みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#90 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月29日 | 終末預言 

Jesus Walking on Water (Mark 6:45–56) — A Sermon by R.C. Sproul


訳出時間枠:最初から6分22秒まで

◇◇

前回から改革派神学における聖書理解の基礎を学んでいる。

私的解釈や誤った解釈、異端などから解放されるために、基本に戻って学び直そうということ。

今回も福音書記事からのメッセージを選択した。

◇◇

今朝もマルコ福音書の学びを続けて参りたいと思います。

マルコ福音書6章45節から56節までをお読みします。

聖書を朗読しますので、一同ご起立願います。

直ちにイエスは弟子たちを舟に乗せて、ご自身より先に対岸のベツサイダへと行かせた。一方で、彼は群衆を解散させた。彼らを解散させて、イエスは祈るために山へと向った。さて夕方になると、舟は湖の中央にいた。イエスは陸地に一人でいた。すると、彼は弟子たちが懸命にオールを漕いでいるのを見た。向かい風だったからだ。さて、夜の第4の時刻頃に、イエスは湖の上を歩いて彼らの下へとやってきた。そして、彼らを過ぎ去ろうとしていた。彼が湖の上を歩いているのを見た時、彼らはそれは幽霊だと思い大声を上げた。しかし、彼ら全員がイエスであることが分かり恐れおののいた。しかしすぐに、彼は彼らに話しかけて言った、「元気を出しなさい。私です。恐れるな。」イエスは舟に中へと乗り込むと風は止んだ。彼らはあまりに驚き呆れるほどでだった。というのは、彼らはパンのことについて理解してはおらず、彼らの心が頑なだったからだ。彼らは渡り切って、ゲネサレの地へとやってきてそこに停泊した。彼らが舟を降りるとすぐに人々はイエスと分かり、周辺地域を走り回り、イエスがいると聞いた所は何処へでも病人をベッドに載せて運び始めた。村や町などイエスが入った所は何処でも、人々は市場に病人を置いて、ただ着物の縁に触らせてくれるように彼に懇願した。そして、イエスに触った者は全員元気になった。

神のことばは、大いなる励みであり、一点の曇りもなく、完全なる無謬であります。

お座りください。お祈りしましょう。

ああ、主よ。私たちがこの命の記録、人物、そして、われらの救い主の御業に注意を傾けます。そしてこの出来事における理解と主のご人格の奥義について、私たちの不思議と畏れがさらに深まりますようにお祈りします。これらの願いを主の御名によってお委ねいたします。
アーメン。

主イエスのパンと魚による五千人の給食に関するてんまつと、マルコの福音書におけるこの箇所との間には興味深い関連性があります。

先週の学びに続いて、イエスの水上歩行という驚くべき記事へと移っていきます。

これら二つの記事をつなぐ関連ですが、もちろん極めて重要であります。

そこで、若干の時間を取って、この2つの出来事をつなぐ移行部分を見ていきたいと思います。

45節を見ると、「直ちにイエスは弟子たちを舟に乗せて、ご自身より先に、対岸のベツサイダへと行かせた。一方で、彼は群衆を解散させた」とあります。

さて、何故イエスがそれほどぶっきらぼうだったのか、マルコは語ってくれません。

魚とパンによる大勢の人々の食事が終了した後すぐに、何ゆえにイエスは、あまりにもぶっきらぼうに弟子たちを解散させて、先へと送り出し、舟へと乗らせて、対岸のベツサイダへ行くように指示したのでしょうか。

一方、イエスはそこにとどまり、群衆を解散させた。

マルコは、その理由を教えてくれてはいませんが、その理由を推測することはそれほど難しいことではありません。

テキストにおけるこの話の終わりにあるコメントを見れば分かります。

イエスが本当に苦労しなければならなかったことがひとつありました。

それは、特に大群衆がいる時に、イエスが奇跡を起こすたびに、そこにいる人々がイエスに迫ってきて、自分たちの王に任命し、ローマによる圧政から解放してくれる戦士の如く彼を見ることでありました、

この出来事の際には、群衆の反応がとても強かったので、弟子たちは自ら舟に乗り込まなければならなかったのであり、イエスはこれをご覧になっていた。

群衆と同様に弟子たちも興奮しているのをイエスは見て取り、一方で、イエスはローマ人をこの地から追い出してくれるという願望の眼差しをもって、群衆が自分を見ていることも知っていた。

