最初に、高雅が紀一郎に宛てて書いた手紙の日付は四月十一日ですが、前に言ったように一通の飛脚便の値段が高価だったものですから、結局、何回も書きくわえられた張紙がしてあり、それらをまとめて投函したのが四月二十八日です。なんと書き出してから14日も経ったからの事です。総てにわたって悠長な時代だったということが分かります。
別の張紙から;
「来月十日と限、弥外国交易御差止に相成候筈にて、若承知いたし不申候得バ一戦に可及御都合にて、・・・・たとへ戦始り候ても紀州の加田の浦と淡路の由良と申す所との間にてせきとめ、大阪湾へは船を入れさせぬ様にすれば・・・・、・・・」
と、書かれています。
この書簡を見ると、高雅は、天皇のいる「京」さへ無事なら、日本は清国のように西洋列国の餌食にはならないとでも思っていたのでしょうか。この「なんてバカな」と、現代であるなら、一笑に付すような現実離れしたような企画が、いったて真面目に考えられていたようでした。この紀淡海峡をせきとめるという案の実現は、現代の科学を持ってしても、到底不可能なことだと思われるのですが、当時の人々は、それが実現できると思っていたのでしょうか。あまりにも馬鹿らしいこともように思われていた仕方ありません。それも、もう日にちが差し迫った「来月十日」までなのです。時間がない中、そんなことをよくも考えついたなと、これも驚くべき馬鹿さかげんです。
正気の沙汰ではないみたいですが、それを提案した方も法ですが、その策を受け入れて推し進めるように進言した方も方です。
それぐらいな埋め立てに関しての幼稚な土木知識しかなかったのでしょう。いとも簡単にできる工事だと考えていたようです。この計画がいかに難工事であるか分かってはいなかったらしいのです。
これも歴利を綴る正史には現れない歴史だったようです。何回も言うようですがこんな目には見えない影の部分とでも言ってもいいような日本の歴史が、吉備津には誰にも気づかれないように、沢山の残っているのです。
別の張紙から;
「来月十日と限、弥外国交易御差止に相成候筈にて、若承知いたし不申候得バ一戦に可及御都合にて、・・・・たとへ戦始り候ても紀州の加田の浦と淡路の由良と申す所との間にてせきとめ、大阪湾へは船を入れさせぬ様にすれば・・・・、・・・」
と、書かれています。
この書簡を見ると、高雅は、天皇のいる「京」さへ無事なら、日本は清国のように西洋列国の餌食にはならないとでも思っていたのでしょうか。この「なんてバカな」と、現代であるなら、一笑に付すような現実離れしたような企画が、いったて真面目に考えられていたようでした。この紀淡海峡をせきとめるという案の実現は、現代の科学を持ってしても、到底不可能なことだと思われるのですが、当時の人々は、それが実現できると思っていたのでしょうか。あまりにも馬鹿らしいこともように思われていた仕方ありません。それも、もう日にちが差し迫った「来月十日」までなのです。時間がない中、そんなことをよくも考えついたなと、これも驚くべき馬鹿さかげんです。
正気の沙汰ではないみたいですが、それを提案した方も法ですが、その策を受け入れて推し進めるように進言した方も方です。
それぐらいな埋め立てに関しての幼稚な土木知識しかなかったのでしょう。いとも簡単にできる工事だと考えていたようです。この計画がいかに難工事であるか分かってはいなかったらしいのです。
これも歴利を綴る正史には現れない歴史だったようです。何回も言うようですがこんな目には見えない影の部分とでも言ってもいいような日本の歴史が、吉備津には誰にも気づかれないように、沢山の残っているのです。