新国立劇場バレエ団『ジゼル』(2月20、22日)-2


  バレリーナによっては、ジゼルを妙に物分かりのいい聡明な少女として表現します。しかし、ダリア・クリメントヴァのジゼルはひたすら愛らしく、純粋で素朴で、無知で無教養な村娘でした。

  ジゼルの母親であるベルタは、ジゼルの心臓が弱いことを知っていて、ジゼルを踊らせまいとします。しかし、当のジゼルは、踊ると胸が苦しくなるという自覚はあるものの、それが深刻なことだとはまったく思っていません。いたずらっぽい態度で母親の目を盗み、また母親に甘えて許しを得ては踊り続けます。

  これはいいなあ、と思ったのは、アルベルト(アルブレヒト)がジゼルの顎に手を添えて持ち上げ、ジゼルの美しさにつくづくと見とれた後、堪えきれず発作的に右手を天に差し上げて、ジゼルへの愛を神に誓うところでの、クリメントヴァの演技です。

  この場面でのジゼルの演技は同じです。アルベルトが天に差し上げた右腕を押さえ、首を振ってやめさせます。それから例の花占いの場面になるわけですが、ジゼルがなぜアルベルトの誓いを途中で制止するのか、私にはずっと謎でした。でも、クリメントヴァの演技によって、ようやくその理由が納得できました。

  アルベルトの誓いの動作は、王侯貴族のような身分の高い男性がする独特な行為なので、庶民のジゼルにはその意味と重みがよく分からなかったんですね。クリメントヴァは「なぜそんな仕草をするの?」といった風の戸惑った表情を浮かべ、「それよりももっといい方法があるのよ」と屈託なく笑い、一輪の花を手に取ります。

  ここでもうすでに、アルベルトとジゼルとの越えられない身分の差がはっきりと示されます。でも、ジゼルはアルベルトが自分の見慣れない、不可解な行為をしたことについて、深く考えずに済ませてしまいます。

  一方、ハンス(ヒラリオン)はアルベルトの仕草がきっかけで、アルベルトの正体に気づきます。ハンスに腹を立てたアルベルトが腰の左側に右手をかけた仕草です。アルベルトは普段、剣を腰に帯びているので、その癖が思わず出てしまったという演出です。これもどの版にもあります。

  ただ、クリメントヴァの演技のおかげで、アルベルトが庶民の服装をして身分を偽っていても、仕草に庶民らしからぬところがあることの意味に、ジゼルは気づかなかったけど、ハンスは気づいた、という対照がより明瞭になりました。

  多くの版で「ヒラリオン」という名前になっているハンスは、ほとんどは粗野で短気で強引な性格の人物として表現されます。

  前の記事にも書きましたが、ハンスの粗暴さを強調するために、ハンスがジゼルへの贈り物として、狩ったばかりの獲物を持ってきてベルタに渡す、あるいはジゼルの家の軒下に吊り下げておくという極端な演出もあります。あと、アルベルトの隠れ家の扉の鍵をナイフでぶっ壊して(笑)家の中に忍び込む、という演出も見たことがあります。

  今回上演されたセルゲーエフ版では、ハンスは野の花を摘んで作った花束をジゼルの家の壁に掛けておきます。他の版でも、獲物ではなく花を贈るという演出はあると思います。が、今回の舞台ではハンス役の古川和則さんの演技がすばらしく、ハンスが優しさと繊細さをあわせ持つ人物だということが強く感じられて、逆にハンスがかわいそうでした。

  ジゼルにこっそり贈った花束が打ち捨てられているのを前に、がっくりとうなだれて悔しそうに唇を噛みしめた後、投げやりな表情と仕草で花束を捨ててしまう演技も印象的でしたが、やはり最もすばらしかったのはジゼルが死んでしまった後の演技です。

  ジゼルが死んだ後、アルベルトとハンスは責任のなすりつけ合いをします。激昂したアルベルトは剣を取り上げてハンスを殺そうとします。ハンスはひざまづき、両腕を広げて、さあ殺せ、とアルベルトの前に身を投げ出します。ここまでは普通です。古川さんがすばらしかったのはこの後です。

  古川さんの横顔しか見えませんでしたが、アルベルトが従者のウィルフリードに制止されている間、古川さんのハンスは両腕を広げたまま目を閉じ、それから顔をくしゃくしゃにして地面に突っ伏し、うずくまって体を震わせながら泣きじゃくります。ここの場面での古川さんの演技はハンパなかったです。「アルベルトとジゼルの仲を裂こうとしてジゼルを死に追いやった悪役」ではありませんでした。

