私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 34

2008-10-30 13:53:19 | Weblog
 このシリーズ「吉備って知っている 10」で、兄媛の兄、御友別命が吉備津神社のどこにもお祭りされてないと話しました。
 実は誤りなのです。私の認識不足だったのです。「御友別命」はちゃんと堂々と吉備津神社にお祭りしてありました。
 本殿の後ろにある「本宮社」に子の仲彦と一緒にお祭りされていました。この本宮社にお祭りされている神々はこの親子二人を除いては、後は、総て、孝霊天皇に関係した大和人々です。吉備津彦命の父母兄弟です。
 このことに視点を当てて、古代吉備国を考えている学者もおります。それによりますと、もともと吉備王国を作って支配していた大和に負けないぐらいの首長がいたのです。その中心人物が御友別命ではないかというのです。また、この人の御墓こそが造山古墳であるというのです。その宮が吉備津神社だと。中には、温羅こそが御友別命だと言いきる人さへいます。
 この御友別命とその子仲彦(なかつひこ)(香屋臣の始祖です)の二人が本宮社に祀られています。本来は、この二人を祭ったお宮であったのが、後から、吉備の国を支配した吉備津彦命の父の孝霊天皇、姉の倭迹々日百襲姫命(やまととひももそひめ)などを付け加えて、さも昔から祀っていたのだ、こちらが本物だ、こちらの方がありがたいのだ、と人々に思わしたのではないかと思います。
 要するに、今は吉備津彦命をお祭りしているのですが、元々は吉備の首長(もしかして温羅かも)を祭っていたのではと思われます。それが、雄略天皇以降大和の中に組み込まれてしまい、吉備の首長の名が消されて、代わりに大和の天皇の力を誇示する吉備津彦命がこの宮に印されたのではないでしょうか。それまでの首長が鬼という悪者にされ追いやられ、吉備津彦命という大和の力がお祭りされたのだと思います。
 それでも、当時の吉備の人たちは、悪者にされた吉備の神々を忘れませんでした。ちゃんとお宮の中に残したのです。
 本来、温羅は悪鬼ではない、吉備の古来から崇拝されていた神だったのです。この人々の心に残る吉備一族の首長としてのこの崇拝尊敬が大和にとっては一番邪魔になることなのです。
 そこで、大和の支配者は、人々から崇拝されていた吉備の支配者を悪人にでっち上げたのです。獰猛なる人々の敵である悪鬼に変身させたのです。でも、吉備の人々は、この温羅の恩を忘れなかったのです。だからこそ、吉備津神社の中にわざわざ鬼であるにもかかわらずお祭りしたのです。
 もしかして、今、吉備津彦命の御陵とされる中山の山上にある中山茶臼古墳も、温羅の御墓かもしれません。

 「語部」が吉備国など特別な国だけにあったというのも、大和が日本を統一するために、大和の都合がいい物語を作り、その土地の人々に信じ込ませ、支配を確実にするための手段だったのかもしれません

吉備って知っている 33

2008-10-29 18:52:11 | Weblog
 部について考えてみます。
 
 ① 温羅の首を曝したところが首部です。この字を「こうべ」とはちょっと読めそうもありませ。
 この部とはなんでしょう。
 古代の日本において特殊な職業に従事する人たちの集団を部と呼んでいました。例えば、軍事専門の人々の集団を物部、稲作専門の人たちの集団を田部、その他、建部、犬甘部、土師部、八部など職業によってそれぞれの部に分かれていました。その数は300ぐらいあります。
 でも、その中に、この首部はありません。
 これが、果たして、古代の部の名残なのでしょうか。たくさんの部の中から「こうべ」と読めそうなものを探し出してみました。
 「神部」と「馬飼部」からそれとよく似た読み方を見つけました。
 まず、神部です。「かんべ」と呼んでいます。これが「かうべ」に変わったのではないかと思うのです。
 もう一方、馬飼部は、また、「飼部」(かいべ)などと書かれたものが出てきます。すると、この「かいべ」が「こうべ」に変わったのではとも思われます。
 まあ、いずれにしても、何らかの形で、この地方が吉備津神社と関係があったのではないかと思われます。ちなみに、首部にか「白山神社」があります。そのあたりに何かヒントが隠されているのかもしれません。
 ただ話に伝わるだけで、何らかの関係がありそうなのですが歴史は何も伝えてくれてはいません。
 
