みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#4 進化論 ミスが積み重なって進化した?

2023年11月30日 | 進化論

 
現在の進化論では、遺伝子のコピーミスが積み重なることによって進化が進んだという考え方をしているが、経験から分かるように、ミスが積み重なって何か優れたものが生まれたと仮定することはできない。

 ミス+ミス+ミス+ミス+…+ミス=混沌

である。

仮に、ゴッホの自画像のコンピュータ画像があるとしよう。

そのデータを操作する際に、ある一定の確率で少しずつミスが生じるとしよう。

その操作を100回加えたら、そこに花の絵が加わったということがあるだろうか。

それとも、ゴッホが描くよりも優れた絵になったということがあるだろうか。

ミスが積み重なれば、ゴッホの絵は崩れて見る陰もなくなるだろう。

ミスが、たまたま全体にプラスに働くのはきわめてまれである。

その大部分は全体をダメにするものだ。

しかも、ミスが次々に重なって起これば、全体は滅茶苦茶になる以外にはない。

演劇において少しのミスは、かえって聴衆を沸かせることもあるかもしれない。

しかし、一つの劇において、ミスがあまりにも頻繁に積み重なればいかがだろうか。その劇は失敗に終わる。滅茶苦茶である。

だから、ミスが積み重なるうちに優れたものに発展しました、という現代の進化論はマヤカシなのだ。

 

 

 


#1 進化論と宗教 進化論の影響

2023年11月30日 | 進化論と宗教

ナチスや共産主義と進化論の関係を些末なものでしかないと考えることはできない。

進化論の登場以降、ナチスに限らず、人種や民族に優劣をつける風潮はヨーロッパや日本において普通に見られた現象である。これは、当時著された書物を読めばすぐにでもわかることである。

白人の波状毛は、黄色人種の直毛よりも進化の進んだ形質であるなどという議論が頻繁に登場したものである。

実はダーウィンの進化論が登場する前に、進化論への道備えとなる思潮がすでに存在していた。

ヘーゲルの弁証法的発展史観がそれである。

しかし、このような発展史観は神話的・思弁的であるとし、客観性を求める立場が現れ、実証主義に立つ発展史観が登場した。ダーウィン進化論はそのような立場の一つであったと言われている。

共産主義も、実はこのような、思弁的発展史観に対する実証主義的アンチテーゼとして生まれたのである。

したがって、ダーウィンもマルクスも自らの立場を「科学的」「実証的」と称し、宗教くさいヘーゲル哲学から脱却しようと模索し、そしてそれを乗り越えたと主張した。

さて、歴史をもっぱら陰謀だけによって進むと考え、思想的動因を無視するのは、きわめてイビツであり、本質を見失った見方である。

共産主義が、もっぱら資本家や王族の財産を奪取するためだけに行われたということはできない。

もちろん、そのような要素は多分にある。陰謀もあった。

しかし、歴史の変化の中心には思想の変化がある。

思想の面において本気になって取り組む人がいなければあのような大規模な運動が起こるはずもない。

人間を本気にさせるのは使命感であり、ただ「略取」の願望におびき出されるだけならば、社会主義革命など起こるはずもない。

そういう意味において、ロシア革命家たちが進化論的イデオロギーを真剣に信じており、その思想に沿うように活動したということは容易に推察できるのである。ソ連のスパイ・ゾルゲを見よ。

 

 


#42 基礎教理 安息日はまだ存在するか?

2023年11月29日 | 基礎教理

 
旧約聖書が述べている安息日の概念は、新約聖書においてはキリストという実体において実現されている。

「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」との戒めにおいて前提とされているのは、「聖別」すべき日が存在するということである。

旧約聖書の祭儀において聖別されるべき物は、犠牲の血を振りかけることによって聖くなった。

しかし、新約聖書において、この血による清めは、キリストの十字架によって完遂した。

「神は…その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1・19-20)

神が御子によって和解してくださったのは、「万物=被造世界全体」である。ということは、時間も含められている。時間は被造物であるから。

そうであれば、今日「聖められるべき日」というのが存在しないのは明らかである。この意味において、旧約時代における安息日は、もはや存在しない。

しかし、それでは、「まだ我々には安息日が残されている」(へブル4・9-10)とあるのはどういう意味なのであろうか。

ここで、クリスチャンは、まだ安息日を守らねばならないと聖書は述べているのではないだろうか。

この安息とは、信仰を最後まで保ちつづけることによって得られる最終的な安息=永遠のいのちのことである。

「…あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。…もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちはキリストにあずかる者となるのです。…信じた私たちは安息にはいるのです。」(3・12、14、4・3)

さて、クリスチャンが救われたという時に、歴史的と永遠的という2つの側面がある。

歴史的に言えば、クリスチャンは現在救いの中におり、すでに復活している。エペソ2・6-7は、「神は、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と述べている。

頭であるキリストが復活したのであるから、体である教会も復活している。これは、黙示録20・5-6において「第一の復活」と呼ばれている。

しかし、完全なる救い、復活は、新天新地の到来を待たねばならない。万物に永遠の体が与えられる時に救いと復活は完成する。

永遠的な意味では、救い、復活は、まだ実現していない。

これと同じように、安息にも歴史的と永遠的の2つの側面がある。

クリスチャンはすでにキリストという安息に入っている(マタイ11・28)。時間はすべて聖別されており、どの日を特別な日として聖別し尊ぶ必要はない。旧約聖書においては、神の民は、ある特別な場所と特別な日において礼拝するように定められていた。しかし、万物が聖別された今日、そのような場所や時間に特定されることはもはやない。「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」(ヨハネ4・21)

今日、クリスチャンの体が聖霊の宮=神殿であるといわれている。

しかし、永遠的な意味において完全な安息(永遠の御国)にはまだ入っていない。だから、へブル4・11において「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者がひとりもいないようにしようではありませんか。」と言われている。

 

 

 


#41 基礎教理 Justification by Faith Alone with R.C. Sproul, NO.2 

2023年11月28日 | 基礎教理

 

Justification by Faith Alone: Foundations - An Overview of Systematic Theology with R.C. Sproul

 

