御子の十字架によって、神は旧創造を切り落とした。
復活によって、キリストにある新創造に移るために。
神は暗黒の古い王国に通じるドアを塞ぎ、親愛なる御子の王国の中へと私を移し入れた。
私が誇るべきは、まさにそれが成し遂げられたというところにある。
ガラテア6:14
私に誇れるものはないだろう
もし私が私の主イエスキリストの十字架の中にいないなら
この十字架によって、世は私に十字架に付けられた
そして、私がこの世に
私のバプテスマは、その事実に対する私のおおやけの証言だ。
ローマ10:10
私の公言によって
私の告白が救いのためになされる
(Nee訳)
(疑問)
この十字架によって、世は私に対して十字架に付けられた
そして、私がこの世に対して
これはどういう意味か。
→主の十字架はこの世のすべてから我々を解放してしてくれるデュナミスがあるという意味だ。
復活によって、キリストにある新創造に移るために。
神は暗黒の古い王国に通じるドアを塞ぎ、親愛なる御子の王国の中へと私を移し入れた。
私が誇るべきは、まさにそれが成し遂げられたというところにある。
ガラテア6:14
私に誇れるものはないだろう
もし私が私の主イエスキリストの十字架の中にいないなら
この十字架によって、世は私に十字架に付けられた
そして、私がこの世に
私のバプテスマは、その事実に対する私のおおやけの証言だ。
ローマ10:10
私の公言によって
私の告白が救いのためになされる
(Nee訳)
(疑問)
この十字架によって、世は私に対して十字架に付けられた
そして、私がこの世に対して
これはどういう意味か。
→主の十字架はこの世のすべてから我々を解放してしてくれるデュナミスがあるという意味だ。
神はありとあらゆるのことをすべて成し遂げた。
この世に唯一完成された完璧な命がある。
それは何百何千万という命に移植された。
我々はこれを「新生」という。
新生とは、私が以前には持っていなかった命を受け取ることである。
私の生まれつきの命が変わった変わらないとは全く関係がない。
それは全く別の命だ。
神の命が私の命となったのだ。
この世に唯一完成された完璧な命がある。
それは何百何千万という命に移植された。
我々はこれを「新生」という。
新生とは、私が以前には持っていなかった命を受け取ることである。
私の生まれつきの命が変わった変わらないとは全く関係がない。
それは全く別の命だ。
神の命が私の命となったのだ。
ある女性が手に火傷を負って、病院に運ばれてきた。
受傷部位の瘢痕収縮を防ぐため、新しい皮膚の移植が必要と思われた。
夫人自身の皮膚を患部に移植しようとしたが、残念ながら生着しなかった。
彼女が高齢で、しかも栄養状態が不良であったことから移植片が付かなかったのだ。
ある看護師が皮膚の提供を申し出てくれたので、早速移植手術が行われた。
新しい皮膚片が古い移植片とともにうまく継ぎ合わされ、彼女は無事退院した。
昔の出来事を偲ぶように、彼女の黄色い腕に白い皮膚片が残された。
他人の皮膚がどうしてその婦人の腕で成長するのか。
どうしてかは分からない。
しかし、うまく成長したことは知っている。
この世の外科医が、ある人から皮膚片を取り、それを他者に移植できるのなら、神なる外科医が御子を私に移植できないことがあろうか。
それがどのように為されたのか分からない。
ヨハネ3:8
風はそれが望むところに吹き、あなたはその声を聞く
しかし、それがどこから来たのか知らない
それがどこへ行くか知らない
御霊から生まれる者は皆そうである
我々の中で、どのように神が御業を成し遂げたか知らない。
しかし、それは成し遂げられた。
我々が何かをする必要はないし、何かを手伝う必要もない。
復活によって、すでに神はそれを成し遂げてしまったからだ。
受傷部位の瘢痕収縮を防ぐため、新しい皮膚の移植が必要と思われた。
夫人自身の皮膚を患部に移植しようとしたが、残念ながら生着しなかった。
彼女が高齢で、しかも栄養状態が不良であったことから移植片が付かなかったのだ。
ある看護師が皮膚の提供を申し出てくれたので、早速移植手術が行われた。
新しい皮膚片が古い移植片とともにうまく継ぎ合わされ、彼女は無事退院した。
昔の出来事を偲ぶように、彼女の黄色い腕に白い皮膚片が残された。
他人の皮膚がどうしてその婦人の腕で成長するのか。
