私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

八田若郎女

2009-07-31 13:45:31 | Weblog
「八田若郎女」<やたのわきいらつめ>と読みます。この女性が黒日売の後、大后磐日売命が、紀伊の国に、御綱柏を取りに出かけていた留守の間に出来た新しい仁徳天皇の恋人です。あの倉人女が吉備の児島の仕丁(よほろ)から聞いた女性の名前です。
 この人は実際は仁徳の異母妹であったのですが、本居宣長なんかは、どうもそうじゃあない、仁徳と一緒に育ったのであたかも兄弟のよう思われていた女性だったと、推測しています。
 でも、古事記の、応神天皇の段では、天皇の皇女として名前が載っています。従って、仁徳の異母妹として。この応神天皇の皇女皇子は沢山いらっしゃいます。合わせて26人です。その数が古事記に載るほど沢山の皇子皇女です。
 この点を本居宣長が疑問視しているのです。前後の天皇、例えば、その前の仲哀天皇は4人の皇子皇女です。
 一人の天皇の皇子皇女の26人は、余りにの多すぎる数です。他の天皇の記録には皇子皇女の数を上げてはいないのですが、応神天皇だけは「26」と言う字を特別に上げています。
 そこで、宣長が推量したのが、兄弟ではないが、何かの特別な事情で一緒に育った子供をも、皇子皇女にしたのであろうと言うのです。「庶妹」の字を当てています。「ママ」と言うのが読み方です。そのために、真の兄弟ではなかろうとおっしゃられるのです。
 でも、古事記の応神天皇の段に、「異母兄弟である」と、書いています。そのために、此の八田若郎女は、近親婚による弊害を出さないために、敢えて子供は産まなかったとする学者もいます。
 なお、この仁徳天皇の他の妃に宇遅之若郎女(うじのわきいらつめ)もいます。この人もまた仁徳の庶妹です。やはりお子様はいません。だから、この偶然だと、思うのですが、これを基にして「近親の弊害」などと言う説を唱えたのではないかと思います

 歴史って面白いですね。いくら追及して、更に、しても、次から次へと、いろいろな推理が可能なとなってくるわけです。特に、古代の「日本の歴史には」です。

磐姫皇后の嫉妬(うはなりねたみ)⑧

2009-07-30 13:49:29 | Weblog
 また、本題に戻します。
 大后である磐日売命の嫉妬が、どのように激しいかここでちょいとご紹介します。
 あの吉備海部直の女、黒日売が、その身に及ぶ差し迫る危機を感じて吉備に大急ぎで帰ろうとしたっぐらいです。日本の正史(と、言っても「古事記」だけに書かれているのです。日本書紀にはこの話は載っていません)に書かれたぐらい激しい嫉妬深い大后でした。相当あこぎな仕打ちを相手の女性にやったのではないかと考えられます。
 
 さて、大后磐日売命に仕える大倉女、「はした女」に(多分、皇后の衣服などを洗濯ししたり、アイロンを当てたり、破れ物を繕ったりするような、ごく下っぱな女であったのでは?)語った吉備の児島の仕丁(よほろ)の都の噂は、次のように古事記には書かれています。

 「天皇(仁徳)はこの頃、大后磐日売命の不在をいいことにして八田若郎女と夜も昼も<戯遊(タワレマスヲ)〉・・・・」   ◌
 と。
 この戯遊とい言葉は現在の言葉に直すとすれば、「遊びほうけている」と言うぐらいの感じの言葉だそうですが、何かセックス的な匂いがいっぱいにする言葉だと思います。
 「一日中、お二人で、宮殿内でねちゃねちゃと、◌ ◌ ◌ ◌ あっておられる」と、いうぐらいの、余り上層階級の人たちの間では使われていないような、下ス者の使うような下品な言葉だと思います。

 此処で、この二人のはした女の会話をお聞きください。
 「・・・ところで、今、難波の都じゃあ、天皇さんの噂を、ぎょうさんしているでえ。あんた知とってん・・」
 「どんな噂?・・うちー、長いこと、紀の国へ行っとたさかい、近頃の都の話なんか、とんと耳に入っておらへん。、どんな噂・・・・そげんじらさんと、はよう聞かしててな」
 「そうじゃったなー。長えこと、都にゃあ、おりゃあへんかったけえ、知らんじゃろうなあ。」
 