15分37秒から最後まで 。

◇◇

宗教改革がなかったなら、私たちはいまだにローマカトリックの神学の中に閉じ込められていた可能性がある。

メッセージの後半部分をじっくりと味わいたいと思う。

◇◇

問題はこういうことです。

神ご自身の目から、人が義であると神が宣言する場合の根拠、理由は何か。

ローマカトリック教会の場合、すでに申しましたが、注ぎ込まれたキリストの義との共同作業によって人が義となる時に、神はその人が義であると宣言します。

プロテスタントの場合、義の根拠は、私たち自身の義にあるのではなく、キリストの義にあるのです。

キリストの義について話していますが、私たちの中にあるキリストの義について言っているのではありません。

私たちに代わるキリストの義について言っているのです。

全生涯において、神の法に完璧に従ったたキリストの義であります。

すなわち、神の祝福を勝ち取った義です。

キリストのためだけではなく、キリストを信じる人々全員のために、キリストが得た義を、全生涯においてキリストが成し遂げた義を、神は数え上げるのです。

さて、これは義認の根拠の一部です。

他の部分は、十字架による生贄の死という律法の執行、キリストによる完璧な賠償です。

何度も言っているように、私たちが救われたのは、イエスの死によってだけではなく、イエスの命のゆえにであります。

ここで起こっていることは、2重の転嫁です。

2重の負託です。

負託について言う場合には、それは法的転嫁です。

キリストは神の子羊です。

彼が十字架に付けられ、神の怒りに苦しむ時、神が罪を見出したがゆえにキリストを罰したのではない。

私たちの罪を自発的に背負ったために、キリストは罪の所有者となったのです。

神は、私たちの罪をイエスへと転嫁し、見做し、数え上げたのです。

これが負託(imputation)という意味です。

法的転嫁、つまり、キリストご自身が私たちの罪そのものとなられたのです。

神は私たちの有罪判決をイエスに転嫁しまし。

これがひとつめの転嫁。

もうひとつの転嫁とは、神がキリストの義を私たちに転嫁したこと。

信仰のみによる義とルターが言う場合、キリストのみによる義ということを神学的に簡略化して表現しているのです。

神の義の要求を完璧に完了したキリストの義であります。

つまり、負託とは他者の義を転嫁すること。

注ぎ込みは、共同作業して得なければならないな義の移植のこと。

ローマカトリック教会の場合、人は生得的に義となります。

何故なら、義は人の中に内在するからです。

さて、これまでの議論全体を要約しましょう。

黒板に表を書いてみます。

短かい時間で、たくさんのことを細かく調べていきます。

これに関する本を書くのにかなりの時間を費やしました。

さらに詳しく知りたい人は、この本を入手して下さい。

ここに、義に関するローマカトリック教会の見解を書き上げます。

こちら側には、義に関する宗教改革の見解を書きます。

いくつかの違いを見ることができます。

最初に、ローマカトリック教会によると、器械的原因は洗礼の儀式と懺悔の儀式です。

他方、宗教改革の見解では、器械的原因は信仰、信仰のみであります。

次に、ローマカトリック教会の義に関する見解は、注ぎ込みに基づきます。

宗教改革の見解は、注ぎ込みよりも負託に基づきます。

3番目、ローマカトリック教会の見解は解析的であり、宗教改革の見解は合成的です。

さて、技術的なことになりますが、言語について議論する時、合成(統合)的陳述と解析(分析)的陳述を区別します。

解析的陳述は、定義によって真実である陳述です。

例えば、「三角形には3つの辺がある」とか「未婚男性bachelorは結婚していない男性。」

「未婚男性は結婚していない男性」を例にとりましょう。

あの人はbachelorだと言う時、その人は結婚していない男性であるということを人々に伝えることになります。

述部の「結婚していない男性」は、すでに主語にその意味があるので新しい情報を加える必要はありません。

つまり、言っていることは正しい。

これを、定義によって真である、あるいは解析によって真であると言います。

さて、「その未婚男性は金持ちだ」と言う時、何かを断定したことになります。

何かを言った、つまりbachelorということばの中に見出されない何かを言いました。

すべての未婚男性が金持ちとは限りません。

これを合成的(統合的)陳述と言います。

これを義について当てはめてみます。

ローマカトリック教会によれば、分析(解析)の下で人が義であると分かるまで、神はその人を義と宣言しません。

一方、宗教改革神学によれば、私たちは合成的(統合的)に義であり、私たちは何かを加えられた、その何かとはイエスの義であります。

とどのつまり、ローマカトリック教会では、義は内在しており、宗教改革神学では、ルターが言っているように、義とされると言う時の義とは、未知なる義(alien righteousness)なのです。

そして、その義とは私たちの外にある義です。

より正確に言うと、その義は私たちの義ではありません。

信仰によってキリストを捕える時に、それによって私たちは義と数え上げられるのです。

これが福音の素晴らしさです。

難行苦行によって、永続的に続くあらゆる不純を洗い清められるまで待つ必要はないのです。

そして、イエスキリストを信じた瞬間に、イエスご自身というお方のすべてが、イエスが持っておられるすべてが、私たちのものとなるのです。

そして、直ちに、神との和解の交わりの中へと移されていきます。

 

 

 


#3 進化論 細胞の自己複製機能が偶然に発現した?

2023年11月28日 | 進化論の非合理性

 

 
進化論では、単細胞が生まれた後にそれが自己複製を行ったと述べるのであるが、どうして自己複製が可能になったかは説明しない。

太古の海において、単細胞がある日突然?生まれたという。

一つの細胞に含まれる情報は、今日のコンピュータと比べても比較にならないほど大きいのでそんなこと信じられないが。

もし、この細胞が複製しなければ、そのまま死んでしまって、進化は不可能になるので、なぜか複製が行われた。

もちろん、複製というのは、非常に複雑な過程をたどり、そこには複製の時にだけ現われては消える機能があり、また、細胞に含まれる様々な微細構造がそれぞれ自らを分裂させるということが起きる。もちろん、これが自然にできた仕組みであるとすれば、まさに奇跡があったということである。

じゃあ、どのようなメカニズムで、細胞を分裂させる仕組みができたのか説明できるだろうか。

その仕組みすらも進化によって生まれたとでも言うのか。

おいおい、である。

細胞が複製されなければ、世代交代が行われず、それゆえ、進化のための試行錯誤も起こらないではないか。

それとも、無数に生まれたであろう細胞の中で、複製の機能をたまたま突然変異によって獲得したものだけが生き残り、分裂を始めたということなのか?

