#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

ONE LIFE

2006-02-10 | Photo-diary
この世界には理解の及ばない大きな「何か」があって
そういった大きな流れの中で生きている…と、前回書いたが、
その「何か」は「そうだ、宇宙だった。」…と、ひとりごちた。

「風の旅人」というスケールの大きな隔月刊誌がある。
その編集長、佐伯剛さんの巻末の言葉を読んで、納得した。

親鸞が説く「南無阿弥陀仏」を、宇宙的スタンスで捉えると
その言葉が非常に生き生きと感じられてくる。

小さな「自分」を超えた、大きな存在がある。
人と人との関わりの中に「自分」の存在はある。
自立より、他力でこそ、見えてくるものがある…と。

それは、つまり、宇宙に他ならない。

       宇宙に存在するすべてのモノは、個々が互いに影響を受け合いながら、
       誕生から成長と、衰退から解体を繰り返し、生々流転を続けている。

ONE LIFEだ。

森羅万象すべてのモノは、この大きなひとつの生に収斂され、
互い同士が細かな血管でつなぎ止められた存在なのだ。

佐伯編集長は、さらに理知に富んだ言葉を紡ぐ。

       人間が人間として生きはじめた時、従来の生物に比べて認識力が
       飛躍的に高まったとされる。そのことによって、自分が生きる世界の
       多くを知ることになった。多くを知れば知るほど、世界がミクロから
       マクロまで様々な領域に分断されて感じられ、寄る辺のない不安に
       晒されることになっただろうと想像できる。

人間の認識力の目覚めが、知恵の及ばない「何か」の存在を気づかせ、
不可解な「何か」を理解の裡に納めようと、さらなる探求心で世界の手の内を暴こうとする。
その原動力は、まさに「不知」の不安である。「知らない」ことへの不安だ。

       その不安を克服するために、世界から目をそらそうとした者もいただろうし、
       混沌の世界を秩序あるものとして掌握しようとする意志を持ち、苛酷な困難のなかで
       心身を深く傷つけ、痛切なまでの負荷に耐え忍びながら解決の糸口を探ろうとした
       者もいたのではないか。儀式や、神話や、芸術は、その痛みの裂け目から
       噴き出るように生じたのではないか。

自分の裡に「宇宙」の存在を感じ、100億光年彼方の銀河も地球上の生物も、
すべてが互いに影響を受け合いながら、混沌と「かたち」を繰り返し、
大きな流れの中で編み目のように連なって、生々流転を続けていると考えれば、
自分自身の「生」の尊さもひときわ際だってくるのではないか。

       この宇宙のなかで自分の心身に呼応するものは、
       ポジティブなものもネガティブなものも、一つの生が脈打つ
       無限の連なりのなかにある。自分自身を含めて、一つの生のなかに
       あるものは、無理矢理に排除することはできない。

つまり「因縁」である。
自分の存在は編み目の連なりのひとつであって、周りとの関係性のなかで存在している。
そのことを排除し、否定することはできないのだから、ここはひとつ、任せてみよう…と
説くのが「南無阿弥陀仏」の説法だ。

さらに、ここで「深い!」と唸らせたのが、
自分の存在を任せきる…そんな大きな心持ちになるには、
自分自身をみつめることだ…という逆説だが、
編集長の言葉はさらに続く。

       排除するのではなく、自分とどう関係しているのかを
       自分の感受できる範囲で知りたいと願い、あがき、考え続ける。
       そうした疼きのような負荷に堪え忍ぶことでしか、
       人間の新しい意識と現実は生まれてこないだろう。

説法どおりだ。
大きな流れの編み目の連なりであることを、その関係性を理解し、
自分のポジションを理解することで体得しなければ、流転の明日は来ないのだ。

日頃の生活に、常に「宇宙」を感じてみようと思う。


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