そのために、イエスは「さあ、ここから離れ、舟に乗りなさい」と命じた。

後で会うことになる、対岸に行きなさい、そこはベツサイダという町(意味は漁夫の家)。」

弟子たちを解散させ、群衆も解散させた。

言うまでもなく、彼を王にしようとする自発的な動きをイエスは終わらせようとしたのです。

賛美:

Abide With Me

 

 

 


#89 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月25日 | 終末預言 

Parable of the Good Samaritan: The Parables of Jesus with R.C. Sproul

訳出時間枠:19分49秒から最後まで

◇◇

話し終えた後、イエスはその法律家に言います、「この3人の中の誰が、強盗に襲われた男にとって隣人であったと思いますか。」

これは神学#101です。

この質問は、その法律家が答えるには極めて簡単な質問でした。

この3人の男の誰が隣人であったと思いますか。

その法律家は間違いませんでした。

「彼に慈悲を見せた人です。」

彼は単に同情心を感じたのではなく、同情心を示したのでした。

このたとえにおいて、イエスは、傷ついたり、怪我したり、慈悲や哀れみを必要としている人々を手当するように勧めているのではありません。

このたとえの要点は、「誰が私の隣人か」という疑問に答えることであります。

制限はないとイエスは言います。

神の国の隣人関係にとって、民族的制限も地理的制限もない。

神はわれわれ全人類の父であり、われわれ人類はみな普遍的に兄弟姉妹であるという19世紀のリベラル思想を聞いたことがあると思います。

そうではありません、これは間違い。

私たちは普遍的に兄弟姉妹ではありません。

新約聖書において、兄弟姉妹とはキリストにある人々によって限定的に構成された集団のみであります。

キリストは父なる神のただ一人の御子であり、私たちの長子であります。

この兄弟姉妹の関係へと入るための唯一の方法は、相続を通してのみであります。

イエスを信じない人々は、この兄弟姉妹の中に入ることはありません。

つまり、普遍的な兄弟姉妹の関係というのは存在しないのです。

しかしながら、普遍的隣人の関係というのは存在します。

すなわち、神のイメージにおいて創造された人はだれでも私の隣人なのです。

それは、この地上にいる全人類を自分自身のように愛するために、私は召し出されているということを意味しています。

兄弟姉妹ではなくても、信仰の家族ではなくても、その人はやはり私の隣人であります。

私はこのことを最近ある教会のメッセージでお話しました。

必要に迫られている人を見た時、どうしてそうなったのか聞くことはありません。

私たちの務めは溝に落ちた人に「どうしてこうなったのか」と言って、責めることではありません。

溝に嵌まっている人がいれば、その人を溝から救い出すことが私たちの務めであります。

何故?

なぜなら、同様の苦境に陥った場合、私たちも助けて欲しいと願うからであり、その人は私の隣人だからであります。

自分を愛するように、私の隣人を愛することになっているのです。

イエスは言います、「これをしなさい。そうすれば生きる。」

 

 