つまり、最初から複製の機能を遺伝情報の中に獲得したものだけが生き残ったということなのだろうか。

進化論は、こんなことを我々に信じさせようとしているのか?

細胞内に存在する細胞小器官がそれぞれ分裂することなしには、まともな自己複製は起こらないのだろう?では、それらがワンセットそろって同時期に分裂を行うということを可能にするDNAの突然変異というものがあったということなのだろうか。

それならば、やめてくれ、と言いたくなる。

細胞小器官の一つが分裂して複製する機能ですら、偶然のDNA変異で獲得できると信じさせるのは難しい。

それが細胞壁、細胞膜、ゲノムDNA、メソゾーム、リボソームについてもあった、しかも、それが同時期に起こるようにする機能までもそろって身につけた細胞が偶然に生じたということを信じさせようとしても無理である。

生物学者は、はやく、偶然による進化はおとぎばなしでしたと公に告白していただきたい。そして、もう我々を騙すのをやめていただきたいものだ。

 

 

 


#1 宗教と現代思想 ニューエイジとキリスト教

2023年11月27日 | 宗教と現代思想

ニューエイジの考えがはびこっています。

「ニューエイジの誕生は、60年代のヒッピー・ムーブメント華やかなりし頃、世界中を旅した若者たちが主にインドやチベットなど東洋の宗教思想やライフスタイルを故国へと持ち帰ったことが契機になったといわれ」、「西洋型の分析的・合理的な物の考え方が次第に閉塞感を生み出すようになってきた戦後の社会情勢の中で、新しい生き方や物の見方を求めていた」「若者たち」が「東洋思想の深みや自然と調和した簡素なライフスタイル」を求める中で生まれました。「東洋思想の全体性、普遍性を重んじる考え方は近代以降の<正統科学>のあり方にも影響を与え、「ニューサイエンス」という新しいフィールドを開拓する原動力にもなり」、やがて自然医学(気功や漢方、民間療法etc.)や神秘主義、ESPやチャネリングなどの超常現象をも取り込んで、ニューエイジは大きな流れを形成するに至ったと言われています。

さて、ニューエイジの問題提起は、別に新しいものではなく、神を捨てたヒューマニズムが最初から持っていた問題の焼き直しでしかありません。

ヒューマニズムは、「神抜きの理想郷」を目指します。ヒューマニズムには大きく分けて二つの理想があります。それは、(1)ヒューマニズムの人格理想と、(2)ヒューマニズムの科学理想です(Hermann Dooyewerd, Christian Philosophy and Meaning of History, The Edwin Mcllen Press)。

(1)は、人間の良心の自由、善悪選択の自由を目指します。神抜きで、神の基準に縛られずに、自由に生活することがヒューマニズムにとっての「自由の理想」なのです。

(2)は、宇宙は、数学的、自然科学的な方法によって、単純な要素を理論的に積み上げて成り立つものとして捉えられるべきであって、神の創造物とは捉えるべきではないと考えます。人間も世界も原子分子の集まりであり、世界は、数学的、機械論的に探求されるべきであると考えます。今日の生物世界があるのも、進化によって偶然に成ったのであり、神とは無関係であると考えます。

(1)と(2)は、常に緊張関係にあります。(1)が行きすぎると、思弁的・独断的・迷信的になります。(2)が行きすぎると、宿命論的、無個性的になり、人間の自由を阻害します(すべてが科学的法則にのっとって起こるならば、人間の自由はどこにもないということになります)。

時代によって、(1)が強くなったり、(2)が強くなったりします。現代は、進化論の登場によって、(2)が強くなり、「(2)が(1)を圧倒した時代」に対する反省の時代ということになります。

ニューエイジは、このように、科学万能、合理性至上主義、反神秘主義に対する反動として生まれました。

経験科学は、ものごとの全体を捉えるというよりも、ものごとを各要素に分解して、その要素を研究します。このような還元論的な手法は、ものごとの各構成要素を知ることはできても、その全体像やその全体的な意味を知ることはできません。

例えば、人間について調べる場合、人体を細かい要素に還元し、それらを細かく分析しても、つきつめて言えば、「人間は分子原子の寄り集まり」ということにしかなりません。これでは、人間はみな同じ。A君もB君も同じではないか、ということになってしまい、このような還元論的科学によって得られた知識は、対象から個性を奪います。

「分析ではなく総合、部分ではなく全体」と言うスローガンは、19世紀中ごろのロマン主義の時代にも現われましたが、ロマン主義は思弁的・空想的であり、「非実証的」であるとの批判を実証主義側(筆頭としてダーウィン進化論)から受け、主流派の座を実証主義に譲りました。

現在のニューエイジは、この実証主義が優勢だった時代が終わりに近づき、人々がそれまでの世界観に対して限界を感じたために起こったムーブメントなのです。「何でも科学で割りきれるわけではない。人間には、科学の法則に縛られない自由がある。」と人々は言い出しました。

実証主義側の攻撃に対して、ニューエイジ以外に応答はなかったのかというとそうではありません。まず、それよりも100年も前に実存主義が応答しました。実存主義は、実証的科学が正しいことを認めた上で人間の可能性を模索したので、ロマン主義などの思弁的・空想的な立場には戻りませんでした。ニーチェは「兄弟たち、大地に足をつけていようではないか。」と言いました。つまり、実存主義は、安易に非実証的観念論(「形而上学的世界について科学的証拠なんてどうでもいい。知識獲得において実証性を重んじる必要はないのだ。世界はこうなっていると勝手に考えて何が悪いのか。」)に陥ろうとせず、実証科学の価値を認めた上で、人間の自由を模索しました。

しかし、実証主義を認めながら、観念論も回避したために、結局、実存主義には、相対主義以外に解決はありませんでした。すなわち、「たしかにダーウィン進化論は否定できない。宗教や思想に逃げ込んで、実証的な科学を否定することはできない。世界は偶然に進化したことが正しいわけだから、自然法とか宇宙の根本法とか、絶対的な基準というものは存在しないということになる。すべては偶然の織り成す業だから。ということは、もはや普遍を見付けるのではなく、すべては相対だと考えるべきなのではないか。」と考えたわけです。