 と、言うことで、吉備の女が、難波の女に、八田若郎女と天皇の話を語ったのです。

 続きはまた明日に。

吉備国児島の仕丁と大倉女③

2009-07-29 21:17:35 | Weblog
 またちょっと横道にそれますが。

 吉備の国の児島の仕丁に、難波の大湊で逢った、大倉女は、采女や女孺といたそんなに高い身分の女官ではなく、児島の仕丁(ヨホロ)と同じようなはした女だったと思います。
 高級な女官だったらとしたら、大后の船から遅れる船に乗っているはずがありません。

 「女孺(にょじゅ)」が奈良の時代に。その身分の高さゆえに、どのような社会的制約を受けていたかを示す資料がありませうので、「吉備」とは何ら関係がなありませんがお知らせします。

 それは万葉集にあります。「中臣朝臣宅守の蔵部の女孺狭野茅上娘子を娶きし時・・・」として出ています。

    ・君が行く 道のながてを 繰りたたね
            焼きほろぼさむ 天の火もがも
 と言う歌の作者である「狭野茅上娘子」の身分です。
 天皇に仕えている女を勝手に盗んだという罪で宅守は越前の国に流罪になるのです。
 それぐらい、女性の社会的制裁は、当時の社会においては厳しかったと言うことが分かります。

吉備国児島の仕丁と大倉女②

2009-07-28 16:59:01 | Weblog
 昨日の私が書いたブログに286PVものアクセスがありました。驚きです。50~60ぐらいだろうと思って書いたのですすが。
 そこで、今日もいい気になって、なんやら訳の分からん事を書いてみます。

 私が長々と知ったかぶりして書きつづっている「古事記」は、そもそも、、奈良に都が置かれたいた(710年頃です)元明天皇の世に、太安万侶に詔が下り、稗田阿禮の暗誦を撰録したものです。
 膨大なる神代からの我国の歴史を語る稗田阿礼の言葉を、太安万侶が文字に置き換えたのです。非常に苦労したと、次のように、太安万侶は書いています。

 …ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りし・・・・・・・・・・・、謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し」
 
 ここに記しているように言葉を文字に置き換えるのです。稗田阿礼は、自分が暗記している膨大な量の記憶を語るだけです。文字までは分かりません。それを太安万侶が文字化していくのです。ただ、発音だけを聞いて文字に直すのです 。いかに難しいことかよく分かります。「字におきてすなはち難し」です。そのこころは痛いほど分かります。天皇からの詔によって書き上げていくのです。誤まちがあってはなりません。いかに、太安万侶が苦労をしたか分かります。

 ここにある「倉人女(らひとめ)」ですが、「倉人」と言う字は、ここ以外にはどこを探してもありません。ただ、太安万侶が、「くら」と言う稗田阿礼のことばを聞き、「倉」と書き記したとしても、なにも不思議ではありません。起こったとしても当たり前だと言わなければなりませんし、若し万一、この仁徳天皇の時代(400年頃です)には、漢字も、まだ、日本には伝わっていません。もしかして「倉」と言う字を知っていて、それを当時は使っていたのかもしれません。
 
  何が正しいか分からない時代のことなのです。それを問題にする方がおかしいのかもしれませんが。

 でも、稗田阿礼が語った「倉人女」は、大宝令にある奈良の都の役所「蔵司(くらつかさ)」の女官と同じように、采女、女孺といった位の高い女官ではないように思えます。、前後の文章から察しても、その位の高い女官に仕えたはした女の一人ではなかったかと思われます。
 誰とでもおしゃべりができ、また、恋も自由にできる身軽な身分の女性であっただろうと思われます。

 古事記ができた、この奈良時代の蔵司の女孺が、官人としてどのような制約を受けていたか、明日は、また、違った方面から検証してまいりたいものだと思いますので、ご期待ください。

 今日はこれにて。

 