#88 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月24日 | 終末預言 

Parable of the Good Samaritan: The Parables of Jesus with R.C. Sproul

訳出時間枠:15分19秒から19分49秒まで

◇◇

しかし、この例えには、次に通りかかる男について書かれています。

彼は祭司でもなく、レビ人でもない。

イエスは言います、「あるサマリア人が」と。

イエスはこの男を注意深く選んだのです、それはサマリア人でした。

故に、この例えを「良きサマリア人のたとえ」と言います。

ユダヤ人に、良いサマリア人のたとえをお話ししましょうと言うと、ユダヤ人はそれを矛盾話法と言います。
*矛盾話法:互いに矛盾する語を並べる語法

良きサマリア人のようなものは存在しないとか、ひとりの死んだサマリア人の話しをするつもりかね、と言われるでしょう。

サマリア人と言えども、死んでしまえば良きサマリア人と言えるからです。

しかし、この男はもちろん丈夫であり、こう書いてあります、「瀕死の男がいた場所にやって来た。」

そして、この例え全体の中で最も重要な文章が次に登場します。

「その男を見ると、彼は同情心を抱いた。」

確かに、これは祭司もレビ人も抱かなかったことであります。

彼らは、通りに裸で横たわっていた哀れな男に何も感じませんでした。

酷く打ち叩かれたこの男を見て、そのサマリア人は同情心を抱いた(哀れに思った)のでした。

さて、話は次のように続いていた可能性もあります。

そのサマリア人は、この男を通りで見かけ、惨たらしいと感じ、哀れみの感情で圧倒され、
そして、道の反対側を歩いて、通りを下って行った。

いや、違う。

彼が抱いた同情の念によって、彼は行動へと導かれたのであります。

彼は単に次のように言っただけではない、「あなたのために祈りましょう。私はあなたの痛みが分かります」などなど。

泥棒に襲われたこの敵に対して慈悲を示して、彼は力を尽くしていろいろと実行しました。

半死半生の男の下へ行って、傷に包帯を巻いて、オイルとワインを注ぎました。

悲惨な状況のこの男の傷に油を塗った後、彼を拾い上げました。

彼は歩けなかったに違いない。

その彼を自分の動物に乗せた。

この怪我をした男を動物の背中に乗せて、そのサマリア人は、ロバかラクダ(あるいは何であれ)の脇を歩いたのだろうと思います。

そして、一緒に宿まで連れてきた。

彼らは病院には行かなかった。その男を救急室へと置いて、それから自分の仕事を続けました。何故から、彼にはエリコに約束事があったから。

いや、違う。

自分の一日全部、自分の旅行全部、自分の仕事全部を脇へと置いておく必要があった。

何故なら、このサマリア人の最優先課題は、「この男が十分な介護を受けることを確認する必要がある」ということでありました。

そのため、彼を宿屋へと連れて行き、部屋を取り、食べ物など宿屋において必要となるいろいろな世話の手配をする確認作業をした。

翌日、この哀れな男のために、そのサマリア人は一日中宿で過ごしたのです。

出かける時、2デナリと取り出して、宿屋の主人に渡し、こう言いました、「彼の世話をして下さい。必要な世話は皆やって上げて下さい。いくらかかっても良いからお願いします。私のことは知っているはず。定期的にこの旅をしています。次回ここに戻ってきます。近くまで来たら、いくらであれ、その時にお支払いします。」

 

 

 


#87 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月22日 | 終末預言 

Parable of the Good Samaritan: The Parables of Jesus with R.C. Sproul

 

