私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

多少紅裙閃樹間

2013-01-31 15:38:01 | Weblog

 藤井高尚によって、更に、その志を体した岡田屋熊次郎の吉備の中山の環境保全の努力によって、細谷川周辺は四季折々の美しさと呈し、多くの人々に憩いのばしょうを提供したのです、春のそれは万人を感嘆さしめたと云われています。
 その風到に富んだ風景は多くの文人たちに恰好の詩材や画題を提供したのです。中でも春の景色のそれはそれは筆舌に尽くせないような者であったと云われています。私は、未だその絵を見たことはないのですが岡山の画家鳥越煙村の画いたその画は大変立派な作品だと云われています。なお、その煙村が画いた時に同行した後藤松蔭などの漢詩がその絵に賛せられているそうです。その詩に

   “芳叢環座幾潺湲 多少紅裙閃樹間 有客只言嵐峡好 不知春有鯉魚山”
 と、4たりの中の一人、南圃は詩に詠んでいます。


熊次郎のすごさ その3

2013-01-30 09:29:45 | Weblog

 江戸幕末の宮内の岡田屋熊次郎といえば「山陽道を仕切るヤクザの大親分だ」と、相場が決っていると誰しもが思うのですが、清水の次郎長と違って、それ以上の人間的にも大きな人物であったと言われていました。
 ヤクザの親分と言えば、博打ばかりして、腰に挿した一本刀を振り回すなどの暴力事件がその背後に付きまとうと云うイメージが強く、その他のいい事は何もないいという評価が一般ですが、此の熊次郎は、確かに喧嘩も強かったと云われます。実際どれくらい剣術をしたか、剣術は何段だったかは、伝わってはいないのですが度胸が若い時から座っていたと伝えられているだけす。
 ただ、此の熊次郎もヤクザですから、数々のあこぎなこともやったのではないかと思われますが、この宮内を始め地域の為にも色々なことをやっております。

 当時の吉備津神社の神主藤井高尚と余り関わりはなかったのではないかと思われますが、唯一此の高尚の願が徹底するように心を配っていたことが、古老の話から伺えます。それは、宮内のというより吉備津神社の環境保全に努めていたと云うことです。高尚は吉備津神社の神領地にある樹木などの保全に努めていましたが、其のこころを察したのか、意を体して、熊次郎もその保全に全面的に協力していたと云われています。その為に、熊次郎は、常日頃、「神社境内の樹木の一枝切れば、その者の指一本を切る」ときめて、それを徹底するように責任を持って対処していたのだそうです。
 このように熊次郎の宮内に対する貢献は実に莫大なものがあったのだそうです。唯の博打うちではなかったのです。


熊次郎と清水次郎長

2013-01-29 09:53:06 | Weblog

 数々の企画を次から次へと打ちだしこの宮内を当時日本でも有数の遊興地と為した熊次郎です。その為に、此の熊次郎にはこの宮内周辺の岡山、庭瀬、松山(現高梁)、浅尾の諸侯より年々手当金を支給されていたのです。ということは、その領内からも多くの人が此の地に遊び、その為の争いもしばしば起り、その解決は総て岡田屋熊次郎一家の物が解決にあったっていたのです。その為の迷惑料というか世話料というかそんな財政の負担をそれらの藩では覚悟して支払っていたようです。それだけ此の熊次郎の力が大きかったと云うことを此の諸手当は意味しているように思われます。又、此の事は、何事も穏便に、表沙汰にしないで「まあまあ」のうちに些細なことであっても解決してしまおうという、当時の各藩の政治姿勢をも物語っているように思えます。それくらい当時の熊次郎の勢いは「飛ぶ鳥を落とす程」だったと伝え聞いております。清水の次郎長よりその勢力は強かったと云われています。唯、次郎長には其伝記を書き綴った「田口英爾」という偉い先生がいたから日本全国に其名が広まっただけで、もしそのような作家の先生がこの宮内にいたら、次郎長よりはもっともっと全国的にその名が知られていたのだと思われます。その持つ勢力と言い、その政治力、そして経済政策術とその企画力、いずれをとっても次郎長などに足元にも及ばないような幅広い一歩も引けをとらない人間としての大親分だったのではないかと思われます。
 だからこそ、当時同じ宮内に住んでいた藤井高尚も、彼をどう思っていたかは分かりませんが、上手に共存していたのではないかと思われます。しかし、その沢山ある高尚の書物の中に一行たりとも、此の熊次郎という名前は出て来ません。此の二人がどのようにかかわっていたかという資料でもあれば面白いと思うのですが、今のところ宮内では見つかってはいません。