  アルベルト(アルブレヒト)の人物造形はかなり難しいと思います。結果的に、第一幕ではほとんどが優柔不断な超テキトー男として表現されてしまい、第二幕ではジゼル役のバレリーナのサポート要員になりがちです。

  ワディム・ムンタギロフのアルベルトも、まだ演技力と表現力が足りないようで、印象が今ひとつ薄かったです。ムンタギロフの演技ですばらしかったのは、22日の公演の第二幕、アルベルトがミルタに命ぜられて踊り続ける場面で、2回目の回転ジャンプをした後に、膝をついてがっくりと頭を落としたところです(細かくてごめん)。いかにも疲れ果てて瀕死の状態といった感じで、あの髪のなびき方が激しくて良かった。

  ルドルフ・ヌレエフのアルベルトを映像で観たことがありますが、ヌレエフは演技もすばらしいと思いました。

  第一幕の時点では、アルベルトにとって、ジゼルとの恋はしょせんはお遊びであったという解釈らしく、自分の正体がバレてもうろたえず、傲慢に開き直っていました。第二幕ではジゼルの姿を必死に探し求めてその名を呼び、ミルタとウィリたちに追いつめられて絶望した表情を浮かべ、ジゼルのおかげで命を救われた後は、呆然とした表情でジゼルとの再会をなぞるようなマイムをし、夜明けの光の中ではじめて心の底から後悔する、という表現をしていました。

  清水哲太郎さんのアルベルトも印象深かったです。こちらはヌレエフとは正反対で、庶民であるジゼルのことを心から愛していて真剣に結婚を考えており、貴族という身分つながりの婚約者であるバチルド姫には何の愛情もなく、封建的な身分制度に反感を持っている、という共和制主義・階級闘争的アルベルトでした。

  アルベルトのキャラクターの解釈は難しいでしょうが、アルベルトはどういうつもりで二股をかけたのか、要は観客の気に入ろうが気に入るまいが、自分なりの表現をしさえすれば、観客の脳内には間違いなく残るということだと思います。

  ただ、ワディム・ムンタギロフはイケメンだし、踊りは完璧だし、容姿と技術に限っていえば、新国立劇場バレエ団のここ数年のゲスト・ダンサーとしては、アンドレイ・ウヴァーロフ、デニス・マトヴィエンコ以来のヒットだと思います。またぜひ新国立劇場バレエ団のゲストに来てほしいです。

  (しつこいけどその3に続く)


 
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ドバイ免税テニス選手権 ロジャー・フェデラー総括-2


 準々決勝 対 ハゲ・アゲイン ニコライ・ダヴィデンコ(ロシア)

   6-2、6-2

  まず言いたい。フェデラーの公式サイトに掲載されている、フェデラーの試合開始予定時刻は間違ってることが多い。しかも絶対に遅く間違ってる

  去年、そのせいでフェデラーの試合を最初から観られなかったことがあった。以降、フェデラーの公式サイトに対しては「信じません あなたのことは絶対に」を標語とし、大会のネット中継の放映予定時刻のほうを信じることにしている。

  今日の試合だって、フェデラーの公式サイトでは「午後9時」となっていた。が、同じ轍は踏まぬ。ネット中継の放映開始予定時刻である「午後8時30分」のほうが正しいに違いないと思い、日本時間1日午前1時30分(ドバイとの時差は-5時間)に接続してみたら、

  ほーら、やっぱりそうじゃん。もう練習してる。試合は8時40分(日本時間午前1時40分)ごろに始まった。  

  試合は54分で終わった。あっけなかった。鋼鉄というほどじゃなかったけど、鉄フェデラーだった。

  ダヴィデンコはてんで歯が立たなかった。フェデラーが「ギアを上げた」とかいえばカッコいいんだろうが、時間が遅かったので、フェデラーもただ単に早く終わらせたかっただけではないか。

  フェデラーにはこんなときがある。取り付く島がないというか、門前払い的に相手をたたきのめすようなプレーである。強いには違いないんだけど、観ていてあまり気分が良いものではない。あれはどの大会だっけ?去年の対スタニスラス・ワウリンカ戦第3セットでのフェデラーを思い出した。あのときも確か時間が押してたような覚えがある。