訳出時間枠:10分56秒から15分19秒まで

◇◇

そのため、商人たちは、自分らの商品を売るために、エルサレムからその地へと旅をすることが多かったのです。

その地では、人々はオアシスの恩恵によって生計を立てていたのですが、今日でさえ、追いはぎや泥棒を生業としていた人々にとってはもってこいの場所です。

彼らは、旅行中の人や武器のない商人らを待ち伏せしていました。

岩陰に身を隠して、夕方になるのを待ち、旅人を襲撃して、彼らの商品を収奪していたのです。

つまり、イエスは実際に起こった話を語った可能性があります。

つまり、作り話ではなくて、実話に基づいた例えということ。

イエスは言います、「その男はエリコへと下っていく途中であった。」

道中、その男は泥棒に襲われ、身ぐるみを剥がされ、傷つけられた。

持っていた貴重品は皆盗まれたにちがいない。

そして、激しく打たれ、半殺しの状態で放置されたのです。

泥棒によって打ち叩かれた悲惨な犠牲者は、明らかに誰の助けも得られない状態で放置されたのです。

裸のまま、半殺しにはなるほどに打ち叩かれて、その場で死ぬことは確実だったでありましょう。

話の後半では、この可哀そうな男が通りに横たわっているのを目撃した人々と、彼らの反応はどうだったのかについて語られます。

偶然にも、ある祭司がその道を下ってきました。

そして、彼は半死半生の男を見て、道の反対側を通り過ぎて行った。

その男を見なかったではない。

その男が瀕死の状態でそこに横たわっているのを確かに見た。

明らかに有意な立場にありながら、その祭司はその男が生きているのか死んでいるのか良く分からなかった。

そこで、祭司はその男から十分な距離を置き、道の反対側を歩いた。

さて、何故そうしたのか。

祭司の間に、パリサイ派の間に、レビ人や汚染と清めの儀式に携わる人たちの間に、次のような律法がありました。

死体に触れてはならない。

もし死体に触った場合、祭司の務めを再開するために、あらゆる種類の清めの儀式を経なければならなかった。

そのために、強盗に襲われ男が死んでいると思い、この祭司はできるだけ遠回りとして立ち去って行きました。

祭司職の通常業務を中断せざるを得ない清めの儀式を避けたかったのです。

そのために、彼は道の反対側を通って行ったのです。

レビ人も同様でありました。

レビ人は、神と教えの務めを行なうために全部族から聖別されていました。

彼がその場に着いた時、状況を見て取り、道の反対側を通り過ぎていきました。

このふたりは聖職者のメンバーであり、特別な地位にあり、慈悲の務めを営んでいました。

この男を助けるために立ち止まろうともせずに、そこにいる瀕死の男を横目で見ながら、道の反対側を通って行った。

このふたりは助けようとはしなかった。

もしもその男がまだ死んでいなかったとすれば、結果として、彼に対する聖職者としての奉仕を拒絶したということになるのです。

 

 

 


#86 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月21日 | 終末預言 

Parable of the Good Samaritan: The Parables of Jesus with R.C. Sproul


訳出時間枠:7分23分から10分56秒まで

◇◇

私の隣人を私自身のように愛することになっていると書いてあるが、この律法は一体どういう意味なのだろうか。

力を尽くして、心を尽くして、思いを尽くして、神を愛するとはどういうことか私は理解している。

しかし、私の隣人を私自身のように愛するとはどういうことなのだろう。

私の隣人とは一体誰なのだろうか。

そこで、イエスは彼に観念的な質問をしました。

恐らく観念的な答えなら、彼は答えることはできたのではないだろうか。

彼はこう答えたのではないか、「隣人とは、隣の家に住んでいる人のことでしょう。」

あるいは、あなたが住んでいる通り沿いで暮らしている人、さらに広い意味では、あなたの家の近くに暮らしている人。

近隣に住んでいる人なら皆、あなたの隣人と解釈してもよいでしょう。

さて、ユダヤ人の間では、特にパリサイ人の間では、隣人とは誰かについて、大変狭い意味の定義がなされていました。

彼らにとって、隣人とは、ユダヤ人男性、恐らく他のパリサイ人のような義なるユダヤ人男性のことであります。

彼らは、義なる集団である自分たちと土着の人々(身分の低い人々)とを区別していました。

実際、イスラエル国家の外部にいた人々は、神の近隣の外部と考えられていました。

ユダヤの近隣の外部の人々の中で、最も軽蔑されていたのがサマリア人だったのです。

捕囚の間、サマリア人の中には、無神論者と近親結婚した人たちや、セミ・ユダヤ人と称される混血ユダヤ人がいたのです。

サマリア人はゲリジムに自分たちの寺院を持っていました。

彼らは、その寺院をエルサレムの寺院礼拝以上に愛していたのです。

イエスと論じた井戸にいた女性、つまりスカルの女のことを思い出したのではないでしょうか。

ユダヤ人が捕囚から戻り、寺院を再建しようとした時、サマリア人は建設中の土地に死んだブタを投げ込んで、ユダヤ人を侮辱したのです。

聖なる地は汚染され、汚された。

彼らは再度の清めのために2週間を費やし、また、この侮辱行為を処理する間、工事を止めなければなりませんでした。

それで、ユダヤ人とサマリア人との間には強い悪感情があったのです。

ユダヤ人はサマリア人と商取引をしませんでした。

事実、ユダヤ人が習慣としていた遠回りのルートを通らずに、目的の地に行くためにサマリアを通り、ユダヤからガリラヤへと旅をしたイエスに人々はショックを受けたのでした。

そこで、あのストーリーを語りながら、イエスは隣人に関する質問に答えます。

イエスはひとりの男の話しをします。

その男とは、たぶんユダヤ人で、エルサレムからエリコへと向かう途中でした。

その地は、城壁が倒壊した、あの旧約聖書に登場するジェリコではありません。

この地は、新約聖書のエリコであり、エルサレムから17マイル離れた町であります。

17マイル遠方のかなり寂れた田舎町であります。

新約聖書のエリコは、訪れたことのある人ならご存じと思いますが、大きなオアシスに囲まれ建設された町です。

当時は大変魅力的な所でありました。

 

