第2コリント5:7
我々は信仰によって歩いている
見えるものによってではなく
この例えを知っている人、結構いるのではないだろうか。
信仰と事実と経験の3者が壁のてっぺんを歩いているという例えだ。
「信仰」がしっかりとてっぺんを歩いている。
左右にぶれずに、また後ろを振り返ることもなく。
「信仰」は、視線を「事実」に見据えている限り、しっかりと歩いていくことができた。
しかし、「経験」に関心を寄せて、自分がうまく乗り越えているかどうか知るためにふり返るやいなや、「信仰」はバランスを失い、壁から転げ落ちてしまった。
そして、貧弱で古臭い「経験」も、後を追って転げ落ちた。
我々はキリストとともに死んだ。
我々がどう感じようが、それは事実だ。
では、どうやってそれを確認すればよいのか。
何故なら、キリストが死んだからそうなのだ。
ひとりがすべての人のために死んだ、それ故すべての人が死んだ(第2コリント5:14)。
我々の経験がそれを証明しているとか、それらしいとか、我々の経験に反するとか全く関係がない。
我々の経験がどうあれ、すべての人が死んだという事実は変わらない。
我々がその事実に立っている限り、サタンが我々に打ち勝つことはない。
サタンの攻撃は常に我々の確信を突いてくる。
我々の確信とは極めて脆弱で頼りにならないからだ。
みことばに疑いを持たせることができれば、サタンの目的は達成され、我々はサタンの支配下に置かれる。
神のことばに対する確信に一点の揺らぎもなく
主の御業と主のみことばに対して、サタンはいっさいの不正を行なうことができないと確信しているなら、
サタンが如何なる戦略を講じてこようと問題にならない。
サタンを笑い飛ばす余裕を持つこともできるであろう。
我々がどう感じようが、それは事実だ。
では、どうやってそれを確認すればよいのか。
何故なら、キリストが死んだからそうなのだ。
ひとりがすべての人のために死んだ、それ故すべての人が死んだ(第2コリント5:14)。
我々の経験がそれを証明しているとか、それらしいとか、我々の経験に反するとか全く関係がない。
我々の経験がどうあれ、すべての人が死んだという事実は変わらない。
我々がその事実に立っている限り、サタンが我々に打ち勝つことはない。
サタンの攻撃は常に我々の確信を突いてくる。
我々の確信とは極めて脆弱で頼りにならないからだ。
みことばに疑いを持たせることができれば、サタンの目的は達成され、我々はサタンの支配下に置かれる。
神のことばに対する確信に一点の揺らぎもなく
主の御業と主のみことばに対して、サタンはいっさいの不正を行なうことができないと確信しているなら、
サタンが如何なる戦略を講じてこようと問題にならない。
サタンを笑い飛ばす余裕を持つこともできるであろう。
巧妙なペテン師は、ことばだけでなく、身振り手振りでだましてくる。
ウソを吐くだけでなく、うまく偽札を使ってくる。
悪魔は巧妙な嘘つきだ。
ウソを吐くのはことばだけとは限らない。
手振り、感情、経験に訴えながら、みことばへの信頼を揺らごうとする。
私は「肉」のリアリティー(現実)は否定しない。
このことについては後に議論したい。
ここでは、キリストにあって啓示された立場からの脱落リスクについて論じている。
キリストと共なる死を事実として受けいれるやいなや、サタンの攻撃が始まる。
お前は死んでない、そら全然生きてるじゃないか。
お前、毎日楽しくやってんだろう。
敵も追い落としに必死だ。
ここで、我々の選択肢は2つしかない。
サタンの嘘を信じるか、神の真実を信じるか、いずれかだ。
体裁か、神のことばか。
どちらに従うのか?
ウソを吐くだけでなく、うまく偽札を使ってくる。
悪魔は巧妙な嘘つきだ。
ウソを吐くのはことばだけとは限らない。
手振り、感情、経験に訴えながら、みことばへの信頼を揺らごうとする。
私は「肉」のリアリティー(現実)は否定しない。
このことについては後に議論したい。
ここでは、キリストにあって啓示された立場からの脱落リスクについて論じている。
キリストと共なる死を事実として受けいれるやいなや、サタンの攻撃が始まる。
お前は死んでない、そら全然生きてるじゃないか。
お前、毎日楽しくやってんだろう。
敵も追い落としに必死だ。
ここで、我々の選択肢は2つしかない。
サタンの嘘を信じるか、神の真実を信じるか、いずれかだ。
体裁か、神のことばか。
どちらに従うのか?