 ② 吉備の部についてもうひとつ。
 吉備には、他の国にはない部があります。それは上古のことを語り継ぐ人々の集団「語部」です。
 これは吉備が王国だったという大切な証拠です。雄略以前には、独立した強大な倭の一つの王国だったということを物語ったているのです。
 語部があったから、温羅も首部の話も今に伝わっているのです。大和、出雲、北九州などの強大な王国を作っていたところにだけしかない部です。

吉備って知っている 32

2008-10-28 14:01:18 | Weblog
 吉備津彦命が鵜に変身して鯉に化けた温羅を殺して、その首ろ曝したところが首部です。
 首部、これを「こうべ」と呼びます。山陽高速道岡山の入り口付近の地名です。

 曝した温羅の首は何年となく大声を発して唸り響いて止まりらず、付近の人々恐怖に陥れます。そこで命は犬飼健(いぬかいのたける)に命じて、犬に食べさせます。しかし、髑髏だけになった温羅の首は依然と唸り続けます。命は今度は吉備津宮の竈の下八尺の穴を掘り、そこに埋めます。それでも十三年の間唸り声は止みません。そんなある夜、命の夢枕に温羅の霊が現れ
 「我妻、阿曾媛に、釜殿の神饌を焚かせなさい。何か事があったら釜の前に参りなさい。幸ならば裕(ゆた)かに鳴り吉で、禍があれば荒らかに鳴り凶と、人々に知らしてあげる」
 と言った。
 これが鳴る釜の神事の起こりです。でも、「裕かに」「荒らかに」と言っても、人々には具体的にどういうのかその鳴り方の区別できません。だから次第に、鳴る場合と鳴らない場合の二つに分けてこの神事をわかりやすくしたのです
 
 お釜殿は温羅を祭ったお宮です。阿曾女が代々火を燃やし続けて奉仕しているということは何を意味しているのでしょうか。
 「鬼というか霊魂」と「火」と「処女」という取り合わせは、何が不思議な神秘さを感じさせるに十分なものがあるように思えます。その神秘さが更に農業と結びつき、作物の豊穣豊作と結びついて大いなる信仰へ発展したのではないかと思います。

 

吉備って知っている 31

2008-10-27 21:48:13 | Weblog
 奉祝祭りは終わったのですが、千田理一写真展「ふるさとの響き」は今日まで一週間に渡って開かれていました。
 その写真展に「お竈殿の神事」を写した何枚かの写真がありました。遠来のお客さんから
「この神事とは、一体どんな事をするのですか」
 と、質問をされることが度々ありました。それに対して次のように説明しました。