 

 


#85 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月20日 | 終末預言 

Parable of the Good Samaritan: The Parables of Jesus with R.C. Sproul

訳出時間枠:3分39秒から7分23分まで

◇◇

イスラエルの法律家として、彼は旧約聖書律法のマスターということになっていました。

そこで、イエスは彼をテストして、次にように言います、「聖書律法の知識を実践している法律家なら分かっていると思うが、永遠の命を相続するために行なわなければならないことについて、律法には何と書いてありますか。」

その法律家は、十戒を朗読して答えました。

「心を尽くして、魂を尽くして、力を尽くして、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい。」

そして、彼は科学的な後書きとして、結びのことば「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」を付け加えました。

さて、明らかに、古来から全生徒が律法を暗唱していたように、彼も十戒を記憶していたのです。

イエスにとって、その質問に答えることは大して重要ではありませんでした。

そして、この法律家は正しく答えた。

そこで、イエスは彼に言った、「あなたは正しく答えました。それをしなさい。そうすれば生きるでしょう。」

ここで、イエスは永遠の命の約束を与えて下さっています。

人がしなければならないことは唯一つ、十戒を守ること、つまり神の法を遵守することであります。

パリサイ人のような人々やこの法律家のような人々は、法を守るという崇高な仕事に就いていると考えていることをイエスは見抜いていました。

法を遵守することにより、自分たちは神の国に入場するに値すると考えていたのです。

他の箇所の教えから考えてみると、善行によって天国への道を模索するのではなく、むしろ律法をしっかりと理解することによって、律法が救いのための別の方法へと導いてくれることを、イエスは人々に分からせようとしているのであります。

何故なら、律法を正しく実践することにより、律法は私たちの罪と脆弱性をあぶり出してくれるからであります。

私は常々申しておりますが、16世紀の改革派にあって権威ある偉大な改革派クリスチャンの中に、律法に精通した2人の学生がおりました。

ルターとカルヴァンはともに、律法に関するトレーニングを受けました。

神の法を研究すればするほど、彼らは福音へと追われていきました。

何故なら、律法がふたりを絶望へと追い込んでいったからでした。

しかし、あの法律家の心の中には、そのような経験はありませんでした。

彼は、自分は律法を遵守していると確信していたのです。

イエスは言います、「どうぞどうぞ、あなたは律法を遵守しています。あなたは生きるでしょう。心配することは何もありません。」

しかし、その法律家はイエスとの会話をそれで終わらせたくなかった。

彼はもう少し深く探りたかった。

これは興味深いことですが、神学について議論していて、ある話題について激論となった時、人から得られる標準的反応のひとつが、「さて、それはどういう意味ですか。もう少し詳しく説明して下さい」と質問することであります。

それは逃避機制と言い、話題となっている事柄から逃避する行為であります。

この法律家は、類似の事を素早く行ないました。

彼は言います、「イエスよ、私の隣人とは誰ですか。」

 

 


#84 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月18日 | 終末預言 

Parable of the Good Samaritan: The Parables of Jesus with R.C. Sproul


訳出時間枠:最初から3分39秒まで

◇◇

良きサマリア人のたとえ。

前回動画要点:自身の救いを達成するために努力せよ。

努力したくない私たちにはお決まりの逃げ口上がいくつかある。

1.イエスの十字架上があるのだから、他に何もする必要はないではないか。
2.そうだとしたら、責めるあなたはどうなのか。
3.聖書の通読と祈りは欠かしたことがないのだから、それだけでいいじゃないか。
等々。