宮内での諸興行

2013-01-28 11:22:21 | Weblog

 当時岡田屋熊次郎が企画し実施された富籤などの興行、特にこの内富籤は一ヶ月に三日、十九日、二十八日の三日間開いていました。ただ、この博打と富くじだけではその経済効果は薄く、更なる効果を高めるために取った熊次郎の企画が有りました。それは、この宮内が御朱印の芝居という特権を利用して行われた春・秋の2回の芝居だけでなく、その他相撲、浄瑠璃、2輪加などの芸人を日本全国から呼び寄せてその興行を打っております。それも、ただ不定期にと云うことではなく、宮内にある普賢院の歓喜天大師、天満宮・弁財天、更に片山にある粟島宮等に奉納するためと銘打って色々な興行を定期的に行っていたのです。それらを総合的に興行することでより多くの経済効果を生んだのです。その企画がよくもこんな鄙の田舎で行われていたかと思うと岡田屋熊次郎という人物の大きさを思わずにはおれません。尚、其の為に、この熊次郎は、年がら年中、その興行の為の芸人捜しに、日本全国を飛び回っていて宮内にいたのは少なかったと云われます。しかも、その芸人は当代随一と呼ばれる様な超一流人物を招聘していたのです。そこら辺りも此の宮内が、当時、[あそこへ行けば本物が、しかも、超一流の芸が見える」と、ただ、備中だけに留まらず、全国的にその名を馳せさせる原因にもなっていたのです。


諸札両替所

2013-01-27 13:15:18 | Weblog

 五四六の賭博場と富籤を開いた宮内の岡田屋は、更に、当時としては大変珍しいものを考えて作っております。
 それが「諸札両替所」です。この宮内で遊ぶお金は、公の一文銭や小判などのお金だけではありません。全国から集まるのですから、それぞれの藩が発行した藩札が当然あるわけです。それらの藩札もこの宮内で使えるようにと両替所を作ったのです。宮内の馬場と熊の小路の2ヶ所に設けて、どこの藩札でも交換してくれる金融機関を作ったろもしたのだそうです。経済的な判断力もこの熊次郎は持っていたのです。


宮内の富籤

2013-01-26 11:18:19 | Weblog

 岡田屋熊次郎は五四六の賭博場だけでなくそれとともに、この宮内を中国地方の名物としたものがあります。それが富籤です。なお、この五四六の賭博場とは、宮内の市場・城之内・吉野の三ヶ町に設けられた数です。要するに市場には五ヶ所というようにこの狭い町内に常設の賭博場が十五もあったのだそうです。

 この富籤については、毎月三日、十九日、二十八日の一ヶ月三日間開いたのだそうです。この富籤目当てに全国から人々が集まりこの街のにぎわいをより一層なものにしたのだそうです。それらの取り締まり等経営一切を、この岡田一家が仕切っていたのです


岡田屋熊次郎の乾児

2013-01-25 15:47:02 | Weblog

 岡田屋熊次郎の乾児は当時100人は越えていたのではと言われています。中でも、片島屋萬五郎、柏屋彦四郎、櫛屋佐五郎、菊屋久造の4名は宮内の四天王と称され、その名を知らないものはいなかったと云われています。
 この岡田屋熊次郎は宮内の市場、城之内、吉野の三ヶ町に五四六と称される大賭博場を設け勝負を争ったのだそうです。この「五四六」なる賭博場は、表には出ないのですが幕府の公の許可を得たものではないにしても、堂々と賭博を開設できる場として有名だったようです。こんな賭博場が全国にいくらあったのかわ定かではないのですが、この宮内にあったのは確かです。それを取り仕切っていたのが岡田屋熊次郎だったのです。


岡田屋熊次郎の乾児

2013-01-25 15:29:07 | Weblog

 岡田屋熊次郎の乾児は当時100人は越えていたのではと言われています。中でも、片島屋萬五郎、柏屋彦四郎、櫛屋佐五郎、菊屋久造の4名は宮内の四天王と称され、その名を知らないものはいなかったと云われています。
 この岡田屋熊次郎は宮内の市場、城之内、吉野の三ヶ町に五四六と称される大賭博場を設け勝負を争ったのだそうです。この「五四六」なる賭博場は、表には出ないのですが幕府の公の許可を得たものではないにしても、堂々と賭博を開設できる場として有名だったようです。こんな賭博場が全国にいくらあったのかわ定かではないのですが、この宮内にあったのは確かです。それを取り仕切っていたのが岡田屋熊次郎だったのです。


