私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  153 藤井高雅の書簡③-3

2009-04-29 20:52:25 | Weblog
最初に、高雅が紀一郎に宛てて書いた手紙の日付は四月十一日ですが、前に言ったように一通の飛脚便の値段が高価だったものですから、結局、何回も書きくわえられた張紙がしてあり、それらをまとめて投函したのが四月二十八日です。なんと書き出してから14日も経ったからの事です。総てにわたって悠長な時代だったということが分かります。

 別の張紙から;
 「来月十日と限、弥外国交易御差止に相成候筈にて、若承知いたし不申候得バ一戦に可及御都合にて、・・・・たとへ戦始り候ても紀州の加田の浦と淡路の由良と申す所との間にてせきとめ、大阪湾へは船を入れさせぬ様にすれば・・・・、・・・」
 と、書かれています。

 この書簡を見ると、高雅は、天皇のいる「京」さへ無事なら、日本は清国のように西洋列国の餌食にはならないとでも思っていたのでしょうか。この「なんてバカな」と、現代であるなら、一笑に付すような現実離れしたような企画が、いったて真面目に考えられていたようでした。この紀淡海峡をせきとめるという案の実現は、現代の科学を持ってしても、到底不可能なことだと思われるのですが、当時の人々は、それが実現できると思っていたのでしょうか。あまりにも馬鹿らしいこともように思われていた仕方ありません。それも、もう日にちが差し迫った「来月十日」までなのです。時間がない中、そんなことをよくも考えついたなと、これも驚くべき馬鹿さかげんです。
 正気の沙汰ではないみたいですが、それを提案した方も法ですが、その策を受け入れて推し進めるように進言した方も方です。
 それぐらいな埋め立てに関しての幼稚な土木知識しかなかったのでしょう。いとも簡単にできる工事だと考えていたようです。この計画がいかに難工事であるか分かってはいなかったらしいのです。
 これも歴利を綴る正史には現れない歴史だったようです。何回も言うようですがこんな目には見えない影の部分とでも言ってもいいような日本の歴史が、吉備津には誰にも気づかれないように、沢山の残っているのです。
 

吉備って知っている  152 藤井高雅の書簡③-2

2009-04-28 20:09:23 | Weblog
 昨日歴史の一裏通りとしての、長州などの尊王攘夷を主張する人々によって強引に押し進められていた夷船打ち払いもその視野に入れながら盛んに動き回っていた事も確かな事実ですが、この高雅からの書簡によって、歴史の裏ではかなりなスピードで推し進められていたことが分かります。
 (NHKドラマ「篤姫」にもありましたね。例の馬関戦争で、イギリスにコテンパアにやられたあの事件などと関連があります)
 なお、「公方様御上洛にて・・・・・」とありますが。あの孝明天皇の皇女和宮が降嫁した十四代徳川家将軍家茂が天皇です。
 「・・・万事御都合よろしく相成・・・」戸もありますが、歴史を読んでみますと、それほどうまくよろしく相成ったわけではありません。此の後すぐ長州征伐などが行われています。坂本竜馬などの活躍のあった時です。

 以上は、昨日の文の付け加えです。まあ、文久年間の尊王攘夷に、我高雅も大分熱が高くなって大いに踊ったのではないかと思われます。西郷や高杉などと同じように、日本男児として一命を賭すほどの価値をこの尊王攘夷の論説の中に見出しての行動だったのではないかと思われます。いわゆる「一生懸命」そのももだったと思います。
 だからこそ、大阪などの町人の金持ちも相談を受けたのだと思います。

吉備って知っている  151 藤井高雅の書簡③

2009-04-27 18:16:21 | Weblog
 高雅から紀一郎に宛てた手紙 その3
 一連の手紙の中に「張紙」として付け加え、まとめて出したことがうかがえます。手紙は飛脚便で送られ、それも現在のように安価ではなく、相当の金額が入り用だったようです。
 ある資料によりますと、江戸の市街地内でも書面一通あたり30文(約900円)もいったそうですから、大阪から宮内までは相当な金額、詳しい記録がないので分かりませんが、おそらくは、一回につき数千円以上(ある人の計算によると数万円はかかったのではないかという人もいます)は必要だったのではないかと思われます。