地獄とは何か、永遠の刑罰とは何かについての実感が全くないから出ることばのように見えなくもない。

今夜心筋梗塞が起きてこの世を去り、目醒めた時に後悔してもtoo late。

この動画の後半にも耳が痛くなる内容が語られている。

良きサマリア人がしたことはイエス様だけができることであって、私のような平信徒には関係ないんじゃないか。

これも逃げ口上のように聞こえる。

それって信仰義認ではなく行為義認じゃないのかという疑問。

その言い分も、単にイエスキリストを自分に都合のいいように利用しているだけのように見える。

つまり、逃げ口上。

さて、最後までじっくりと聴いてみよう。

後は、各人で判断を。 

◇◇

主イエスのたとえの学びを続けようと思います。

このセッションでは、私がとても好きなたとえを見ていきます。

教会所属の方々にはよく知られたたとえであります。

それが良きサマリア人のたとえです。

ルカ福音書10章に書かれています。

このたとえの効能を理解するために、イエスによるこのストーリーが配置された前後の脈絡を見ていく必要があります。

ルカの福音書10章25節から読み始めたいと思います。

ある法律家が立ち上がり、彼を試して言った、「先生、永遠の命を受け継ぐには何をしたらよいのでしょうか。イエスは彼に言った、「律法には何と書いてありますか。そのことに関するあなたの見解は何ですか。」そこで、その法律家は答えて言った、「心を尽くして、魂を尽くして、力を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。またあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」主は答えて言った、「あなたは正しく答えました。これを行ないなさい、そうすればあなたは生きるだろう。」しかし、彼は自分を正当化したくなり、イエスに言った、「私の隣人とは誰ですか?」イエスは答えて言った、「ある男性がエルサレムからエリコへと下っていた。泥棒らが彼の衣服を剥ぎ取り、傷を負わせ、瀕死の状態で置き去りにした。偶然にも、ある司祭がその道を通りがかった。瀕死の男を見て、道の反対側を通り過ぎて行った。同様に、一人のレビ人がやって来て、見て、反対側を通り過ぎた。しかし、あるサマリア人が、旅の途中、瀕死の男がいる場所にやって来た。サマリア人は彼を見て哀れに思い、近寄り、傷に包帯を巻き、オイルとワインを注ぎ、自分の動物に乗せ、宿屋まで連れて行き介抱した。翌日別れる際、2デナリを取り出し、宿屋の主人に渡して言った、「彼の面倒を見て下さい。必要な費用はいくらであれ、戻った時に、私が再度支払います。」この3人の中の誰が、強盗に襲われた人の隣人であったと思いますか。彼は言った、「彼に慈悲を示した人です。」イエスは彼に言った、「行って同じことをしなさい。」

良きサマリア人のたとえを理解する文脈は、イエスの下にやってきたこの法律家によってなされた陥れるための尋問ということにあります。

この法律家が聞いた質問の目的は、イエスに素直に知恵を求めるためではなく、イエスをテストするための理由だったのです。

それで、彼は次のように言います、「先生、永遠の命を相続するためには何をすればよいのでしょうか。」

イエスは、この男が法律家であることを知って、彼に言った、「さて、律法には何と書かれていますか?」

 

 


#83 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月17日 | 終末預言 

Death Is Swallowed up in Victory

キリスト教信仰の核心部分。

◇◇

復活には、キリストの御業の核心がある。

神はわれわれに新しい人間性を与える。

主は、ご自身の民に神の本来のイメージを回復される。

そして、神の民が永遠に生きるための準備をして下さいました。

さて、パウロは次のように結論しています。

「さて、私はこのことを言っておきます、兄弟たち。血肉は神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できないのです。しかし、見よ、私はあなたがたに奥義を教えよう。私たち全員が眠るのではありません。しかし、瞬時に、瞬きの間に、最後のラッパとともに、私たちは全員変えられるのです。というのは、ラッパが鳴り、死者は朽ちないものとして復活します。そして、私たちは変えられます。というのは、朽ちるものは朽ちないものを着なけなければならないからです。この死ぬべきは、不死を着なければならないのです。故に、この朽ちるべきが朽ちないものを着て、死ぬべきが不死を着た時、書かれているみことばが成就するのです。」

死は勝利の中に飲み込まれる。

死は滅ぼされ、勝利によって焼き尽くされる。

嗚呼、死よ。お前のとげは今何処にあるのか。

嗚呼、ハデスよ。お前の勝利は何処にあるのか。

死のとげとは罪。

罪の力は法。

しかし、神に感謝します。

神は、われらの主イエスキリストによって、私たちに勝利を与えて下さいます。

これが主イエスの御業の要点であります。

主は、御父によって、御霊の力によって蘇りました。

ご自身を証明するためだけではなく、私たちのために復活したのです。

こうして、栄光のお姿において実を結び、最初の人として復活しました。

しかし、決して最後の人ではありません。

キリストイエスにある人は誰でも、この復活の栄光に預かるのであります。

これが私たちの希望です。

これがまさにキリスト教信仰の中心であり、核心であります。

 

