私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

幣帛(みてぐら)についてーその2

2007-05-31 12:58:33 | Weblog

 「みてぐら」とは、元来は、榊の枝に白和幣青和幣、又は、木綿(ゆう)を垂れた物でしたが、段々と、神祇に献る各種の供物の総称として用いられるようになたのですが。それを示すのが、延喜式の「祈年祭」の祝詞(のりと)の中にあります。

 これによると、よく育った稲を幾百穂幾千穂も供え、酒は高くて太い瓶に一杯に入れ並べて供えて十分に称え事をします(称辞竟へ奉らむ)。尚、この他に、野の畠の物では、甘菜、辛菜、海の物では、大小の魚類に、各種の海藻、お召し物では、明妙・照妙・和妙・荒妙の織物を献ります。木綿(ゆう)・麻・倭文(しづ)・絹などのです。このような物をお供えして、神々の御徳を称えます。

 これなどを見ると、当時の人達は、今ある総てが、神の御蔭であって、その神に、常に、感謝の念を捧げながら、共に生きた慎ましやかな暮らしをしていたと言う事がよく分ります。姑息に安きを偸まず生活をしていたのではと思えるのですが。
 「・・・・・水」とか、なんとか言った末に、自らの命を絶ってしまうようなことをする人はいなかったのではと思いますが、どうでしょう。
 


「幣帛」なんと読みますか?

2007-05-30 19:13:05 | Weblog
 「みてぐら」と読むのだそうです。辞書では「幣」や「御手座」を宛てています。
 神様をお祭りする時になくてはならない物だそうです。昔から色々と説があります。賀茂真淵も本居宣長も説明していますが、一般には、「みてぐら」の「み」は御と言う意味で、「て」とは、布、織物の総称の「たえ」(白妙の衣ほすてふ)のつまったもので、「くら」は、座、倉、鞍など物を載せる物で、台や机のようなもを差していたようです。このほか、神に捧げる為の品物を取り付ける榊のようなものまで「くら}と呼んでいたようです。
 現在でも、榊に御幣を結びつけて神に奉げ(玉串)、2礼2拍しますが、あれが本来の『みてぐら』だったのですが、祭式が鄭重になるにしたがって種々の品物や食物を台に乗せて献るようになったそうです。
 吉備津神社の祭礼のときに、神に奉る「ご膳据」も「幣帛(みてぐら)」です。
この「七十五膳据」の神事は「御盛相(おもっそう)」が中心です。玄米(秋)、白米(春)の飯を円筒形に造って、それぞれ台に乗せ、神祇に献るのです。
 このほか鯛、魚、昆布、大根などの野菜,柳の箸が供えられます。榊持ち、獅子、猿田彦、鉄砲(男児)鳥篭(女児)、弓持ち、矢持ち、5色の幣、神酒、鏡餅、果物、絹布、綿布などの「幣帛みてぐら」が神に献られるのです。
 この「幣帛」を奉げるのは、何も吉備津様だけではありません。奈良の春日神社でも、伊勢神宮でも、出雲大社でも、お宮なら何処で行われている事なのです。
 では、このような「幣帛」を奉る「祭礼」とは一体なんだったのでしょうか。次回に説明します。
 

ソウレンのお話

2007-05-28 21:37:30 | Weblog
 ソウレンの様式にはそれぞれの土地の風習みたいなものがあり、それぞれの村ごとの、又、小さな一ごとのしきたりがあって、千差万別のやり方が見られていたと言う事でした。前に書いた幟の代わりに、故人の生前の名前を書いた紙を吊り下げるところもあるようです。現在では、どうかは知らないのですが、韓国あたりでは、葬儀に際して、大声で泣く専門の人(年老いた婦人)がいた、と聞いたことがありますが、これと同じことが、日本を含めた東アジア一帯(照葉樹林帯)でも行われていたのではと言われています。
 また、出棺は酉の日、友引の日、三リンボー、戌の日は出さないと言った事もあったようです。棺の形は風呂桶の様な丸型であって、「たが」は2ヶ所で、上を白紙で目張をし荒縄で十文字に掛ける。死者には白衣を着せ、カンナ屑を袋に入れて動かないように詰める。手には一文銭を6枚入れた袋を持たす。寝棺はキリスト教だけ。
  
