この記事では「行者越え」の下部まで着き、そこから急傾斜の岩場に取り付いて越えていきます。この場所はやや危険ですので東海自然歩道では別に安全ルートとしてう回路が作られています。
鳳来寺の本堂は山上にあり、そこに行くには昔からある、長い石段を登っていく道と、自動車道路(鳳来寺山パークウェイ)を使う方法があります。
全国的に有名な山ですので昔から文人墨客が集うところでもありました。
徳川家康の御母堂がこの寺に参詣して子授かりを祈願して徳川家康を懐胎したした話はおそらく全国区のことではないでしょうか。
そのほかに松尾芭蕉、若山牧水、種田山頭火の足跡もありますが、この寺の開祖利修仙人を役の行者(役小角)が訪ねてきたこともあるそうです。
その記述のあるのは歌川広重の「東海道風景図會」の後編で、まさにこの行者越えのくだりでのことです。
この本は国立国会図書館に所蔵されていて、広重の挿絵のある版画本です。
絵のわきに文章が入っていてその表題は「三州鳳来寺 行者帰」となっています。
ここでは「行者帰(ぎょうじゃ帰り)」ということであり、「行者越え」ではないことに注目ですね。
広重の書いた文章を読み下すと、こう書いてあるようです。(記事では後の方に画も入れます)
「三州鳳来寺 行者帰
鳳来寺本尊薬師如来也 世に峰のやくしと云(う)
当山の峰より東の方、大野へ出る道にして、
昔、役の行者登山の時 岩路(を)さが(嶮)しくして登りかた(難)く、
本道より到り、利修仙人に逢い玉ふ故に
行者かへりといふよし
今参詣の同者一里の近道なればあやふきをしのぎて
是より登るもの有(り) 下りには荷物杖笠のたぐひを上より
なげ落とし身軽になりて岩角に取りつきからうじて梺(ふもと)に下り
今世俗(で)行者ごえといふは、あやまりならんか」
つまり役の行者様はこの岩場が嶮しすぎて、取り付くことをせずに、引き返して、ほかの道から目指す寺に着き、そこで利修仙人と出会ったがゆえにこの岩場を「行者がえり」と言ったようだとあります。
ところが江戸時代の頃には、その岩場を通れば近道になるので、身の危険を冒して登って行ったり、下りの時には荷物を投げ落として両手を空けて岩に取りついてやっとのことで岩の根元に下り立ったとあります。
ついでに「行者越え」という呼び名は誤りではないかと言っています。
さて、ここで「行者」とは誰を指すのかということですね。
「行者がえり」では役の行者を指すでしょうね。
「行者越え」では修行者全般を指すと考えればどちらも納得できます。
湯谷(ゆや)峠 ↓
山深い中に峠があります。ここで湯谷温泉方面から来た道と合流します。
パークウェイと交差 ↓
ここで舗装道路と交差します。この舗装道路はかつて鳳来寺山パークウェイという有料道路でしたが、今は無料開放されています。
名前はそのまま踏襲しているようです。「鳳来寺山歩道橋」を使ってまた山中に入ります。
山中の道 ↓
これなら夏でも涼しく歩けそうです。
マメヅタ ↓
シダ植物のマメヅタが大木に着いています。野生ランのマメヅタランはこのシリーズの後の方に出てきます。
パークウェイ歩き ↓
再度パークウェイに出ましたが今度はクロスせずにこの道を歩きます。
行者越え歩道橋 ↓
車道歩きの途中であの歩道橋に行きますが、案内がやや不十分で、うっかりと通り過ぎてしまいました。
通り過ぎた箇所 ↓
車道を右折してこの山道に来るのが正解です。
行者越えの基部到着 ↓
ここには東海自然歩道のう回路が付いていますから、そちらを使えば役の行者のように「行者帰り」となりますね。
小生は、この岩場に取りつきますから「行者越え」となります。
以下に広重の画と、国立国会図書館所蔵本の広重挿し絵冊子「東海道風景図会」の一部を並べます。
左側の説明文はとても読めませんが、冒頭の読み下文を参考にしてください。
行者越えの岩壁にはいくつもの石像が置かれています。
大げさに言えば命からがらこの場所を通行したので、神様仏様にも身の無事を頼んだことでしょうね。
コウヤボウキ ↓
岩場でコウヤボウキを見ましたが、やや見づらい構図でしたね。
やっと得られた視界 ↓
岩場から目を上げると、遠くに静岡・愛知県境の稜線が見えています。
登り切ってまた樹林の中に入っていきます。 ↓
ここまで歩いて相当疲れましたので、樹林下の日当たりで、食事をとってから歩き出します。
