みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#595 神の法第六戒

2020年08月30日 | 神の法
第6戒
殺してはならない

220~
Thou Shalt Not Kill
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

自身による法の要約において、イエスは、法に関する2つのテーブルを宣言した。

それは、神の愛と隣人愛に要約される。

マタイ22:36~40
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 
これがたいせつな第一の戒めです。 
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」 

マタイ22:40
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっている。

法の正確な意味は、ネガティブ(否定的表現)な戒律と、ポジティブ(肯定的表現)な肯定の両者によって得られる。

ネガティブ(否定的表現)な戒律によってのみ従順を制限したり、特性を考察することは危険。

善人とは、カルヴァンが醜悪な例えとして選び出した人、すなわち子供さえあえて攻め立てようとはしないが、そのくせ自分の義務を果たすことができない臆病者。

ネガティブ(否定的表現)な戒律によってのみ判定すると、このような確信へと導かれることになる。

実にしばしば、教会はこのような臆病者と義なる人々を同一視してきた。

そして、臆病な鼻垂れを昇進させてきた。

そのような者たちの武器は、権威の地位にある者たちに対する陰口や告げ口。

カルヴァンが指摘するように、すべての人は、第6戒の関して「人間としての義務」を有する。

傷害、暴行、あるいは殺人を防止しようとしなければ、犯される犯罪に対して、ある意味で自分自身が罪を犯しているということになる。

暴行や殺人行為に対してあまり証言をしたがらなければ、それは地上にもつれがないということにはなるが、一方でそれは神の御前で恐ろしいもつれと罪を負うことになる。

コメント:

異端者の特徴

ディスペンセーション主義の律法廃棄論には注意しよう

律法は消えてしまった???



#594 神の法第六戒

2020年08月28日 | 神の法
第6戒
殺してはならない

219~
Thou Shalt Not Kill
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

第6戒は、第8テーブル、第10テーブルに簡単な言及にもある(出エジプト記20:13、申命記5:17)。

全く同じ表現で、出エジプト記と申命記に記載されている。

その極めて基本的意味は、カルヴァンによって明確に述べられている。

この戒めの全体は、不当に誰かに暴力をふるってはならないということ。しかしながら、他人を障害すること全般においてわれわれを抑え込むために、神はひとつの特別な形式-人の自然な感覚が嫌悪感を抱く-を提示する。われわれは皆、殺人をひどく嫌うからだ。彼らが手に伝染病を持っているかのごとく、血で汚れた手をもつ者たちから後ずさりするように。

不当な暴力は律法によって禁止されているとカルヴァンが考えていたということは注目に値する。

処刑、遵法的闘争、自己防衛、それらに同等の行為は禁止されていない。

カルヴァンは付け加える。

付随する法律に関する研究を開始した時、より明確となったことがあった。

「殺す」ということばの中に、提喩により、すべての暴力、強打、そして不当な攻撃が含まれている。

今日関連聖句とされている一節において、カルヴァンはさらに指摘する。

別の原則も思い出されるべきではないか。いわゆる負(negative)の教訓が、逆の肯定として理解可能な場合がある。意味が一致しているわけではない。他人を傷つけることを断念することによって、神の法を満たしている人もいるだろう。例えば、子どもさえ抑え込むことができないような臆病者が
隣人に対して指一本も動かさないなら、この者が、第6戒に関して、人の義務を果たしたと言えるのだろうか。否、悪行を我慢するだけでは済まないのが人の常識。この点に関しては、第2テーブルの要約から次のように言えるのではないか。すなわち、神はわれわれが殺人を犯すことを禁ずるのみならず、隣人の命を守ることを真摯に探求すべきであり、隣人にとって大切な人であると宣言すべきであると神は規定しているのではないか。その要約において、もはやネガティブな言い回しは使われてはおらず、われわれの隣人は愛されるべきだということばによって明言される。それ故、以下のことについては疑問の余地はない。愛されるべきであると神が命ずる隣人について、われわれが彼らの命を気遣うように神はお勧めになる。結果として、この戒めには2つの部分がある。第1に、われわれは誰をも苛立たせたり、怒らせたり、また敵意を持ったりしてはならない。第2に、人々と口論などせず、平穏に生活するだけでなく、不当に敵対してくる哀れな者たちに、できる限り援助の手を差し伸べるべきであり、ブラックリストに名を連ねるような乱暴者でない限り、彼らの悪事を忍耐する努力をしなければならない。

