ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

歩こう歩こう・・・・わたしは元気?に散歩。(上の部):身近にあるさまざまな紅葉と黄葉を楽しみます。

2015-11-13 10:39:35 | 草花
山から下りてきて、二日目ともなりますと、疲れた筋肉を少しはほぐしてやりたくなります。
昼ご飯を食べてから、近所を歩き回ることにしました。
空は晴れ上がってはいませんが、幸いなことに雨も落ちてくることはなさそうです。


一応目的とするものは以下に三つ定めてありますが、気長にのんびりと歩いていくことにします。
1つは、ナツツバキの種を採取すること
2つ目は、キカラスウリの実の色づき具合を確かめること
3つ目は、シャシャンボの実を試食すること

この三つですが、さて、どうなりますか。

ヒメツルソバ ↓

民家の石垣についていますが、花は末期で、葉が黄葉し始めています。



イチジク ↓

イチジクの収穫は終わり、取り残されたこの実は、おいしくはなさそうです。



ナツツバキ ↓

公園のナツツバキの下に来ました。実の莢が開いていて、来るのが遅かったようです。
種の採取はできませんでしたが、美しい紅葉を見ることはできました。



電柱 ↓

歩道橋を渡るときに、目の前に電柱がありましたので、その仕事ぶりを間近に見ることができました。



キカラスウリ ↓

キカラスウリのところに来ましたが、たくさん生っている実はどれもみな青かったですね。
わずかにこれ一つだけが黄色くなっていました。後日もう一度来ることになりそうです。



チェリーセージのホットリップス三態 ↓





こういう風に変化があることを知りませんでした。


ザクロの二段階 ↓



実の近くで花の咲いた木も見ました。



ハナゾノツクバネウツギ ↓

ハナゾノツクバネウツギの花が終わって、萼片のつくばねがいくつも見えています。



桜の紅葉 ↓

青空に差し出された紅い葉、桜は春と秋に見せ場が二度もあります。



ナンキンハゼ ↓

公園の大木です、これからもっと赤くなりそうです。



アキニレ ↓

公園内でアキニレも見ました。花が小さいので、今咲いているのか、それとも花の後なのかよくわかりません。



ドウダンツツジ ↓

公園内のドウダンツツジですが、刈り込まれていますが、よく紅葉しています。



蛍の出る環境 ↓

公園内の池に蛍を飛ばそうとして、そのように環境を整えている場所があります。
子供を連れてお散歩中のお母さんに尋ねると、時期には飛ぶということでした。



サルスベリ ↓

サルスベリもこのように見事な紅葉を見せてくれるのですね。



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11/10日 深田久弥を偲んで、深田記念公園、終焉の地、茅ヶ岳山頂に手向けたもの

2015-11-13 07:13:21 | 草花
深田久弥は1903年に生まれ、1971年に68歳で亡くなりました。
その人の一生を、たった一行で表したのは簡単すぎますね。
では、改めて、年譜的に見てみましょう。
お仕事は作家(随筆家)であり、登山家でもありました。
「日本百名山」を著して、そのことによって名前を知っている方も多いことでしょう。
ところが、作家としては、大した創作はないのですね。

そればかりか、同棲していた女性の作品の焼き直し(盗用)をしているのです。
10年後にその女性と入籍したものの、その一年後には、初恋の女性(志げ子)と会い、道ならぬ恋に落ち、脊椎カリエスで寝たきりの妻を差し置いて、志げ子と逢引を繰り返します。

挙句は1943年に志げ子との間に子供ができてしまうのです。
1947年に最初の妻と離婚、志げ子と再婚します。
最初の妻に作品焼き直しの件を暴露されたため、作家としての深田の信用は暴落し、10年以上にわたる雌伏生活を余儀なくされたとあります。

結構やりたいことをやっていた人でしたね。でも、人は死んでも作品は残ります。
人間の複雑さは、底知れぬものがあります。ここは一つ、清も濁も併せて丸めましょう。

1959年(昭和34年)- 1963年(昭和38年)にかけて、山岳雑誌「山と高原」(朋文堂)で毎月二山の連載を50回行い、推敲を行い、新潮社から1964年に『日本百名山』を出版し、これが今に続く人気の売れ行き本になっています。
これは文学的な創作品というよりも山岳随筆ですね。