岡田屋熊次郎

2013-01-24 09:19:54 | Weblog

 「宮内の今昔』を読んでいくと、藤井高尚や真野竹堂と同時代に生きた宮内の侠客「岡田屋熊治郎」に付いても書いています。それを次のように書き記しております。

 「土地の繁栄の為に種々画策し尚中国は言ふに及ばず花の大江戸まで其名の轟きたる中国随一の博徒の乾爺たる岡田屋熊治郎と言へる者の自ら侠客を以て任じ此地に住居し、武家町人の別なく遊興の為に此地に歩を運ぶと共に岡田屋の名をひ慕い全国の諸興行人達は此地に来りて興行の利をしめんとし、或は寄る邊なき身の其地位を得んとして訪ひ来る者多く岡田屋熊治郎の七十歳の高齢を以て嘉永五年卒去する迄は其乾児百を以て数へ・・・・」

と。

 この岡田屋熊次郎に就いて書かれているものを2,3回に分けて記します。

 


真野竹堂

2013-01-22 19:47:29 | Weblog

 藤井高尚と同時代に生きた宮内の素封家「真野竹堂」の名は、現在、私が吉備津に於いても知っている人が段々と少なくなってしまっているようです。
 彼は、当時、宮内(現在の鯉山小学校の前の辺りにその屋敷があったと伝えられています)にあり、糀屋という酒造り屋を営んでいたのです。その為のこの地方の豪家であり、しかも、風流韻士で、全国の文人墨客がこの真野家に集い集まって来ていたと云われます。篠崎小竹、頼山陽、菅茶山などお歴々が名お連ねていたようです。中でも、頼山陽は、その真偽の程は不明なのですが、真野家の店用当座帳を記入したりもしていたと、当地では、言い伝えられています。

 なお、菅茶山の随筆「筆のすさび」には、この宮内の竹堂に付いて、何かいい発見でもないかと読んでみたのですが、期待される様な文字は見つかりませんでした。念のために。
 なお、篠崎小竹は吉備津神社の拝殿に懸かっている扁額が、その存在を物語っております。


此の地に文人墨客が

2013-01-21 11:53:08 | Weblog

 高尚の愛したこの天与の風光を愛でて全国の文人墨客が此の地を訪れております。中でも有名な人が、頼山陽です。彼によってつけられたと云われる「吉備の中山」の別名「鯉山」は、現在、小学校の名となって彼の名を深くこの地に留めて居るのです。

 山陽はいかなる理由でかは分からないのですが。当時、此の地の素封家真野竹堂の家に前後十一ヶ年も此の地に遊んだと云われています。真野家の墓標には、山陽の選文自筆が見ることができます。また、頼山陽が香川景樹に送った手紙にも、此の真野老人に付いて書かれてあります。尚、この書簡からも、竹堂は香川景樹と何らかの関係があったとが分かります

                         

          香川長門介様頼久太郎   右はその手紙の全文です。             
             備中真野竹堂持参
            外に紙相添


高尚という人は、また

2013-01-20 11:49:13 | Weblog

 本居宣長の高弟にして国学の師として江戸末期に活躍された人ではありましたが、ただ、日本の古い書物の研究に没頭していたのではありません。吉備津神社の周辺の環境保存にも随分と力を注いだのです。
 その一つに、今は姿を伺わせるような景色は何処を見てず、完全に消え失せてしまっていますが、高尚が植えたとされる「細谷川の桜谷」と命名された桜林が言い伝わっています。その数百本をゆうに超え、そこら一帯を桜で埋めつくし、往時の春の千客万来の盛況など何処に想像することができましょうや。その場所は、今、細谷川を少し登った所に(自動車道のほとり)あり、高尚の細谷川のさくらと紅葉を歌った歌碑がその山際の叢の中にひっそりと誰に返り見られることもなく佇んでいるだけです。
              

 なお、此の桜谷の桜は、高尚が京の嵐山を擬して植えたものだと、地元では言われております。


矢尾牛骨の高尚

2013-01-19 20:30:36 | Weblog

先に、井上博士の藤井高尚伝について書いたのですが、この矢尾先生の「宮内の今昔」の中の高尚については、もう少し見方を違えて書いておりますので、少々くどいようですがご紹介します。

「吉備津神社主五人衆の筆頭藤井高尚ありて学を修め歌を能くし且其徳高く寛政十一年五月八日には従五位下に叙し長門守に任ぜられれば青楼の加はり技芸遊女の増し大市盛に行はれ此方面の盛になりて全国の人を吸収するは言ふまでもなく、此地の天然の風到あり又旧蹟に富みたれば、此風到を毀けず其保存に努むるは社頭に仕ふる者の義務なりしと夙にこの方面に重きを置き、神社境内外の樹木は損木たりとも容易に伐採を許さず、又境内には微数の物たりとも其位置を転ぜしめず高尚翁は此事に就て殊に厳かにして容易に許可せしめざりといへり」
 と書いております。