アムステルダム自由大学教授故へルマン・ドーイウェールトはこれをまとめて次のように言いました。「さて、現代の実存主義は、この実証主義を乗り越えようとした。哲学をもう一度実際的な世界観にまで拡大しようとした。しかし、それは、すでに、永遠の形而上学的思想世界に対する信仰(これは、ヒューマニズムの人格理想に属する)を失ってしまっていたので、時を超えて存在する普遍的・絶対的な基準を再び獲得しようとはしなかった。」

このような考え方は、現代人を支配しています。

つまり、現代人は、実存主義者と同じように、科学を尊重します。しかし、同時に科学だけではもの足りないと考えています。だから、オカルトや心霊写真が流行るわけです。実存主義は、普遍的な法則などというものを否定し、すべては相対であると考えます。そのように、現代人も、そのような法則を探求することを諦めています。だから、実存主義的な今日のクリスチャンも、「律法ではない。個人の救いなのです。」と、個人主義に走るのです。今日のクリスチャンは、実存主義以前のクリスチャンとは違います。かつて、キリスト教の中心は「法」でした(ルター派は、ルターが唯名論者から教育を受けたので、法よりも救いを強調しますが、カルヴァンは、法学者であったこともあって、法を強調しました)。しかし、     今のクリスチャンは、律法を嫌い、何かの規則を毛嫌いします。そして、個人の救いという実存を強調するのです。だから、今日のキリスト教は、「伝道中心主義」であり、「いかに人を救いに導くべきか」に注意を集中して、「『わたしが命じたすべてのこと(つまり、神の法)を守るように教えなさい』という諸国民の弟子化命令」を軽視するのです。

さて、このような実存主義の影響もあって、世界の主流の考えは、「普遍」を嫌い、「個物」を強調する傾向があります。

ニューエイジは、このような実存主義の子孫であり、両者とも「実証科学を尊重はするが、科学で説明のできる現象を超えた何かを求める」という点で共通しています。

心霊とかUFOとかが流行するのは、人々が、数式や法則では割りきれないものがこの世界に存在することに気づいたからでしょう。

アメリカでは、1963年のケネディ暗殺が、このような世界観の転換に大きな契機を与えたといわれています(Gary North, Unholy Spirit, ICE, TX)。それまでの、合理主義の体現者である大統領が、人々の目の前で暗殺されたということは、アメリカ市民に対して大きな衝撃でした。また、ベトナム戦争も大きな要因だったでしょう。

ヒューマニズムの世界において、(2)の領域である合理性が信頼を失えば、(1)に行かざるを得ません。

さて、日本という国について言えば、日本は、そもそも、(1)と(2)の対立という枠組みを厳密にしていませんでした。このような枠組みを受け入れたのは明治になってからに過ぎません。むしろ、仏教や神道などは、そもそも、対立的な思考法を拒否して、あいまいの中に逃げ込む発想があるので、日本人の思考法は、もともとニューエイジのようなものであったといえるでしょう。

だから、西洋のニューエイジャーが、「分析」ではなく「総合」にこだわるときに、彼らはすでにそのような考え方をしていた東洋思想を再評価するようになったのです。主体と客体の厳密な区別をせず、「我」であると同時に「彼」でもある、というような矛盾を平気で受け入れるのが東洋思想だったのですから。

しかし、周知のように、科学や文明の進歩発展は、実証的な科学に依存していたのであり、自己と他者を区別しないあいまいな思考法からは近代文明は起こり得ないのです。
それゆえ、ニューエイジに逃げ込むことは、文明の自殺であり、発展や進歩の拒否です。

だから、クリスチャンは、このような「曖昧」な思考法を排除しなければならないのです。クリスチャンは、ヒューマニズムとは違って、(1)と(2)の対立はありません。神が世界を創造され、被造世界は、すべて合理的にできていると知っています。それは実証的な科学によって探求できる対象です。ここに科学の可能性があります。

また、同時に、その世界は、自律的に動いているのではなく、人格神の支配の下にあるとしますので、「世界は科学的法則によってがんじがらめに縛られている」とは考えません。つまり、奇跡の存在を前提にものごとを考えることができるので、自由なのです。

例えば、「○○さんが、病気になった。これは不治の病である。もうだめだ。」と言うのは、(2)によって縛られている考え方です。クリスチャンは、「たしかにこの病気は不治の病とされている。しかし、神が働かれれば、必ず癒される。奇跡もあり得る。」と考えます。

よくクリスチャンの中でも「世界を見てください。悪がこんなにはびこっている。このような世界がキリストの王国だなんてどうして信じられますか?」と言う人がいますが、これは(2)に支配された人の意見です。

真のクリスチャンは、「世界がどんなに悪に支配されていても、この世界はキリストのものだ。だから、時間とともに、必ず、神が支配を拡大し、世界を回復してくださるに違いない。」といえます。真のクリスチャンは、目に見えるものに頼らず、信仰に頼ることができるのです。だから、たとえ自分にお金がなく、力がなくても、神の約束によって、自分たちが勝利する、キリスト教は全世界の国民を弟子とすることができるのだと信じることができます。

ヒューマニズムに留まっていたり、ヒューマニズムから影響を受けると、妙な「現実主義」に陥ります。しかし、クリスチャンは、「非合理」に逃げ込むことなく、勝利を確信できるのです。

ヒューマニズムに留まっていたり、ヒューマニズムから影響を受けると、妙な「個人主義」や「相対主義」に陥ります。しかし、クリスチャンは、「非合理」に逃げ込むことなく、(聖書によって)万物を支配する普遍法を持つことができるので、周りの価値観に動かされることなく、「絶対主義」に留まることができるのです。

今日の教会は実存主義の影響を受けたために、非信仰的「現実主義」と「個人主義」と「相対主義」に陥りました。すなわち、今日のキリスト教は、ニューエイジと同類なのです。

だから、一日も早く、教会は、聖書的キリスト教に帰る必要があります。

 

 


#40 基礎教理 Justification by Faith Alone with R.C. Sproul, NO.1 

2023年11月26日 | 基礎教理

 

基礎教理の中でも基本中の基本である「信仰義認」に関する師の見解を拝聴したい。

先に示したように、日本語訳字幕は信頼性に欠けます。内容が微妙な箇所は悉く誤訳している可能性があります。よって、メッセージに対する誤解釈を避けるために、今後は全文和訳することにします。

Justification by Faith Alone: Foundations - An Overview of Systematic Theology with R.C. Sproul