先に掲げた例のような特殊で個人的なケースでは、サタンに丸め込まれると、神が言ったことに関して自分を欺くようなことがありうるかもしれない。
しかし、主の十字架と言う事実に関しては、疑問の余地はない。
サタンがいかなる議論を吹っかけてみても、神のみことばを信じきるのみだ。
しかし、主の十字架と言う事実に関しては、疑問の余地はない。
サタンがいかなる議論を吹っかけてみても、神のみことばを信じきるのみだ。
みことばの真理を否定するものは何であれ、サタンの嘘と見なすべきだ。
それが、我々の5感にとってありそうにないことだからではない。
他のいっさいが屈服しなければならないほど偉大な事実を神が予め語ってくれているからだ。
私はかつてこの原理を例示できるような経験をした。
数年前、病に苦しんだことがあった。
6日間高熱が出て、眠ることができなかった。
その時、聖書を通して、神は個人的癒しのことばをきめ細かく与えて下さった。
それ故、私はすべての症状が瞬時に消え去ることを期待した。
するとどうだ、意に反して、一睡もできなくなるばかりか、精神状態がさらに悪化した。
体温は上がり続け、脈が速くなり、頭痛がさらにひどくなった。
敵が現れて、聞いてきた。
神の約束はどこにあるんだ?
お前の信仰はどこへ行った?
お前の祈りは一体どうなんだ?
それで、サタンに非難されながらも、再び祈りにおいて問題全体を徹底的に検討してみた。
そして、浮かんできたのがこの聖句だった。
「主のことばは真理である」(ヨハネ17:17)
もし神のことばだが真理なら、これらの症状は一体何だ。
主が予めみことばを与えて下さったではないか。
自分の身に起きていることは全部ウソに違いない!
そこで、敵に宣言した。
この不眠はウソ、この頭痛はウソ、この熱もウソ、この頻脈もウソだ。
神が私に言ったことの故に、これらの症状は全部お前のウソだ。
私に語った神のことばはすべて真理だ。
5分後私はすぐに眠りにおちた。
翌日目を覚ましたら、症状はみな消え失せていた。
それが、我々の5感にとってありそうにないことだからではない。
他のいっさいが屈服しなければならないほど偉大な事実を神が予め語ってくれているからだ。
私はかつてこの原理を例示できるような経験をした。
数年前、病に苦しんだことがあった。
6日間高熱が出て、眠ることができなかった。
その時、聖書を通して、神は個人的癒しのことばをきめ細かく与えて下さった。
それ故、私はすべての症状が瞬時に消え去ることを期待した。
するとどうだ、意に反して、一睡もできなくなるばかりか、精神状態がさらに悪化した。
体温は上がり続け、脈が速くなり、頭痛がさらにひどくなった。
敵が現れて、聞いてきた。
神の約束はどこにあるんだ?
お前の信仰はどこへ行った?
お前の祈りは一体どうなんだ?
それで、サタンに非難されながらも、再び祈りにおいて問題全体を徹底的に検討してみた。
そして、浮かんできたのがこの聖句だった。
「主のことばは真理である」(ヨハネ17:17)
もし神のことばだが真理なら、これらの症状は一体何だ。
主が予めみことばを与えて下さったではないか。
自分の身に起きていることは全部ウソに違いない!
