キエフ・バレエ『白鳥の湖』(1月13日)-2


  パ・ド・トロワ(オリガ・キフィアク、ユリヤ・モスカレンコ、ヘンナージィ・ペトロフスキー)は、女性の第2ヴァリエーションの音楽が通常のものと違いました(ひょっとしたらその前の男性ヴァリエーションも違ったかも?)。

  第2ヴァリエーションはジョージ・バランシン振付「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」の女性ヴァリエーション、およびルドルフ・ヌレエフ版『白鳥の湖』第一幕パ・ド・サンクで、女性の第2ヴァリエーションで使われているものだったように思います。

  キフィアクとモスカレンコは盤石の出来でした。ペトロフスキーはソロで踊るときは多少の粗さがあったものの、これといった欠点の見られないきれいな動きで踊っていたし、バレリーナ2人を交互に相手にする忙しいパートナリングもきちんとこなしていました。

  コーダでは、途中でいきなりジークフリート王子(デニス・ニェダク)が乱入(笑)、ほんの一部だけ踊りました。でもダイナミックなジャンプと回転という大技ばかりで、短い間でも見ごたえがありました。

  ニェダクは王子役をやるときと、たとえば青い鳥やバジルを踊るときとは、雰囲気も踊り方も別人になりますね。ニェダクはその身体の高い柔軟性と、それに由来する動きの独特なしなやかさは、イーゴリ・コルプ(マリインスキー劇場バレエ)と非常によく似ています。

  しかし、コルプは「薔薇の精」を踊るときと、『白鳥の湖』のジークフリート王子を踊るときとでは、役柄や動きのタイプは違えど、その動きには同じ柔らかな特徴が出ています。(コルプを貶めているのでは決してないですよ。コルプはあの個性こそが魅力なんですから。)一方、ニェダクにはそういうところがありません。役柄によって動きも完全に変わります。

  雰囲気はまだ意識的に変えられるでしょうが、踊りの動きそのものを変えるのは難しいことと思います。ニェダクはそれをやってのける上に、パートナリングも相手のバレリーナが誰だろうと安定していて、更には演技にも非常に秀でています。幅広い役柄とダンス・ジャンルをこなせる人でしょう。前にも書きましたが、たとえばジョン・クランコの『オネーギン』タイトル・ロール、ジョン・ノイマイヤー『椿姫』のアルマンなどを踊っても成功するだろうと思います。

  第一幕第二場。ロットバルトはセルギイ・クリヴォコン。『ドン・キホーテ』であの超カッコいいエスパーダをやった人です。今日はロットバルトなのでデーモン小暮閣下メイクでしたが。それに衣装のデザイン、特に羽根が短くぺらぺらすぎて迫力に欠けるのがよくないのか、ヅラがおかっぱ気味なのがよくないのか、振付がバタバタしているのがよくないのか、なんかトロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団のポール・ギースリンのロットバルトそっくりだった。思わず噴き出しそうになってしまったよ。

  そしてオデットが登場し、王子と出会い、白鳥たちがS字入場してくるわけですが、同じ版を見続けたことによる「刷り込み」というのはほんとに厄介だと痛感しました。私の場合、マリインスキー劇場バレエが上演している、コンスタンティン・セルゲーエフ版『白鳥の湖』が頭に刷り込まれてしまっているらしく、このコフトゥン版には違和感を覚えることが多かったです。

  去年の夏に英国ロイヤル・バレエ団日本公演で『白鳥の湖』を観ましたが、あのときはセルゲーエフ版とは完全に別物としてとらえていたので、違和感などはありませんでした。そもそも、英国ロイヤル・バレエ団をマリインスキー劇場バレエと同じ土俵上にのせて考えるなんて、はなからしなかったから

  コフトゥン版の白鳥の群舞構成はセルゲーエフ版とかなり違いました。大きな白鳥の踊りに至っては振付がまったく違います。コフトゥン版がなまじセルゲーエフ版と同じ系統に属するだけに、私の中の違和感も大きくなったようです。たとえば、小さな白鳥と大きな白鳥たちが小走りに登場するはずのシーンなのに現われなかったり、大きな白鳥の踊りがあのダイナミックな振付ではなく、妙にこじんまりした振付だったりしたときには、かなりな物足りなさを感じました。

  しかし、その後のグラン・アダージョからコーダまでの振付は大体同じでした。セルゲーエフ版を絶対的基準にして、他の版の振付の良し悪しを決めつけるのは良くない傾向です。もっといろんな『白鳥の湖』を観て、自分の中に知らないうちにできあがってしまった絶対的基準を壊す必要がありますな。

  オデットはエレーナ・フィリピエワ。表情と雰囲気は優しく柔らかいですが、しかし強靭な筋力と正確無比な技術に裏打ちされた動きは力強く、安心して見ていることができます。フィリピエワのダンサー人生は安穏としたものではなかったろうと思います。若くしてキエフ・バレエという有名バレエ団のプリマになりながらも、その直後にソ連が崩壊、ウクライナは独立しました。独立後のウクライナは政情不安と厳しい経済情勢に苛まれ、それは今もなお続いています。

  フィリピエワの周囲には、一種の磁場のようなものがあるかのようでした。時代の波乱の中で、黙々と実直に踊り続けてきた経験と誇りからくるのであろう、深みのある踊りの周囲を、静謐で音のない透明なヴェールが包んでいるかのようなのです。

  グラン・アダージョで客席は静まりかえり、ものすごい緊張感が張りつめていました。私もそうでしたが、観客のみなが息をつめてフィリピエワとニェダクの踊りを見つめていました。静かだけど強い吸引力と凄絶な迫力を発揮する、これがフィリピエワです。

  波打つ両腕の美しさは言うまでもなく、コーダでは、オデットが羽ばたきながら軽くジャンプした瞬間に、かかとを交差させる動きの素早さと細かさには呆然としました。コーダの最後、フィリピエワのオデットが白鳥アラベスクで静止し、音楽も一瞬途切れます。その瞬間、客席から堰を切ったように歓声が飛び、大きな拍手が送られました。

  (その3に続く。次で終わり…だと思う。)

    
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