最初から15分37秒まで 。

◇◇

神の選びの教理を見ていた時、ルターはその教理を「教会の心」と呼んでいたことをお話ししました。

しかし、信仰義認の教理に関してはルターは良く知られていますが、神の選びについてはあまり知られてはいません。

なぜなら、キリスト教界史において、信仰義認は最も激しい議論を巻き起こした教理だからです。

その議論から、16世紀の宗教改革とそれに端を発するスローガンであるSola Fideが巻き起こりました。

すなわち、信仰のみによる義であります。

聖書教理を見ながら私が当初から言及していたように、歴史家も次のように回想しています。

宗教改革の公けの原因は、教会教理における最終的権威に関する疑問であったと彼らは考えており、また、宗教改革の資料上の原因、すなわち議論の焦点の中心にあった資料が義認の教理だったのです。

前に申し上げたように、ルターは、信仰義認の教理は教会が立つか朽ちるかの条項であるという考えを固持していました。

カルヴァンは義認の教理はすべてを開放する蝶つがいであると主張し、事態の切迫性に同意していました。

カルヴァンやルターが他の神学的問題を些細なことと考えていた理由は、この議論が福音そのものに負けず劣らずに重要だったからでした。

義認の教理は、ピロピの看守が「救われるためには何をすべきですか」と使徒パウロに尋ねた疑問に対する答えであるがゆえに重要なのです。

ここでの議論とは、洗礼のためには滴礼か浸礼かというような議論ではありません。

上位堕落論(supralapsarianism)や下位脱落論(infra-)などといった議論でもない。

ここで取り扱っているのは、救いそのものに関する疑問であって、クリスチャンにとって、これ以上に大きな、或いはこれ以上に重要なテーマはありません。

義認の教理は、堕落した人類の最も深刻な状況に対して疑問を投げ掛けます。

その教理が究極的に問うているのは、神の義とは何かという疑問であります。

要は単純です。

神は義なるお方だが、私たちはそうではないということ。

いにしえの時代に、ダビデは「主よ。あなたがもし不義に目を留められるなら、だれが御前に立ちえましょう(詩編130)」と疑問を投げ掛けました。

もちろん、それは修辞的な疑問であり、答えは、「神の吟味に耐えられる者はいない。」

神の義という巻き尺を伸ばし、その基準で私たちの人生を評価するなら、私たちはみな消え失せてしまうでしょう。

私たちは全く義なる存在ではありません。

この問題を解く方法として、単純にもっと激しく働き、善人となるために危機感をもって臨み、全力を尽くすことであると考える人が多いのではないかと思います。

そうすれば、神の裁きの御座の前で十分だと思うのではないでしょうか。

それは、これまで教会内に浸透してきた大衆文化の大きな空想話だったと私は思っています。

人々はいまだに、それが天国に入るための手順であり、あるいは神の満足を得るための手段であると思い込んでいます。

律法の行ないによって、肉は義とされない(ガラテア2:16)というみことばから明確な警告をうけているにもかかわらず、です。

ここで問題となるのは、神は義であり、私たちは義ではないということ。

私たちは負債を払うことのできない債務者であり、善い行ないによってこのジレンマを絶対に解決できないことを私たちは知っています。

律法の行ないによって誰も義とされず、神がご自身の義を譲渡するおつもりがないとすれば、直面するこのジレンマを解決する術はありません。

以上の理由から、福音が良き知らせと呼ばれ、また、ローマ書において、「福音は天から啓示されている(ローマ書1:17)」と語り、パウロは義認の教理を紹介しています。

「神の義は、信仰から信仰へと、天から啓示されている。というのは、義人は信仰によって生きるとあるからです。」

さて、次の疑問は「義とは何か」であります。

義に必要とされる構成要素とは何でしょうか。

最終的に、義認とは神の御声による法的な宣言です。

神が人々が義であると宣言する、法的な宣言であります。

すなわち、義である神ご自身が義の宣告人となって、ご自身の視点から義であると宣言することによって初めて義認が発生するのです。

もちろん、16世紀に、この事に関して過激な議論が巻き起こりました。

疑問とは、「人が義となるのを神は待っておられ、それから義であると宣言するのか。」

実質的に人が罪人であるにもかかわらず、ご自身の視点から神は義であると宣言するのだろうか。

16世紀からいまだに活用されているルターの有名なことばがあります。

それは、「義とされた人は、義人であると同時に罪人である」ということ。

つまり、私たち自身の聖化が完了していないにもかかわらず、完成されていないにもかかわらず、いまだに罪を犯し続けているのもかかわらず、私たちはキリストの御業ゆえに義なのです。

義に関するこのルターの教理について聞いた時、ローマカトリック教会は、これを「法的虚構」でなないかと問題視しました。

彼らは次のように声を荒げました。

実際上いまだに罪深い人々を神が義と宣言するだろうか。

断じて否!

これは作り話であり、神に対する侮辱であり、神を嘘つき呼ばわりしている。

ローマカトリック教会は法廷的義認と呼ばれる見解を持っています。

法廷的という意味は、神が義を宣言する時に義認が起きるという考え方です。

ローマカトリック教会は、人が実際上義となるまで、神はその人を義と宣言しないと考えています。

そこには作り話は存在しません。

しかし、もちろんプロテスタントはそれに反応して、神が義と宣言するのだから、そこには作り話は存在しないと反論します。

神の目から人が義であるという意味は、イエスキリストの御業ゆえに義とされるということであります。

それは作り話ではなく、意味のある何かであります。

さて、私たちの神学的ことばでいえば、それがどのように働くのか見ていきましょう。

信仰のみによる義と私たちは言います。

この「によるby」も、16世紀には議論の対象となりました。

かくかくしかじかによって何かが起きる時、「~によって」とは、その何かをもたらす方法(手法)について言っています。

文法家はこれを方法の与格と言います。

16世紀における議論のひとつは、義認が如何なる方法(助け)によって引き起こされるのかということでした。

それは日常用語ではありません。

器械的原因(instrumental causes)とは、その紀元を古代ギリシャにさかのぼり、哲学者アリストテレスが異なるタイプの原因の中で設けた区別のことを言います。