 なお、蛇足ですが、大宝令によれば、奈良の朝廷に仕えた官人の内、女性が多かったのは「内侍司」と呼ばれる役所です。皇后に仕える女官です。女孺だけでも100人もいたそうです。次が、この蔵司です。此処にも女孺が52人もいたと書かれています。だから、その下の仕えた女性の数は相当数としか言いようがないほど沢山の人が務めていたのです。
 

吉備国児島の仕丁と大倉女

2009-07-27 10:59:48 | Weblog
 さて、この吉備国児島から難波の都に遣わされていた仕丁(ヨホロ)が、3年の勤めを終えて国、吉備の児島へです、帰る時に、この難波の湊で、偶然にも、大后に仕えている、兼ねてから知り合いの、大倉女と、ぱったりと出合います。そこで、大倉女は、最新の都の噂を聞くことになるのです。
 
 さて、この「倉人」と言うのは、又、どんな仕事をしていたのでしょうか?
 「倉人」という役職名は大宝令の中には見出せませんが、多分、此処にある「大倉」は「大蔵」だと思えます。

 ちょっと、また、この「大蔵」を、例の大宝令で調べてみますと、「大蔵省」と言うのが見つかります。オオクラノツカサと読むのだそうです。現在の旧大蔵省(現財務省)とはその仕事は随分と違い、諸国から上がる雑税(山、川、畑から取れる物、織物、糸、綿など、諸国の人民が献上する物品)を収め、出納迄を管理する役所です。奈良時代の正倉の役目をした役所です。
 この他、ここでは、造幣、掃除、織物、裁縫などの役所がありました。役人の衣服を裁縫する役所が「縫部司(ぬいべのつかさ)」で、この中に「縫女部」があり、京内から婦女を集めて裁縫させていたのです。
 だから、ここに「倉人女」と言う名前の役職が出てくるということは、、大后が、紀の国へ、豊楽(とよのあかり)をするための御綱柏を取りに行く旅行は、2~3人でちょっと行くのとは随分違って、何十人もの官人を連れて大々的に行った、大旅行集団だったことが予想されます。それでなかったら、裁縫までする女を連れては行かなかったと思うのです。その旅も相当の日数をかけたと思います。1カ月、若しくは、それ以上も、優に懸かったと思われます。
 だから、船も1,2艘ではなかったと思われます。何艘もの大きな船団を組んで行ったのだと思います。そんなにたくさんの船です。、その中の一艘ぐらい、遅れていた船があっても当然です。
 その一番最後の遅れていた船に乗っていたのが大倉女達なのです。この大船団より遅れて航行していた船に乗っていて、難波の大湊で、児島の仕丁(よほろ)と、偶然に出会うのです。兼ねてより難波の都で顔見知りの仲間だったと思われます。
 
 「まあ、おしばらくぶりですね。こんなところでお逢いできるなんて」
 「大后様とご一緒だとはお聞きしていましたが。随分長旅だったのですね」
 「あなたは、また、どうして、まさか、あのお話が本当になったのですか。国に  お帰りになるということが」
 二人の会話が始まります。

 思わぬところで逢った顔見知りの二人です。それも若い女性同士です。おしゃべりが続きます。この2人のおしゃべりがきっかけで、また磐日売命の猛烈なる嫉妬が生まれるのです。

吉備国児島の仕丁

2009-07-26 10:08:21 | Weblog
 さて、大后磐日売命が、「豊楽」を催すために、紀の国から「御綱柏」を船一杯に摘んで(積盈御船<みふねにつみみつ〉)お帰りになります。

 帰るその途中の難波の大渡(湊)で、大后に仕えていた倉人女(役職名か?)が
あらぬ噂を聞いて大后の船に帰ります。そしてすぐ、港で聞いた噂をお耳に入れます。その話を聞いた途端に、またまた、天皇の浮気癖に伴う磐日売命の嫉妬心が生まれるのです。
 
 その噂の出所が、これも、またまた吉備国の人からでありす。
 その人は、古事記によると、吉備国児島から難波の都へ遣わされていた「水取司」と言う役所の仕丁(「よほろ」とよみます)、即ち小使さんなのです。
 「仕丁」と言うと、何か、端から、男性だと決めつけてしまうかもしれませんが、この場合は女性ではなかったかと、私は推測しています。
 