 「公方様御上洛にて御忠義を御尽し遊ばされ候ゆゑ、御中もなほり万事御都合よろしく相成、下々迄有がたき事に御座候。・・・・・此たびいよいよ夷船御うちはらひにきはまり候。その御そなへむきのことのはかりごとも、もっともにおぼしめし候得ども、入用大そうの事にて・・・・・・・わもじにその世話いたし候よう御内沙汰をこふむり・・・・・」

 ここに書かれている「夷船御うちはらいに・・・」ということですが、文政8年(1825年)、江戸幕府が出した「異国船打払令」とは、また、別に考え付いた「うちはら」ではないかと考えられます。
 此の高雅の書簡にあるように、文久年間にになって、再び、そんな公式な命令を出すなどといったことは考えられないことだとは思いますが、この書簡にあることが嘘だとも思われません。生麦事件をきっかけとして、イギリスとの戦いが逼迫したその時に、一時だとしても、そんなことも京あたりで話題になったのかも知れません。歴史にはのってはいないのですが。
 もしそんなことをすれば、膨大な資金は必要になり、幕府でも、とてもそれだけの大金を出すことは無理なので、大阪・堺・兵庫あたりの町人の金持ちに相談して、その費用を出させるるようにしたらという案があったのかも知れません。が、兎も角、その役を高雅が仰せつかったと、書いています。
 京あたりの誰からの指示であったのかも全く不明ですが、高雅は本気であったように読み取ることができます。
 これも歴史の一裏通りでの話だったのではないかとも思います。

吉備って知っている  150 藤井高雅の書簡②

2009-04-26 18:58:27 | Weblog
 この紀一郎に宛てた手紙より前の、母喜知に宛てた手紙の中でも
 「・・・近江の湖より京の鴨川迄船を通らせ候事思付・・・・」と書いているのですが、そのことについて、また、子息の紀一郎に宛てた手紙の中にも見えます。

 「此正月よりとりかかり候江州湖水よりかも川へ船をとほし候一件は、もはや願ずみに相成、今にもとりかかり申ベく所、大そうの入用ゆえ金子今少ととのひかね、えんにんいたし居申候。
 此二十三日に下見分として大津へまゐり、掘ぬきいたし候場所も見申候所、いたってよろしき都合に御座候。その上米屋中も出金いたし候様、同所の役人へ相談いたしかけ申候。此用向は追々の事にいたし、二十四日大津より直に伏見へ下申候」

 高雅がどうして此の琵琶湖疎水の計画を思いついたかと申せば、丁度この時期はあの生麦事件後であって、イギリスとの戦争の恐れが逼迫していた時期なのです。万が一の対策として、高雅は天皇のいる京への物資輸送が円滑に進むようにと、この疎水を思いついて計画実行したのです。だからこそ多くの賛同者をえて工事の着工が始まっていたのです。そのための東奔西走なのです。
 皇国を慮っての行為なのです。誰のためではないお国のための自ら進んでやった行為なのです。だからこを「志士」と呼ばれたのです。こんな人がこの吉備津から出たのです。

吉備って知っている  149 藤井高雅の書簡

2009-04-25 18:57:56 | Weblog
 昨日は、高雅から母「喜知」へ贈った書状を紹介しましたが、今日から数回に分けて、その息子紀一郎に宛てた書簡を見ながら、当時の高雅の父としての存念を考えてみたいと思います。
 
 文久3年(1863年)4月11日の書簡です。
 「今月に入候てもとかく事項さだまりかね候処、四日五日の大雨後めつきりとあたたかに相成、天気にはひとへものにてもあせながれ候ように成まし、にはかに夏めき申候。其地もさぞさようとおしはかり申候。ばば様はじめみなみな御無事にや。わもじは大にたっしゃにて相かはらずせわしくくらし申候。当月はちょとかへり候つもりにて、何事もその用意いたし居候へども、此あいだより又々用向相まし、この用向のつごうにてちとのび申べくと存候・・・・・・・・」
 と、あります。

