みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Love Of Christ, #4

2016年04月27日 | 聖書研究・信仰
我々は罪人であり贖いが必要である、と長い間教えられてきた。

この考えは、数世代に渡って我々の中に入り込んできた。

我々は、初めはそのことゆえに主に感謝する。

しかし、それは神の目的ではない。

エペソ5章において、神は次のように語る。

「1つの栄光の教会、しみ、しわ、そのようなものがなく、しかし、それが聖くあるために、そして傷がない状態であるために」

我々は、主にある教会を多くの救われし罪人たちの群れと考えて来た。

確かに一理ある。

しかし、同義ではない。

救われし罪人たち。

罪と堕落のバックグラウンドを持つ者たちという考え。

違う。

神の眼から見ると、主にある教会とは御子にある聖なる新創造を意味する。

ある場合は一個人のこともあるし、またある場合は共同体のこともあるだろう。

ある者には否定的であり、過去の藻屑かもしれない。

ある者には肯定的であり、洋々たる未来かもしれない。

「永遠の目的」とは、御子に関連した、永遠の昔から神の思いの中にあった何か。

御子がご自身の命を発芽するために、(この世において)教会であるその御体を持つことを目的とする。

そのような観点、すなわち神の御心に立つなら、主にある教会とは、罪を超越した、すなわち罪が決して触れることのできない何かを意味する。






The Love Of Christ, #3

2016年04月25日 | 聖書研究・信仰
エペソ5章は、創世記2章にある下りを説明している唯一の章だ。

熟考するなら、エペソ書において示されていることは大変有用だ。

次のようなことばを含んでいるからだと思う。

「キリストは・・・その教会を愛した」

ここに、極めて貴重な何かがある。



The Love Of Christ, #2

2016年04月24日 | 聖書研究・信仰
エペソ5:25~27
夫たちよ、それぞれの妻たちを愛しなさい
まさにそのように
キリストがその教会を愛し
そのためにご自身を明け渡したように
彼がその教会を聖別するために
レーマの中にある水の洗いによって
その教会をご自身に献げるために
1つの栄光の教会を
しみ、しわ、そのようなものがなく
しかし、それが聖くあるために
そして傷がない状態であるために
(Nee訳)



The Love Of Christ, #1

2016年04月24日 | 聖書研究・信仰
次に、創世記2章とエペソ5章を考察しておきたい。

この2つは、キリストの愛という点において深く関連している。

創世記2:21~23
主である神は、深い眠りを引き起こし
その男に向けた
そして、彼は眠った
彼は男の肋骨の1つを取った
主なる神がその男から取ってしまっていたもの
彼はひとりの女を作った
彼女をその男のもとへ連れて来た
その男は言った
これは、今や、私の骨の骨
私の肉の肉
彼女は女と呼ばれるだろう
なぜなら、彼女は男から取られたから
(Nee訳)