 大宝令によりますと、
 仕丁は、
「一村から二人派遣されることになっており。三年毎に交代する」
 と、いう制度です。一般に言われている人足のことです。一村から二人派遣されるた仕丁の一人は、炊事用の雑用を仰せつかる女性から選ばることもあるのだそうです。
 その人数も大宝令によって定められています。ちなみに、「女性の丁(よほろ)は、大国四人、上国三人・・」と、書かれています。吉備の国は、当時は、まだまだ大国でした。だから、この四人の中の一人が吉備の国から派遣されたのは当然です。
 
 なお、この水取司、これは「ミズトリ」でなく、「モヒトリのつかさ」と読むのだそうです。
 これまた、宣長の説ですが、古代においては、飲むミズのことを「母比・モヒ」と、池や川のミズのことを「美豆・ミズ」と呼んで区別していたようです。
 
 さて、吉備国児島の仕丁から聞いたという噂とは、どんな噂でしょうか。また、その噂を聞いた大后がしたと思える「足母阿賀迦邇嫉妬(あしもあががにねたみたまいき)」というのはどの程度のものか、これ又、また明日にでも。

「讌」と言う字を見つけました。

2009-07-25 08:58:19 | Weblog
 「讌」と言う字を古事記伝の中から見つけました。
 昨日の「豊楽(とよのあかり)」と書いた言葉は、この他「豊明」、「豊宴」となどと書く事があると、書いています。
 さらに、普通、宴(うたげ)・酒盛りをするという意味の「讌(えん)」の字も、やはり、「あかり」と読ます事があると説明しています。また、この他に「宴会」「宴響」「宴楽」などと言う字を当てている場合もあるそうです。
 「豊」というのは、物事を称えて言う時に使う言葉だそうです。例えば、「豊御酒(とよみき)」「豊御幣(とよみてぐら)」などと使われるのと同じです。<大層立派な>と言うぐらいの意味があります。
 だから、この豊楽の意味は、福永さんが訳された「盛大な宴会」と言う意味になるのです。
また、古語辞典などには、この言葉の意味を「酒を飲んで顔が赤らむこと」「宮中での宴会」と説明してあるとおり、やはり、「豊楽」にはお酒がつきものであったらしいのです。
 
 なお、本居宣長は、この「酒」について、「さけ」と言う語源は、お酒を飲んで顔が赤くなるのは、人の面が「さかえる」ことであって、これを飲めば心も顔も栄え、朝日が登るような勢いがでて、大変よいことであるという意味から、この「さかえ」が縮まって「さけ」になったと説明しています。

 何のためにかは分からないのですが、兎に角、豊楽(とよのあかり)をするために、大后磐日売命自らが、その大宴会のお祭りに使う「御綱柏(みつなかしわ)」を採りにわざわざ紀の国に行幸されます。
 その留守中の出来事について天皇周辺の噂をしていたのが、吉備の児島の仕丁(ヨホロ)です。その話を耳にしたのが大后の女官である「倉人女」です。
 
  さて、どんなお話をこの倉人女は聞いたのでしょう。続きは明日にでも?

磐姫皇后の嫉妬(うはなりねたみ)⑦

2009-07-24 16:57:34 | Weblog
 あまり面白くもないかも知れませんが、もう暫らくこの大后磐日売命の嫉妬(うはなりねたみ)にお付き合いください。
 吉備海部直の女黒日売が、吉備の国に恋の行幸をされた仁徳天皇を見送りして「・・・由久波多賀都麻」と、歌って別れます。
 古事記では、この黒日売との恋のお話は、これですべてが終わります。その後、仁徳天皇と別れて吉備に残ったであろう黒日売がどうなったかは、一字の説明もありません。
 ただ、次の段で、「自此後時(これよりのち)」とだけ書かれています。黒日売と別れた後に、また、こんなことがありましたと、たった四文字で持って、黒日売のその後を、何か暗示しているようではありませんか。ここらあたりの書き振りも私の好きな部分です。