コメント:

反セオノミストの運命

人目にうるわしい信仰

地上をサタンから奪還しよう



#593 神の法第五戒

2020年08月18日 | 創世記
第5戒
人の権威の限界

217~
The Limitation of Man's Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

イエスキリストは、真の王として、神の法言(law-word)を成就し、神の支配を確立するために来臨した。

詩篇40:7
今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。

ヘブル10:7
さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。

ヘブル10:9
さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。

Wrightによると、申命記17章14~20節について、古代近東の他国にはそのような記載を想像することは不可能。

王権は、その国の他の部署すべてと同様、神聖な法の対象だった。

しかし、聖書律法において、王、裁判官、祭司、父親、そして国民は皆、書かれた神の法の下にある。

身分が高ければ高いほど、従順がより重要。

すでに明白であるが、個人的気まぐれが神の法よりも優先されることはない。

父親が2番目の息子を愛しているという理由で、もう一人の息子のために、法的かつ神聖な相続人が除外されることはない。

このことは、多妻制の場合に明示される。

例えば、第1子が憎まれた妻の息子である場合。

申命記21:15~17
ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。 

いずれにせよ、相続権の領域に関して、父親は、個人的ないしは非宗教的な理由を行使する自由はない。

神の法は勝利しなければならない。

相続権の唯一の法的根拠は宗教的。

以上から、次のような結論が当然得られる。

権威とは、宗教上の概念であるだけでなく、全的概念。

権威は、神の絶対的法秩序、すなわちわれわれの命のあらゆる点における認識と関係をもっている。

この認識の出発点は家庭にある。

「あなたの父と母を敬え」

子は神の権威の下にある両親に身を委ね、そして従うという必要条件をもつこの戒めによって、宗教的権威にあって、基本的かつ基礎的訓練が生まれる。

もし家庭の権威が否定された場合、人は、生命組織に反する、命そのものに反する大変革の中に巻き込まれているということを意味する。

かくして、従順は命の約束を運ぶ。

コメント:

純粋な御言葉を伝えることに専念しよう

まともなクリスチャンは聖書的支配体制を希求する

教えが間違っていたらすべてにおいて間違う



#592 神の法第五戒

2020年08月15日 | 神の法
第5戒
人の権威の限界

217~
The Limitation of Man's Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

政府、家庭、教会、地域、学校、その他のあらゆる領域における唯一の権威は、神の書かれたことば。

この法言(law-word)は、人のいろいろな状態に適応され、多様な社会状況に適応される必要がある。

申命記17:9~11
レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ねなさい。彼らは、あなたに判決のことばを告げよう。あなたは、主が選ぶその場所で、彼らが告げる判決によって行ない、すべて彼らがあなたに教えることを守り行ないなさい。彼らが教えるおしえによって、彼らが述べるさばきによって行なわなければならない。彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない。

書かれたことばは、つなぎ合わせる鎖。

管理運営上の権威と立法上の権威との間の多様な関係によって、原理原則が変わることはない。

自分を拘束する法として与えられた神の法言(law-word)の権威を拒絶した者は処刑された。

申命記17:12~13
もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。あなたがイスラエルのうちから悪を除き去るなら、民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。 

一人の王が支配する場合、

(a)その者は契約の民の一人であること、すなわち、契約は信仰を必要とするが故に、信仰の人でなければならない。

(b)馬を増やしてはならない、すなわち、防衛のためではなく先制攻撃の道具としての馬を増やしてはならない。妻を増やしてはならない(多妻制の禁止)。自分のために、金銀を増やしてはならない。自分の富ではなく神の下にある人々の繁栄を目的とすべし。国が富めば民は貧窮する。

(c)王は神の法言(law-word)を持ち、読み、勉強しなければならない。「日々、主である神を恐れることができるように。この法とこれらの法令のすべてのことばを守るように。そして、それらを行なうことができるように。

