとして与えられたものであるから、むやみに食べたり飲んだりすることを禁じるべきではないと考えます。もちろん、毒キノコなど、「異端などまがいものに気をつけろ」ということを教えるために、神が創造されたものもありますから、何でも食べても益になるとは考えませんが、しかし、ぶどう酒など、食用に充分になるものについては、神が人間が食べたり飲んだりするために何等かの意味を備えておられると思います。

例えば、フランス人は、アメリカ人と比べて同じように肉をよく食べますが、ぶどう酒をよく飲むので、そのポリフェノールの効果で、血液がサラサラになり、血管が原因の心臓病になることが少ないが、完全禁酒を教える教会が多いアメリカ南部の人々には心臓病になる人が多いとテレビでやっていました。

そもそも、イエス御自身がぶどう酒を飲まれたのです(「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います」)。当時のぶどう酒は今日の蒸留酒とは明らかにアルコール度数が違います。しかし、酔わせる効果はあったことは確かです。なぜならば、カナの婚礼のときに、客が「宴会も終わり頃になるとぶどう酒の味もわからなくなる」と言っているからです。

また、赤いぶどう酒は、まさに、イエスの血を象徴しているのですから、聖餐においてぶどう酒を飲むことを禁じることはできません。

ぶどう酒は、パンと共通点があり、どちらも「発酵」によってできます。聖書において、「発酵」は良い意味でも、悪い意味でも用いられ、「影響の拡大」を象徴します。罪に適用されると、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」ということになり、御国に適用されると、「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」 ということになります。

ですから、聖餐式のパンを「種なしパン」だけに限る必要はないのです。「罪」という「種」が入るとまずいですが、「御国」という「種」が入ればよいのです。

このように、「種なしパン」は「罪のない生活」を象徴し、「種入れたパン」は「御国の勝利と発展」を象徴していると考えられます。

新約時代は、罪のパン種はキリストによって除かれたのですから、御国のパン種を採用して、種を入れたパンでお祝いするほうが相応しいと考えます。(もちろん、「罪は完全に取り除かれるべきである」ということを象徴するものとして種無しパンの使用を否定するつもりはありません。)

ちなみに、ゲイリー・ノースは、Moses and Pharao (ICE, TX) p166 n.33 の中で、旧約聖書では禁じられた「蜜」をも聖餐のパンに加えるべきであると述べています。

「筆者は、蜂蜜をつかって聖餐をしている教会を見たことがないが、彼らの多くは種を入れたパンを用いている。これは、矛盾している。パン種を用いるならば、蜂蜜も用いるべきである。キリストの完全な犠牲は、すでに歴史の中で成就している。カルバリの丘においてキリストは完全な犠牲を成し遂げられたということは、パン種(パン種を入れて完全に焼き上げることはそれ以前において禁じられていた)と蜂蜜(これは完全な甘味料であり、それ以前に禁止されていた)を使用すべきことを示している。蜂蜜は、苦菜に代わって使用されるべきである。教会は、象徴を用いる上で一貫性を欠いている。苦菜は一度もキリスト教の過越[訳注:つまり、聖餐]において使用されたことがなかった。しかし、旧い契約において要求されたこの苦菜に代わって、蜂蜜が使用されたこともない。これは、明らかに矛盾している。過越は、『味覚を通して感じ取られる』べきものであった。かつて苦かったものは、今は、甘い。この対照は、象徴においてはっきりと表現されてこなかった。救いは、象徴において首尾一貫して表現されてこなかった。蜂蜜が象徴する勝利の味は、教会の礼典の特質とはなってこなかった。教会が、もっと楽観的な終末論を信じて、歴史における教会の役割に関してもっと楽観的な見方ができるようになり、次第に教会の勝利が明らかになり、被造世界を回復することが明らかになれば、教会は、聖餐において蜂蜜を使用するようになるだろう。」

そして、聖餐の飲み物は、種入れパンと同じように、「拡大、発展、勝利」を象徴する「発酵」によって作られる「ぶどう酒」が適当と言えると思います。ぶどうジュースよりもよいですが。


Q.

幼児洗礼についてどうお考えですか。

A.

旧約聖書と新約聖書の連続性を考慮するならば、旧約聖書における割礼と、新約聖書における洗礼とは平行関係にあると考えることができると思います。割礼は、生後8日目に行われました。まだ救いを自覚的に受け入れられる年齢ではありません。

聖書は、必ずしも「理性中心」ではなく、むしろ、「恩恵中心」です。例えば、「律法を守る人の子孫は何と幸いなのだろう」とダビデが歌ったように、私たちが神に忠実であれば、私たちの子孫が私たちのゆえに恩恵を受けるとはっきり述べているのです。ひどい罪を犯していたユダの王様がすぐにでも滅ぼされなかったのは、ダビデのゆえでした。

「主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、彼に約束されたからである。」(2列王8・-19)

遊女ラハブは信仰のゆえに救われましたが、彼女だけではなく、その恵みはその家族にまで及びました。

「私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。」(ヨシュア2・18)