そこで、敵に宣言した。
この不眠はウソ、この頭痛はウソ、この熱もウソ、この頻脈もウソだ。
神が私に言ったことの故に、これらの症状は全部お前のウソだ。
私に語った神のことばはすべて真理だ。
5分後私はすぐに眠りにおちた。
翌日目を覚ましたら、症状はみな消え失せていた。
ここで取り扱っているのは、事実であって、約束ではない。
神の約束は、内におられる主の御霊によって、我々に啓示される。
一方、事実は事実であって、我々が信じようと信じまいと依然として事実のままだ。
たとえ我々が主の十字架という事実を信じなくても、それらの事実は永遠に現実のままだが、我々未信者にとって全く価値がない。
これらの事実を自身において現実化するために信仰は要らない。
しかし、信仰はそれらの事実を実体化し、我々の経験においてそれらを現実化する。
神の約束は、内におられる主の御霊によって、我々に啓示される。
一方、事実は事実であって、我々が信じようと信じまいと依然として事実のままだ。
たとえ我々が主の十字架という事実を信じなくても、それらの事実は永遠に現実のままだが、我々未信者にとって全く価値がない。
これらの事実を自身において現実化するために信仰は要らない。
しかし、信仰はそれらの事実を実体化し、我々の経験においてそれらを現実化する。
もし私が盲目ならば、色を識別できない。
もし聴力がないなら、音楽を聴くことができない。
しかし、音楽も色の確かに実在する。
それらの実在は、私がそれらを味わうことができるかどうかによって影響されない。
さて、我々は、見えないが永遠かつ実在する事がらについて思いを馳せている。
もちろん、我々は、既存の生理的5感によって神の事がらを実体化することはできない。
しかし、「望んでいる事がら」を実体化できる能力は存在する。
「望んでいる事がら」とはキリストに関する事がらであり、それが信仰だ。
信仰は、実在する事がらを「私の経験において」具現化・現出させる。
信仰は、キリストの事がらを私に実体化させる。
何万と言う人々がローマ書6:6を読んでいる。
「我々の古い人は彼とともに十字架に付けられた」
信のある者にとって、それは真実である。
疑のある者にとって、霊的照明のない上っ面で信じている者にとっては、それは真実ではない。
もし聴力がないなら、音楽を聴くことができない。
しかし、音楽も色の確かに実在する。
それらの実在は、私がそれらを味わうことができるかどうかによって影響されない。
さて、我々は、見えないが永遠かつ実在する事がらについて思いを馳せている。
もちろん、我々は、既存の生理的5感によって神の事がらを実体化することはできない。
しかし、「望んでいる事がら」を実体化できる能力は存在する。
「望んでいる事がら」とはキリストに関する事がらであり、それが信仰だ。
信仰は、実在する事がらを「私の経験において」具現化・現出させる。
信仰は、キリストの事がらを私に実体化させる。
何万と言う人々がローマ書6:6を読んでいる。
「我々の古い人は彼とともに十字架に付けられた」
信のある者にとって、それは真実である。
疑のある者にとって、霊的照明のない上っ面で信じている者にとっては、それは真実ではない。
どのようにして我々は何かを「実体化」するのだろうか。
我々は毎日それを行なっているいるはずだ。
そうせずして、この世で生きていくことはできない。
「実体」と「実体化」の違いが分かるだろうか。
「実体」とは物体であり、我々の目の前にある何かである。
「実体化」は、その実体を自分に対して現実化する力または能力を私が持っているということを意味する。
単純な例を見てみよう。
我々は、五感を用いて、自然界からある物を取って、それを認識できるように意識の中へと移すことができる。
例えば、視覚と聴力は、私が持っている能力のうちの2つであり、これによって、光と音の世界が私にとって「実体化」される。
色には、赤、黄、緑、青、紫があり、これらの色は確かに実在する。
しかし、もし私が目を閉じれば、私にとってその色はもはや実在しない。
単純に無である、ただし私にとって。
その色がそこに実在するだけでなく、私がその色を実体化する能力を持っているから、そうなるのだ。
私にとってその色の存在を現実化し、自分の意識の中でそれにリアリティーを与える能力を私は持っている。
これが「実体化すること」の意味だ。
*1.色を実体化する能力がなければ、横断歩道を渡ることができない。
*2.音を実体化する能力がなければ、音楽を楽しむことができない。
*3.望んでいる事がらを実体化する能力がなければ、どうなのか。
我々は毎日それを行なっているいるはずだ。
そうせずして、この世で生きていくことはできない。
「実体」と「実体化」の違いが分かるだろうか。
「実体」とは物体であり、我々の目の前にある何かである。
「実体化」は、その実体を自分に対して現実化する力または能力を私が持っているということを意味する。
単純な例を見てみよう。
我々は、五感を用いて、自然界からある物を取って、それを認識できるように意識の中へと移すことができる。
例えば、視覚と聴力は、私が持っている能力のうちの2つであり、これによって、光と音の世界が私にとって「実体化」される。
色には、赤、黄、緑、青、紫があり、これらの色は確かに実在する。
しかし、もし私が目を閉じれば、私にとってその色はもはや実在しない。
単純に無である、ただし私にとって。
その色がそこに実在するだけでなく、私がその色を実体化する能力を持っているから、そうなるのだ。