 


#82 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月15日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

訳出時間枠:36分58秒から最後まで

◇◇


主は言います、「その場所には、泣き叫びと歯ぎしりがある。」

地獄で目覚めると、人は荒れる。

泣き叫ぶことができる程自分の目に水気がないことに気が付かない。

彼らは解決しようともがく、「嗚呼、神よ。ここではありません。嗚呼、神よ。私を憐れんでください。」

彼らは地獄で目が醒めるや、それまで経験したことのないような絶望を経験します。

別の集団もそこにいますが、彼らは決して泣き叫ぶことはありません。

彼らはそこで歯ぎしりをするのです。

歯ぎしりは、聖書的比ゆ表現で、人間の激高を表します。

「よくもこんなことを、神よ。こんなところに置き去るとは。」

永遠に罰せられた者の怒りは見境がない。

当たり前のこと地獄で終わりたくはないと言いましたが、確信をもって私が知っている唯一のことは、もし私が地獄に行くなら、もし私が最近数年間自分自身を欺いてきたとしたら、もし私が「主よ、主よ」と言っている者でありながら、これもしなかった、あれもしていなかった。私から離れて下さい。

私こそあなたのことを知らなかったのだから。

そして、主は私を地獄へと送ります。

一つだけ約束できることがあります。

それは、私は泣き叫ぶ者となるということ、歯ぎしりをする者にはならないということ。

何故なら、私は神学に関してはいろんなことを知っております。

従って、主が私を地獄に送ったとしても、主に対して只の一言も不平を申し上げることはありません。

私は反逆の罪を犯したのですから。

宇宙にとどろくほど大きな反逆罪を犯したのです。

罪を犯す度に、自分の意志の方が創造主のみ旨よりも上にあると主張してきました。

主である神ではなく、私が支配者だと主張したこともあります。

神の国に敵対したこともありました。

私は罪を犯した。

聖であり究極的に義なる存在は、私には何一つ負債を負ってはいないと思う。

もし地獄で目が覚めたなら、私の命が受けるに値したものを受けたと理解します。

残酷でもなければ、不義でもなく、まさに完璧な義。

そのように理解するでしょう。

そこに行きたくもないし、そこへと至る如何なる道も欲しくはない。

堕落した人間でありながら神の尊厳を愛しているとしても、肉において、私の同僚には負けないくらい主を愛しています。

地獄にいる人についても熟慮できるような思いやりはあります。

主イエスご自身によってそれほど明快に教えられるのでなければ、地獄なんて存在しないとは考えない。

主は、天国よりも地獄についてより多くの事を教えているということを知っていましたか。

いずれにせよ、私は地獄(ハルノートの冗句)で終わりたくない。

ここで、聖句を2,3見ていきたい。

ルカの福音書13章18節。
イエスは言った、「神の国は何に例えることができるでしょう。何に比べることことができるでしょうか。それはからし種のようなもの。人がそれを取り、畑に植えると、成長して木になった。そして空中の鳥々がその枝に巣を作った。」

主イエスが神の国について語っているのを聞く時はいつも、主が何を言っているのか、それがどんな話か良く分からないことがある。

究極的に小さな種を植えて、水をやると、地面から小さな頭を突き出してきて、小さな小枝が成長し始めて、広がっていく。藪のようなものではなくて、10から15フィートもの高さの木へと成長していく。枝は手を伸ばすように生い茂り、異なる種類のあらゆる鳥たちがやってきて、枝に巣を作る。