 “崇神天皇の時に、吉備の国に温羅という異国の鬼が飛びきました。身の丈は1丈4尺(約4.5mぐらい)にも及び、髪の毛は燃える炎のようで、目は爛々と輝く虎か狼のようであり、もとより鬼です。その性は凶暴で、備中の新山に「鬼ノ城」を構え、下を通る都へ送る各地の品物を贈る船を襲って略奪をしていました。 周りの人々は恐れ慄くいて、朝廷にこの鬼「温羅」退治を願い出ます。天皇は武将を送って討たしますが、鬼のほうが強くて敵いません。
 そこで、今度は孝霊天皇の皇子吉備津彦命を派遣します。命は吉備の中山に陣取り温羅と対峙します。弓矢で応戦しますが、命がいくら矢を射ても勝敗がつきません。途中で温羅の投げた石とぶつかって、矢は海に落ちて、温羅までは届かないのです。(矢喰宮です)
 尚、余談になりますが、吉備の中山と温羅のいる鬼の城まではやく10kmも離れているのです。
 そこで命が一計を案じて2本の矢を強弓に番えて放ちます、一本は温羅の石と今迄のように海中へ、もう一本の矢は温羅の左の目に当たります。たちまち温羅の目から流れ出た血は谷川を血の川、血吸川へと変じます。傷ついた温羅は雉になり山に隠れますが、襲用に追いかける命に追い詰められ、自分で濁した血吸川に鯉に変身して身を隠します。吉備津彦命も鵜に変身して血の川を追い、ついに鯉を見つけ食い殺してしまします。そこに鯉喰神社があります。
 その温羅の首を刎ねて串刺しにして曝します。その曝したところが現在の首部です。
 続きは明日にでも。お楽しみに

 

吉備津神社お屋根替えの奉祝祭り その3

2008-10-26 22:14:38 | Weblog
 奉祝祭りもいよいよ最後です。
 向畑の千載楽も参加しました。祭太鼓「向畑祭囃子」を見事、小学生が演奏しました。たった10分の演技でしたが、たくさんの声援を頂きました。
 神輿の奉納後、家に帰りますと、次のような子供会のメセージと一緒にお餅が家に届いていました。

 “ぼくたちは元気いっぱいの子供に育つようにと、大きな掛け声を出して祭りに参加しました。私たちの願いが叶うようにとお餅をいただきました。
 そんなお餅の一つをお配りします。私たちを末長く見つめてください。
 体も心も元気いっぱいの子供にそだちます。”

 子供は一人では決した育たないのです。地域の力が添えられてこそより健全な子供へと育つのです。地域力の大切さをこの簡単な一枚のお餅に添えられたお便りから考えさせられます。
 未来に大きくはばたく体も心も元気いっぱいの子供に育ってほしいと祈らずにはおれませんでした。

吉備津神社お屋根替えの奉祝祭り その2

2008-10-25 18:26:59 | Weblog
 奉祝祭りも2日目です。今日は土曜ということもあって多くの見物客が吉備津神社に集まってきました。遠くは日本の珍しいお祭りだということを聞き、台湾から駆け付けた若い女性もいました。
 今日のメインは何といっても「稚児」と「時代」の二つの行列です。6歳以下の幼児行列
  
    と町内各地から出演した吉備津神社に縁のある歴史的な人物に扮した人々の行列です。可愛い桃太郎さん、美しい腰元さん、犬養木堂、栄西禅師、藤井高尚といった人々が時代を飛び越えて現代に蘇りました。

  
 珍しいこの行列を見物しようと、吉備津町内至る所で見物の大きな輪ができていました。カメラのフラッシュを浴びながらの行列でした。

吉備津神社お屋根替えの奉祝祭り

2008-10-24 10:23:50 | Weblog
 60年ぶりに吉備津神社拝殿神殿のお屋根替えが終わりその奉祝祭りが23日夜から行われました。
 昨夜は提灯行列から始まりオープニングセレモニーが行なわ、たくさんのお参りの人で賑わっていました。
 少しでもこの祭りのお手伝いができたらと、春頃から向畑町内からも参道に架かる向畑大橋の塗装、参道の大掃除など「自分たちでできることは自分たちで」を合言葉に協力してきました。
 前夜祭にも大勢の人が参加していました。子供たちが作る回廊に貼り付ける行燈奉納にも、今回は特別に、向畑の子供たち全員で共同して一つの大きな作品を作り上げ、奉納しました。
           