「日本百名山」という作品は、この時代の人らしく、故事来歴に詳しくて、適当な格調もあり、山好きの人にはとても心地よい書きものとなっています。

深田久弥は前出のように68歳で亡くなったのですが、それは、1971年(昭和46年)3月21日の茅ヶ岳登山中に、山頂直下の登山道で突然、脳卒中を発症したことによります。
その場所には、『深田久弥先生終焉の地』と表記された石碑が立っています。

今回は、所用で山梨県の北杜市を訪問しましたが、そのついでに?(逆?)、深田久弥のゆかりの地を訪ねて、茅ヶ岳登山もしてきました。

こんな山容です。 ↓

韮崎市の郊外から眺めた、中央は金ヶ岳、右が茅ヶ岳です。
山の連なりが、近くにある八ヶ岳に似ているので”ニセ八つ”とも言われます。



駐車場 ↓

道端に”深田記念公園駐車場”とありました。ここに車を止めて、歩きだします。
空模様が怪しいので、傘を持って行きます。



深田記念公園 ↓

駐車場から100mほど歩いたところにこじんまりした、”深田記念公園”がありました。



紹介文 ↓

この文中の中央部分に、深田久弥の臨終の模様が記されていて、
”「このあたりは、イワカガミが咲いて、きれいです。」との言葉に、すっかり喜び「そうですか」とうなずいたのが最後だった・・・。”
というくだりにご注目ください。
小生はこの言葉に激しく心を動かされたのです。



百の頂に…石碑 ↓

深田久弥の「百の頂に 百の喜びあり」という言葉が刻まれています。
雨が降り出してきましたので、傘を広げて、山道を歩いていきます。



女岩のコル ↓

登山道はずっと沢のようなところをたどっていましたが、約2時間弱で、稜線にやっと着きます。
ここから5分もしないうちに深田さんは倒れたのでした。



その現場 ↓

1971年3月、ここで深田さんが倒れた時の様子は、当時の同行者である山村正光さん(国鉄車掌・日本山岳会会員)が当時の「山と渓谷」に状況を書いた、生々しい手記を寄せていました。
その手記を読んだ時は、もう少し、広い場所かと思っていましたが、実際に来てみると、この場所は石碑がない限りは、何の変哲もない、普通の尾根上の一か所でしかありませんでした。



石碑 ↓

その現場には石碑が立っていて、花が手向けられています。
石碑には「深田久弥先生終焉の地」・「一九七一年三月廿一日」と刻まれています。



イワカガミ探し ↓

深田さんが、その山行では見ることなかったイワカガミを探して歩いていくと、山頂が近づいたところで、イワカガミが出てきました。時季が時季ですので、花はもちろんついてはいません。



茅ヶ岳の山頂 ↓

深田さんのキャリアなら、健康体でありさえすれば、ここに至るのに何の造作もないことですが、急死されたことによって、頂に立つことができませんでした。
これを「無念の死」と思う方もおられるようですが、小生は違うと思いましたね。
山好きの一人の人間が、「これは・・・」と思った山にいて、そこで仲間に囲まれて絶命した、ということですから、”ぴんぴんころり”を地で行ったことになります。



手向けのイワカガミ ↓

三角点の標石の上に、深田さんが見たかったであろう、イワカガミ。
その葉を二枚と、花の咲いた後の花茎を一本手向けて個人の冥福を祈りました。


なお、日本百名山として、人々が一極集中的に、100に挙げられた山に群がる傾向に、深田さんは困惑していたと聞きます。
深田さん自身はよく、「山で誰にも会わなかった」ことを指して、「山を独り占めできた」として喜んでいます。
「百の頂に百の喜びあり」という人であり、山の個性をそれぞれ楽しんだ方でしたね。
また、自分の中で一番好きな山はどれか・・・?、と聞かれた時には、必ず、つい最近登ったばかりの山の名前を挙げていたとも聞きます。

小生は深田さんの年齢を4つも超えてしまいました。
深田さんのゆかりの地を訪れて、彼を偲び、同じようにこの茅ヶ岳が、一番好きな山になっています。
コメント (6)
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