 こんなソウレンの様式は、このほかにもまだまだ沢山あっただろうと想像できますが、今では大方忘れ去られてしまっているようです。

参道の西側に県道が出来ています。

2007-05-27 22:47:22 | Weblog
 吉備津神社の参道を、現在、車が頻繁に往来しています。道幅が狭く交通渋滞がしばしば見られます。そこで、この渋滞解消のため、道幅の広い車道を、この参道の西側に作っています。大型バスなどの通行に便利になると思います。
 これまでは、歩行者は参道の東側にある小さな道を通って、吉備津様にお参りをしていました。正月などには、行き来の参拝客で大変混雑しておりました。
 この参拝する歩行者のための道は、本来は、神社の周りにある地域の人達が葬儀のためにだけ使っていた「ソーレン道」だった、と、地域の古老から聞いた事があります。昔は死者のための道だったそうです。一般の参拝者は参道を通っていたのだそうです。車社会になってから、人が参道から追い出され、それまでのソウレン道を通るようになったのだそうです。
 この吉備津地方で行われていた(昭和の初め頃まで)ソーレン(葬儀のための行列)の様子も、このソウレン道と一緒に、その古老から、お聞きする事が出来ました。今は廃れてしまっている葬儀の様子等を詳しく覚えてお出ででしたので、ノートに書きとめておいたのを記して見ます。
 
 『戸主は麻の裃をつけ、女は白衣にかつぎ(頭を覆う布)を被る、他は紋付羽織のいでたちになる。
 ソーレンの初めは幡である。赤白の二色を竹に付ける。
 次は、紙花である。これはどんなものかよく分らないが、多分竜の形をした木の細工物に細長く切った紙を貼り付けたものではなかったかと言う事です。
 3番目は、果物などの小盛り物。
 4番が位牌、
 5番目が笠と杖、笠は近所の人が作ったい草でこさえたもの。杖は竹。
 6番目が花籠、2~3mぐらいの竹竿に竹で編んだ篭を着け、その中から1.5mぐらいの竹ひごをたらして、その竹ひごに、いっぱい、ヘリを薄紅色に染めた桜の花びらに切った紙をつける。
 7番目が六燈(6角形になった木で作った灯篭か?不明)
 8番目が提灯。
 最後が花と言う順序でソウレンが出来た。
 棺の後に続き、棺は孫が担いだ。なぜ孫かと言うと、孫に担いでもらうと、死者が、蓮華の台に乗った心地になると言われていたからです。また、そのお棺には綱を付けて、子供達が引っ張ることもあった。孫がいなかったり、小さかったりした場合は講屋の者が代わりに担いだ。 
 これだけの人が行列(最低でも15人ぐらはいた)を作って墓場まで行ったので、ソウレン道が必要だったのではないか』と、お話になられていました。
 

吉備の中山に獣がいないわけ

2007-05-26 21:06:38 | Weblog
 足守の備前屋にいた吉備津の宮の氏子である調理人が、足守侯から、江漢が拝領された鹿の肉の調理を渋ったのは、それには深いわけかあったのです。これも、この吉備津に住むある古老から伺った話ですが。
 