 また、夕方6時からの提灯行列にも大勢の人が参加していました。
  

吉備って知っている 30

2008-10-23 08:21:09 | Weblog
 ただ、書紀には「皇子大津を譯語田(をさだ)の舎(いえ)に賜死(みまからしむ)」と書いてあります。
 死を賜る少し前でしょう、大津皇子は身に迫る死をいかにすべきか、伊勢神宮の斎宮の姉に秘密裡に会いにいって相談しています。
 そこらあたりの様子が万葉集に出ていますので紹介します。
  大伯皇女は大津皇子が再び大和に帰る時に歌っています

・我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし

【私の弟を大和へ帰すというので、夜が更けて、暁まで立ち尽し、私は露にびっしょり濡れた】

 ・二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ(万2-106)

【二人して行っても通過するのが困難な秋の山を、どうやってあなたが独りで越えて行くというのだろうか】

 大津皇子の歌も載っています
 
 ・ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
【磐余の池に鳴く鴨を見ることは今日までか。私は死んでいくんであろうな。】
 
 と、辞世の歌があります。10月3日です。

 11月16日に伊勢神宮斎宮であった大伯皇女は奈良に帰ってきます。
 その時の歌も、また出ています。
 
 ・神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに

【伊勢の国にいたほうがよかったのに、どうして私はのこのこやって来たのだろう、あなたはいもしないのに】


 ・見まく欲(ほ)り我(わ)がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに

【私が見たいと思うあなたはいもしないのに、どうしてやって来たのだろう、馬が疲れるだけなのに】


 ・うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我(あ)が見む)

【現世に留まる人である私は、明日からは、二上山を我が弟として見よう】


 ・磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに

【岩のほとりに生える馬酔木を手折ろうとしても、それを見せるべきあなたがいると、世の人の誰も言ってくれないではないか】

 大津皇子と姉・大伯皇女の悲劇です。
 明らかに、「行心」という妖しいげなる売僧(まいす)を利用した、すべて鵜野皇女の画策と考えられています。奇怪な歴史の一ページでもあり、大伯という吉備の海の上で生まれた一女性の哀詞でもあります。
 吉備とは何なら関係のないことですが、付録的に書いてみました。



吉備って知っている 29

2008-10-22 17:26:50 | Weblog
大津皇子のお話をもう少し。

 686年のことです(書紀の天皇十五年)天武天皇の病状が悪化します。七月十五日だと記されています。天皇から突然の詔が出ます。
 「政(まつりごと)のことは全て大小を問わず、皇后と皇太子とそうだんすること」
 と。病状の悪化した天皇が果たして言ったのかどうかは疑わしいのですが、とにかくこんな詔が出されます。皇后鵜野皇女の指図ではと思われます。これによって大津皇子は政から外されてしまします。
 天皇が九月九日に崩御されます。そして十月二日に突如として、大津皇子は謀反のかどで死罪を言い渡され、翌十月三日に死刑になります。
 その謀反ですが、これも誠におかしげな話が残っています。
 新羅から来た「行心」という何か妖しげな僧が出てきます。
 
 ちょっと横道にそれます。今朝の新聞によりますと、この「妖」という字を「あや」しいと、読んでもいいようになったと書かれていますが、いいわるいを、この大津皇子のようにいとも簡単に決められていいのでしょうか。国語審議会というのも何か怪しげな所だと思いませんか。

 皇子の謀反に加担した30人あまりの捕らわれたのですが砺杵道作(ときのちつくり)だけが伊豆に流された他は全員が罪が許されています。
 そして又詔して「新羅の法師行心は大津皇子の謀反に加担したが、朕罪するを忍びず」とあります。
 どうして、大津皇子に加担した者の内で、この行心だけ、「罪するを忍びず」と特別扱いにしているのか、この事件の胡散臭さが感じられます。皇太子草壁皇子のために、新羅より来朝した妖しげな占い師行心を使って勝手に大津皇子の罪をでっち上げたのではないかと言う人もいます。たぶんそれが正解だとは思います。
 要するに、大津皇子は母の妹、そうですおばさんの鵜野皇女に異母の弟のために殺されています。御年24歳であったという。妃の山辺皇女は髪を振り乱して裸足で駆けて皇子の所に行って殉死します。山辺皇女のその時の物凄さが「殉(ともにしに)めせり」という言葉の中から想像できます。