 さて、淡路島に行幸していたと固く信じていた天皇が、再び、無事に難波の宮にお帰りになります。そこで、大后磐日売命は天皇の無事ご帰還を祝ってかどうかは知りませんが大宴会を開く計画をします。
 古事記には「為将豊楽」と書いています。為将は「したまはむとして」と、長々と読むのだそうです、要するに、計画することです。
 でも、次の「豊楽」がとても難しいのです。「とよのあかり」と読むのだそうです。
 これを、現在の訳に従うと、つぎのように書かれています;河出書房の日本文学全集(福永武彦)から。
 「クロ姫のことがあってのち、大后のイワノヒメノ命が、盛大な宴会を開くための準備に・・・・」
 
 此の「豊楽」について少々説明してまいります。

磐姫皇后の嫉妬(うはなりねたみ)⑥

2009-07-23 18:13:27 | Weblog
 たった3,4回と思って、綴ってまいりましたが、古事記の面白さにつられて、ついその気になって長々とおしゃべりしてまいりました。ここで終わりにしようかと思ったのですが、「吉備の国って、知っていますか」と言うタイトルです。後2,3回にわたって書かざるを得ない事実が、この黒日売の後にある記事から見つかったからです。
 
 先に触れた、仁徳天皇と黒日売の恋は磐日売命の知る所になり、古事記によると、「・・・追下而。自歩追去(・・・おいおろして、かちよりやらいたまいき)」と書かれています。要するに、磐日売命の仕打ちを恐れて、急いで船で帰っていた黒日売の乗った船を、そうです。もう出発して大浦(沖合)まで漕ぎ出している船をです。追いかけていって捕まえ、難波の津まで連れ戻し、船より強制的に引きずり降ろして、徒歩で吉備の国に追い帰すのです。

 この辺りの書き振りが古事記の魅力的な記述なのです。

 この後、その黒日売を思う思いが日ごとに募った仁徳が磐日売命を騙して吉備の国まで逢いに行きます。そして、若菜などを摘んで楽しい冬の日々を過ごしたのですが、何時までもと、言うわけにはいきません。何せ仁徳は天皇です。日本の国の政治を司っているのです。朝廷のある難波の宮に帰って行かれるのです。

 この吉備の国への夫;仁徳の行幸と言うと、格好はいいのですが、単なる、男の己の欲望を満たすだけで、正確には行幸と言えるかどうか分からないのですが。
 行幸とは、そもそも政治的な意図がその中には含まれているのが普通てすが、この場合は、そんな政治的な意図はこれっぽっちのかけらすら見つけることができません。
 そのような吉備への仁徳の行幸は、古事記には、磐日売命は何も知らなかったように記されています。あの仁徳の恋愛に対して、動物的と言っていいほどの臭覚の鋭い磐日売命も、まんまと仁徳のウソに騙されるのです

 こうして、再び、難波の都に帰られた仁徳天皇ですが、又、黒日売でない別な女性に対しての恋の心が騒いだのであります。
 その新しい仁徳の恋の相手のいることを、あの磐日売命が知るきっかけを作るのが、当時、吉備の国の児島から難波の都に派遣していた「児島の人足」なのです。
 
 ここにも、また、「吉備」と言う言葉が出てきます。当時、吉備の国と大和朝廷の関りが、いかに、深かったかということを物語っています。

 なお、この吉備の国に行幸?(恋の視察)されて、造山古墳の大きさに驚いたであろう仁徳は、自分の御陵を、吉備で見たであろう「造山」のそれ以上の古墳を造営することを思い立ったのではと思いますがどうでしょうか。
 

 今日も、また、聊か、長ったらしくなりました。続きは明日にでも・・・。

豪雨です。明日の天気が心配です。

2009-07-21 14:20:13 | Weblog
 梅雨の末期です。昨日から、私の町吉備津も豪雨に見舞われています。一時やんだかと思ったら、また、強い雨垂れが窓を打ち付けています。泥水が用水に一杯になって激しく音を立てて流れ去っています。今は小止みになっていますが、西の空が真っ黒くなって、何か知らない不気味な様相を見せています。何時また激しい降りになるかもしれません。
 そのような空模様の中、何もすることもなく、ただうすぼんやりと寝て過ごすのもと思い、一人部屋に入って「本朝通鑑」という本を読んでいます。
 