どうしてかは分からない。
しかし、うまく成長したことは知っている。
この世の外科医が、ある人から皮膚片を取り、それを他者に移植できるのなら、神なる外科医が御子を私に移植できないことがあろうか。
それがどのように為されたのか分からない。
ヨハネ3:8
風はそれが望むところに吹き、あなたはその声を聞く
しかし、それがどこから来たのか知らない
それがどこへ行くか知らない
御霊から生まれる者は皆そうである
我々の中で、どのように神が御業を成し遂げたか知らない。
しかし、それは成し遂げられた。
我々が何かをする必要はないし、何かを手伝う必要もない。
復活によって、すでに神はそれを成し遂げてしまったからだ。
福建省で竜眼という果樹を栽培している人を訪れたことがある。
彼は3エーカーから4エーカーの土地に、300本ほどの果樹を栽培していた。
樹木は接ぎ木されたものか、或いは原木が使われいるのか尋ねてみた。
彼は答えた。
「接ぎ木せずに土地を台無しにすると思うかね」
「古い台木からは何も採れやしないよ」
接ぎ木の仕方を説明してほしいとお願いしたら、彼は喜んで説明してくれた。
「台木がある高さまで成長したら、てっぺんを切り落として、その上に接ぎ木するんだ」
一本の木を指さして、彼は言った。
「あの木見たことあるかね。あれは父の木と呼んでる。他の木のために用意する接ぎ木は全部、あの木から取るんだ。自然に任せてたら、ラズベリーほどの実しか採れない。皮が薄くて種が小さいけどね。接ぎ木を採るこの木は、プラムほどの贅沢な実を付け、皮がとても薄くて種も小さい。もちろん、接ぎ木すれば、どの木からでもこんな良い実が取れるのさ」
「どうやるの」と聞いてみると
「小さなあるタイプの木を一本取って、それを他の木に移すだけだ。木が弱っていれば、割れ目を作り、丈夫な木の木片を差し込むのさ。それを縛り上げて、成長するまで放っておくんだ」
「でも、どうして育つの」
「分からない。でもうまく育つんだよ」
彼は、接ぎ木の下にある古い台木のどうしようもない実の付いた木と、接ぎ木の上の新しい台木の完熟したみずみずしい実を見せてくれた。
「役に立たない実を付けた古い枝を残しておいたんだ。違いが分かるだろう。どうだい、接ぎ木の価値が理解できたかい。どうして接ぎ木のみ栽培しているか分かったと思う」
どうして、ある木が別の種類の木の果実を付けることができるのか。
弱った木が良い実を付けることができるのか。
これを可能にするのは接ぎ木のみだ。
良い木の命を接ぎ木の中に移植することによってのみ可能なのだ。
人が木の枝を別の木に接ぎ木できるのなら、神が御子の命を取り、それを我々の中に接ぎ木できないことがあろうか。
彼は3エーカーから4エーカーの土地に、300本ほどの果樹を栽培していた。
樹木は接ぎ木されたものか、或いは原木が使われいるのか尋ねてみた。
彼は答えた。
「接ぎ木せずに土地を台無しにすると思うかね」
「古い台木からは何も採れやしないよ」
接ぎ木の仕方を説明してほしいとお願いしたら、彼は喜んで説明してくれた。
「台木がある高さまで成長したら、てっぺんを切り落として、その上に接ぎ木するんだ」
一本の木を指さして、彼は言った。
「あの木見たことあるかね。あれは父の木と呼んでる。他の木のために用意する接ぎ木は全部、あの木から取るんだ。自然に任せてたら、ラズベリーほどの実しか採れない。皮が薄くて種が小さいけどね。接ぎ木を採るこの木は、プラムほどの贅沢な実を付け、皮がとても薄くて種も小さい。もちろん、接ぎ木すれば、どの木からでもこんな良い実が取れるのさ」
「どうやるの」と聞いてみると
「小さなあるタイプの木を一本取って、それを他の木に移すだけだ。木が弱っていれば、割れ目を作り、丈夫な木の木片を差し込むのさ。それを縛り上げて、成長するまで放っておくんだ」
「でも、どうして育つの」
「分からない。でもうまく育つんだよ」
彼は、接ぎ木の下にある古い台木のどうしようもない実の付いた木と、接ぎ木の上の新しい台木の完熟したみずみずしい実を見せてくれた。
「役に立たない実を付けた古い枝を残しておいたんだ。違いが分かるだろう。どうだい、接ぎ木の価値が理解できたかい。どうして接ぎ木のみ栽培しているか分かったと思う」
どうして、ある木が別の種類の木の果実を付けることができるのか。
弱った木が良い実を付けることができるのか。
