(原題:Ladri di Biciclette )1948年作品。第二次世界大戦後のイタリアで作られたネオレアリズモ映画の代表作。昔テレビ画面で鑑賞したような記憶があるが、今回私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”での特集上映にて、初めてスクリーンで観ることが出来た。話自体は重苦しいもので、描きようによっては悲惨なだけのダークな映画になったところだが、一方で力強さや突き抜けたような明るさも存分に感じられる。かなり奥行きの深い、語る価値のある作品かと思う。
戦争が終わって数年経った頃のローマ。経済は回復しておらず、町には失業者が溢れていた。そんな中、2年間も職を得られず職安に通い詰めていたアントニオ・リッチは、ようやく役所のポスター貼りの仕事を得る。業務には自転車が必要だが、あいにく自前の自転車は質入れ中。そこで妻のマリアが家のベッドのシーツを質に入れ、その金で買い戻す。意気揚々と仕事に出かけたアントニオだが、初日に自転車が盗まれてしまう。自転車が無ければまた職を失うことになり、彼は6歳の息子ブルーノと一緒に自転車を探し回る。
ほぼ全編でロケーション撮影が敢行され、雰囲気はドキュメンタリーに近い。主人公を襲う逆境の数々には観ていて身を切られる思いだ。警察に届けても“自分で探せ”と言われるだけ。町で犯人らしき者を見かけて追いかけるが空振りに終わる。ついには当初バカにしていた、マリア行きつけの占い師に頼み込む始末。アントニオの、絵に描いたような小市民ぶりには共感できるし、そんな父親を慕うブルーノの純情には泣かされる。
ただし、決してシビアな展開ばかりではない。主人公の困窮に何とか手を貸そうとする友人のバイオッコとその仲間たちの心意気には胸を打たれるし、終盤に切羽詰まったアントニオが起こした不祥事に対する“被害者”の配慮は有り難いとしか言えない。それに、犯人らしき者が住む地域の住民の結束や、資本家の横暴に対する労働組合の存在感など、地元のコミュニティがしっかり機能していることが明示されている。この共同体の存在が戦災からの復興を予想させて、鑑賞後の心象は重いものではない。
ヴィットリオ・デ・シーカの演出は見上げたもので、モチーフを無理なく配置して主人公たちの境遇を的確に映し出す手腕には感服した。キャストはプロの俳優を使わず素人を起用しており、アントニオに扮するランベルト・マジョラーニは失業した電気工で、ブルーノ役のエンツォ・スタヨーラは監督が街で見つけ出した子供だ。リアネーラ・カレルやジーノ・サルタマレンダといった脇の面子もプロ顔負けのパフォーマンスを披露している。
なお、終映後に何とメイキング映像が挿入されている。撮影風景やキャストに対する監督の演技指導の様子などが示され、これが実に面白い。驚いたのは、エキストラに当時19歳のセルジオ・レオーネが参加していることで、彼がこの十数年後に娯楽映画史上に残る快作の数々をモノにすることを考えると本当に感慨深い。