彼は、素材的原因、形式的原因、最終的原因、効率的原因、そして器械的原因を区別しました。

そして、例を挙げると、彫刻家による像の作成です。

彫刻家は出かけていき、まずは石の塊を作ります。

像の素材的原因とは、工芸品が製作されるための素材です。

つまり、素材的原因は石そのもの。

しかし、製作の過程で、なまの石から見事な像へと像を変容させるための手段や方法、すなわち器械的原因とはハンマーやのみです。

信仰によって、或いは、信仰を通してということばによって意味する何かを区別するために16世紀に出現したことばなのです。

この疑問に関するローマカトリック教会の回答は、義認の器械的原因とは洗礼という儀式であるというものでした。

カトリック教会によると、儀式によって義の恵みが洗礼を受ける人に与えられ、その恵みによってキリストの義がその人の心へと注がれるというのです。

この注ぎの過程を注ぎ込み(infusion)と呼びます。

注ぎ込み(infusion)と注入(transfusion)の違いは何でしょうか。

注ぎ込みとは、心の中へと恵みを注ぎ込むことです。

従って、ローマカトリック教会は、恵みなしでは義とされない、つまり、信仰がなくても(恵みがあれば)人は義とされると信じているのです。

義認は恵みの注ぎ込みに依存し、それによって人は義となることが可能であると考えています。

さて、人が義となるために、心へと注ぎ込まれるこの恵みを用いて、人は何かをする必要がありました。

ローマカトリック教会は、この何かを、「恵みとの共同作業」あるいは「恵みとの同意」と定義します。

私の心に注がれたキリストの義の助けを借りて、その恵みと共同作業をする、或いはその恵みに同意するなら、私は真に義となるというのです。

そして、致命的な罪を回避し続けるなら、私は義の恵みの中に留まることができるというのです。

従って、ローマカトリック教会によれば、人が義をされる手段、方法は洗礼となります。

そのような義認は消え失せる可能性があります。

つい先程、致命的罪を犯すことを話しました。

致命的な罪と許される罪との違いを聞いたことがあるでしょう。

とてつもない罪とそうでもない罪。

ローマカトリック教会によって致命的な罪と呼ばれる理由は、その罪が心の中に所持されている義の恵みを殺すに足るほど重大であるという意味です。

致命的な罪を犯した人は、義の恵みを失うが、すべてを失うわけではない。

懺悔の儀式によって、再び義の恵みの状態へと回復することができます。

ローマカトリック教会は、懺悔の儀式を「信仰の難破をした人々のための義の第2の綱領」と定義しています。

人々が告白する理由は、告白が懺悔の儀式の一部だからであります。

人はそこに行って、自身の罪を告白し、赦免を受け、そして皆済の行ないをしなければなりません。

皆済の行ない(works of satisfaction)というのは、適合功労(congruous merit)と呼ばれるものを獲得することを言います。

至当功労(condign merit)とは違います。

神が報奨する義務を負うほどに純粋かつ義である性質から来る功労ではありません。

それが適合功労(congruous merit)と呼ばれる理由は、懺悔の儀式に必要な皆済の行ないをすれば、恩恵の状態へと神が再起させることに適合するからであります。

以上から、ローマカトリック教会は、2つの義の器械的原因を有しています。

最初のひとつは洗礼、2番目は懺悔の儀式です。

宗教改革派は、義認の器械的原因は信仰であると疑問を投げ掛けました。

信仰によってキリストを捕えると、キリストの功労がキリストを信じる人に委譲される、見なされる、数えられるのです。

このことを最適化するもうひとつの違いを見てみましょう。

最初に、ローマカトリック教会による注ぎ込みという概念について話しました。

注ぎ込みとは別区別されることばが、負わせる(imputation)です。

義認に関する16世紀の激論全体を単純化するなら、すべてはこの二つのことば、注ぎかけ(infusion)と負託(imputation)に集約されます。

 

 

 

 


#39 基礎教理 自然法と理性

2023年11月25日 | 基礎教理

 

理性は堕落しています。なぜならば、聖書において、「汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。」(テトス1:15)とあるからです。人間は罪を犯し、全ての人は神の前において汚れているのですから、誰一人として、自分は神なしでも正しい認識を持つことができると主張はできないはずです。

そこで、正しい認識は、生まれながらの理性によるのではなく、再生された理性(新生された心)と神の啓示によらなければならないということが必然的に言えるのです。これは、宗教的な知識だけではなく、数学・化学・物理学・体育学・工学・・・あらゆる分野について言えることなのです。あらゆる領域において、神の恵みがなければ正しい学問は形成できないとするのが聖書の主張です。学問が自律すると、バベルの塔になって、神の裁きを受けるようになるのです。

認識は、聖霊の導きを必要とします。それだけではなく、聖書から教えられる必要があるのです。聖書は聖霊が書いたものですから、直接に示される教えや幻も聖書と矛盾するわけはないのです。

自然法と呼ばれるものは、理性の自律を前提としていますから、もともと聖書の主張から大きく離れているのです。そして、このように自律の領域を作ることによって、スコラ主義は自分の首を絞めてきたのです。フランケンシュタインは主人を襲います。神から独立した領域を作ることはキリスト教にとって自殺行為です。

世界の島で、神の律法が通用されない島が一つでもあるでしょうか。姦淫・盗み・殺人が自由に行える島があるでしょうか。ありません。神はそのような自律的島の存在を許しません。そのように、政治において、経済において、学問において、芸術において、神から自律して存在する領域は一つとしてないのです。

◇◇

生まれながらの人間に備わっている才能や良心は、すべて神から出たものですから(「よいものはすべて神より出る」)、これが一定の役割を演じていることはカルヴァンも認めているところです。つまり、聖霊の一般恩恵において、神は人間が最悪の状態に陥らないように抑制の恵みを与えておられるので、人間はとことん悪いことができないのです。しかし、人間の罪性を考えるときに、我々がこのように安全な市民生活を送ることができるのも神の抑制の恵みがあるからでしょう。もしクリスチャンではない日本人から抑制の恵みが取り去られれば、夜は恐ろしくて外を歩くことができなくなるでしょう。ですから、最終的に自然法ではだめだということをふまえた上で、社会秩序を保つために自然法はある程度役立ちます。

しかし、自然法に究極的な位置を与えることはキリスト教においてけっして許されるものではないと考えます。なぜならば、自然法は聖書の神を主権者として置いてはいないからです。パウロは次のように述べて、最終的にキリストを主権者として認めない教えを撲滅しなければならないとのべています。