 さて、日々一歩一歩死へと追いやられていくせっぱつまった大津皇子のなんとも言えない心境を今に伝える歌が万葉集にあります。伊勢神宮の斎宮であった姉の大伯皇女(おおくみこ)とのやり取りからうかがい知ることができます。
 それはまた明日にでも。

吉備って知っている 28

2008-10-21 15:00:49 | Weblog
 昨日、禁断の恋をした吉備津采女の「身添へ寝けむ」男はもしかして大津皇子ではないかと書きました。すると、例のお節介家さんから「大津皇子について、更に書け」と命令が届きました。あまり吉備と関係はないのですが書いてみます。
 
 大津皇子は天武天皇の子です。その兄草壁皇子が皇太子で、母は皇后の鵜野皇女(持統天皇)です。大津皇子の母は鵜野皇女の姉の太田皇女です。二人とも天智天皇の同母の皇女なのです。なお、ややこおしいのですが天武天皇(大海人皇子)は天智天皇の弟です。
 大津皇子には一人の姉大伯皇女(おおくのひめみこ)がいます。
 そのころ、朝鮮半島では新羅は強く任那を圧倒していました。その任那を助けるために欽明天皇は兵を朝鮮に進めます。その軍船には中大兄皇子、大海人皇子、太田皇女鵜野皇女も一緒に乗られていました。
 その軍船が瀬戸内海の備前の大伯海(おおくのうみ)を進んでいた時、太田皇女が皇女をお生みになります。その地名をとって大伯皇女と名づけられたのです。
 大伯(おおく)海は今の邑久町(現在の瀬戸内市)付近の海です(661年)。その同母弟が大津皇子なのです。ちなみに、大津皇子は博多の娜(な)の大津で生まれたから大津なのです(663年)。
 
 朝鮮遠征に失敗し、一時は国力の落ちた大和政権も、壬申の乱以後また次第に天武天皇を中心にして国内が安定してきます。
 その天武天皇の皇太子が鵜野皇女を母に持つ病弱であった草壁皇子です。その皇子よりは何事においても才能豊かな弟の大津皇子の方が周りから将来を嘱望されます。そんな大津皇子を、皇后の鵜野皇女は面白いはずがありません。どうにかして我が息子草壁を天皇の位にと思います。

 「懐風藻」によると
 「体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた」
 人であったようです。
 だからこそ、草壁皇太子の母、鵜野皇女(持統天皇)はいろいろと画策して、大津皇子を亡き者にしようとするのです。わが息子が可愛いのです。たとえ姉の子異母弟であっても、大津皇子を殺してしまいたいほど憎くて憎くてしかたがないのです。どうにかしてと思いめぐらせます。母なお愛情でしょうか、我が息子を天皇にしたいのです。
   
   “春過ぎて 夏来るらし 白妙の
            衣乾したり 天の香具山”
 の女性の中に、どうしてそんなに激しい感情があるのだろうかとも不思議に思われます。

 いろいろな思惑が飛び交っている都にあって、こんな素晴らしい皇子との禁断の恋、その大津皇子に迷惑が及ばないように吉備津采女は、せめて「大津」という名がつく楽浪(ささなみ)の浜で静かに身投げしたのだと考えてもいいのだではないでしょうか。

吉備って知っている 27

2008-10-20 21:46:49 | Weblog
 吉備の采女について
 紀小弓の後妻大海よりも100年も後の7世紀前半に出た蚊屋采女という人も記録に残っています。舒明天皇の時の采女であったとしか記録には残っていません。天皇との間に蚊屋王子生んだとあります。蚊屋もその母采女もその後いっさいの記録はありません。ただ、采女が吉備から出たということだけは分かる思います。
                   