 「昔、吉備津彦命が、この吉備津に来られた時、大きな「シシ」が、命の前には立ちだかったと言う事です。命は、これを一剣のもとに切り殺されたそうです。その屍骸から、ものすごい悪臭が起ち込め、村人を困らせました。命は、それではと言う事で、深い深い穴(ある人の話では、10間とも言われています)を掘らして、そこにその屍骸を埋めてしまわれたそうです。「やらやれ」と思ったのですが、それでも、なお、その悪臭は消えないで、村中に立ち込めていたということです。そこで、命は、これには何か訳があるのではとお考えになり、家来に命じて、命が殺した「シシ」を埋めた穴を、再び掘らしたのだそうです。すると、殺したと思われていた「シシ」が、掘った穴から、急に飛び出してきて、向こうの山に逃げ帰ったと言う事です。
 みんなで、逃げて行くシシに向かって、もう決して、この中山には「なこそ」「なこそ」、(決して来るなと意味の言葉だそうです)と叫んだのだそうです。それから、その向こうの山を『なこそ』の山と名づけたということだそうです。「なこそ」が、いつしか、「なこし」に変化して、現在では、名越山と呼ばれています。
 それからは、この吉備の中山には「シシ」がいなくなったということです。そして吉備津様の氏子は、「シシ」の肉を食べると、シシの祟りがあるとして、決して食べなかったとされています。
 それ以後「穴」と言う字も、この吉備津から「シシ」と呼ばれ、全国に広まったと自慢そうに笑顔でお話になられました。
 このシシは、吉備の国では、猪とも鹿とも言われて、特別に吉備津では神聖な生き物として崇められ、殺したり、まして肉などにしたりして食すなんてことは、最も忌み嫌われる事であったようです。
 そんなお話が、この江漢の旅日記からも伺われます。
 なお、このシシを掘った命の家来は、以後、「シシを掘った。獣(けもの)、即ち「シシ」を掘り出したと言う事で、堀毛と呼ばれるようになったとされています。それが、いつしか堀家に変化したそうです。現在ある片山の堀家の墓地には、「堀毛」と刻まれている墓石も見えます。社家を支えた吉備津の名家でした。
 「小雪物語」に出で来る喜智さまのお家も、この掘家に当るそうです。

鹿の肉

2007-05-25 22:17:29 | Weblog

 この日記を読んでいると、当時(1788年ごろ)の日常の庶民の生活がよく分ります。 
 たとえば、岡山赤穂屋で、「刺身が出た」と、ありますが、正月の事ですから、この刺身は、多分、鰤(ぶり)だと思われます。凍った脂身の多い鰤ならゴリゴリと音を立てた歯ざわりが、江戸のお人には感じられたのでしょう。鮪では決して味わえない感じだと思います。
 吉備地方では、お正月と言えば鰤がつき物です。現在でも、北房地方には、鰤市が旧正月前には立ちます。又、この冬の季節、此処では余り火事がないと、江漢は、特に書いています。江戸のような空っ風が吹かないので、火事は大変少なかった事を聞いて驚いたのでしょう。 また、昼食に白魚が、平皿に大盛り出たと記されております。しかも、その値が一升三文だとも。当時、蕎麦でも、一杯十六文したそうですので、如何に安価であったと言う事が分ります。 
 その次の朝四時ごろ、江漢は、岡山石関町を出て、足守を目指します、足守まで4里。途中、宮内の「菊屋という揚屋に立ち寄る」と、書いています。
 でも、それから約50年後の岡田屋熊治郎の時には、既に、この菊屋という名は、吉備津の町屋の何処にも見当たらないのです。また、そこの妓が縞縮緬毛留の帯をしていたと記されています。でも、どんな帯か分りません。知っている人教えてください。
 
また、
鼈甲の簪や笄とはどのくらいの技(遊女かも)が身に付けているのかも分りませんが、ある程度、上級のあそびめが身に付けていたのではと思われます。
 夕方まで、この「菊屋」にいて、4時ごろ足守へ向かったようです。
 
 
それから江漢は、
木下侯を訪ねます。前日木下侯が鹿狩りをした時に捕らえた3匹の鹿の肉の一部を賜ったことなど記しています。
 このところで面白いのは、貰って帰った鹿の肉を、足守の備前屋の料理人が、吉備津の宮の氏子で、調理するのを随分と嫌がったことが記されています。
 これは、明治の何時頃までかは不明なのですが、吉備津では、イノシシ、シカなどの獣を食べる事は忌諱に触れる事として、氏子は、絶対にしてはいけないことにされ、大変恐れられていたと言う事です。
 まあ、それは兎も角として、この吉備の地方にも、沢山の鹿が野山を駆け回ってていたと言う事は確かなようです
 でも、なぜか吉備の中山だけには、鹿も猪も、一頭たりとも見かけなかったと、言い伝えられています。
 吉備の中山には一匹の獣もいないのか、又、吉備津の宮の氏子が、なぜ、獣の肉を忌み嫌ったかと言う事は、次でご説明します。


