新国立劇場バレエ団『マノン』(7月1日)-2


  マノンの人物像がいかに表現されるべきかはすごく難しい問題だと思います。

  アントワネット・シブレーとともにマノンの初演キャストであった、ジェニファー・ペニー主演の『マノン』映像版(1982年)が残っていますが、英国ロイヤル・バレエ団のダンサーによるマノン像は、基本的には大体こんな感じでしょう。つまり妖艶な「魔性の女」系です。

  私が『マノン』をロイヤル・バレエで観たとき(2005年)、マノン役だったのはダーシー・バッセルで、バッセルのマノンもやはりシブレー/ペニー系統でした。

  それが、去年の小林紀子バレエ・シアター公演『マノン』で、島添亮子さんのマノンを観たとき、最初はやや違和感がありました。島添さんのマノンはほとんど無表情で、私が思い込んでいた「魔性の女」という感じではなかったからです。

  島添さんのマノンは、しなを作るわけでなし、流し目を送るわけでなしと、あからさまに男を誘惑する仕草や表情などはまったくなかったのです。しかし、島添さんのマノンはとてもエロティックでした。とりわけ、島添さんの大腿、膝、脛とふくらはぎ、足の甲や爪先の形、そして脚と甲の動きには、同性の私でもぞくりとするような凄まじい色気がありました。

  また、無表情なのが神秘的な雰囲気を醸し出していて、これはもう、男どもが揃ってマノンに夢中になるのも当たり前だ、と最後には大いに納得しました。

  今回の公演のゲストであったサラ・ウェッブのマノンもほぼ無表情でした。官能的という雰囲気ではなかったのですが、でも、マノンはその時々によって感情がくるくる変化する女で、その瞬間の感情自体に嘘はないのだということは分かりました。

  たとえばデ・グリューを真剣に愛していたかと思うと、次の瞬間には豪華な衣装や宝石と贅沢な生活に心を奪われて、ムッシューG.M.にしなだれかかり、また次の瞬間にはデ・グリューへの愛情が一気にほとばしるといった調子です。それはマノンの中では矛盾することではないのです。

  マクミランがマノンの人物像をどう設定していたのかは知りません。でも、マクミランの作品をいくつか観て、マクミランは人間の、理屈や道徳では割り切れない、白とも黒ともつかないグレー・ゾーンに強く惹かれていたのではないかと感じます。

  『椿姫』のマルグリットは、体は娼婦でも心は聖女という、ある意味、男性の都合のいい願望が凝縮された女です。『マルグリットとアルマン』(1963年)を振り付けたフレデリック・アシュトンへの遠慮もあったかもしれませんが、マクミランはマルグリットのような女には、何か現実離れした嘘臭さを感じ、一見すると理解不可能なマノンのほうが、実ははるかに人間らしいと感じていたのかもしれません。

  プッチーニの『マノン・レスコー』やマスネのオペラ『マノン』でのマノンは、マルグリットの原型みたいな人物設定にされており、物語もどことなく道徳的な説教くささが漂う内容となっています。「自堕落だった女が純粋な男性によって真の愛に目覚める」的な。

  ダーシー・バッセルやサラ・ウェッブのマノンには、ルイジアナの沼地でデ・グリューとさまよっていても、そこにムッシューG.M.が現れて縒りを戻そうと言えば、たぶん躊躇なくムッシューG.M.の元へ再び走るだろうと思わせる危うさがありました。バッセルやウェッブのマノンは、最後に頼れる人がデ・グリューしかいなかったから、デ・グリューにしがみついたのだと思えるくらい、最後まで油断のならない女でした。

  妖艶系であれ、無表情系であれ、マノンの人物像をどうするかは、マノンを踊るダンサー個人の問題です。観客がそれを受け入れるかどうかもまた、観客個人の好き好きの問題でしょう。どういうマノンが正しいかということはありません。

  私はペニーとバッセルによるマノン像の刷り込みが昔は強かったのですが、今となっては、そのダンサーがマノンをどういう人物として表現したいかが分かればそれで満足ですし、様々なマノン像を見ることに興味があります。それだけに、マノンを独自の解釈で表現していたらしい、シルヴィ・ギエムのマノンを全幕で観なかったことを、今は本当に後悔しています。

  今日の公演でマノンを踊ったのは小野絢子さんでした。踊りは想定内のすばらしさでした。濃いメイクをし、演技は妖艶系で、きちんと真面目に練習を重ねたことがうかがわれ、よく頑張っていたと思います。流し目を送ったり、体をくねくねとしならせたりね。しかし、率直に言って、色気のいの字もありませんでした。