 異郷にあってその故郷を思わざる人はいないと思いますが、この皇国に対する思いが一段と高い高雅にとっても、やはり心に残るは、いつも母の事、息子の事、更に古里の事だと思います。そんな幕末の一人の志士の感概がにじみ出た書簡ではないかと思われます。
 やはり、高雅も、所詮は、人の子であったということだと思います。
 
 旧暦四月十一日、今でいう五月五日前後です。汗ばむ陽気であったのでしょう、そんな急激な気候の変化に対して、やはり一番気になることは古里の母の事ではないでしょうか。そんな思いを吉備の中山の姿を瞼に裏に浮かべながら書いた母への、又、子への思いの便りだったと思います。
 そんな感情がこの短い手紙文の中から読み取れます。
 「我儘勝手な父をどうぞお許しください」
 という、我子への謝罪の言葉としても受け止められます。悲痛な感情さへ漂っているのではないかとさへ思われます。
 でも、故郷の母よりも、子よりも先に「どうしても、やらなければならない」という、当時の切羽詰まった一人の日本人としての決意みたいなものが伺うことができる文章でもあります。

 幕末の志士の心意気の中に秘めた誠に家族思いの一念が、この書簡の中に見え隠れしているようにも思われます。

吉備って知っている  148 藤井高雅、琵琶湖疎水を企てる

2009-04-24 14:03:25 | Weblog
 文久2年(1862年)8月生麦事件が起こり。此の事件をきっかけとして、幕府とイギリスとの関係が険悪になり、開戦が逼迫してきます。そうなると攘夷論も何もあったものではありません。その防御の方法が真剣に考えられるようになります。
 そんな文久2年の冬に高雅は、家督を長男紀一郎に譲り、大藤幽叟と号して大志を抱いて京に上り、攘夷海防の策を立てて奔走します。

 そんな文久3年2月17日、国許の母「喜知」に送った手紙があります。

 「私事近江の国より京の鴨川迄船を通らせ候事思付、御所へ御願申上候所、きとくの事におぼしめし御ききとどけに相成、此たび山をほりぬく船とほり賑やういたし候事に相成申候。入用拾萬両も入り申べく候。金主も御座候ゆゑかならずととのひ申すべくと存じ候。此事ととのひ候へば大きな手がら、そのうえ御やしろの御ためもよろしく候事と存じ候。 二月十七日
 御はは上様
                              幽叟

 
 なお、生麦事件とは、文久2年8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件です。
 

吉備って知っている  147 藤井高雅、上方へ⑳

2009-04-23 18:07:54 | Weblog
 高雅は、文久元年に社家頭の職を嫡子紀一郎に譲っています。
 当時は、アメリカのペリーが浦賀に来たり、ロシヤのプチャーチンが来たりして日本の国がそれまでの鎖国政策を捨てて開国に踏み切ります。そのために物価が高騰して、人々の暮らしがそれまでに増して、ますます困窮してきます。
 そんな中で、高雅は尊王攘夷の考えに傾倒して、備中宮内にあっても日本の国体保持のための国防論を、その著書「夜々の寝覚」(この本は現存しなく、その内容については不明だということです)に書いています。前に取り上げた緒方洪庵や堀家愛政の書簡にも見えますし、友人の萩原広道の消息からも分かります。ペリーが来日する以前から、皇国の前途に大変深く憂慮していたようです。
 宮内で、吉備津神社の社家頭を務めていては、その国を思う思いはいかんともしがたく、随分と歯がゆい思いをしておったのではと推測します。
 紀一郎の元服を一途に待っていたのです。その元服が済むとすぐ、あの足守で叔父洪庵たちと一緒に祖母「きよう」の米寿の祝いを済ませた年の11月に、自分の思いを成し遂げるべく、勇気京都へ上っていきます。
 彼43歳の時にです。その前年に3男が生まれたばかりなのにです。
 こんな気力と言いましょうか胆力があったのです。現在の男子には決して持ち得ないような人間として真っ正直な純粋な生き方が当時の社会にはあったのです。坂本竜馬しかり、桂小五郎しかりです。そんな一途な姿かあったからこそ「志士」と呼ばれたのではないでしょうか。
 明治維新を実現できる日本の底力でもあったのだと思います。それが実現できたのも天皇制度という日本独特の歴史があったからこそだと思います。
 言い換えれば、日本では、フランス革命もロシア革命も辛亥革命も決して起きることはなかったのではないかと思います。