司馬江漢も吉備津様におまいりしています

2007-05-24 22:22:37 | Weblog

 1788年、江戸の絵師江漢が吉備津神社に参詣しています。 彼の「西遊日記の旅」の中に記されています。
 『・・・三門と言う処に出で夫れより四里を過ぎて足守に行く路、吉備津の宮あり参詣す、又行きて備中の堺に吉備津の宮あり(中略)それより宮内というところに入りて二里即ち足守なり。木下侯未だ御着なし。・・・・』 
 翌年の正月まで長崎平戸など巡って、馬関(下関)から海路帰途に着き、牛窓で下船して、岡山に立ち寄っています。
  『二十五日  大西風烈し。朝五時出立して行くに寒風骨を透す。(中略)岡山石関町赤穂屋喜左衛門方へ行く。・・・食事して酒の肴、刺身を出だす。その切り身歯に当りてゴリゴリという、刺身の氷りたるなり。当春へかけての寒さ、四十年此方の寒気と申す事なりとぞ。・・・・』 
 『二十八日  天気、昼より曇る。喜左衛門同道にて四時ごろ石関町を出て、行く事二里、宮内という処あり。遊女ある処、茶屋あり。菊屋という揚屋なり。此処に至り妓二人呼ぶ。大阪風なり。縞縮緬毛留の帯、髪大島田、本櫛横に挿し、笄、簪、鼈甲なり。大阪の唄、江戸の騒ぎ唄、興に入りて面白し・・・・・』
 『二月朔日  昼より雨(中略)昨日の鹿肉を料理人に申付候へは殊の外困りける。此処は吉備津の宮の氏子にて獣を嫌う。夜に入りて雨ますます降る』  

  これを見ると、当時の1788~89になけての宮内の様子がよく分ります。 明日はこれについて、一寸説明します。では。明日又。


吉備津神社の昔話 その2

2007-05-23 21:03:10 | Weblog
そのでえく(大工)が「こねえで」と言ったんで、殿様は当分の間はほってえたそうな。
 「一人でするんじゃけん。そげんできるもんか」
 とかなんか、ぶつくさ言いながら。
 でも、殿様なんかが思っていたのより違うて、不思議なことじゃが、お宮がどんどんできょうたんだと。昼間は一人でやっているのに、朝、目が覚めてめてみたら、きにょうより、何十倍もはかどっていて、ものすごう仰山、柱や何やらが立ててあり、屋根まで上がっていたのじゃ。殿様は、どうして、こげえに出来るんじゃろうかと、不思議で不思議でおえりゃあせん。「こねえで」と言う、約束をしとったんじゃが、日が暮れてから、こっそり見に行ったんじゃ。すると、昼間は一人しか働いておらんのが、夜行ってみると、昼間のでえくと、顔も形も、一つも違わんおんなじもんがぎょうさん黙って働いていたそうじゃ。どれが昼間の、でえくかわかりゃせん。そこで、一人のでえくに聞いてみたそうな。
 「おめえらの親方はだれなら、みんなおんなじで、わかりゃあせん。ほうみをやろうと思うんじゃが。だれにやったら、ええんじゃろうか」
 「親方にゃあほくろが鼻んとけえ、ちいとるけえ、そりょうをみりゃあわからあ」
 「ええ事を聞いた、あしたりにでも行って褒美をやらにゃあ」
 と、その晩は早く寝たそうな。
 殿様は、あくる朝、ぼっけえいせえで、そけえ行って見ると、どうした事か分らんが、今まで出来ていたお宮をいしょくたにして、一つのお宮にしてしもておったのじゃ。屋根にゃ、ぐじゃぐじゃに取り付けられておるし、柱の間は広かったり狭かったりしているし、お宮さん、らしゅうねえ、へんてこなお宮さんが出来ておったんじゃと。せえから、真ん中のおおけえ柱にゃあ、握りこぶしぐれえの黒々とした節がついていたそうな。
 何処を探しても、ほくろのでえくの親方も、きのうばん、あれぐれえ、おおぜえ、おった同じ顔・形をしたでえくも、どこをさがしてみてもおりゃあへん。
 仕方がねえけえ、かえりょうたら、細谷の橋のとけえ、仰山のどれもけえも、同じ、かたちゅうした藁の人形の重なって捨ててあったと。