 と、言うのは、私は、昨日、美星天文台に、明日22日に起こる皆既日食についてメールで問い合わせをしました。多分「返事なんて頂けないだろうと」と、高を括っていました。すると、どうでしょう。今朝、天文台の中内氏から、ご丁寧なる回答を賜ります。恐縮の極みです。

 と言うことで、本朝通鑑を引っ張り出して、日本の過去に於ける日食の記録をたどているのです。
 物の本によると、わが国最初の日食の記録は、日本書紀の推古天皇の三十六年の条に、3月2日に「尽く日が欠ける蝕(はえ)あり」と、いうのだそうです。

 早速調べました。書紀にその記事が確かに載っていました。念のためにと、黒日売の古事記を見ますと、そんな記録は一切ありませんでした。日本書紀の深さも分かります。でも、書紀の記録は持統天皇までです。それ以後は、それぞれの歴史書がありますが、そんなものは手元に全部はそろっていません
 それではと、林羅山の本朝通鑑を引っ張り出します。奈良・平安以降の歴史もちゃんと書いてありました。勿論、日食の記録も載っています。

 ページを捲ると、見えます。見えます。日食と言う文字が面白いように並んで見えます。中には、ある年には、1年に春と秋に2回も見えたと言う記録も載っています。

 でも、この日食と言う自然現象を、科学の未発達な奈良・平安の昔の人たちは、一体、いかに思っていたのでしょうかね。

 私が育った昭和の10年台の人さへ、井戸に蓋などというあのおかしげな話しを真顔で考えていたと言うことですので。


 さて、22日晴れて、80%近くの日食が見えるでしょうか。
 

仁徳天皇と黒日売⑥

2009-07-20 10:36:47 | Weblog
 「誰が夫」と、分かりきった人に、黒日売はどうして呼びかけたのでしょうか。

 「大和へ帰られていく私の愛しい仁徳天皇さまよ。もう2度と、お会いすることはないでしょう。あの大変な大后磐日売命の元に帰って行かれる。どうぞ大后様をお大切に、御達者で・・・私のことはもうほっといてくださいね」
 と、言うぐらいの軽い気持ちが表れていると思います。そんなにも別れに対してものすごい哀愁みたいなものは、この歌の中からは読み取れないのですが?
 あの恐ろしい大后の嫉妬から逃げることができて「やれやれ」と言うぐらいな気持ちがこの歌にはあるように思われます。
 それにしても思うのですが、なぜ、仁徳天皇は吉備に一人残しておく黒日売のために天皇としての特別な経済的な支援見たいなものをしてお帰りにならなかったのでしょうか。これも不思議なことの一つです。

 私には、この黒日売の2つの「別れの歌」から、このようなことが読み取れるのですが、かの本居宣長はどのようにこの歌を解釈したのでしょう。
 「古事記伝」には、次のように書かれてありました。

 「・・さて誰夫とおぼめき云るに、大后を憚り賜ひて、御思すままにも得物し賜はで、いそぎ還り座スを、あはれと思ヒ奉れる意含みて、いとど別レ奉る情深くあはれに聞こえり」
 と書かれています。
 
 「おぼめき云る」と、いうのは「知っているのに知らないふりをして敢て言う」ぐらいの意味でしょうか。
 宣長は、何時までも自分の側にいたいという熱い思いを振り切って、大急ぎに、大后の元に帰られていかれる仁徳天皇に同情して、深くあわれと思って黒日売がおぼめき歌ったのだろうと、言うのです。