 これ又、歴史とは摩訶不思議なものですね。 

吉備って知っている  146 藤井高雅の系図⑲

2009-04-22 16:55:41 | Weblog
 ここでちょっと、やや込みいるのですが、高雅の系図を見ておきます。                     
                        輔政―〇―
           善政―広政―徳政[
  ―〇―永政[              高雅―紀一郎
           兼平―愛政―貢佐

 高雅の父徳政と愛政は、例の元禄時代に大石内蔵助の赤穂藩一行約1000人の人々が宿したと言われている宮内の大庄屋中田家の当主重遠の二男・三男です。
 なお、高雅は藤井高尚の孫娘松野と結婚して藤井家の養子になっています。
 なんだか、その辺りの関係が当時の社会風潮を物語ったていて面白いと思います。
 今までに何百年と続いてきた高名な家同士とのそれぞれの結びつきで、それまで続いた「家」を中心とする古代社会からの社会組織の存続が累々とこんな片田舎に於いても見える典型的な図式を見るような気がします。
 それを継ぐ者も、そうすることが当たり前のことであった、それを批判することすらできないような一つの形に押し込められてしまって、その外には一歩たりとも踏み外せないような束縛された社会体制の中に個が埋没し切ってしまっているのです。
 恋愛でなかったら結婚ではない、と言った現代風の家族構成を作るきっかけなんか、とんでもない、常識の範囲外のことであって、親がそう決めたのだからそうするのか当たり前だという前々からの社会風習の中に完全に埋没しきった人々の生活様式がこの中には見えるように思えて又面白う読むことができます。
 
 

吉備って知っている  145 藤井高雅へ貢佐からの消息⑱

2009-04-21 17:00:31 | Weblog
 愛政の息子貢佐よりの書簡 
 昨日は、愛政から、我が息子「貢佐」の江戸における徳川幕府の御家人としての特記すべき活躍としての水泳の事をを知らせた手紙(どんな水泳かは分かっていません)を紹介したのですが、今日は、その当事者「貢佐」からの書簡を紹介します。
 それは、嘉永7年(1854年)当時の江戸における経済の実態を、宮内の藤井高雅に知らたものです。
 
 「昨年己来公儀之御入用莫大成事、中々難尽筆紙・・・・諸色ハ追々高値ニ相成、米値ハ此節百俵替五拾四五両位ニ御座候。其御地茂米価高直銀札等不通用之由、如貴命実ニ世上一統倹約第一之時節ニ御座候・・・・」
 
 と、あります。
 この書簡によると、公儀幕府でも入り用なお金が莫大に膨れ上がり、旗本や御家人までみんなお金が沢山いり、大いに困っていたのです。その上、諸物価の値上がりも甚だしく。米の値段は100俵が54、5両にもなっているのだそうです。当時の一両は12万円ぐらいだそうですから、1俵の米の値段は6.5万円ぐらいになります。現在は1俵が2万円ぐらいですので、相当高値であることには間違いありません。
 その上、銀札という各藩が発行した紙幣は使われないというのですから、宮内をはじめ日本各地の地方の庶民にも相当な痛手だったようです。
 だから、その時の一般の庶民にできる経済的な防護策はと言えば、「倹約する」こと以外には術がなかったのです。それが、唯一の防衛策であったのです。現在みたいに、政府から、有難いのかどうか分からないような「特別給付金」と称して、国民一人当たり1.2万円ものお金を恵んでくれるというようなこともなく、庶民は、惟々お金を使わないようにするしか方法がなかったのです。そして、ついには、そのお金も底をつき、挙句の果てに、食べるものもまでなくなって、一揆・打ちこわしが各地で起こる原因にもなるのです。経済の逼迫がますますひどくなって貧乏人を余計に困らせるのです。