  生々しさの感じられない表面的・優等生的な演技と踊りのせいで、小野さんがマノンをどういう人物として解釈し、表現したいのかが、てんで伝わってきませんでした。この役は、小野さんにはまだ無理だと思います。今回がマノンのデビューだから、というのは理由になりません。去年の島添さんだって、あれがデビューだったんですから。

  妖艶系演技で勝負するなら、ジェニファー・ペニー、ダーシー・バッセル、アレッサンドラ・フェリ、アリーナ・コジョカル、タマラ・ロホ並みの演技力があることが基本的な条件でしょう。そうでなければ、できないことを無理してやんなくてもいいと思います。

  小野さんは小野さんなりのマノンを表現すればよかったのに、と思います。絶対に「魔性の女」である必要はないと思いますよ。マノンがいくらフィクションの人物だとしても、同じ人間なんだから、同じ女なんだから、どこかで自分と地続きの部分があるはずでしょう。そこからマノンという人物をたぐり寄せるという解釈方法だってあるんじゃないのかなあ。

  デ・グリュー役は福岡雄大さんでした。非常に情熱的な演技と踊りがすばらしかったです。第一幕のソロは少し不安定でしたが、前の記事にも書いたとおり、マクミランといえば、複雑で難しいリフトに加えて、男性ソロも非常に難しいので、どの男性ダンサーも大体あんな感じです。

  片脚のままで数種類の回転を連続して行なった後、脚を下ろさずにそのままゆっくりとアラベスク、それからパンシェしてキープ、あるいはジャンプして片脚で着地、着地した片脚を軸にしてアラベスクからパンシェのままキープ、果てにはジャンプして片脚着地、そのまま片脚で回転してから、やっぱり脚を下ろさずにゆっくりとアラベスクに移行してキープ、てな、とんでもない動きです。

  これで、ほとんどの男性ダンサーは軸足がガタガタブルブルし、足の位置を調整してなんとかバランスを保つ状態になります。(今回のゲストだったコナー・ウォルシュはそうじゃなかったので、それで仰天したわけ。)

  第二幕と第三幕の福岡さんは絶好調で、娼館でのパーティーでマノンに詰め寄り、マノンが去った後にデ・グリューが踊るソロと、マノンをムッシューG.M.から取り戻した後に踊るソロがすばらしかったです。デ・グリューの葛藤や、マノンに対するほとんど苦悶に近い愛情を踊りで表現できていました。

  デ・グリューの役作りは、こう言ってはなんですが、『マノン』の中では最も容易だと思います。でも、それでも今まで観た中で、大根なデ・グリューはいましたよ。福岡さんのデ・グリューは真面目だけど気弱、優柔不断だけどマノンに対する愛情はこの上なく強い、というキャラなのがよく分かりました。

  マノンを踊った日本人の女性ダンサーは少ないですが、デ・グリューを踊った日本人の男性ダンサーはもっと少ないはずなので、その一人が福岡さんほどのダンサーだというのは誇らしいことだと思います。 

  福岡さんは、去年のビントリーの新作『パゴダの王子』で観て、はじめて個体認識しました。そのときから良いダンサーだな、とは思いましたが、なにせビントリーの『パゴダの王子』自体がこのうえなくひどい駄作だったので、すっかり記憶から消え失せていました。

  でも、今回のデ・グリューで、福岡さんの存在はしっかりと脳内に保存されました。これからも楽しみです。

  新国立劇場バレエ団が『マノン』を初めて上演したときの舞台を私は観ていません。たぶん、初演のときよりはすごく良くなったのではないかと想像します(キャストからして、マノン、デ・グリューばかりか、レスコーやムッシューG.M.もみーんなゲストだったらしい)。とはいえ、『マノン』を上演するにはまだ能力的に足りないとも思います。

  去年の小林紀子バレエ・シアターの公演と比べると、ゲスト・ダンサーを除いたダンサー個々の能力は、新国立劇場バレエ団のほうが確かに高いです。しかし、全体的な出来は、小林紀子バレエ・シアターのほうが良かったと個人的には思います。各キャストの演技は良かったし、ダンサーたちの踊りも音楽に乗ってよく揃っていたし。

  新国立劇場バレエ団には、また数年後にでも『マノン』を上演して下さることをお願いします。絶対に観に行きますから。より進化した舞台を観られることを楽しみにしております。

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