私たちは、様々な思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させます。また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです(2コリント10:5∼6)

この箇所では、いわゆる「中立領域」を認めてヒューマニズムに場所を与えることを許す考え方は存在しません。あくまでも、最終的にクリスチャンは、あらゆるキリストに逆らって立つ様々な思弁や高ぶりやはかりごとを撲滅して、キリストに服従させなければならないのです。つまり、キリストの主権を前提としないあらゆる「一見問題のないように見える」領域を罪と断定し、それをキリストの主権を前提としたものに変えていく責務がクリスチャンには与えられているのです。(たしかに、この世においては大きな限界があるわけですが。)

それは強制的・武力的に行われるものではありません。あくまでも、自発的な回心による漸進的変化を待たねばならないのです。これは、聖霊の働き以外の何ものでもありません。聖霊が人の心に働きかけてその人を内側から変えていくことによって、神の御業は前進するのです。

自然法や人間の良心は明らかに神から出ている部分があります。しかし、それは罪によってけがされており(邪悪な良心)、その罪は必ず実を結ぶのです。それは歴史が進むにつれて明らかになっていきます。毒麦もよい麦も中間時代においては違いはありません。しかし、毒麦はサタンに由来していることが時間と共に明らかになるのです。自然法の中に潜む反キリスト性は、やがて衆目の前に明らかになるでしょう。いや、もうすでにヒューマニズムが殺人的で、非人間的であることは、フランスやソ連やカンボジアや中国やベトナムで殺されたり収容所に送られた幾億もの人々の犠牲が示しているではありませんか。生まれながらの人間はやはり蛇のすえなのです。神とは別に倫理を築き上げるという試みは、サタンの誘惑以外の何ものでもないのです。彼らに任せておいてはだめなのです。

不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」 (黙示録22:11)

◇◇

聖書的キリスト教は、宇宙が神によって創造され、神の法によって統治されていると考えます。それは、神という人格者の意思によって統治されており、この意思の外において起こることは一切ないし、また、神の意志に反して行われることはすべて刑罰の対象となるという意味で神の法は絶対なのです。ですから、聖書の三位一体の神とは無関係に存在する自然法などというものは、聖書的キリスト教において絶対に認められないのです。それゆえ、聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです。自然法という虚妄を排除し、神の制定された法に矛盾するいかなる法も無効にしていくべきであります。

19世紀までの自然法への信頼は、カントとダーウィンによって打ち砕かれました。個人や社会の倫理を決定するものが「誰かはわからないが、とにかく宇宙を統治している神的存在」であるという信仰は、適者生存、自然淘汰の「弱肉強食」的世界観によって破壊されたのです。秩序や倫理は人間が作り出していくものであって、それを超越者の制定した法に照らしてチェックしていくという考えはもはや時代遅れとなっています。ですから、倫理は時代や場所によって変化してもよいのです。これは、もはや universe ではなく、multiverse です。つまり、多神教の世界観なのです。唯一神による統一的宇宙ではなく、多くの神々の支配する多元的宇宙なのです。20世紀は、自然法の死と同時に、多神教の時代を迎えたのです。この意味で、アダムにおいてサタンが実現した「法の制定者としての人間」像が復活しました。

人間が神とは無関係に善悪を決定していくという考えは、今日世界に満ちています。中絶賛成、死刑制度反対、自由恋愛・・・。こういった無秩序は、人間が宇宙に統一的な法を認めないことから起こっています。聖書的キリスト教を土台として作り上げられた西洋キリスト教文明は、このような多神教的無律法主義によって破滅の危機に瀕しているのです。

では、どこからこのような問題が発生したのか。その発端は、キリスト教が、理性を堕落の影響の埒外において、神の法によらずとも、人間理性のみによって認識し、統治できる領域を許容したところにあります。このようなギリシャ無神論に起源を持つ自然法思想の混入を許したところにキリスト教の堕落が始まったと見ることができるのです。宗教改革はある程度この問題を解決しました。「聖書のみ。信仰のみ」の原則は、自然法へのある程度の制限を設けました。しかし、それが徹底したものでないところに、十分な改革が行われず、今日のような世俗化を許した元凶があると見ることができます。

 

 

 

 


#37 基礎教理 旧約聖書も新約聖書も隣人愛を教えている

2023年11月24日 | 基礎教理

 
Q.

新約聖書は旧約聖書に基づいて書かれているはずなのに、どうしても内容の違いがある。

例えば、敵に対して“目には目を”(出エジプト記、21-24)と言ってるのに対して、“敵を愛し、迫害するものの為に祈れ”(マタイの福音書、5-44)と全く正反対の事を言ってます。聖書を何度も読み比べてみたのですが、キリストがどのようにして旧約聖書の教えを発展させたのでしょうか?

 
A.

旧約聖書も新約聖書も聖霊によって記されたものです。

パウロがテモテに向って「聖書は霊感によって書かれた」と述べたときに、旧約聖書のことを指していたのです。

同一著者が書いたのであれば、聖書のすべての個所は調和していると考えなければなりません。

リベラリズムが「聖書は様々な人間の編集と加筆によりできた普通の書物である」といっていますが、それは単なる憶測でしかなく、それを証明できる資料はありません。進化論と同様に、「それらしきもの」を見せて、クリスチャンの心を惑わすものでしかありません。

もし高等批評が正しくて、聖書も普通の書物のように、誤りを含むものであるというならば、「どこが誤りであり、どこが正しいかを誰が判断するのか?」という問題が生じます。結局、「聖書は神の霊感によるものであり、誤りがない」という前提を立てることを拒否するならば、聖書を裁くのは人間であるということになり、聖書は「人を上から教える権威」ではなくなってしまいます。ここにおいて人類は指導者を失うことになるのです。

指導者を失い絶対の基準を失うならば、善悪の判断は人間の変わりやすい意見によって左右され相対主義に陥ります。時代によって、民族によって、地域によって、体制によって、個人によって様々な主観があるのですから、人類にとって恒久的・普遍的な基準は失われ、「何が正しくて何が間違っているか」を評価することは、「究極的な意味において」不可能になります。