 そんなな幕末の1854年の世相がこの手紙には記されています。ちなみに、この後、たった13年後には、江戸幕府は終焉を迎え、滅び去っています。

吉備って知っている  144 藤井高雅へ愛政からの手紙⑰

2009-04-20 19:28:24 | Weblog
 愛政の書簡、その3
 これはぺりーの黒船騒動とは違うのですが、当時の非常事態にも関わらず、そんな悠長なことを、と思えるような珍しい行事が書かれていますので書いておきます。
 嘉永7年ペリーが再来して日米和親条約を結び、やっと一難去って、という時です。イギリスの清国侵略の噂も入って大騒動の時です。
 こんな時ですら、将軍は、その夏、徳川氏の御家人による水泳大会を上覧しています。

 「当夏貢佐儀、乍未熟水泳
  上覧無滞相勤候ニ付、為御褒美御帷子頂戴仕、有難仕合奉存候・・・」

 と書いて寄こしています。貢佐というのは愛政の息子です。親ばかというか。途中から御家人に加わった者としては相当の名誉のことだったのだろうと思います。
 「御吹聴皆々様江も宜敷御伝声可被下候」と、宮内の親族のみんなに、是非伝えてください、と書いております。余程嬉しかったのだろうと思います。現代なら、さしずめ、オリンピックの代表ぐらいになったぐらいの価値があったのでしょう。

 それにしても日本という国には、当時も。こんな余裕があったとは大したもんだと言えるでしょう。ひょっとして、「武士は喰わねど」の空威張りであったのかも。
 どう思われますか。
 形骸化してしまった、幕藩体制終焉の姿であったのかも知れません。
 そんな歴史の一面を覗かせてくれる書面でもあります。教科書には書いてはないのですが。

高松公民館講座「歴史を楽しむ会」の総会がありました

2009-04-19 16:28:58 | Weblog
 私は、高松公民館の「歴史を楽しむ会」の講座を受講して、高松の歴史を楽しんでいます。講座生は約70人と数では少ないのですが、平成9年から開かれていると言うことですが、昨年度から参加させていただいています。
 本年度の総会が、今日行われ、総会の後、石田純郎先生による「緒方洪庵」の記念講演が行われました。
 
 此の先生は、ちょっと、緒方洪庵の「壬戌旅行日記」の中でも触れましたが、あの洪庵の親戚(いとこ?)の高松大崎の石原官平の息子石原朴平で、後に倉敷西阿知の医者の家に養子に行き「守屋庸庵」と名乗った人の孫の孫だそうです。そんな関係か何か知りませんが「緒方洪庵」について深く研究されているそうです。
 先生は、講演の中で、洪庵か起こした適塾には、塾生が各自自筆で出身地を書いた636人の名前の載る「適塾姓名録」があり、現在までにはっきりと分かっている人は、そのうちの40%ぐらいだと説明されています。この他、この中に書き込まれていない塾生も相当いたらしく、総計では1000名を下らないのではともおっしゃられていました。
 それから、また、緒方洪庵が中国四国を旅行した時の日記も残っていて、足守やそのまわりに立ち寄り、その後、尾道に行ったと説明されました。でも、本当は、その日記には、(文久2年4月25日付けに)倉敷にも立ち寄ったと記されています。その宿も浅田屋とはっきりと書いてあるのですが、それは説明されませんでした。
 なお、この日、この浅田屋で、守屋庸庵と合ったと記されています。

 今日の講演についての感想:
 せっかく高松での講演です。足守除痘館での洪庵の活躍の話かと思って期待もしていたのですが、案外とそれもなく、一般的な洪庵のお話で、なんだか気の抜けるような気に私はなりました。
 また、足守除痘館の中で、特に活躍した守屋庸庵の孫の孫でいらっしゃいます先生は、もっと、此の庸庵の人となりなどの秘話をご存じだとも思ったのですが、これ、又、期待外れでした。
 