 他にもあるかと思い捜したのですが、この仁徳と黒日売との別れの歌についての解釈したものは見つかりませんでした。誰かご存じのお方はお知らせくださると幸いに存じます。

日食が見られるそうです

2009-07-19 09:22:57 | Weblog
 黒日売の「誰が夫」と言った理由をお考えいただいている間、ちょっと又横道にそれます


 今朝の新聞によりますと、岡山地方でも久しぶりに日食(88%ぐらいの)が見られると言うことです。私の72年間に日食を何回見たでしょうか。・・・・・  その中で、一番印象深い日食と言えば、記録に間違いがなければ、多分、大学4年の時の5月か6月に見た日食だと思います。指導教官の手伝いをしながら見た日食観測だったと思います。何のゼミだったかは覚えてはいませんが。
 その日は、朝からその教官は何だか張り切っていました。気圧計だの温度計だの湿度計もあったように覚えていますが、吾々ゼミの学生を指揮して、2、3人ぐらいずつに分けて、日食が始まって以降、刻々の変化する気温気圧湿度などを測らせるのです。
 気象等は専門外の分野でしたが、その助教諭が、どうしてそんな観測をわれわれに手伝わせたのかはわかりません。もしかして、その教官の、こんな日食観測の仕方もあるのだと、教育学部の学生に対する親心からだったかもしれませんが。
 兎に角、刻々に変わっていく気圧計のメモリを私は読み、記録して行きました。面白いように食が進むにつれ気圧の数値が下がります。なんだか興奮気味に数値を読みあげたと記憶していますのです。
 今までそのような科学的な分析を通しての日食観測は始めてなものでしたから、やけに頭の中にこびりついているのでしょう。

 もう半世紀もそれ以上も時間が経過していましたが。兵舎の後にできた俄か教室で、10分間ほどのごく短い時間のたわいもない幼稚な観測が、今でも鮮明に頭の中に残っています。

 そんな日食が22日に見られるとか。今朝の新聞によりますと、ガラス板にロウソクのすすをつけたものや、下敷き等を使ってはいけませんと書いています。昔は誰もがそんな装置で観察していたのですが。

 なお、私の祖母(明治3年生)の話によると、当然明治の世の話になるのですが、どの家も井戸(釣べ)の上には、必ずと言っていいほど、総ての家で、むしろか何かの覆いをしていたそうです。
 太陽が黒くなるのは、永い間に、太陽に居座っている悪い病気を神様が食べて掃除をしておりいるから起きるので、その神様が食べた病気の滓が地上にふり撒かれるからそれを防ぐために覆いをするのだ。だから日食の時には、勿論、人々が戸外へ出てはいけなし、洗濯物などの乾し物は、全部、室内に取り込まなくてはならなかったようです。
 そんなことを子供だけでなく、いい大人も皆、真剣に考えていたと言う話でした。
 それが時代の変化と言うものでしょう。・・・・・科学の進歩とは果たしていいことなのでしょうかね。ロマンがなさすぎますよね。何でしょうかね。

仁徳天皇と黒日売⑤

2009-07-18 14:23:09 | Weblog
 黒日売と仁徳天皇の恋の物語は、日本書紀では一言も触れていません。しかし、古事記にはかなりのスペースを割いて、黒日売(くろひめ)と仁徳との関係を、長々と書き綴っております。(字数にすると400字ぐらいはあります)そして、その最後は「行くは誰が夫」(由玖波多賀都麻ゆくはだがつま)で終わっています。
 
 この「誰が夫」を、古来から問題として取り上げている人がいます。
 仁徳天皇は、自分、そうです、黒日売の恋人、いや第何位かの仁徳の妃であったことには間違いありません。正式な夫でもあったのです。
 天皇家ではというよりも、古代から日本の家族制度は、現在のような一夫一婦制ではなく、イスラム社会のような一夫多妻の制度が長年にわたって守られてきました。従って、天皇家でも、当然のその制度が当たり前で、天皇の周りには后とその他の多くの妃が居られたようです。天皇をめぐってそれらの人たちを、総て、「きさき」と呼んではいましたが、その当てる字だけは「后」「妃」と区別してはいました。
 だから、当然、黒日売も堂々たるお妃さまであったはずです。
 そんな分かりきったことを、どうして「誰が夫」と黒日売は歌ったのでしょうかというのが問題です。
 「私の恋しい夫」と、大声で歌ったとしても、誰にもとやかく言われるはず筋はないのにですが、敢えて黒日売は、「誰が夫」と歌ったのです。

 皆さんは、なぜ、黒日売は、「誰が夫」と歌ったのだとお考えになられますか。?