 高尚が相当に厳しく、頑なまでも吉備津神社周辺の環境保全に心を砕いていたかと云うことが分かります。


粥の木

2013-01-16 09:45:44 | Weblog

 2月1日を「ひてえ正月」として昔は祝ったのだが、この「ひてえ」とは正月が一回りした意味の一重だと書いたのですが、これは間違いでした。正式には「ひてえ」とは、ものの本によると、「一日」で、これは<ひとひ>を意味する言葉だと云う。正月には三日間祝ったのですが、この一か月遅れの二月朔日は、一日だけのささやかなお祝いをしたということから、こんな名前が付けられたのだ、と書かれてあります。

 なお、小正月ですが、今では、ほとんどその名は消えてしまっておりますが「十四日年越」等の文字が年中行事を書いた書物に残っているだけです。その本によると「一月十五日」を「上元日」<じょうげんのひ>と呼んだそうです。枕草子に「粥の木」とあり、やはり「十五日」、小正月に行われた年中行事のようです。

 またちょっと寄り道して、枕草子の第二段に書かれた「粥の木」について、それを少し覗いてみます。

 「十五日。節供まゐり据ゑ、粥の木ひき隠して、家の御たち・女房などの、うかがうを、「打たれじ」と用意して、常にうしろを心づかひしたるけしきも、いとおかしきに、いかにしたるかあらむ、うちあてたるは、いみじう興ありて、うち笑ひたるは、いとはえばえし。「ねたし」とおもいたるも、ことわりなり」
 とあります。
 
 この粥の木というのは、正月の十五日に、宮中でも小豆粥を焚いて皆に出したたのだそうです。その粥を炊いた木を削って粥杖を作り、その枝で女性の尻を打つと、打たれた女性は男の子を生むと云う俗言があったのだそうです。女性は打たれたら恥ずかしいという気持ちがあって、常に、この日は用心して、そんな隙を見せないように警戒していたのだそうです。それを清少納言は「いとはえばえし」と書いております。大変はでやかなみばえのする行事であると書いております。

 平安の昔には、こんなはえばえしい行事も行われた「小正月」だったようです。現在では、唯、名前のみが伝えられ残っているだけです。


知っていますか「小正月」を、また

2013-01-15 19:56:40 | Weblog

 今日で幕の内は終わりです。昔は、と、云っても今から僅かに4、50年昔のことですが、我々の村々では、この日は「小正月」と呼ばれ、正月行事が終わり、明日から、正月気分が抜けて、いよいよ総ての農作業の始まりです。その為に、今日1月15日、家々では最後の雑煮を炊いて、今年一年の豊作を、此の雑煮に託して祈っていたのです。それから正月のお飾りを下ろし、「とんど」をしたものです。

 なお、この小正月に先だって、11日には「やれぼう」という行事がありました。壮大に、しかも、果敢に、まだ明けやらぬ空の元に行う農村の正月一連行事です。この時、牛にも特別に仕立てた正月走を食べさせていたように思われます。牛にも御雑煮を上げていました???人と牛が一緒に、共に正月を祝っていたのです。何かほのぼのとした温かさが我々の身辺にはあったように思われます。今はないのですが???

 そうです。小正月の前の1月11日の行事です。農耕用にっていた牛を追い、畑まで駆けて行くのです。農夫は夫々に鍬を担いで牛を追います。その時の掛け声が「やれぼう。やれぼう」です。
 こんな行事は戦中、青年が村から姿を瀬す戦時中にも細々と続いていましたが、戦後もしばらくは続いていたのではないかと思われますが、昭和22、3年以後、民主主義のの考え方が我々の村々に入ってきてから、いっぺんにその姿は完全に消えてしまいました。ただ、父親などの話として聞いて、そんなこともあったかなあと、おぼろげに頭に残っていたこは確かですが、もう今ではそんな話すらすら聞いたことは絶えてありません。

 尚、この「小正月」という言葉、「2月1日」だという人も居りますが、私の記録では、それはないと思います。2月1日は、私が育ったでは「ひてえしょうがつ」といって、正月が1重(ひとえ)で、一回りしたという意味だと考えられます。
 矢掛町辺りでは、どうしたわけか分かりませんが、2月1日も小正月とも呼んでいると聞いたことがあるのですが、それは間違いです。