私にとってその色の存在を現実化し、自分の意識の中でそれにリアリティーを与える能力を私は持っている。
これが「実体化すること」の意味だ。
*1.色を実体化する能力がなければ、横断歩道を渡ることができない。
*2.音を実体化する能力がなければ、音楽を楽しむことができない。
*3.望んでいる事がらを実体化する能力がなければ、どうなのか。
ヘブル11:1
Now faith is the assurance of things hoped for,
the proving of things not seen
(Nee引用)
*Neeはこの英語訳を適切とは考えていない
第2コリント4:18
我々は見える物事に眼を留めず
むしろ、見えない物事に
見える物事は一時的
見えない物事は永遠
ヘブル11:1は、聖書における信仰の定義であると考えるのが妥当だ。
重要なことは、その定義をしっかりと理解することにある。
「信仰とは望んでいる事柄の実体」(A.V.)(the substance of things hoped for)と定義している英語訳がふつうではないかと思う。原典で使用されている単語は、ある動作的な意味合いを含んでいて、「substance(実体)」というような、単なる何かあるもの、ではない。実は、この単語を正確に訳出するのに長い年月を要した。Darby訳がこの単語に関して適訳ではないかと思う。信仰とは願っている事柄の実体化」(Faith is the substantiating of things hoped for)。この訳は、経験上、願っている事柄の具現化という意味合いがうまく表現されていると思う。
補足
Lukeさんの最近の著書「神の新創造」に次のようにある。
(無断で)引用開始
信(信仰)とは願うことの実体であり、まだ見ていないことの立証である。
実体とはサブスタンス(substance)。ギリシャ語では"hupostasis"です。霊的領域のサブスタンスに触れ、それが物理的時空間に現出することが信であるというのです。
以上、引用終わり
彼の考えを言い換えるとこうなる。
信(信仰)とは霊的領域にある、願うことのサブスタンスを物理的時空間(この世)に具現化すること
これがDarbyの言う実体化(substantiating)という意味である。(←これ、間違っている可能性あり。再検を要するが、極めて重要かつ滅茶苦茶面白いテーマだ。Dr.Luke論とDarby論が同じなのか違うのか。さらに読み進めてから再度討論したい)
Now faith is the assurance of things hoped for,
the proving of things not seen
(Nee引用)
*Neeはこの英語訳を適切とは考えていない
第2コリント4:18
我々は見える物事に眼を留めず
むしろ、見えない物事に
見える物事は一時的
見えない物事は永遠
ヘブル11:1は、聖書における信仰の定義であると考えるのが妥当だ。
重要なことは、その定義をしっかりと理解することにある。
「信仰とは望んでいる事柄の実体」(A.V.)(the substance of things hoped for)と定義している英語訳がふつうではないかと思う。原典で使用されている単語は、ある動作的な意味合いを含んでいて、「substance(実体)」というような、単なる何かあるもの、ではない。実は、この単語を正確に訳出するのに長い年月を要した。Darby訳がこの単語に関して適訳ではないかと思う。信仰とは願っている事柄の実体化」(Faith is the substantiating of things hoped for)。この訳は、経験上、願っている事柄の具現化という意味合いがうまく表現されていると思う。
補足
Lukeさんの最近の著書「神の新創造」に次のようにある。
(無断で)引用開始
信(信仰)とは願うことの実体であり、まだ見ていないことの立証である。
実体とはサブスタンス(substance)。ギリシャ語では"hupostasis"です。霊的領域のサブスタンスに触れ、それが物理的時空間に現出することが信であるというのです。
以上、引用終わり
彼の考えを言い換えるとこうなる。
信(信仰)とは霊的領域にある、願うことのサブスタンスを物理的時空間(この世)に具現化すること
これがDarbyの言う実体化(substantiating)という意味である。(←これ、間違っている可能性あり。再検を要するが、極めて重要かつ滅茶苦茶面白いテーマだ。Dr.Luke論とDarby論が同じなのか違うのか。さらに読み進めてから再度討論したい)
我々が頼りとし規範とする諸々の事実をどのように取捨選択すべきか。
手に触れることのできる、日々経験している事実を選択するのか。
我々がいまやキリストの中に在るという事実ほど優れた事実はない。
主の復活の力はいまや我々のものだ。
神の全能が我々の救いの中へと向かって働いている。
ローマ1:16b
神のデュナミスが在る
救いの中へと
信じる者すべてに
始めにユダヤ人に、そしてギリシャ人に
神の事実において真理であることを人生の中で真に追求しているか。
手に触れることのできる、日々経験している事実を選択するのか。
我々がいまやキリストの中に在るという事実ほど優れた事実はない。
主の復活の力はいまや我々のものだ。
神の全能が我々の救いの中へと向かって働いている。
ローマ1:16b
神のデュナミスが在る
救いの中へと
信じる者すべてに
始めにユダヤ人に、そしてギリシャ人に
神の事実において真理であることを人生の中で真に追求しているか。