 こんなお話が細々とですが、まだ、捜すと、偶然にも、耳にすることもあります。このお話も、ある年老いたおばあさんから聞いたものです。この人も今では故人になられておられます。
 「こげんな話でよけりゃあ、まだ5や6つはあるでー」
 と、言っていたのですが、惜しい事に、このお話が最初で最後になってしまいました。
 このような何代にも亘って、口から口へと伝わって来た昔話が、今のこの文明の社会の中から、どんどん消え去っていっています。
 

吉備津神社の昔話 その1

2007-05-21 21:23:37 | Weblog
 桃太郎とか、温羅とか、吉備津彦命にまつわる昔話は、この岡山地方には沢山あります。
 これからお話します昔話は、前回の安覚のお話と同じように、今では、この地方の人でさへ誰も知らない、記憶にさへないようなとっても不思議なお話しなのです。
 少々長いので、二回に分けてお話します。

 でえれえむかし、備前と備中の堺にお宮を建てようと思ってのう、ある殿様が国中へ、どえれえうめえでえく(大工)がおりゃあせんかとおもうて、お触れを出して捜したんじゃと。でも、「わしにやらしぇえ」と言う者は、ひとりもおらなんだ。
 ところがじゃ、せいから4,5日してから、ひょっこりと「わしが建ててやらァ」と、いうてきたもんがおったんじゃとう。
 殿様が
 「お宮は一人で建てられるわけがねえ。お前が一人で建てるんか」
 と聞いたんじゃと。
 すると、そのででえく(大工)は
 「わしに任せてくれれば、ものすげえ、ええお宮を作くて上げるけえやらせておくれえ。おねげえします」
 あんまりしつこう言うもんで、殿様も
「まあ、あげん言んなら、ものは試しじゃ、やらせてみゅうか」
 と、その不思議なでえくに頼んだそうな。
 その大工は
 「殿様がびくりするぐれえ、ものすげえええお宮をこしらえてあげるからなあ。楽しみにまちょうりんせえ。・・・・でもなあ、お宮が出来るまでは、ぜってえ、でえく小屋には近寄ったらいけんでえ」
 と、言うたそうな。殿様も、仕方ねえけん、ほってえたんだと。
 昼間、遠方からみゅうると、一人でコツコツとやって居るのがわかったんで、みんなは、「いつごろできるかなー、わしが生き取る間にできるんじゃろうか」などと、言うておったそうな。

安覚ってお坊様知っている。

2007-05-20 22:33:05 | Weblog
 鎌倉時代の始に、吉備津から栄西禅師が出て、臨済宗を開き、東大寺の二代目の総勧進職を務めた、ということは以前に、この欄に書きました。
 実はこの栄西には、余り知られてないのですが、安覚と言う弟がいたということです。吉備津の人にも余り知られてはいません。歴史の中から、完全に消え去られ、忘れられてしまっています。
 この安覚も、やはり宋へ行っています。当時二人も、それも兄弟で宋へ勉強に行かせるにはよほどお金持ちでなくてはできない事なのだそうです。吉備津神社の神主ー賀陽氏ーの子弟であったからこそ出来たのだと思います。
 この安覚は、兄栄西を上回る才覚を持ち合わせていたそうです。
 普通なら中国から新しい仏教を伝えるには、「経典」も買い込んで、一緒に持ち帰ったのです。空海も最澄も栄西も、総ての人が、例外なしに。
 でも、安覚には、そんな経典を買うだけのお金がなかったそうです。ひょっとして、兄弟で持って行ったお金を、兄栄西が全部使い果たしたのかもしれません。そこで仕方がないので、弟安覚は、持ち帰ろうとした経典『色定一切教』三千八百巻、総てを暗記して帰国したのでした。並大抵の努力だけで、それがそうやすやすと暗記できるものではないそうです。膨大な量の経典です。17,8年かけて、総てを暗記しました。
 これまでで、世界中で最も知能指数が高かった人の内の一人ではなかったのではと思います。現在、世界最高は、ゲーテやニュートン級で、指数が270~300程度ぐらいではないかと言われています。それらの人々と同一の高さがあったのではといわれています。
 暗記して帰国後、その暗記を基にして三千八百の一切教を写経して、博多の箱崎宮に献納しています。現在、数冊ですが、この経典が箱崎宮にあります。
 寛喜3年(1231年)73歳で入寂。
 こんな頭のよい人が吉備津からも出ているのです。