 この頃、八世紀ともなれば、もうほとんど采女という身分は形骸化してなにも特別な意味はなかったよに思われます。
 采女という制度が存在していたおかげで、当時の社会機構が案外に判明するのではと期待を込めています。

 舒明天皇は推古天皇の次の天皇です。舒明天皇の子が中大兄皇子、即ち。天智天皇です。

吉備って知っている 26

2008-10-19 15:38:27 | Weblog
 昨日に引き続いて采女について書きます。

 「秋山の したべる妹 なよ竹の 嫋(とを)依る子らは いかさまに 思ひ居(ま)せか 栲縄(たくなは)の 長き命を 露こそは 朝(あした)に置きて 夕へは 消(け)ぬといへ 霧こそは 夕へに立ちて 朝(あした)は 失すといへ 梓弓 音聞く吾(あれ)も 髣髴(ほの)に見し こと悔しきを 敷布(しきたへ)の 手(た)枕まきて 剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝けむ 若草の その夫(つま)の子は 寂(さぶ)しみか 思ひて寝(ぬ)らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと」

「その美しさは秋山の色にも似、そのたおやかさはなよ竹にも似ていると、かねて評判を聞いていたのに、ほのかにしか見なかったのが、今となっては悔やまれる。共に添い寝した夫はどんな思いでいることだろう。長い命であるものを、時ならずも、まるで朝露のように、まるで夕霧のように、はかなくも亡くなってしまった。」
  
 
 これは万葉集にある柿本人麻呂の「吉備津采女死時」歌です。
 采女とは、天皇に献上した地方豪族の、それも吉備や山城など限られた大国からしか送られなかった特別の娘でしす。それだけ教養もあり、その上、美女が絶対の条件になっていました。天皇の私物用に届けられた地方からの特別な贈答品なのです。送られてきた女性にはひとかけらの自由もなかったのです。天皇の命令で動くロボットなのです。自分勝手に行動できる自分はないのです。だから、恋なんか決してできるはずもなく、また、許されるはずもありません。
 この決してできない禁断の恋をした采女が「吉備津の采女」です。
 「手(た)枕まきて 剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝けむ」と人麻呂は歌っています。決してしてはならない天皇以外の男と寝たのです。見つかれは男も女もたちどころに殺されてしまいます。そんな累卵の危ない恋をしたのです。恋とはそれぐらい魅力的な男女の交わりでもあるのです。
 吉備津采女の相手は誰だかはわかりませんが、きっと時の若き貴公子であったと思います。時は奈良朝天武天皇の頃ですから、ひょっとして大津皇子ぐらいだと、とても面白い時代小説になるのですが、歴史は何も語ってくれません?
 一切の自由のない吉備津の采女は、苦しんで苦しんで苦しみぬいたであろうその末に、どうしようもなく琵琶湖の川瀬の道に静かに何も語らずに入水して朝霧の中に消えていきました。きっと故郷に帰ってきて死にたいと思ったことでしょう。父母の古里の海を川瀬の道に置き換えて入水して行っただろうなと想像できます。多島の美しい瀬戸の穴海をです。

 
 柿本人麻呂が、この吉備津の采女をほのかに見たのが残念だった、もう少し良く見ておけばよかったと思えるぐらいの美女だったのです。顔、形といった単なる容姿だけでなく、この歌からすると、この吉備津采女は大変な性的肉感的な美女ではなかったかと思われます。
 「したべる」妹を、万葉仮名では「下部留」妹と書いて、若い女性の下半身を想像させるに十分な官能的な意味合いを感じさせ、「なよ」竹はなよなよとした女性の腰つきを思い、また「嫋(とを)依る」子らは捩じれば撓み易くいかにも弾力性のある体全体で吸いつくような感じのすることを表現しているのではと思えます。本当に性的な匂いがいっぱいのする書き振りのような思いがいつもします。
   万葉集って面白いですよ