これを可能にするのは接ぎ木のみだ。
良い木の命を接ぎ木の中に移植することによってのみ可能なのだ。
人が木の枝を別の木に接ぎ木できるのなら、神が御子の命を取り、それを我々の中に接ぎ木できないことがあろうか。
ローマ6:5
もし我々が主の死のさまに接ぎ合わされたなら
我々は復活の(さま)になるであろう。
復活とともに、様相はがらりと変わる。
何故なら、目で見たことがないことが始動するからだ。
私はキリストの死のなかにバプテスマされた。
しかし、死と同じ様にキリストの復活のなかへ入るのではない。
さあ、主を賛美せよ。
キリストの復活が私の中に入るのだ。
すなわち、私に新しい命が授けられる。
主の死においては、強調点は「キリスト(の中)にある私」だった。
これも真理だが、復活においては、「私(の中)にあるキリスト」が、新たな真理として強調される。
キリストが復活した後の命を、私にどのように移植するのか。
私はどのように新しい命を受け取るのか。
パウロが分かりやすい表現で語っている。
「キリストと一体となる」
「一体化する」という単語は、原典では「移植する」と言う意味もある。
キリストの命についての非常に美しい絵が見えてくる。
この命が復活によって我々に与えられた。
もし我々が主の死のさまに接ぎ合わされたなら
我々は復活の(さま)になるであろう。
復活とともに、様相はがらりと変わる。
何故なら、目で見たことがないことが始動するからだ。
私はキリストの死のなかにバプテスマされた。
しかし、死と同じ様にキリストの復活のなかへ入るのではない。
さあ、主を賛美せよ。
キリストの復活が私の中に入るのだ。
すなわち、私に新しい命が授けられる。
主の死においては、強調点は「キリスト(の中)にある私」だった。
これも真理だが、復活においては、「私(の中)にあるキリスト」が、新たな真理として強調される。
キリストが復活した後の命を、私にどのように移植するのか。
私はどのように新しい命を受け取るのか。
パウロが分かりやすい表現で語っている。
「キリストと一体となる」
「一体化する」という単語は、原典では「移植する」と言う意味もある。
キリストの命についての非常に美しい絵が見えてくる。
この命が復活によって我々に与えられた。
この一体化とは何を意味するのか。
バプテスマの背後にある真の意味とは何か。
主の十字架において、我々はキリストの歴史的死の中へバプテスマされた。
それ故、キリストの死が我々の死となった。
我々の死とキリストの死は、もはや互いに分かつことが出来ない程になった。
これが歴史的バプテスマ、これが神が成したキリストとの一体化。
我々が水の中へと沈む時に受け入れること。
バプテスマの際に公に証言すべき内容とは、2000年前のキリストの死が包括的死であることの告白である。
すべてを洗い流すのに十分過ぎるほどの包括性と無限大の死。
我々の中にある、神に由来しないものすべてに終止符を打つ死だ。
バプテスマの背後にある真の意味とは何か。
主の十字架において、我々はキリストの歴史的死の中へバプテスマされた。
それ故、キリストの死が我々の死となった。
我々の死とキリストの死は、もはや互いに分かつことが出来ない程になった。
これが歴史的バプテスマ、これが神が成したキリストとの一体化。
我々が水の中へと沈む時に受け入れること。
バプテスマの際に公に証言すべき内容とは、2000年前のキリストの死が包括的死であることの告白である。
すべてを洗い流すのに十分過ぎるほどの包括性と無限大の死。
我々の中にある、神に由来しないものすべてに終止符を打つ死だ。
ローマ6:3
それとも、あなたがたは知らないか
我々はキリストイエスの中へとバプテスマされた者たち
彼の死の中へとバプテスマされた者たち
同6:5
もし我々が主の死のさまに接ぎ合わされたなら
我々は復活の(さま)になるであろう。
バプテスマによって、我々は次のようなことを知ることになるだろう。
死と復活の業において、神は我々とキリストの間に強靭な一体化を創った。
ある日、私はキリストにある兄弟と、このことについて熱心に話をしていた。
たまたま一緒に紅茶を飲んでいて、砂糖をひとつ摘まんで、紅茶に入れてかき混ぜた。
数分後、彼に尋ねた。
「いま砂糖がどこにあって、お茶がどこにあるって言えるかい」
「いや、言えない」