吉備の国のあいさつ言葉

2007-05-17 21:30:35 | Weblog
 ちょっとここらあたりで一休みして、お国言葉についてお話してみます。

 ・お客さんが来られた時の会話
   「ようえーでんしゃったのう。まあこつちぇえ お掛けんしぇえ」
  お客は
   「せえじゃ~」(この場合「せ」と言う発音が「て」に近い音になることもありー西大寺邑久地方)=それではと言う前の言葉を肯定する時
 と腰掛それから本題の話しに入るのです。
 そこの主人は
 「なげえことあわなんだが、どねえーしょんなら」
 そこで客人は
 「わしゃあ、ちかごろ ゆわァてしもうたとみい」
 と困った顔、主人は
 「どうしたんなら」
 「うちの・・・がおらんようになうてしもうてのうー。おえりゃあせんがのう」

 今では使われなくなった吉備の国の言葉です。
 昭和は足音を立てて我々の暮らしの中から遠くなりにけりです。

吉備津様の蟇股

2007-05-16 20:59:25 | Weblog

 蟇股は「かえるまた」と読みます。吉備津様にもあります。
 宮殿や寺院などの和風の建築の上下の横木の間に設けている装飾用の材です。かえるが股を広げたような形をしています。だから「かえるまた」と呼ばれています。「蛙「でなくて「蟇」の字を使っています。がま(蝦蟇)ひきがえる(蟇蛙)の蟇です。この蟇は、毒をもっていると古来から日本では信じられてきました。その毒が建物を守ってくれると信じられていたそうです。一種のお守り的な建築装飾物となったようです。法隆寺に初期的な蟇股が見えます。鎌倉室町頃から多くなってきたようです。最も、有名なのが日光東照宮廻廊の甚五郎の「眠り猫」です。
 吉備津神社の拝殿のすぐ上にあります。形は拝殿のつくりと同じように豪放磊落な左右対称の雲形が見られ、拝殿と一体となって粗放な美しさを見せています。誰にも顧みられることなく静かに参拝者を、真上からただ見下ろしているだけです。神殿に向かって拝んでいる参拝者の背中の上にあります。降りる時は階段に気を取られて上を見る人は誰もいません。だから誰一人として、この蟇股に気付く人はいないのです。忘れられた美しさがあるのに。是非、次からは見てください。とっても美しい心が洗われます。

 


「徳」という4歳児の額が見えます

2007-05-15 18:11:11 | Weblog
 北隋神門を通って急な階段を、息を弾ませながら登ると、拝殿の前に出ます。まず、神殿に向かって2礼2拍してから拝殿を降ります。今登ってきた階段の下に背面からの隋神門が見えます。この建物は何時頃建てられたかは現在の所不明ですが、屋根の葺き替えの時の棟札に、天文11年(1542)の文字があるところを見れば少なくとも15世紀の終わりごろには出来ていたのではないかと思われます。
 檜皮葺は5~60年持つと言われますから、もし、このときの葺替えが二回目であったとしたら、1420年ごろの建物という事が分り、本殿の再建時と同じ時になります。まあご参考までに。
 さて、階段を上がりきったところの総拝殿の内側に、ひときわ大きな『徳』という字が書かれた額が奉納されています。
 この額を書いたのは、たった4歳の幼児だということです。写真に見えるように誠に力強い堂々たる文字です。感服させられます。

 これを書いた人は、荒木高養という人だそうです。天保14年、備中岡田藩士荒木賢蔵の長男として、当時の下道郡岡田村(現在倉敷市)に生まれております。
 神童と言われ、12歳ぐらいから詩文を良くしたと言い伝えられています。18歳にして、例外の抜擢で藩校敬学館の助教授になり、雲石と号して、書筆に達し、また、画をも善したと伝えられています。
 明治の御世になり、その4年、岡田藩は廃藩となり、高義は新設された高梁中学校の教授になり多くの子弟を育てたという事です、

