「みんなが潔ければいいのだが」はッと思った。
やられた! 私のことを言っているのだ。
私があの人を売ろうとたくらんでいた寸刻以前までの暗い気持を見抜いていたのだ。
けれども、その時は、ちがっていたのだ。
断然、私は、ちがっていたのだ! 私は潔くなっていたのだ。私の心は変っていたのだ。
ああ、あの人はそれを知らない。それを知らない。
ちがう! ちがいます、と喉まで出かかった絶叫を、
私の弱い卑屈な心が、唾を呑みこむように、呑みくだしてしまった。
言えない。何も言えない。
あの人からそう言われてみれば、私はやはり潔くなっていないのかも知れないと
気弱く肯定する僻んだ気持が頭をもたげ、とみるみるその卑屈の反省が、醜く、
黒くふくれあがり、私の五臓六腑を駈けめぐって、
逆にむらむら憤怒の念が炎を挙げて噴出したのだ。
ええっ、だめだ。私は、だめだ。
あの人に心の底から、きらわれている。
売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。そうして私も共に死ぬのだ、
と前からの決意に再び眼覚め、私はいまは完全に、復讐の鬼になりました。
(太宰治著「駈け込み訴え」)
●
06月13日。土曜日。
福永武史氏のひとり芝居、「駈込み訴え」を観る。
ギリシャ人の作家ニコス・カザンザキスの「キリスト最後のこころみ」における
キリストとイスカリオテのユダの関係が、ボクは好きなのだが、
太宰治の解釈も愛に溢れていて、心悼む。
「申し上げます。申し上げます。」で畳み掛けるように
訴えておきながら、師への愛情で心が二度三度裏返る。
そのリアルな愛憎二律背反な情景を、俳優・福永武史氏は
カラダ全体…いや、タマシイ全体で、演じ切った。
1万2千もの長大なユダのセリフを、
状況の流れを汲み取りながら、演じ、伝える…そのパワーたるや。
福永氏は、このひとり芝居のために、何度ユダを演じたのだろう。
セリフを吐きながら、次の展開をすでに描いていないと、
観る者を欺くことはできない。
予定調和で進行するのなら、太宰を読めば事足りる。
「あやまたず私の口にひたと押し当てました」
この恥辱をどのような驚愕さで演じるのか…。
「旦那さま。私は嘘ばかり申し上げました。私は、金が欲しさにあの人について歩いたのです。」
この最期の哀絶な己をも裏切るセリフをどう切り出すのか…。
70分間、飽きさせずにたったひとりで全ての視線を受け取る
…この状況たるや、半端ない。
●
しかし、最期に思うのだ。
これだけのパワーをなぜ、公園で放つのだろうか…と。
しっかりした箱で聴衆を集めて興業すれば、
次につながる資金も生まれるし、次につながる人との出会いもあるだろう。
13日の公演に集まったのは30名ほど。
芝居仲間や知り合いを除けば、
純然たる客は10人程度か。
道行く人を取り込もう…群衆がさらなる群衆を呼ぶ…
…というイメージでもあったのだろうか。
実際、散歩中の若者やカップルたちも一時は歩を止め、
その狂信的演技に目を向けていた。…しかし、それだけだ。
…5分と持たなかった。
沖縄でこれだけのパワーを保つ演者がいる…ということを
パブリックに知らしめたいのであったならば、
トランジットモールで10分ほどのショートものを演って、
続きは「てんぶす」で…といったつなげ方もあったのではないか?
完全なる空回りに見えてしまったのが、
共鳴しているだけに、残念でならなかった。
福永さん、今度、酒を飲みましょう。
やられた! 私のことを言っているのだ。
私があの人を売ろうとたくらんでいた寸刻以前までの暗い気持を見抜いていたのだ。
けれども、その時は、ちがっていたのだ。
断然、私は、ちがっていたのだ! 私は潔くなっていたのだ。私の心は変っていたのだ。
ああ、あの人はそれを知らない。それを知らない。
ちがう! ちがいます、と喉まで出かかった絶叫を、
私の弱い卑屈な心が、唾を呑みこむように、呑みくだしてしまった。
言えない。何も言えない。
あの人からそう言われてみれば、私はやはり潔くなっていないのかも知れないと
気弱く肯定する僻んだ気持が頭をもたげ、とみるみるその卑屈の反省が、醜く、
黒くふくれあがり、私の五臓六腑を駈けめぐって、
逆にむらむら憤怒の念が炎を挙げて噴出したのだ。
ええっ、だめだ。私は、だめだ。
あの人に心の底から、きらわれている。
売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。そうして私も共に死ぬのだ、
と前からの決意に再び眼覚め、私はいまは完全に、復讐の鬼になりました。
(太宰治著「駈け込み訴え」)
●
06月13日。土曜日。
福永武史氏のひとり芝居、「駈込み訴え」を観る。
ギリシャ人の作家ニコス・カザンザキスの「キリスト最後のこころみ」における
キリストとイスカリオテのユダの関係が、ボクは好きなのだが、
太宰治の解釈も愛に溢れていて、心悼む。
「申し上げます。申し上げます。」で畳み掛けるように
訴えておきながら、師への愛情で心が二度三度裏返る。
そのリアルな愛憎二律背反な情景を、俳優・福永武史氏は
カラダ全体…いや、タマシイ全体で、演じ切った。
1万2千もの長大なユダのセリフを、
状況の流れを汲み取りながら、演じ、伝える…そのパワーたるや。
福永氏は、このひとり芝居のために、何度ユダを演じたのだろう。
セリフを吐きながら、次の展開をすでに描いていないと、
観る者を欺くことはできない。
予定調和で進行するのなら、太宰を読めば事足りる。
「あやまたず私の口にひたと押し当てました」
この恥辱をどのような驚愕さで演じるのか…。
「旦那さま。私は嘘ばかり申し上げました。私は、金が欲しさにあの人について歩いたのです。」
この最期の哀絶な己をも裏切るセリフをどう切り出すのか…。
70分間、飽きさせずにたったひとりで全ての視線を受け取る
…この状況たるや、半端ない。
●
しかし、最期に思うのだ。
これだけのパワーをなぜ、公園で放つのだろうか…と。
しっかりした箱で聴衆を集めて興業すれば、
次につながる資金も生まれるし、次につながる人との出会いもあるだろう。
13日の公演に集まったのは30名ほど。
芝居仲間や知り合いを除けば、
純然たる客は10人程度か。
道行く人を取り込もう…群衆がさらなる群衆を呼ぶ…
…というイメージでもあったのだろうか。
実際、散歩中の若者やカップルたちも一時は歩を止め、
その狂信的演技に目を向けていた。…しかし、それだけだ。
…5分と持たなかった。
沖縄でこれだけのパワーを保つ演者がいる…ということを
パブリックに知らしめたいのであったならば、
トランジットモールで10分ほどのショートものを演って、
続きは「てんぶす」で…といったつなげ方もあったのではないか?
完全なる空回りに見えてしまったのが、
共鳴しているだけに、残念でならなかった。
福永さん、今度、酒を飲みましょう。