  試合は「スパーン!」「バシーン!」「ゲーム、フェデラー」というパターンで超速進行し、あれよあれよという間に終わってしまったので、あんまり記憶に残ってない。けど、フェデラーの後ろ向きバックハンドのボレーがカッコよかった。それと、「ぽちっとな」という感じで、ラケットの先でボールを軽くすくい上げて返していたのが面白かった。

  ところで、実況中継によると、フェデラーの今シーズンの試合数は少ないんだってね。いくつかの大きな大会に出ないので、現在第3位のアンディ・マレーにランキングを抜かれる可能性が高いみたい。それと、フェデラーは背中の故障と闘っているとか言ってたように聞こえた。

  フィギュア・スケートの浅田真央選手を思い出す。浅田選手も、1シーズンという長い時間をかけて、自分のスケーティングを矯正したという。その間のマスコミの報道は私も覚えている。「真央不調」とか「スランプ」とか散々言っていた。

  フェデラーは、今シーズンをランクアップとか優勝数とかではなく、自分のテニスの矯正、修正、強化、そして故障の悪化予防と治療に充当するつもりなんじゃないか。マスコミに何と言われようと、長期的に自分のキャリアの計画を立てているように思える。この人はそもそも、他の選手たちとはいろんな面が違いすぎているから、他の選手たちと同じ基準で計ることはできない気がする。

  また言うけど、フェデラーはシルヴィ・ギエムみたいに、身体が常人とは違う特異な人間だろう。今のうちに、フェデラーを科学的に調べたほうがいいと思う。身体の構造と機能、体質、感覚、脳や神経の機能など。絶対に興味深い結果が出ると思うんだけどな~。


 準決勝 対 トマーシュ・ベルディハ(チェコ)

   6-3、6(8)-7、4-6

  準々決勝とあまりにレベルが違いすぎない?この大会は上から3番目のランクのATP500なのに、準々決勝に残ったのは、ノヴァク・ジョコヴィッチ(1位)、ロジャー・フェデラー(2位)、トマーシュ・ベルディハ(6位)、ファン・マルティン・デル・ポトロ(7位)と、グランド・スラムの準決勝でもおかしくない顔ぶれ。

  フェデラーは負けちゃった。まず最初に負け惜しみを書いとこう。ボロ負けしたわけじゃないからいいんじゃない?プレーの内容は拮抗してて、最後まで接戦だった。試合内容の統計を見てもほとんど差がない。最後はベルディハがパワーで押し切った感じ。

  フェデラーの対ベルディハ作戦もいいと思う。ベルディハの激速ファースト・サーブを打ち返して圧力をかけ、フォールトを誘発すること、ベルディハのセカンド・サーブでポイントを取り、更にサーブ時に圧力をかけること、ラリー戦で打ち勝つこと、ネット・プレーで決めることなど。

  ベルディハはほとんどネットに出ず、出てもネット・プレーではフェデラーにまったく敵わなかった。ベルディハのフェデラー対策はとにかくパワーで押さえ込むことなので、フェデラーにパワー系の技を封じられるともう引き出しがない。フェデラーのこの作戦はかなり功を奏していた。

  第2セットのタイ・ブレークでは、フェデラーにマッチ・ポイントが複数回あった。ここで決められなかったのは残念だけど、1ポイントしか差がなかったのだから仕方がない。また、マッチ・ポイントを握っても逆転されるのは、トップ選手同士の試合ではよくあることである。

  フェデラーのベルディハに対する苦手意識と、ベルディハのフェデラーに対する自信がよく取りざたされる。見ていると、ベルディハの自信は若さ特有の怖いもの知らずのそれ。このような「"恐れ"を知る前のジークフリート」的自信は脆いもので、長続きはしない。

  (追記:しかも、フェデラー限定の自信など自信とはいえない。2日のジョコヴィッチとの決勝戦、ベルディハは完全に萎縮してしまっており、ストレートで敗れた。)

  一方、フェデラーはすでに「"恐れ"を知った後のジークフリート」だから、苦手意識を克服できる真の強さは充分に持っている。

  この試合の主審にはちょっと問題があったようで、フェデラーもベルディハも抗議してた。ともに誤審じゃないかということ。

  まずフェデラーは、ファースト・サーブに対して主審が「レット(ボールがネットをかすめた)」とコールしたことに抗議していた。このコートのネットには、レットを自動で察知するセンサー(ボールがネットに触れると、「ピー」という機械音が鳴る)が設置されていないようで、レットは主審の目視で行なわれている。