仁徳天皇と黒日売④

2009-07-17 10:27:42 | Weblog
 古事記を読んでみますと大変面白い事に気がつきます。

 この黒日売の仁徳天皇との別れ際に歌った歌にしてもそうです。なにか人物の心の底までを写し取ったかのような書き振りです。

 この別れの時に黒日売はもう一首歌を読んでいます。

 「大和へ帰って行かれる人は誰の夫でしょうか。大后磐媛から隠れるようにして私のいる吉備にまで逢いに来てくださった人が大和へ帰って行かれる。あの人は誰の夫でしょうか」
 と、去りゆく天皇に対して声高らかに歌っています。
 「下よ延(は)へつつ」とありますが、下よの「用(よ)」とは「由(ゆ)」と同じで、「~より」になり、「下の方から忍び隠れるようにして」と言う意味だと、本居宣長は言っています。

 それぐらい恋しくて、恋しくてならなかった黒日売を訪ねて、いざ、その元を去る時。仁徳は黒日売の為に、土地を安堵してあげるとか、何かしてあげたはずですが、古事記には何も記してはいません。

 ちなみに、仁徳の前の天皇、応神はその思い人「兄媛」を訪ねて、(吉備にある)葉田の足守に行幸していますが、その帰る時に、兄媛のために織部(はとりべ)(阿曾辺りの土地)を賜っています。

 しかし、仁徳は何も黒日売一族に対して、土地を与えるなどと言った特別なことはしていません。
 吉備海部直(きびのあまのあたひ)という吉備地方の海上権を掌握していた黒日売一族には、いまさら土地に対する執着がなかったのかもしれませんが、なにも仁徳から特別な報償品はもらっていません。吉備の地は、応神の時に、兄媛一族にやってしまっていたものですから、残っている土地がなかったのかもしれませんが。

 いろいろなことが想像されますが、その辺りのことを、一切、古事記では触れていません。

 一方、この黒日売に関する歴史は日本書紀には出ていません。また、林羅山の本朝通鑑にも、水戸光圀の大日本史にも、出ていません。黒と言う一字も。
 古事記だけに記載されている歴史的事柄なのです。本居宣長も、この話はどうも嘘っぽい匂いがするように、その「古事記伝」には書いています。

 でも、古事記が日本歴史の中に燦然と輝いている以上、そこに書かれている事柄もやはり日本の歴史の一部なのです、真実であるかどうかは別にして。

 だから面白いのです。
 

 

仁徳天皇と黒日売③

2009-07-16 13:22:51 | Weblog
 この地、黒日売の岐備(きび)の地を離れがたく思っていた仁徳ではあったのですが、いよいよ別れの時がきます。
 その別れに際して黒日売は歌います。
 「夜麻登幣邇(やまとへに)斯爾布岐阿宜弖(にしふきあげて)玖毛婆那禮(くもばなれ)曾岐袁理登母(そきおりとも)和禮和須禮米夜(あれわすれめや)」

 大和へに 西風(にし)吹き上げて 雲離れ 退(そ)き居りとも 我忘れめや

 「雲が激しい西風に吹き飛ばされて散り散りなって、西の方、大和の方面に行くように私の元から去っていかれるあなた、私はあなたのことを決して忘れません」と、言うぐらいな意味です。
 
 若菜摘みの時の天皇の御歌とは違って、随分と単純で形式的な別れの歌のようにお思いになられませんか。
 「我忘れめや」。そうです。「私は忘れることがありましょうや、いや決して忘れません」と、いうのです。ただそれだけの歌でしかないのです。どうしてもあなたの御側を離れたくない、別れたくないと言う女の強い思いがこもった歌ではないように思われます。心が少しも入ってはいません。
 「本当に私を愛しているなら何とかして欲しい。ああ別れ行くあなたが恋しい。  別れたくない」
 と、言うような強い黒日売の心が、この歌からは伝わってはきません。
 「はいさようなら。では、お元気で、あなたのことは忘れませんよ」というぐらいの、ほんの軽い気分の、単なる子供の別れのようなような感じが、私にはして仕方がないのですが。
 「和禮和須禮米夜(我忘れめや)」と、いう部分が、この歌の頭にあったならまだ解釈は違ってくるのですが、最後に形式的に付けたしたような感じがして、
 「あなたもお元気で、私もここ吉備の国で元気に生きますはよ」
 と、いっているようです。

 この辺が、応神天皇と兄媛との別れとの違いがあるのです。ただし、この歴史は日本書紀にあるだけで、古事記には出ていませんが。