書道家Syuunの忘れ物

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誰も責任を取らなくなった日本国家道徳の疲弊

2007-09-19 22:03:17 | 世の中妙な??事ばかり

<wbr>学習指導要領の改訂で中央教育審議会は、「道徳の時間」を教科とはせず検定教科書も使わないという事になったという。
「道徳教育充実の必要性は中教審文科省も一致しており、指導要領改訂に向けた答申の柱の一つにする方向だった。」と言うのだが‥‥‥‥
何故か中教審委員会長の山崎正和会長は、以前から消極的であり <wbr>「道徳教育を教科の範囲でやることは無理がある」と見送った。
そういえば、つい最近「タバコ談義」で「『タバコは文化』などタバコ擁護を掲げる」と批判集中の人物だ。
よく見てみれば、「道徳」を要らないと言っている人間が一番「道徳の授業」が必要なのではないだろうか。
さて、日本の戦後の学者、政治家そして当然官僚もだが、戦前と戦後では大きな違いがある。それは、「責任」と言うものを取らなくなった事だ。
「官僚」というものは元々「責任」を取らないと言う事は、古代中国春秋戦国時代の官僚に見られるから官僚に責任を求めても無理というのもだ。
そして、実は「責任」をとる。最終責任を取るというのは「道徳」であると思う。

その場その場でのその人の責任を取ると言う事が結局道徳に繋がる。家族の中で、家族を守り子供を育てて行く最終責任。そしてその責任を貫徹するためにする努力。
全て責任という結論を生む。

例えば前出の山崎氏が「道徳がない」というのは、タバコ談義にしろ、タバコ擁護にしろそれによってもたらされる「迷惑」や「弊害に」たいして責任を取るという姿勢ではない。何でも、やればやりっ放し、後はどうとでもなれだろう。
そして、本来政治家は常に責任を最終的に取り、そしてその失敗に関して後の代まで「汚名」を残すはずなのだが、よく見てみれば「責任」などの発言はなく、しらばっくれて逃げてしまう。
あの戦後の「失われた10年」を演出した人物、責任者は未だにしらばっくれて、鬼籍には入り、しかも誰も追及しないという有様だ。もしそうなら、同様な状況再び起きたときには、また同じような「失敗」を繰り返すことにもなりかねない。
この部分は、昔の陸軍の希望的な進軍、インパール作戦その他に見られる。別に海軍も似たような事はあって、失敗をひた隠しにして責任を取らないというのは「官僚」そのままだった。
学者や政治家が責任逃れをするというのは、元々MacArthurの占領政策の結果である。
思想的には、憲法に見られる依存心なのかよく分からない。

考えてみれば、「テロ特措法」に関して、表面上小沢氏、鳩山氏は「絶対に延長を阻止する」と言っているが、彼らにその結果についての「責任」は感じられない。
どう考えても、「わがまま」を言っても誰かが、守ってくれる、補佐してくれると思われるようだ。
「責任」=「道徳」とすれば、彼ら民主党の首脳には道徳がない。

左派人士は、いわゆるA級戦犯の内絞首刑になった東条英機など人々を非難する。しかし、少なくとも彼らは「死」を持って責任は取った。同じくBC級戦犯は、伝聞や虚偽でも死刑になった。そして、粛々と受け止めたのは、誰かが「責任」を取らなければならないという意志だ。
それに比べれば、何という卑劣な人たちだろうとつくづく思うものであ
る。