第3戒
誓いと礼拝
p116~
Swearing and Worship
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
ここにおいて、アレクサンダーは、この律法の基本的な意味を回復している。
神は、万人にとって絶対者であり、主権者。
人間を創造した唯一の創造者、支え主、救済者。
神を真に礼拝するためには、救いに関してだけではなく、その他のすべての事柄について、神に絶対服従しなければならない。
神お一人だけが、教会、国家、学校、家庭、そして全被造物界におけるあらゆる領域において主。
それゆえ、カルヴァンが述べたように、神の御名によって誓うことは、まことに宗教的礼拝の一部分。
カルヴァンは、さらに「主の御名をみだりに唱える」に関する解説の中で次のように述べている。
神の主権を、単に文字・発音でしかないエホバという名前に限定するのは愚かであり幼稚。
たしかに我々は、神の本質を目で見ることはできない。
それにもかかわらず、神は、御自身を我々の前に明らかにし、御自身の印によって自らを啓示しておられる。
そうである以上、神の御名は我々の前に象徴として置かれている。
それは、人間がみな、自分の名前によって自らを表すのと同じ。
キリストは、神の御名は天において、地において、宮において、祭壇において認められると言われた。
(マタイ5:34~37)。
神の栄光はこれらのもののうちにはっきりと見てとれる。
したがって、神の御名は、神の至高の知恵、無限の力、正義、真理、慈愛、義と切り離される時に常に冒涜される。
もし短い定義が好まれるならば、次のように言おう。
神の御名とは、パウロが言うところの、神について知り得ること(ローマ1:19)。
それゆえ、神の主権はすべての現実を支える土台であるという事実を軽んずる時に、人間は、神の御名を例外なく常にみだりに唱えていることになる。
生活のあらゆる領域において、神の主権を軽んじたり、真実を語る義務をないがしろにすることはできない。
誓いと礼拝
p116~
Swearing and Worship
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
ここにおいて、アレクサンダーは、この律法の基本的な意味を回復している。
神は、万人にとって絶対者であり、主権者。
人間を創造した唯一の創造者、支え主、救済者。
神を真に礼拝するためには、救いに関してだけではなく、その他のすべての事柄について、神に絶対服従しなければならない。
神お一人だけが、教会、国家、学校、家庭、そして全被造物界におけるあらゆる領域において主。
それゆえ、カルヴァンが述べたように、神の御名によって誓うことは、まことに宗教的礼拝の一部分。
カルヴァンは、さらに「主の御名をみだりに唱える」に関する解説の中で次のように述べている。
神の主権を、単に文字・発音でしかないエホバという名前に限定するのは愚かであり幼稚。
たしかに我々は、神の本質を目で見ることはできない。
それにもかかわらず、神は、御自身を我々の前に明らかにし、御自身の印によって自らを啓示しておられる。
そうである以上、神の御名は我々の前に象徴として置かれている。
それは、人間がみな、自分の名前によって自らを表すのと同じ。
キリストは、神の御名は天において、地において、宮において、祭壇において認められると言われた。
(マタイ5:34~37)。
神の栄光はこれらのもののうちにはっきりと見てとれる。
したがって、神の御名は、神の至高の知恵、無限の力、正義、真理、慈愛、義と切り離される時に常に冒涜される。
もし短い定義が好まれるならば、次のように言おう。
神の御名とは、パウロが言うところの、神について知り得ること(ローマ1:19)。
それゆえ、神の主権はすべての現実を支える土台であるという事実を軽んずる時に、人間は、神の御名を例外なく常にみだりに唱えていることになる。
生活のあらゆる領域において、神の主権を軽んじたり、真実を語る義務をないがしろにすることはできない。