随神門

2007-05-14 12:23:21 | Weblog

 平安時代(後白河法皇の時)の巷で流行っていた歌謡を集めたものに『梁塵秘抄』という書物があります。その中に
「一品聖霊吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人(かみまろうど)、艮みさきは恐ろしや」という今様の歌詞があります。
 この神客人というのが、現在、国の重要文化財に指定されている吉備津神社の随神門に当るのです。北と南の2ヶ所にありますが、そのうちの南門が、桃太郎さんにお供した当時の犬と雉を祭った門であるといいます。イヌとキジで吉備津神社を護っているのです。
 イヌは犬養武、キジは名方古世(中田古名)だといわれています。それぞれ、吉備地方の豪族でした。犬養部、鳥取部の伴造であったと思われます。このような豪族の協力があって大和朝廷の吉備遠征が成功を収めたものだと思われます。
 でも、ここには「サル」がおりません。何処に行ったのでしょう。「どこかへ去ってしまった」と洒落るわけにはいきません。
 サルは北隋神門に祭られているのではとお思いかもしれませんが、ここにお祭りしてあるのは、日芸麿(ひげまろ)世目(夜目)麿の二柱だそうです。なお、吉備津彦神社にも夜目麻呂という神様の名前が見えますが、日芸という言葉は今のところ何処にも見えません。
 このサルに当る神様は、これも吉備津神社の言い伝えだそうですが、吉備津彦命のお妃である百田弓矢比売命のお父様に当られる楽々(ささ)森彦命又その息子の留玉臣だとされています。「ささもり」が「さもる」に、これが、更に、「さる」に変わったのだという人もいるようですが、どうでしょう?・・・・・・・。
 案外、秀吉のように猿顔だったりして・・・・・?。
 この楽々森彦命は、本殿の中にある外陣の辰巳(東南)の隅の社殿におり、今でもすぐお側で吉備津様を、お守りしています。
 このように見てきますと、3匹がみんな同じ地位の家来かといいますと、やっぱり位があったようで、この3匹の中での大将は「申」に当る楽々森彦だったようです。作戦本部長のような仕事を担当したと思います。だから、今でも、本殿の外陣祭られています。一方、キジとイヌは、空と陸で、敵と直接ぶつかって実践力となって働いたのです。今様に言いますと海軍と陸軍の違いがあったようでが。そんな周りにある総ての力を上手に使ったのが吉備津彦命ではなかったかと思えます。申遅れましたが、この吉備津彦命の弟君「若日子武吉備津彦命」の戦略戦術があったからこそ、この3匹の力を上手に引き出したのではないかとも思われます。
 尚この弟君の孫に当られる吉備武彦命が日本武尊の東征に従った副官です。

 昔話の桃太郎の3匹の家来が、今も吉備津神社の吉備津彦命をしっかりお守りしているのだそうです。
 なお、どうしてサル・キジ・イヌがでてくるのかという事についても、色々お話しがありますが、そのうちの一つをご紹介しておきます。
 鬼退治です。鬼は丑寅(北東)の方向にいるとされています。それに対抗するものとして未申(南西)が考えられます。そのうち羊では物語が構成できにくかったのか、申の隣にいる酉と3という吉を示す数に合せて戌を引っ付けて物語を作ったということだそうです。サルキジイヌにも必然性があるのだそうです。ただ、たまたま、この3匹が取り上げられたのではないという事です。
 トリについて、カラスでもトンビでもウグイスでもない、一番賢い鳥キジ(「ケンと鳴くキジ」即ちケン(賢)のとり)にしたとも言われています。
  

 


桃太郎の家来達

2007-05-13 16:59:57 | Weblog

 「桃太郎」伝説によりますと ,桃太郎さんはイヌ・サル・キジを、キビ団子という餌で、家来にしました。
 さて、今、桃太郎さんだったと言われている「大吉備津彦命」は吉備津神社の正宮に座しましていらっしゃいます。
 ももたろうさんである吉備津様の、『温羅』という鬼の退治は、その3匹の動物の働きがあったけらこそ出来たのではないかと思われます。
 ではしかりです。それほどの功績を残した、この動物達は、今、吉備津神社にお祭りしてあるのでしょうか。
 という疑問が、このお宮さんにお参りした人は誰でも起るのではないでしょうか。この3匹について、皆さんは聞いた事あります。

 ちょっと、もったいぶって少々長くなりますので。、次回にご説明します。(明日の予定)