 ご参考までに万葉仮名で書いてみます。

 秋山下部留妹 柰用竹之 謄遠依子等者(アキヤマノシタヘルイモ ナユタケノ トヲヨルコラハ)・・・・

 大変な美女がいたのです。もちろん今もですが。岡山というところはいいところですよ。

吉備って知っている 25 吉備の女傑

2008-10-18 21:58:18 | Weblog
 5世紀の末になって吉備王国は次第に衰退して、ついには没落していきます。それを決定付けたのが星川皇子の事件です。
 この後は吉備の力が全て消え去ったかというとそうではありませんが、幾人かの吉備出身の官僚は大和の政治機構の上でそれなりの活躍の跡は窺うことはできます。
 その一人に吉備上道采女大海(きびかみみちのうねめおおしあま)という女傑がいます。この話を今日はしたいと思います。
 田狭の反逆、星川王子の事件の後、上道の首長は国造にさせられます。ということは、もはや吉備の大王ではないのです。一地方の天皇の小役人にしか過ぎません。 この上道の国造の人質として、女(むすめ)大海(おおしあま)を天皇のもとに貢がせます。この采女を雄略天皇は、さらに、部下の紀小弓という人の後妻に与えています。采女とは天皇の私物なのです。煮ようと焚こうと天皇の自由裁量なのです。自分の意志では勝手な行動はとれないのです。まして、恋愛などといったものは一切厳禁です。
 
 さて、田狭のおこした反乱当時から、新羅も百済も大和というか天皇の元に友好のしるしとして毎年来朝して貢物をしていたのですが、それがなくなり不逞な関係になっていまいました。何度か貢物をするように新羅などに迫るのですが無しの「つぶて」。それを怒った雄略は、この小弓、蘇我韓子、大伴談(かたり)、小鹿火(おかひ)の四将軍に任じて、新羅征伐に向かわしたのです。
 その時、小弓は後妻として天皇より拝領した吉備上道采女大海を新羅征伐に連れて行きます。戦いははかばかしく進まず、夫の小弓も戦いの途中で病死します。多くの四将軍などの日本から派遣した武将も戦死やら内紛やらで倒れ、征伐は失敗し、大海(おおしあま)は病死した自分の夫小弓の屍を抱いて日本に帰り、紀州に墓を造り埋葬します。
 こんな記事が書紀に見られます。衰退没落した後の吉備にも、まだ、このような女傑などの人が出ておりますが、所詮は婀娜花であって、再び、吉備が政治的な脚光を浴びることはありませんでした。
 なお、この采女ですが、日本各地の国造などの娘が天皇のもとに献上されていたのですが、と言っても、どこの国造の娘でもいいというわけにもいかなかったようです。采女が献上された国造は限られていました。大和・山城・伊勢、そして吉備からしか貢いではいなかったのです。それだけ、まだ衰えたといえ、吉備が重要な大和の勢力の中に組み入れられていたという証拠にもなるのです。
 それまでに、山城と伊勢と吉備だけが大和に対して反乱を起こしています。采女と天皇への反乱というか特別強い勢力を持つ国とは何らかの関係がありそうです。