数秒間止まっているのではなくて、そこに巣を作る。

神の国は、気が付かないほどに小さく始まり、花が咲き、成長し、全世界に広がっていく。

死につつある世界にあって、私たちはからし種です。

復興異教主義文化人でもなく、野蛮な文化人でもなく、私たちは神の国の兄弟姉妹であります。

私たちが植えるすべての種を受け取り、私たちが食べ物に入れるパン種を受け取る王の息子であり、娘であります。

それは成長し、広がり、地を満たしていきます。

ゆえに、最後の検討において、世に打ち勝ちたいと思うのであれば、如何に世が強かろうと心配することはありません。

如何に多くの異教徒が向う側にいようとも、心配する必要はありません。

私たちが知っておくべきことは唯一つ、我らの王は誰であるかということ。

我らの王が、この国家、この世界、この国民の運命を決定づけるからであります。

あなたは激しい苦悩の中にいるかもしれません。

それがこの世であるからです。

主イエスは言います、「努力して、狭き門から入りなさい。」

agonということばの意味は、ヘラクレス級の努力を意味します。

恐れをもって自身の救いを達成せよということ。

自身の務めに揺り動かされるなら、神の国に入ることはできません。

しかし、ひとたびそこに入ったら、全身全霊をもって務めを果たさなければならない。

巡礼者のように、嘲りに向かって振り返ってはならない。

如何に数多くの障害があろうとも、如何に数多くの敵がいようとも、如何に多くの反対があろうとも、その先にはドアがある。

当初、クリスチャンはその道の人たちと呼ばれていました。

その道とは、命へと通ずる狭き道だったのです。

今夜、寝床に伏す時、自問して欲しいと思います。

「私は少数の中に数えられていますか、それとも多数の中に数えられていますか。」

当然、あなたの答えは「少数の中に数えられている」でありましょう。

お祈りしましょう。

あなたのことばに感謝します。
あなたはあなたの民を救うと決断されました。
あなたは御子を与えて下さいました。
誰も御子を奪い取ることはできません。
そして、御子は世に打ち勝ったのです。
アーメン。




#81 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月14日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

訳出時間枠:32分45秒から36分58秒まで

◇◇


さて、イエスは信仰義認を否定しているのではありません。

主が、努力して狭い門から入れと言う時、ルカ書にあるように、「努力して、狭き門から入りなさい。というのは、多くの人々は入ろうとするが、できません。」

広い道の上で生活しながら、彼らは狭い門を通ることができると思っている。

ここに問題があるのです。

事態はどんどん悪くなっていきます。


主イエスは、少数と多数、狭い門と広い門で終わることなく、次のように言います。

家の主人が立ち上がり、戸を閉めると、戸の外に立って戸を叩き始めながら言う、「主よ、私たちのために戸を開けて下さい。」

「いままでそこにいた者です。どうか私たちのために戸を開けて下さい」と、彼らは言ったのではありません。

「主よ、戸を開けて下さい。主よ、主よ。私たちはあなたの名によってこのことをしたではありませんか。あなたの名によってあのこともしたではありませんか。」

イエスは言います、「私は彼らに言おう。あなたがたは一体誰か。悪を行なう者どもよ、ここから出て行きなさい。」

主は戸を叩いている人々全員を十分認識しているのです。

しかし、彼らが救いの道にあるとは考えていない。

そこで、主は言います、「救いの道において、あなたは私によって知られてはいません。」

「だから、あなたが私のドアを叩いているのを聞き取ることができないのです。」

あまりに遅すぎる。

ペンシルバニアにある家のホールを歩いていた時のことを思い出します。

壁に鏡が掛けてあり、その鏡の前を通り過ぎる時に、鏡に映る自分の姿に気を取られました。

あまり気持ちの良い経験でなかったのですが、鏡をのぞき込んだ時、お前は心の状態について自分を欺いているのではないかという思いが襲ってきました。

私は地獄に行くのではないかという思いです。

恐ろしくなりました。

「私たちのために戸を開けて下さい。」

イエスは言います、「あなたが何処から来たのか分かりません。」

あなたがたは言い返します、「私たちは食べたり飲んだりしたではありませんか。主のテーブルで、聖なる晩餐を祝ったではありませんか。あなたが教え下さったあの通りに、私はいました。あなたが私たちの村を通りかかり中風を癒した時、私はそれを見ました。私は結婚披露宴の席にいました。私はあなたが水をワインに変えるのを見ました。私はあなたがなさった多くの御慈悲と祝福を見ました。」

イエスは言います、「正直に言おう、私はその者が何処から来たのか分かりません。私から離れよ。お前たち、悪をなす者たち。」

そして、主は、彼らが行くはずの場所の特徴と地獄にいる人間の反応を告げる。

地獄にいる人間が何をするのか考えたことはありますか。

イエスは起こるべきことをすべて記載してはいませんが、地獄へ引き渡された人間の反応について2つのことを記載しています。