(d)王の勉学の目的は、神の法秩序を促進することに加え、王の心が兄弟たちの上を行かないように。何故なら、彼は神の臣民であり、生きている間神のに対する従順の中で統治するべきであるから。

申命記17:14~20
あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。」と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。 


コメント:

火のついた矢を打ちこまれる前に

霊について語らないキリスト教

黙示録の解釈―過去派・未来派



#591 神の法第五戒

2020年08月14日 | 神の法
第5戒
人の権威の限界

215~
The Limitation of Man's Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

法が(部分を)殺すことなく(すべてを)癒そうとすれば、結局すべてを殺すことになる。

外科医は感染から身を守るために、病んでいる臓器を切除する必要がある。

しかし、炎症の程度が軽い指先などは切り落とされることはない。

体の機能的一部分として維持されるために、感染部分を消毒すればよい。

殺すも生かすも、市民政府の権威は、神のことばによって統治され、限界がある。

裁判官の権威は限定的であり、むち打ちの刑は最大40回まで。

裁判官と市民の間に一定の距離を設定し、それを超えないようにする。

罪人が裁判官によって裁かれ、罪人と裁判官がもろとも神である王によって裁かれないようにする。

刑罰は常に神の法に従属する。

通常の処罰は賠償刑。

個別的争い事などの軽い事件では、身体的処罰、すなわちむち打ちの刑が課せられる。

身体的刑罰の対象は、レビ記19:14に記されている。

レビ記19:14
あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。 

Ginsburgによると、耳が聞こえないとは、聴力の欠落している、ないし聴力がないことを言う。

第2神殿時代における法の統治によると、この禁止はあらゆるののしりに対する対抗処置だった。その法にはこう書いてあった。耳の聞こえない者、それにより悲しむ者を罵ることが禁止されるなら、耳の聞こえる者、それによって怒り悲しむ者を罵ることが禁止されるべきは言うまでもないこと。

加えて、目の見えない者の前に躓きの石を置いてはならない。申命記27:18にこうある。「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。 病いで苦しんでいる者に手を差し伸べる者は、称賛に値する者とみなされる。ヨブが近隣の人々に提供していた慈善的事業の中で、「私は盲人の目となり、足なえの足となった」とヨブは言う(ヨブ29:15)。 キリストの時代に得られた解釈によると、これは比ゆ的であると理解される。知識のない者に課税したり、アドバイスを求める者を欺いて、彼らを死に至らしめることは禁止された。弱い者に対する同様の情けはパウロにより禁止されている。ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい(ローマ14:13)。 

律法は、書かれた神の法言の卓越性を主張する。

人の権威は神の下にあり、限界がある。

神の権威は無制限。

人は、自分の求めや希望により、神のみ旨を解釈する権利はない。

人に対する神のみ旨は、神の法言に宣言されている。

市民社会秩序の形態は多様。

それは、裁判官や統治者、あるいは君主政治によって支配される共和国であるかもしれない。

申命記17:8~13
もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、ただちに、あなたの神、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ねなさい。彼らは、あなたに判決のことばを告げよう。あなたは、主が選ぶその場所で、彼らが告げる判決によって行ない、すべて彼らがあなたに教えることを守り行ないなさい。彼らが教えるおしえによって、彼らが述べるさばきによって行なわなければならない。彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない。もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。あなたがイスラエルのうちから悪を除き去るなら、民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。

申命記17:14~20
あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。」と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。 


コメント:
 
キリスト系列とバビロン系列

聖書に対しては厳密に取り組め

クリスチャンは驚異的なパワーを持つことを自覚すべきだ




#590 神の法第五戒

2020年08月12日 | 神の法
第5戒
人の権威の限界

215~
The Limitation of Man's Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

地上におけるすべての権威は神の下にあり、神ご自身ではないため、当然のことながら限界がある。

すべての(神に対しては)下位の権威の限定された性質は、多数の法において明らかにされている。

その中で興味あるものの一つが申命記25:1~3。

申命記25:1~3
人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき、もし、その悪い者が、むち打ちにすべき者なら、さばきつかさは彼を伏させ、自分の前で、その罪に応じて数を数え、むち打ちにしなければならない。四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。 