The Fourfold Work Of Christ In His Cross, #3

2016年04月21日 | 聖書研究・信仰
天地創造における神の目的については、すでに話した。

また、神の目的は、かつてアダムが満喫していたことなど比較にならない位大いなるものを含んでいることもすでに話した。

では、天地創造における神の目的とは何だったか。

神は、霊を授けられた人々、すなわち神属人類を持つことを望まれた。

この領域において、人は霊なる神ご自身と直接に交わることができた。

神ご自身の命を共有するこの神属人類の責務は、神の究極の目的を達成するために、神とともに働くことであった。

敵の反乱をことごとく打ち負かし、敵の邪悪な業のすべてを無力化することによって。

それが神のご計画だった。

今、その計画は有効に作動しているだろうか。

その答えは主イエスの死の中に見出される。

絶大なる死。

名誉の回復などというレベルの話ではない。

それは、極めて建設的で、極めて合理的な歴史的事実だ。

それにより、原罪と古い人が処理されて、その効果が無効となるだけではない。

それよりはるかに大いなることが動き始めるのだ。




The Fourfold Work Of Christ In His Cross, #2

2016年04月19日 | 聖書研究・信仰
キリストの死に関する2つの側面について、ある程度の考察はすでに行なった。

キリストの死は、罪々と過失に対する主の血潮と原罪と肉に対する主の十字架によって象徴される。

神の永遠の目的に関する考察において、上記の第3の側面についても簡単に見て来た。

この第3の側面は、一粒の麦としてのキリストによって象徴される。

前回の章、our consideration of Christ as our lifeにおいて、キリストの命の実践的働きを見た。

第4の側面、すなわち「自分の十字架を負う」ことを宣言する前に、この第3の側面にについてもう少し話しておくべきことがある。

すなわち、キリストの命の解放について。

内住のために復活し、奉仕のためにパワーを与えてくれる、キリストの命の解放について。




Coffee Break, #47

2016年04月17日 | コーヒーブレイク

We are not a human being but are in a human being.



The Fourfold Work Of Christ In His Cross, #1

2016年04月07日 | 聖書研究・信仰
さて、準備が整ったので、次のステップへと進んでいく。

主イエスキリストの十字架がどれほど広大な範囲を照らしているかを考えてみたい。

キリスト者の経験という観点から、神の贖いの御業を4つの面から分析して理解すると分かりやすい。

ただし、キリストの十字架は、(いくつかのパーツには分割できない)ひとつの神の御業であるということを銘じておくことが肝要だ。

2千年前のある日ユダヤの地で、主イエスが死んで復活した。

今、主は「上げられて、神の右におられる」(使徒2:33)

御業は完了した。

くり返す必要はない。

付け加えることもない。

これから言及する主の十字架の4つの側面のうち3つについては、すでに詳細を検討した。

最後の側面については、次の2章で考察することにしたい。

4つの側面を要約しておく。

1.キリストの血潮は、我々の罪々と過失を処理する。

2.キリストの十字架は、原罪、すなわち肉と生まれつきの人を処理する。

3.キリストの命は、人の内に住まい、人を再生し、人に力を与える。

4.キリストの死と復活の命が、生まれつきの人の内で徐々に形作られていく。

最初の2つは、救済的側面を持つ。

サタンの業の束縛から解かれることと原罪からの解放と関連している。

残りの2つは、救済的というよりもポジティブな側面を持つ。

神の目的の達成と、より直接的に関連している。

最初の2つは、アダムが堕落によって失ったものからの回復に関係する。

最後の2つは、キリストへの内住、キリストの内住、アダムが決して得られなかった何かと関係する。

つまり、こうだ。

死と復活における主イエスの完了は、贖いの御業と神の目的の達成から成る





A Gate And A Path, #2

2016年04月03日 | 聖書研究・信仰
このような経験はすべての人で同一ではない。

聖霊の働きについて、決まり切ったパターンがあると決めつけてはならない。

恐らく、何らかの新しい経験が多かれ少なかれあるはずだ。

キリストに関する新事実と主の完成された御業に対して、我々の眼は必ず開かれる。

そして、信仰が狭き道の門を開いてくれるであろう。

憶えているだろうか。

さまざまな事柄について、キリストの経験が我々のものとなるということを。

義認、新生、聖霊の賜物、罪からの解放、聖化など我々にはすでに明白なことばかりだ。

これらの事柄が、ある一定の決められた順序で次々に起こるということではない。

実際、キリストご自身と十字架を目の当たりにすれば、信仰生活初日から大いなる経験となるであろう。

そのことの十分な説明はのちになるのだが。

あらゆる福音宣教がそのようであれば良いと思う。

ただ一つ確かなことがある。

啓示は信仰に先んずるということ。

キリストにあって神が成したことを見る時、我々の自然な反応はこうだ。

「主よ、感謝します」

そして、自然な形で信仰がそれに続く。

啓示は、常に聖霊の御業だ。

聖霊はともに歩む者のために与えられる。

そして、みことばを通して、我々を真理の中へと導いてくれる(ヨハネ16:13)。

御霊に依り頼め。

なぜなら、御霊はまさにそのことのためにここにいる。

理解力の欠如や信仰の欠落といった困難が眼前に立ちはだかる時は、主に直接直訴せよ。

「主よ、私の眼を開いて下さい」

「主よ、この見たこともないことを教えて下さい」

「主よ、私の不信仰を取り払ってください」

主が我々を見捨てることは絶対にない。