クリスチャンホームの子どもたちは、そうではない家族の子どもたちよりも、はるかに恵まれた環境にあります。御言葉を聞く機会、それによって教育され、しつけられる機会に恵まれています。

モーセの契約は、「その子孫とも結ぶ」と言われており、聖書は、「血縁」とか「家族」「氏族」「民族」というような要素を重視しています。

理性を中心に置くならば、自分は自分、子どもは子どもということになるのですが、神様は必ずしもそのようには見ておらず、自分が信仰によって祝福されていれば、自動的に子どもも祝福の中にいると考えることができるのです。

アナバプテストのように、「幼児洗礼は無効だ」と言うのは、救いを理性中心にとらえているからです。これは「神があなたの子孫を祝福しよう」と言っておられるのにもかかわらず、それを拒むことになるので罪なのです。

あくまでも、救いとは、神の一方的な恵みであって、人間の理性的判断は二次的なものでしかありません。救いに先立つ新生、信仰も神の恵みによるのです。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。

『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』と書いてあるとおりです。 」(ローマ9・12-14)

つまり、まず、神が一方的に我々を選んでくださったから、我々は、理性をつかって信仰に入ることができたのです。その選びとは、我々が生まれる前からすでに決定されていたのです。

「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1・4)

我々がただ神の一方的な救いによって選ばれたのであれば、どうして、私たちの子ども達が、もっぱら理性によって救われると考える必要があるでしょうか。

神が我々を選んでくださったということは、我々の子どもたちをも選んでくださったということを意味しているのです。

つまり、神は、私個人を選んだということではなく、私の家を選んだということなのです。

私が契約に従って、子どもたちを正しく訓練するならば、神はその子どもをも祝福してくださり、救いの恵みの中にとどまらせてくださいます。

しかし、もし、ラハブの家への警告「あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。」のように、自分から進んで信仰を捨ててしまう者が現われれば、彼は、契約の外に出てしまったので、滅びに至ります。しかし、これは、通常のことではありません。

 

 

 


#3 進化論と宗教 進化論を放置すると社会は崩壊する

2023年12月04日 | 進化論と宗教

進化論は、自然法を否定します。

19世紀まで宇宙の創造者・法制定者(聖書の神であるかないかにかかわらず)が存在するとか、宇宙には普遍的な法があるという考え方が世界を支配していました。日本でも「おてんとう様が見ている」とか「バチがあたる」というように、人間を越えた法が存在するという考え方がありました。仏教でも儒教でもそのようなHigher Lawの考え方というものはあります。

しかし、進化論のように、世界が偶然に誕生して、歴史が偶然に推移し、その歴史を動かしているのは、自然法とかHigher Lawなどではなく、「適者・力の強い者が生き残り、不適者・力の弱い者が滅びる」という優勝劣敗の原理であるということを主張するならば、そういった法は「原理的に」滅びます。

「原理的に」と言ったのは、「実際に」人々が生活の中において優勝劣敗の原理を実行するとは限らないからです。

思想が実を結ぶのには時間がかかります。進化論の原理が人々の実際の生活を支配するのには、時間がかかるでしょう。

そのため、あまり進化論の世界観を危惧している人はいません。

しかし、実際に今世紀のはじめ頃から、法律や社会のあらゆる部分に進化論の世界観が適用されるようになり、欧米社会は変質してきました。欧米の影響を直に受ける日本や他の地域も当然変質しつつあります。進化論の社会的影響はまことに甚大です。

では、これから先、進化論の原理を忠実に体現するような社会になればどのようになるのか。

旧来の自然法的世界観が残っている世代が過ぎ去って、進化論だけしか教えられなかった人々によって構成された社会がやってきます。一体そのような社会がどのようなものになるのかという問題がこれからクローズアップされてくると思うのです。

「おてんとう様なんて関係ない。人間は動物から進化してできたものであって、人に迷惑をかけなければ援助交際でも何でもやってもいい。」という若者を非難することは進化論者は原理的にできません。心情的にそんなことをしてはいけないと言えるでしょうが、原理的には不可能です。

原理的に不可能であるということは、決定的な弱さを持っているということであり、時間が経てば、そのような滅茶苦茶な人種が巷にあふれるようになる。

アメリカにおいて公教育の中からキリスト教倫理が完全に排除された時と、青少年非行の急激な増加の開始時期はぴったり一致します。

日本は、自分の親の時代に教育勅語など儒教の影響がまだ残っており、人がやってよいことと悪いことの区別というものがきちんと教えられていましたが、戦後の教育は道徳教育を批判し、進化論が教えられました。

教育勅語は全体主義の国家の利益とか家制度の利益が背景にあるので、それを復活させることには反対ですが、しかし、何らかの超越法がなければ社会は崩壊すると考えられます。

国家の教育が破たんし、旧来の宗教が勢いを失い、進化論の唯物史観しか教えられなかった日本の社会には、オヤジ狩り、痴漢警察官、淫行教師、汚職が溢れています。