Wrightは最後のフレーズについて、こう語る。

KJV訳は正しくない、RSVを参考にせよ。ヘブル人は文字通り光とされてきた。罪に応じて取らされる罰則を人に与えることは、イスラエル人としてその者に侮辱をあたえることではなかった。その者を人前で無差別に鞭打つことは、人としての敬意をもってというよりも、動物としてその者を取り扱うということを意味した。

この点は重要。

聖書律法は、従順の時代にあって、プロの犯罪集団や救いがたい罪人集団の成長は認めてはいない。

不正を働いた単独者は、恵まれない罪人ではなく、罪深い市民であり隣人とされる。

その者は裁判にかけられ、地域社会に復帰する。

その者は恥ずべき者でも、劣った者でもない。

刑罰を終え、地域社会や権威の目にあって、彼は光とされる。

後の時代、Wallerによれば、刑罰はシナゴーグにおいて施行され、申命記28章58、59節(および他に数節)の法が読み上げられた。

申命記28:58~59
もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。

申命記のこの箇所の朗読は重要。

人による裁きの目的は、神の要求を満たし、神の裁きを避けるための宣言だった。

もしも汝が、この書物に書かれてあるこの法のすべてのことばを守り行なわないなら、主である神があなたへの災害を下されよう。

このことは、法の意図という重要な点に焦点を当てる。

救いがたい犯罪者に絞首刑を要求することにより、その法は敬虔な社会に敵対する者たちを消滅させる。

その者たちを社会から一掃する。

これは法の殺人的側面。

他方、その他の重大犯罪者や身体的軽犯罪者(むち打ちなど)に賠償を要求することにより、清めと癒しによって、法は人に社会復帰させるように機能した。

賠償金を支払った者や鞭で打たれた者は、被害者に負債を払い、社会に復帰して市民権を回復した。

申命記28章58,59節の朗読は、神癒による裁きの適応によって、神の破滅的裁きの回避を肝に銘じるために行われた。

コメント:

教会は左翼思想と手を切れ

もうサタンの誘導にのるのをやめよう

分裂について



#589 神の法第五戒

2020年08月05日 | 神の法
第5戒
人の権威の限界

214~
The Limitation of Man's Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

これは、他の諸国においても真実。

イギリスでは、エリザベス2世が1968年のクリスマスメッセージの席で、次のように宣言した。

「私の基本的なクリスマスメッセージは、今以て、私たちはみな人間の偉大な兄弟愛のメンバーということです。人間の兄弟愛が世界の未来にとってかけがいのないものであると心から信じるなら、人と国との間の理解を深めるための国際機関を支援しようではありませんか。」

ご自身によって人間を分け隔てるために来たキリストを、人間教によって人を一体化させるために来た人物であるとエリザベス2世は考える。

マルクス主義者は、エリザベス2世にみられるような精神分裂病的考え方や偽善的な考え方が欠落しているため、それよりはるかに精力的、体系的に働くことができる。

マルクス主義者らの権威とは、厳密に人間教的であり、恥も外聞もない全的誤謬によってけん引されている。

権威に関する聖書的教理の下では、神によって任命された権力(ローマ13:1)であるがゆえに、家庭であれ、学校であれ、州であれ、教会であれ、他のいかなる領域においても、すべての権威は従属的権威。そして、神の支配下にあると同時に、神のことばに従う。

つまり、あらゆる従順は最初に神と神のことばに従順であるということを意味する。

私たちは人よりも神に従うべき(使徒5:29、4:19)。

民としての従順は、確かに命ぜられてはいる(マタイ23:2、3;ローマ13:1~5;テトス3:1;ヘブル13:7、17;第1ペテロ2:13~16;マタイ22:21;マルコ12:17;ルカ20:25など)。

しかし、神に対する従順が先んじて必要であるということは明らか。

かくして、使徒たちは、福音を宣べ伝えるために、彼らの王から命令を受けた。

それ故、彼らは当時の法的権威によって黙るように命ぜられたが、これを拒絶した(使徒4:18;5:29)。

コメント:

勝利の人生




#588 神の法第五戒

2020年08月04日 | 神の法
第5戒
人の権威の限界

213~
The Limitation of Man's Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

権威に関する教理が内部に矛盾を抱えているとすれば、多様性がお互いに戦闘状態となり、最終的にバラバラになってしまうだろう。

西洋文明がさまざまな危機に瀕してきたのは、こういった理由による。

権威に関する聖書的教理はギリシャローマの人間教によって汚染されてきたため、権威に係るテンションは先鋭化し、かつ辛辣化してきた。

アメリカ合衆国における権威関連事項について、Clarkは次のように書いている。

合衆国政府が神によって任命され、かつ神から力を得ているとする教理は、モーセ律法とキリスト教律法の両者に由来する教えだ。旧約聖書には次のように宣言されている。力は神のもの(詩編62:11)。神は王たちを廃し、王たちを立てる(ダニエル2:21)。いと高き方が人間の王国において支配し、その国をみこころにかなう者なら誰にでもお与えになる(ダニエル4:32)。同様に、新約聖書にも、次のような記述がある。神によらない権威はなく、権威は神によって立てられた(ローマ13:1)。

ローマ法において、皇帝の権力は人民によって与えられると元来考えられていた。しかし、ローマがキリスト教国となった時、皇帝の権力は神から来るとみなされた。アメリカにおいても、神が政府の源であるとされた。しかし、共和国や人主主義国家においては、すべての権力は人民の中に固有のものであるということが常識となっている。

当初のアメリカにおいて、市民政府の型がどうあれ、すべての法的権威は神から来るということは当たり前のことだった。

昔ながらの伝統の影響によって、人民の権威が見直されるようになった。

この人民の権威とは、歴史上、君主政治、寡頭政治、独裁政治、ないし民主政治と全く同じものであるが、神の権威に関する教理とは全く非なるもの。

結果として、アメリカにおける神の権威は、次第に新しい神、すなわち人民へと取って代わられた。

神は人々にかしずく者とされ、民主政治を切望する一人の神と見なされる様な場合にのみ神が求められる。

コメント:

地上をサタンから奪還しよう

ディスペンセーション主義を捨てて行動せよ





#587 神の法第五戒

2020年08月02日 | 神の法
第5戒
人の権威の限界
213~
The Limitation of Man's Authority
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

あなたが母に与える食事の量を2倍にしなさい。母があなたに運んだように、今度はあなたが母に食事を運びなさい。母はあなたのために重荷を負った。しかし、彼女はその重荷を私に任せなかった。あなたが生まれた後も、母はあなたの荷を負った。彼女の乳は、3年間あなたの腹を満たした。あなたの汚物はうんざりだったが、彼女はうんざりしなかった。あなたが妻をめとった時、母があなたをどのように生んでくれたのか、あなたをどのように育ててくれたのか思い起こすが良い。妻に責めさせてはならない。小さな神であるあなたに妻の手を上げさせてはならない。

第4王朝のPtahhotepのことばを考えてみたい。

あなたが地位ある人なら、家族のことを思い、妻を愛しなさい。妻の腹を満たし、服を着せなさい。軟膏は体のための治療薬。彼女の心を喜ばせなさい。彼女は主人のために利益を生む畑。

これらのことばは美しくて、心を動かす。

道徳的な感情は推奨されるが、役には立たない。

懇願は感情に対するものであり、絶対的な道徳法に対しては無効。

家庭を守り、母や妻を保護する、絶対的な宗教上・道徳上の権威は存在しない。

また、そのような宗教的法を強要する市民的権威も存在しない。

母や妻の幸福は、個人的喜びに対して残されており、それゆえ、何かを訴えても、心の琴線に触れることもなく無駄な試みでしかない。

これが権威を持たない訴え。

コメント:

なぜ今の福音派はカルヴァンを嫌うのか?

世界史の流れを亜流から本流に戻すべきだ

黙示録を未来預言とし、反キリストの世界支配を予言するようなクリスチャンは「偽クリスチャン」である。

そのような人々についていってはならない。