チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』@シアタートラム
岡田さんが震災のことをどのように描くのか、とても気になって観劇。
想像以上に静謐かつ心揺さぶる作品でした。
あのときの感覚がまざまざと湧き起こり、月日の流れに途方もなくなりました。
どストレートに作品の核心が突き刺さった感じです。
震災と原発事故が起こった直後の数日間に、わたしに押し寄せてきた感情のなかには、
悲しみ・不安・恐怖だけでなく、希望も混じっていた。
これだけの未曾有の出来事が起こってしまったことは、
そうでなければ踏み出すことの難しい変化を実現させるためのとば口に、
わたしたちの社会を立たせてくれたということになりはしないだろうか。
そう思ったのだ。あのときは。
未来への希望を抱えた状態で死を迎えた幽霊と、生者の関係を描こうと思った。
死者の生はすでに円環を閉じ、安定している。
生き続けているわたしたちはそれを羨望する。
わたしたちは苦しめられ、そこから逃げたくなって、忘却をこころがける。
_岡田利規
これがチラシに記載された演出家のコトバ。
確かに逃げているなぁ…と。
『東京を前へ進める!』とか、安倍がポスターで息巻いてるけど、
いったい何を?前に?進めることを?誰が?望んで?いるのだろうか。
それって、『立ち止まりたくない』だけなのでは?『直視したくない』だけなのでは?
震災直後、堅牢だった現実が見事に破綻して、
円滑だった都市機能が完全に滞ったことを前にして、
みなが悲しみ・不安・恐怖を抱いたのだけど、
そこに混じって「希望」(…ボク的には「喜び」…ほくそ笑むような、)があったのは否めないと思う。
堅牢で冷たい、突き放すような構造物も、
森や山や海と同じように、自分の存在と地続きで、仄かに交わるような感覚。
目に見える世界が全てではない…と思える、
軋みや歪みから仄見える「あちら側」。
街行く人やすれ違う人々の体温が、いつもより身近に感じ、
世界が円環し巡っている…と。
自分の身体範囲が伸びたような、居心地の良さを感じた。
人と人の連帯感…というか。命そのものへの愛おしさ…というか。
劇中、静謐な部屋から様々な自然音が耳に届く。
虫のさえずりだったり、水滴が地を穿つ音だったり、
踏切の警告音や、列車のすり抜ける音だったり。
そういった音の連なりが、無機質な劇場空間に体温をもたらすのだけど、
それって、自分たちの日常でも見喪っている感覚でしょ。
立ち止まって耳を澄ませば、自然とからだに入ってくる。
目を閉じれば、おのずと聴覚が研ぎ澄まされ、
世界における自分の立ち位置が確認できる。
結局わたしたちは、
生まれ持った全能感=この世界と地続きにつながっている感覚を、
震災で生まれた「とば口」によって、恢復できたはずだった。
月日の流れとともに、いつしかその感覚から逃げるように、立ち去るように、
「前を向け」と仕向けられるように、他律的な存在になってしまう…って、
どういうことなんだろう?
その全能感が、この社会にとって、
どのような弊害をもたらすのだろう。
なぜ、そこまでして断ち切らなければならないのか?
目に見える世界は完璧じゃない、堅牢じゃない…と、
あれだけ身を以て体感したはずなのに。
何に憑き動かされているのだろうか。
立ち止まれ、立ち止まって耳を澄ませ、オノレの居場所を確かめろ…。
よい作品は、自分の思考が投影されるって云うけど、今の自分が湧き上がっちゃった…みたいだな。