夫婦岩 ↓
山中にプチ・プチ・プチ二見浦がありました。
鳳来寺の本堂は山上にあり、そこに行くには昔からある、長い石段を登っていく道と、自動車道路(鳳来寺山パークウェイ)を使う方法があります。
全国的に有名な山ですので昔から文人墨客が集うところでもありました。
徳川家康の御母堂がこの寺に参詣して子授かりを祈願して徳川家康を懐胎したした話はおそらく全国区のことではないでしょうか。
そのほかに松尾芭蕉、若山牧水、種田山頭火の足跡もありますが、この寺の開祖利修仙人を役の行者(役小角)が訪ねてきたこともあるそうです。
その記述のあるのは歌川広重の「東海道風景図會」の後編で、まさにこの行者越えのくだりでのことです。
この本は国立国会図書館に所蔵されていて、広重の挿絵のある版画本です。
絵のわきに文章が入っていてその表題は「三州鳳来寺 行者帰」となっています。
ここでは「行者帰(ぎょうじゃ帰り)」ということであり、「行者越え」ではないことに注目ですね。
広重の書いた文章を読み下すと、こう書いてあるようです。(記事では後の方に画も入れます)
「三州鳳来寺 行者帰
鳳来寺本尊薬師如来也 世に峰のやくしと云(う)
当山の峰より東の方、大野へ出る道にして、
昔、役の行者登山の時 岩路(を)さが(嶮)しくして登りかた(難)く、
本道より到り、利修仙人に逢い玉ふ故に
行者かへりといふよし
今参詣の同者一里の近道なればあやふきをしのぎて
是より登るもの有(り) 下りには荷物杖笠のたぐひを上より
なげ落とし身軽になりて岩角に取りつきからうじて梺(ふもと)に下り
今世俗(で)行者ごえといふは、あやまりならんか」
つまり役の行者様はこの岩場が嶮しすぎて、取り付くことをせずに、引き返して、ほかの道から目指す寺に着き、そこで利修仙人と出会ったがゆえにこの岩場を「行者がえり」と言ったようだとあります。
ところが江戸時代の頃には、その岩場を通れば近道になるので、身の危険を冒して登って行ったり、下りの時には荷物を投げ落として両手を空けて岩に取りついてやっとのことで岩の根元に下り立ったとあります。
ついでに「行者越え」という呼び名は誤りではないかと言っています。
さて、ここで「行者」とは誰を指すのかということですね。
「行者がえり」では役の行者を指すでしょうね。
「行者越え」では修行者全般を指すと考えればどちらも納得できます。
湯谷(ゆや)峠 ↓
山深い中に峠があります。ここで湯谷温泉方面から来た道と合流します。
パークウェイと交差 ↓
ここで舗装道路と交差します。この舗装道路はかつて鳳来寺山パークウェイという有料道路でしたが、今は無料開放されています。
名前はそのまま踏襲しているようです。「鳳来寺山歩道橋」を使ってまた山中に入ります。
山中の道 ↓
これなら夏でも涼しく歩けそうです。
マメヅタ ↓
シダ植物のマメヅタが大木に着いています。野生ランのマメヅタランはこのシリーズの後の方に出てきます。
パークウェイ歩き ↓
再度パークウェイに出ましたが今度はクロスせずにこの道を歩きます。
行者越え歩道橋 ↓
車道歩きの途中であの歩道橋に行きますが、案内がやや不十分で、うっかりと通り過ぎてしまいました。
通り過ぎた箇所 ↓
車道を右折してこの山道に来るのが正解です。
行者越えの基部到着 ↓
ここには東海自然歩道のう回路が付いていますから、そちらを使えば役の行者のように「行者帰り」となりますね。
小生は、この岩場に取りつきますから「行者越え」となります。
以下に広重の画と、国立国会図書館所蔵本の広重挿し絵冊子「東海道風景図会」の一部を並べます。
左側の説明文はとても読めませんが、冒頭の読み下文を参考にしてください。
行者越えの岩壁にはいくつもの石像が置かれています。
大げさに言えば命からがらこの場所を通行したので、神様仏様にも身の無事を頼んだことでしょうね。
コウヤボウキ ↓
岩場でコウヤボウキを見ましたが、やや見づらい構図でしたね。
やっと得られた視界 ↓
岩場から目を上げると、遠くに静岡・愛知県境の稜線が見えています。
登り切ってまた樹林の中に入っていきます。 ↓
ここまで歩いて相当疲れましたので、樹林下の日当たりで、食事をとってから歩き出します。
夫婦岩 ↓
山中にプチ・プチ・プチ二見浦がありました。