「一緒に混じって、砂糖がお茶の中でなくなったじゃないか」
「もうふたつに分けられないさ」
答えは簡単だ。
これが、死におけるキリストと我々との一体化の強靭性と徹底性だ。
神が我々をそこへ放り入れた。
神のこの御業は後戻りができない。
それとも、あなたがたは知らないか
我々はキリストイエスの中へとバプテスマされた者たち
彼の死の中へとバプテスマされた者たち
同6:5
もし我々が主の死のさまに接ぎ合わされたなら
我々は復活の(さま)になるであろう。
バプテスマによって、我々は次のようなことを知ることになるだろう。
死と復活の業において、神は我々とキリストの間に強靭な一体化を創った。
ある日、私はキリストにある兄弟と、このことについて熱心に話をしていた。
たまたま一緒に紅茶を飲んでいて、砂糖をひとつ摘まんで、紅茶に入れてかき混ぜた。
数分後、彼に尋ねた。
「いま砂糖がどこにあって、お茶がどこにあるって言えるかい」
「いや、言えない」
「一緒に混じって、砂糖がお茶の中でなくなったじゃないか」
「もうふたつに分けられないさ」
答えは簡単だ。
これが、死におけるキリストと我々との一体化の強靭性と徹底性だ。
神が我々をそこへ放り入れた。
神のこの御業は後戻りができない。
旧世界と新世界がある。
両者の間には墓がある。
神は我々を十字架に付けた。
我々は墓に引き渡されることに同意しなければならない。
バプテスマによって神の裁定が下り、御子の十字架において我々の罪が確定した。
これにより、我々が旧世界から切り離され、今や新世界に属しているという事実が確定する。
バプテスマは小事ではないのだ。
これは、旧生活からの恒久的意識的断交を意味する。
ローマ6:2
そうならないだろう
我々は罪に死んだ者たち
何故なおもその中で生きるだろうか
パウロは指摘する。
「あなたがたが旧世界に居続けるのなら、何故バプテスマを受けるのか」
これからも古い領域で生きていくというのであれば、洗礼を受けるべきではない。
以上のことを十分認識すべきだ。
旧創造を墓に引き渡すことにより、新創造のための土台が明確になる。
両者の間には墓がある。
神は我々を十字架に付けた。
我々は墓に引き渡されることに同意しなければならない。
バプテスマによって神の裁定が下り、御子の十字架において我々の罪が確定した。
これにより、我々が旧世界から切り離され、今や新世界に属しているという事実が確定する。
バプテスマは小事ではないのだ。
これは、旧生活からの恒久的意識的断交を意味する。
ローマ6:2
そうならないだろう
我々は罪に死んだ者たち
何故なおもその中で生きるだろうか
パウロは指摘する。
「あなたがたが旧世界に居続けるのなら、何故バプテスマを受けるのか」
これからも古い領域で生きていくというのであれば、洗礼を受けるべきではない。
以上のことを十分認識すべきだ。
旧創造を墓に引き渡すことにより、新創造のための土台が明確になる。
中国には2つの救急医療サービス制度がある。
「赤十字」と「青十字」の2つだ。
「赤十字」は、戦争で傷ついた人たちが対象で、救助と治療が主な業務だ。
「青十字」は、飢饉、洪水、戦争で死亡した人たちが対象となり、埋葬が主な業務だ。
キリストの十字架における神の取り扱いは、この「赤十字」より激烈だ。
神は旧創造をパッチで修復するような方法を取らない。
いまだ生きている者たちは、神によって死と弔いに断罪され、新しい命へと復活する。
神が十字架という業を為したのは、我々が死人の中に数えられているためだ。
我々はこれを受け入れ、「青十字」の業務に身を委ねる必要がある。
葬られて、死んでいることの証として検印されるためだ。
「赤十字」と「青十字」の2つだ。
「赤十字」は、戦争で傷ついた人たちが対象で、救助と治療が主な業務だ。
「青十字」は、飢饉、洪水、戦争で死亡した人たちが対象となり、埋葬が主な業務だ。
キリストの十字架における神の取り扱いは、この「赤十字」より激烈だ。
神は旧創造をパッチで修復するような方法を取らない。
いまだ生きている者たちは、神によって死と弔いに断罪され、新しい命へと復活する。
神が十字架という業を為したのは、我々が死人の中に数えられているためだ。
我々はこれを受け入れ、「青十字」の業務に身を委ねる必要がある。
葬られて、死んでいることの証として検印されるためだ。