  フェデラーはレットではなかった、と抗議していたようだった。もっとも、どちらの言い分が正しいのかは水掛け論で判定不可能。ドバイは金持ち国家なんだから、センサーぐらい設置すればいいのに。

  ベルディハの場合は、あれは誤審の可能性が高いと思う。フェデラーの返球がアウトだったのにインの判定になり、ベルディハは激昂して主審に食ってかかっていた。ホーク・アイ(複数のカメラで撮影した映像から、ボールの着地点をCGで表示するシステム)の画像でもアウトだった。ただしこれも、ホーク・アイの精度そのものにまだ疑問が呈されているのが現状のためか、結局うやむやになった。

  ちなみに、もう一つの準決勝、ジョコヴィッチとデル・ポトロの試合でも一波乱あったようで、あの温厚なデル・ポトロが大荒れだったらしい。もちろん主審は違う人だけれど、デル・ポトロはサーブを打つのが遅すぎるということで警告を受けたか、ペナルティを科されたようで、ブチ切れて主審に猛抗議していた。あと、デル・ポトロがラケットをコートに叩きつけようとして、かろうじて堪えた映像も流れていた。

  つまりは、準決勝に残ったのはみなトップ選手で、もちろんプレーの質も上がり、厳しい試合になる。そうなると、たった1回のファースト・サーブのやり直しやアウトが試合結果を左右しかねない。まして、それが誤審だったらたまったもんではない。そのことをよく分かっているからこそ、選手たちもつい熱くなる、ということなんだろう。

  1回戦の対ジャズィリ戦を観て、これだとフェデラーは2回戦あたりで負けるかもしれないな、と思ったくらいだったから、フェデラーがたった数日で、ここまでプレーの質を上げられたことが驚きだ、というのが正直なところ。  

  負け惜しみの次は、この準決勝、フェデラーが死力を尽くして勝ったとしても、報われないだろうってことである。だって、明日(2日)にもう決勝なんだって。決勝に進んだのはジョコヴィッチ。今のジョコヴィッチには誰も勝てない。たぶん、彼のキャリアで最高潮に達してる状態だから。

  ベルディハに疲弊しきって勝ってジョコヴィッチに負けることと、ベルディハに負けてさっさと次の大会にフォーカスする(ついでにベルディハとジョコヴィッチに共食いをしてもらう)こととを天秤にかけたら、私ならベルディハに負けたほうがまだマシだと考えると思う。

  実際、来週(3月4日)にはもうBNP Paribas Open Indian Wellsが始まる。これはグランドスラムの次に大きいATP1000(マスターズ)に属する大会で、フェデラーは出場予定。こっちで勝つほうがもちろん重要である。

  去年の楽天オープンとパリ・マスターズで漠然と分かったんだけど、トップ選手たちというのは「負け抜け」をやることがある。次に控えているもっと大事な大会(上の例でいうと上海マスターズとツアー・ファイナルズ)に集中するために、今の大会はほどほどに切り上げてしまう、つまり適当なところで負けてしまうのである。

  フェデラーは責任感が強いようで、ランクの低い大会であっても、出場したらちゃんと優勝するか、準決勝くらいまでは勝つ。その大会に出ることは次の大会に差し支えると判断したら、ポイントで損をしても最初から出場しない主義らしい。潔い。でも、目論見が露骨な選手たちもいて、甚だしい場合だと1回戦や2回戦で負けてしまうということをやってのける。

  私はこのことに気づいたとき、正直言って複雑な気分になったし幻滅もした。でも私たち一般人だって、仕事をするときには優先順位をつけて行なうし、真面目にやるときは真面目にやるけれど、時にはほどほどに手を抜きもする。それと同じことなのである。

  フェデラーに話を戻すと、他のトップ選手たちの目標は、とにかく勝ってランキングを上げること、優勝実績を積み重ねることにあるだろう。しかし、フェデラーはそんな目標はとうに達成してしまっている。じゃあ何がフェデラーの次の目標なのかは知らないが、今季を何らかの調整期間にしているのは確かな気がする。いずれまた、フェデラーが優勝カップを持って笑っている姿を見られることだろう。


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