吉備って知っている  143 藤井高雅へ愛政から⑯

2009-04-17 14:02:28 | Weblog
 愛政からの書簡 その2
 
 昨日は、ぺりー来日事件で、もしもの場合についての、幕府の役人の仕事内容をこまごまと書いてあったのを取り上げました。
 
 さて、愛政が、次に、その手紙に書いているのは、
 「彼国志願之内、漂民撫恤並航海往来砌、薪水食料石炭等船中闕乏之品々被下渡之儀・・・」
 というものです。
 なお、撫恤(ぶじゅつ)とは、いたわること、即ち、海難にあって漂流している漁民を助け日本の港に親切に届けることです。
 
 この文章は、当時、太平洋で捕鯨のために活動していたアメリカの船の燃料や水・食料等の補給のために日本の港を使わせてほしいと言ってきと伝えています。

 そのぺりーからの申し出に対して、幕府方は、日本国中どこの港でもいいという訳にはいかず、とりあえず、
 「伊下田湊松前箱ニおいて被下候積ニ而、右両奉行其外掛リ等追々被仰付候」と、アメリカに知らせたのです
 これで、ひとまずは、一応は、平穏無事に事が運んだというのです。
 なお、以後、御台場などにおいて大砲や大型船等の水陸の軍事が整い次第に、
 「尚改而被仰候趣ニ御座候得共、近来英夷清朝江之処置之如く相成可申哉と、後世可恐事と被案候。」
 と書いて、改めては、もう一度、アメリカと交渉するが、対応を誤ると、あのアヘン戦争後の清朝の2の舞になるのではないかと随分とみんな恐れをなした様子を伝えています。
 
 愛政は続いて
 「尚御妙論も御座候ハバ御序ニ承度候」
 と、宮内の片田舎に住んでいる高雅にまでにその対応方法を問うている所を見ると。幕府では、この対策に、上から下まで相当頭を痛めていたのだろうことが想像できます。まんざらお義理で愛政が高雅に尋ねたのではないと思います。
 今はその存在が分からなくなてしまっている高雅の著書「夜々の寝覚」の中で、洪庵の言っているとうり、相当突っ込んだ海防策を論じていたのではないかと思われます。その書物を読んだ愛政が意見を聞いてきたのではと思われます。

 なお、この手紙にも
 「御他言御無用、御覧後御火中可被下候」とあります。洪庵にしろ、此の愛政にしろ相当警戒して、当時の幕府の外交について手紙にしたためていたようです。是も日本の歴史を知る上でも大切な資料となるのです。
 
 どうです、こんなものが残っているとは、吉備津という土地は大したものでしょう。ちょっとばがり自慢できます。日本の歴史を語る上で大切な資料が吉備津から出ているのですよ。

吉備って知っている  142 藤井高雅⑮

2009-04-16 19:17:47 | Weblog
 高雅(たかつね)は、この難題山積の幕末に、西洋先進国からの日本国への侵略をどう防ぐか「海防策」を考えています。本当に日本の片田舎も田舎、名もない備中の宮内村にあって、途方もない遠大なる海防計画の策を考えています。たまたま両親の叔父に、当時の世界情勢に詳しい人がいたにしても、それだけの厳しい判断ができるのは、よほどと当意即妙なる機を見て敏な人でなかったらできなかったことではないでしょうか。そなん人が、地元の人にさへ忘れ去られてしまって、歴史の中に埋もれてしまっているのです。

 この高雅に宛てた書簡に中に、この他、面白い内容のものが見受けられますので、2,3紹介しておきます。

   
 ・[その1]
 
