ねずさんのお陰で忠臣蔵もある程度理解した積もりでしたが、やはり甘かったようです。今回の話も余りに深すぎて、改めて自分のバカさ加減に反省しかありません。
それにしても、今の劣化した日本でこれだけの考察が出来るのはねずさん以外に殆ど居ないのじゃないでしょうか。
こうなると、もう一度「忠臣蔵」を見てみたくなります。何も知らずに見ていた時と違って、一つ一つの場面にその奥を考えながら見ると言う醍醐味がありそうです。尤も、相当に疲れそうです。
何時ものように全文をリンク元で読んでください。今回も相当に長いですよ。
ねずさんの学ぼう日本より 2020/12/14
尊皇の筋を通 した赤穂浪士
・・・略
刃を振るった浅野内匠頭も、そういうことをわかっているから、松の廊下の刃傷沙汰においても、実は殺意はありません。
なぜなら、顔の傷はものすごい流血量となるのに、吉良上野介は、そこまでの流血はしていません。
ということは、刃物で切ったのではなくて、刃物の背を使って額を叩いたか、薄皮一枚の傷を負わせただけということがわかります。
浅野内匠頭は、脇差しを抜くと、刀身を返して刀の峰で吉良上野介の額を叩いたか、はじめから額の薄皮一枚を斬るという離れ業を行っているわけです。
これなら多少の出血はあっても、大流血ということにはなりません。
第二に、額に向けて切りつけられれば、誰でも手で額をかばおうとします。
ところが吉良上野介は、手には怪我をしていません。
これはおかしなことです。
顔の前に刃物を振り下ろされて、手でかばおうとしない人などいません。
ということは、浅野内匠頭の小刀の使い方は、よほどの練達であったということです。
なぜなら、吉良上野介が額を手でかばういとまも与えずに、素早く傷を負わせているからです。
まさに抜く手もみせぬ早業です。
吉良上野介が自分の額をかばう間も与えずに、額を割ったのです。
ところが、それだけの早業のできる練達の剣士であった浅野内匠頭でありながら、浅野内匠頭は吉良上野介の額に浅く傷をつけただけです。
つまり浅野内匠頭に殺意はなかったということです。
吉良上野介を懲らしめようとしただけであったのです。
もし浅野内匠頭に殺意があったのなら、脇差しで首を狙うか、肋骨の間に刀身を水平に差し込んで殺害します。
仮に殺意を持って頭部を狙ったのなら、すくなくとも吉良上野介は額を割られているわけですから、渾身の力を込めて打ち下ろしたなら、吉良上野介は頭を二つに割られて即死しています。
では、何のために額に傷を負わせたのか。
答えは簡単に見つかることです。
たとえ殺意はあらずとも、殿中で刃傷に及んだとなれば、大目付ないし老中クラスの取り調べを受けることになります。
このときに、勅使の席次について、これを改めるように建言する。
その機会を得るために、吉良を斬っています。
ただし、目的が、建言にあるのですから、吉良上野介を死にいたらしめる必要はない。
必要がないから、浅野内匠頭は吉良を殺さなかったのです。
そしてこのことから、浅野内匠頭の行動は、衝動的なものではなく、あくまで計算ずくで行ったものであることがわかります。
ただ、誤算がありました。
それは、幕府が、いきなり浅野内匠頭に切腹を命じたことです。・・・以下略
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに。 今日のねずブロは《尊皇の筋を通した赤穂浪士》です。 いわゆる「本当のこと」、「真相はかうだ」といったものは、解釈ですから、様々な解釈が成り立ちうるのです。 赤穂浪士の事件に関する一連の論考も、これ...
それにしても、今の政治家にこんな考察が出来るでしょうか。きっと、無理でしょうね。政治をそれ程に真剣にやっているとは到底思えません。
江戸時代が平和だったのも政治を司る武士の教養の高さが支えていたのでしょう。そんな時代はもう二度と来ないのじゃないでしょうか。
と考えることこそが天壌無窮を信じてないとねずさんにしかられそうです。