吉備って知っている 24

2008-10-17 16:47:46 | Weblog
 大悪天皇と異名をとる雄略もその依る年波には勝てず、後半は静かに政ごとを行い国家治まるとあり、62歳で身罷っています。
 雄略が死ぬ(479年)と、吉備下道臣女稚媛は雄略との間に生まれた星川王子を大蔵の官にさせて、兄君や城丘前来目(きのおかさきのくめ)らを従え大王の位につかせようとしたのです。
 雄略は死ぬ前に、大連大伴室屋と東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)を呼んで、
 「自分が死んだ後、星川王は腹黒く心麁(こころあら)いことは有名なので、きっと皇太子(白髪王子)を殺して自分が大王になるだろうから、2人して十分心して守ってくれ」
 と頼んだという。その通りになったので、室屋と掬(つか)は直ちに兵を大蔵に遣り、星川皇子、稚媛ら総て焼き殺したのです。
 この大和での異変を知った上道臣たちが船40艘の水軍を遣わしたが、大和に着いたときにはすでに戦いは終わり、星川皇子たちが殺されてしまっていたので、吉備の上道に戻ったのだそうです。
 この時、どうして川嶋・三野・苑・波区藝などの他の吉備諸地域の首長が一緒になって上道臣を助けなかったのかはわからないのですが、統一して吉備の難題を解決できなかったのかということが、その力を弱める一番の原因になったことは間違いありません。
 下道も上道もバラバラびなって強力な大和の勢力に立ち向かったために、ついに吉備全体が衰退していったのです。吉備の諸王がてんでバラバラに大和に立ち向かったも勝つわけがありません。
 この戦いの結果、それまで上道臣が支配していた吉備の山部は完全に大和に取り上げられたのです。この山部というのが製鉄業などの吉備の基幹産業を担っていた部民であったのです。この山部が大和に取り上げられてから吉備の衰退がいよいよ早まり、ついには没落の憂き目を見るに至るのです。
 なお、念のためですが、百済にあった「田狭」に、我が国からから幾多の刺客が送られたことは想像がつきますが、その後の運命はどうなったのか樟媛と共に歴史の中からこれもまた完全に掻き消されてしまっています。「殺された」とはっきり書いてあるものもありますが。

 書紀にだけあって、古事記にはこれらの歴史は一切載ってはいないのです。でも、そのあたりの様子がよくわかる歴史的な手掛かりはいまでも吉備地方にたくさん残っているのです。
 その一つに古墳があります。

吉備って知っている 23

2008-10-16 18:09:35 | Weblog
 天皇という権力を使って、田狭の絶世の美女妻を奪った雄略天皇とは一体どんな人物だったのか、書紀から拾ってみました。
 大悪天皇という渾名が付いているほどの、自分の思うことは必ずやるという自分中心の天皇です。人の妻を奪うなんてことは朝飯前のことです。
 この雄略には従弟の市辺皇子という人がいます。履中天皇のお子様です。ある時、雄略はこの従弟が帝位を狙っているのではと疑って、狩りを一緒にしようと誘い、その場でこの市辺皇子を弓で射殺しています。
 この天皇は生まれつき性質が獰猛で、人を殺すのを何とも思はないで平気でたくさんの無実の人を、兄だろうが、従弟だろうが疑わしきは総て弓矢で、刀で、また、焼き殺しています。「罪なくして死する者多し」と記されています。
 だから、絶世の美女と、ただ聞いただけで、その夫を遠く異国に派遣して、その留守に妻を奪い取るなどということぐらい朝飯前の罪の意識も何も無く平気で出来たのです。自分さへ良ければそれでいいもです。本当に大悪天皇そのもんのです。こんな天皇に自分の妻の自慢話を聞かれた田狭が、ただ運が悪かっただけなのです。だからこそ、弟君が田狭の言うことを聞いたのだと思います。その弟君を殺した妻の樟媛は雄略のまわし者「くのいち」であったのかもしれません。
 この「樟媛」を君臣として最も義のある古代国家の婦女鏡、烈女として崇め奉った偉い歴史の先生もいましたが、そんな大悪な暴君に仕えた田狭こそえらい迷惑なことだったのではないでしょうか。その先生は、この田狭事件を光栄ある吉備国の歴史の一大汚点していますが、甚だしい歪んだ歴史への挑戦だと言わざるを得ません。さすが吉備だと自慢してもよいような話だと思います。
 この悪女「樟媛」の出自がどこであるということが分からないと、書紀に書かれているだけでも幸いです。「吉備〇〇別の出身だ」とも書いていようものなら恥の上塗りになりますもの。