 これは、小中高の日本の歴史の教科書にもよく出てくるのですが、その根拠となるべきものだと思いますが、堀家愛政から高雅宛の手紙に書かれていいます。

 「 異船内海(江戸湾)滞留中、応接之時分、船中祝砲と号し、空砲数声打放、又夜中壱度暁方壱度鬱気を散し候由ニ而、空砲打放し申候。此砲声江戸市中迄能相聞申候。ハツテイラと歟申小船ニ而所々漕廻り、海岸等江猥ニ上陸いたし、已ニ正月甘八日夜、右ハッテイラ七膄ニ而深浅遠近測量之為歟、品川沖迄乗廻候由注進櫛の歯を引が如し。・・・・」
 と、その日の模様を詳しく報告しています。それは、丁度、その日に愛政の息子「貢佐」が当番として江戸城に務めていたのでその様子がわかったということです。
「若非常之場合ニ至候節は、早盤木之合図ニ而銘々出張相詰候場所、武器等相廻し置候場所、御賦り被下候場所、御貸具足相渡候場所等次第ニ御達有之、鑓砲其外腰粮等迄手近ニ取揃置、早盤木之場合今歟ゝと只夫のミを相待居候始末ニ御座候。是ニ而万事御賢察可被下候。」
と書かれています。
 いつ何時お呼びが掛っても、とっさに用意しておくようにという通達があったのです。早盤木がなるかも知れないというのですから、いかに急を要していたか推測できます。それを実感として感じさせる貴重な文献でもあります。こんな歴史的な資料が、此の吉備津にはあったのです。
 「今歟今か」と、ただそれだけを待っていた当直の江戸幕府の御家人たちの心中はいかばかりだっただろうと、想像を絶するものがあったのではないかと思います。それほどまでに人々に恐れおののきを感じさせた日本の歴史の中での一大事件ではなかったかと思います。
 この手紙は、そんな当時の徳川幕府の御家人の心を推し量ることができる資料なのです。
 日本で最も長い一日の人々の思いを語る資料でもあるのです。
 「櫛の歯を引くが如し」という短い言葉で綴られていますが、その時の様子が手に取るように見えます。歴史とは不思議なものですね。

吉備って知っている  141 藤井高雅へ愛政からの書簡⑭

2009-04-15 20:01:13 | Weblog
 母方の叔父緒方洪庵より、高雅は、当時の世界情勢はよく知っていたのです、それとはまた別に、これも、父方の叔父堀家愛政によっても多くの世界情勢の情報を手に入れていたのです。こんな備中の片田舎の「宮内」にいて、これほどまでに、当時としては世界情勢の最先端の知識を、知っていたということは驚くべきことです。
 愛政は、高雅宛の手紙の中に書いています。
 それによると、嘉永6(1853)年ロシア使節プチャーチンとの外交交渉のため、当時の幕府の勘定奉行(海防の係りも兼ねている)川路聖謨(かわじ としあき)を長崎に派遣します。その帰り路、山陽道を上り、2月8日に、吉備津神社へ参詣しています。その時、高雅が案内しているのですが、聖謨の生々しいロシアやアメリカとの外交交渉の模様を、その口から直接聞いたのだとしてあります。

 なお、この愛政の書簡には、とうじの世相についても書いています。その1,2を明日にでも紹介します。

吉備って知っている  140 藤井高雅と愛政⑬

2009-04-14 20:53:45 | Weblog
 高雅は叔父洪庵の影響を強く受け、アメリカなどの異国の日本への侵略に対して常々深く憂慮を抱いていたのです。ペリーが浦賀に黒船を4艘連ねてやってきた嘉永6年以前から、神国日本を守るための海防策を考えていたようです。
 それは、緒方洪庵は勿論そうですが、この他、高雅に深く影響を及ぼした人もいます。その中の一人が、これも、今ではほとんど記憶にないと言っていいと思いますが、「堀家愛政」とその子の「堀家愛衆」がいます。
 この人は、輔雅と高雅の父堀家徳政の実弟です。だから高雅とは従兄同士になるのです。
 この愛政の父堀家廉平は吉備津に生まれたのですが、どうしてかはその理由は不明なのですが江戸で徳川幕府に仕えた人です。
 その仕えていた人は松平石見守貴強という人で、この人は鬼平犯科帳」にも名前が出てきますが、勘定奉行や長崎奉行を務めた江戸幕府の高級官僚の一人です。が、どうして吉備人である宮内の人「堀家廉平」が仕えることになったのかは分かりませんが、室老にまでなっています。その人の養子になったのが高雅の父の徳政の弟「堀家愛政」んばのです。
 その愛政や愛衆から当時の江戸の模様について詳しい便りが寄せられています。

 長崎奉行にまでなった人に仕えていたのですから、当時の世の中の様子が詳しく高雅のもとへ手紙で知らされています