時代が変われば、かつて罪であったものが賞賛されることになります。ソ連や中国は、神の普遍的な基準を捨て、人間の理性によって善悪の基準を設定することを選びとった結果、時代によって、指導者によって、社会の評価がコロコロと変わりました。最近まで権力を握って道徳の模範とされた人々が、社会の敵としてつるし上げを食らうということが、頻繁にあった。

そして、人々は神を失ったために、時代や社会の多数派の意見に迎合する以外にはなく、「信念」とか「忠実」という言葉は死語になりました。神の絶対的基準を失えば、人生はまったく冗談になってしまうのです。人生は生きるに値しないものになります。ただ、食べて、自己保身にきゅうきゅうとし、快楽と安楽を求めて、たかだか70年の短い生涯を、空しく送る以外にはないのです。

聖書が不変の神の言葉でないとするならば、人生はまったく生きるに値しないものになります。ですから、従来の聖書解釈の原則に加えて、「実存的解釈」というものを取り入れる必要があると考えています。つまり、「そのように解釈すると、人生にまったく意味がなくなってしまうような解釈をしてはならない」という基準です。

例えば、創世記の創造の話は誤謬であり、世界も生物も進化によって生じたというような解釈をすれば、「ではアダムとエバの堕落の個所は間違いなのか?ということは、人類は堕落したのではなく、我々には罪は存在せず、赦しを受ける必要もない。キリストの十字架の死は、単なる善意の改革者が体制側によって死に追いやられたことでしかない。」という結論を導き出す以外にはないのです。これでは、単なるヒューマニズムの亜流でしかなくなってしまい、永遠不滅の善悪の基準も何もなくなってしまいます。ただ社会の流れに流されていくだけの動物的な生き方しかできなくなってしまいます。

さて、旧約聖書において神は復讐を許したが、新約聖書においては敵を愛することを教えておられるというような、本質的な変化は聖書にはありません。「目には目を」は、刑罰の程度を設定するきまりであって、復讐を許容するものではありません。なぜならば、同じモーセ律法において「復讐してはならない」とあるからです。

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19・18)
旧約聖書も新約聖書も「隣人愛」を教えているのであって、旧約聖書の神は「裁きの神」で、新約聖書の神は「愛の神」であるというような違いはありません。

 

 


#185 終末預言 ディスペンセーション主義の正体はNWO

2023年11月23日 | 終末預言 

*NWO=New World Order 新世界秩序 

1.

William R. Kimball, "Rapture a Question of Timing"によると、ディスペンセーション主義の祖にしてイエズス会司祭インマヌエル・ラクンザの著書『栄光と威厳の中でのメシアの来臨』のペン・ネームは、ラビ・ジュアン・ジョシャファト・ベン・エズラであった。

エドワード・ヘンドリーは、この名前がラクンザの出自を示しているという。

すなわち、彼は実際にユダヤ教のラビであった可能性があると。

ラクンザは隠れユダヤ人であり、この本を自分の本当の姿、つまりユダヤ教のラビとして書いた可能性がある。彼にはラビに求められる知識があり、それを含む本を著すために、ユダヤ教を学んだに違いない。

(Edward Hendrie, "Bloody Zion: Refuting the Jewish Fables That Sustain Israel's War Against God and Man", p.95)

ディスペンセーション主義のプレ・ミレの教義を作ったもう一人フランシスコ・リベラもイエズス会司祭で、隠れユダヤ人である。


2.

マーシャル・ホールは、ディスペンセーション主義の起源は、ラクンザよりも古いという。

一般的な研究者がディスペンセーション主義・シオニズムの起源をラクンザとするのに対して、マーシャル・ホールは、それをラクンザよりもさらに古い時代に求めた。

ホールによると、偽りの終末論の源流は、13世紀のユダヤ教ラビ、モーゼス・ベン・ナーマン・ジェロンディ(Moses ben Nahman Gerondi)にあるという。

ラビ・ベン・ナーマン(別名ベン・ナクマン)は、ユダヤ百科事典において「ジローナ生まれのスペイン人タルムード学者、釈義学者及び医師」と紹介されている。155 

ユダヤ人百科事典では、さらに、ベン・ナーマンがディスペンセーション主義に立つ著作を何冊か書いたと示唆している。

ベン・ナーマンによると、「救い主の千年王国」は、救い主イエス不在のそれである。

ユダヤ人の顕著な特徴は、救い主としてイエスの拒絶であるが、ベン・ナーマンも例外ではない。

記録によると、ベン・ナーマンは次のように述べたという。「イエスが救世主であったはずがない。なぜならば、メシアは、イエスが自称したような神ではなく血肉を持つ人間でなければならないからだ」と。157

ベン・ナーマン、ラクンザ、そして、リベラ、みな隠れユダヤ人である。

ディスペンセーション主義の起源は、ユダヤ教である。

3.

ラクンザとリベラは、ユダヤ教の終末論「プレ・ミレ」をディスペンセーション主義に注入した。

それは、神殿における動物犠牲の復活であり、その神殿を中心とした世界政府、そしてその当然の帰結としての、ユダヤ人による世界支配である。(前掲書、p.95)

ディスペンセーション主義の正体とは、NWOの実現のための教え、つまりイ〇ミ〇ティなのである。

ディスペンセーション主義を奉じる教会は、心して聞いてほしい。

あなたの教会がディスペンセーション主義を奉じている限り、あなたはサタンを助け、彼のために働いているのである!!!

4.

キリスト教にディスペンセーション主義を潜入させた目的は、アメリカによるシオニズムへの財政支援であった。

1800年代に、シオニストユダヤ人は、米国からの財政的支援を必要としており、それなしでは、彼らの新イスラエル建設計画は失敗に終わる可能性が高かった。

当時、米国はキリスト教が支配する国であった。

パレスチナを征服し、その地域にイスラエル国を再建するという試みは、ことごとく当時政治的に影響力を持っていたクリスチャンたちからの抵抗を招く恐れがあった。

米国において支配的であったクリスチャンは、再建されたイスラエル国への出資において障害となっていた。

シオニストは、クリスチャンによるシオニズム計画への抵抗を取り除く必要があると考えた。

そして、プロテスタント教会のキリスト教神学を、イスラエル国に都合のよいものに変えなければならないと判断した。(前掲書)

現代のクリスチャンは、シオニストによってNWOのために働かされ、資金提供し、パシリにされている。

一刻も早く騙しから解放され、御国の拡大のためにまい進して欲しい。